みちのくの山野草

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3177 賢治昭和3年の病気(#3)

2013-04-02 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治から愛される賢治に》
矢張り変
 この「一〇九」を読んで私が思わず驚いてしまったのが、
 たいした発熱があるというわけではありませんでした……①
という箇所であった。
 思い返せば、「新校本年譜」によれば、
・八月中旬 …菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れる。いくら呼んでも返事がない…その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった、という。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜編』(筑摩書房)より>
ということだったからこの頃の賢治はかなりの重症だと私は思い込んでいた。友人が見舞に行っても面会さえかなわなかったからである。
 実際、菊池武雄の「賢治さんを思ひ出す」を見てみれば
 私どもは雜草の庭からそこばくのトマト畑の存在を見出して、玄關先の小板に「トマトを食べました」と斷はつて歸つたことでしたが、もうその頃は餘程健康を害してゐたので、二三日前豊澤町の生家の方に引き上げて床について居られた時だったことを後で聞いてすぐ見舞に行つたが、あまりよくないので面會は出來ませんでした。
              <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)325pより>
ということであり、菊池武雄の証言するところの
   あまりよくないので面會は出來ませんでした。
と〝①〟との間の落差はかなり大きい。
 さらには、賢治は澤里武治宛書簡で
   八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが
としたためているくらいだから賢治はかなりの重病だったということがこの書簡からも導かれる。
 それに対して佐藤隆房が「たいした発熱があるというわけではありませんでした」と証言していることになる。医者の佐藤隆房が賢治はその当時それほど重症ではなかったと言っていたのである。矢張りとても変である。
二つの比較
 そこでこれらの二つを「賢治が実家に戻って病臥した」ことに焦点を当てて比べてみよう。それは他でもない、佐藤隆房著『宮澤賢治』(昭和17年9月8日発行)の中の「八七 發病」のポイント
・時   期=昭和3年8月~
・発病原因=空腹と夕立に濡れたことによる疲労困憊
・病名症状=不加減?
・過ごし方=療養の傍菊造りなど
・重 病 化=昭和3年12月急性肺炎
・療養方法=自宅療養(入院はせず)
・快   復=昭和4年暖かくなった頃庭に出られるまでに
・外   出=昭和4年秋花巻温泉へ
と『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和26年3月1日発行)の中の「一〇九 疾病考(一)」についての次のようなそれとをである。
・時   期=昭和3年8月~
・発病原因=不規律や、粗食や、また甚だしい過労
・病名症状=肺浸潤という診断、たいした発熱ではない
・過ごし方=病臥
・重 病 化=昭和3年12月結核性肺炎
・快   復=昭和4年冬を越して元気に
・外   出=昭和4年秋花巻温泉へ
疑問発生
 こうして見比べてみると、青文字部分は両者ともにほぼ同じであるが、赤文字部分に問題があるということが浮き彫りになってくる。
 まず一点目は、発病の原因が同一著者のものなのに違って書いてあるし、それが発病の原因、それも「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが……②」というほどの重症の原因になり得るかということである。発病の原因が違っているということは、逆に言えばその原因はともに信憑性に欠けるということにならざるを得ない。したがって、私からしてみればこれらの「発病原因」はいずれも取って付けたような理由にしか見えなくなってきた。
 その二点目は病名である。賢治は重症であったはずなのに、前者においては病名が明記されておらず、私にとっては意味不明の「不加減」という表現がせいぜいそこにあるだけである。一方後者では「肺浸潤という診断、たいした発熱ではない」というような病名と症状になっている。このことに関してはさらに疑問が湧いてくるのだがそれは後述したい。
 そして最後の三点目だが、療養中の過ごし方である、賢治は教え子に〝②〟であったと伝えているが、前者では「傍菊造りなど」をしていたとある。ならば、やはり実家に戻ってからしばらくの間は少なくとも賢治はそれほど重症であったとは思えない気もしてくる。また、後者においてはただ病臥していたということしか書かれておらず、あっさりと扱われていて何か奇妙である。
 したがって、たしかに昭和3年の12月に賢治は重病になったかもしれないが、この佐藤隆房著『宮澤賢治』からは、同年8月に実家に戻った頃の賢治はどう考えても〝②〟であったと言えるほどの切迫感が伝わってこない。だから、まさしく当時の賢治は〝たいした発熱ではない〟というのが真相だったのかもしれない。
 その上で、この部分が含まれている文章
 たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。……③
を注意深く読み直してみると意味深長であるという気もしてきた。

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