みちのくの山野草

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2427 賢治の肥料設計について少し(その6)

2011-11-19 08:00:00 | 賢治関連
貧しい農民の智慧・持続可能な農業
 前々回〝賢治の肥料設計について少し(その4)〟において、私は
 では高価な金肥を使えない小作農はどのように対処していたのだろうか。
という疑問を持ったのだが、そのことについて考えてみたい。
 増子義久氏が興味深い次のようエピソードをを『賢治の時代』に載せていた。
 今も賢治を知らない農民たち
 「なんじょだべす(どうでしょうか)。田植えする前にハダスで田んぼに入ってみだすの。そうしたすれば、底の方がギリギリどはっけ(冷たい)がったもなっす」
 突然、私たちの背後で声がした。背中を丸めたおばあさんが心配そうな表情で田んぼをのぞき込んでいた。近くに住む小田イサさん(七一)だった。イモチ病が心配で見に来たのだという。「ばあちゃん、ここのイモチはちょっと、ひどいなっす。でも、今すぐ手を打てば大丈夫だ。心配しなくていいすじゃ」と藤根さんがいった。
 四十五歳になる長男と二人暮らし。田植えは身内の助けを借りて何とかすませたが、頼りの長男が足をけがしたため、除草や施肥は自分一人でやってきたという。「田んぼすか? 全部で七反歩ばっかり。田の底の土が何んぼぐれ、あったがくなっているが、オラ、いつもハダスではがってみるのす。今年はとってもはっけがったも。そだから例年なら五月十五日ごろする田植えも十日ぐらい遅らせだのす。イモチが一番、おっがね(恐ろしい)がらなっす」。藤根さんから処方を聞いた小田さんは節くれだった手を何回も拝むように合わせた。
 「おばあちゃん、宮沢賢治という人を知ってますか」と私は聞いてみた。きょとんとした顔で小田さんはいった。「はてな。名前は何となく聞いだごとがあるんだども、オラ、何した人だか知らねのす。オラなっす、わらす(子ども)の時がら他(よそ)さ貸されで子守り奉公ばっかりだったも。昔の百姓はみんな貧乏ばかり。女は奉公、男は冬には出がせぎだったな」
 賢治の存在さえ知らない農民が地元にいることに私は最初、びっくりした。「昔も今も変わらないんですよ。こうした現場とのギャップに賢治は悩んだと思いますよ」と藤根さんは口を添えた。「農業指導に情熱を燃やした人なんですよ」と私がいうと、小田さんはきっぱりとした口調で首を振った。「うんにゃ、百姓仕事はなっす、先祖代々のやり方を守るのが一番。オラ、二枚の田んぼば今年も昔からの手植えでやったすじゃ。イモチの時には木アグ。これに限るす」
 「木アグ」とはマキストーブなどから出る草木灰のことで、これを貯めておいて、長年、〝農薬〟代わりに使っているのだという。石灰と同じ効果があるのだろうが、小田さんは「オラいろいろ使ってみたけど、木アグが一番だ」と何度も繰り返した。
 その後、小田さんの水田はどうなっただろうか。そのことがずっと気にかかっていた。二度目に訪ねたのは一面が黄金色に輝いていた九月中旬――九月十八日だった。早生の刈り入れぼつぼつ始まっていた時期である。訪問した記憶が鮮明なのは、稲の成育状況を自分の目で確かめたいという気持ちがどこかにあったからだと思う。
 一面に広がる水田はまるで一幅の絵でも見るような光景だった。イモチ病が心配された小田さんの水田も重たそうに穂が頭をたれていた。何となくホッとした。

<『賢治の時代』(増子義久著、岩波書店)より>
一寸引用が長くなったが、〝このおばあちゃんは先祖代々の教えに従ってイモチ病対策として「木アグ」を用い、そしてその結果イモチ病の被害を逃れていた。秋、おばあちゃんの田圃には黄金の波が広がり、稲がたわわに稔っていた〟と著者増子氏はレポートしていることになる。
 そうかなにもわざわざ化学肥料を購入しなくともイモチ病を防ぐ方法はあったのだということを私は知って目から鱗が落ちたような気がした。それも自分たちが日常生活を営む際に出る「木アグ」を有効に活用しているなんて、農業経験の豊かなこのおばあちゃんの生活の知恵の何と素晴らしいことよと一寸感動しつつ。 これは以前〝小作人と農村劇〟で述べたように、古里鵜飼に戻って帰農した松田甚次郎は
 6反歩の小作では、小作料と肥料代を払ったら手許に残るのは僅かである。そこで甚次郎が採った考えは、金肥を全廃して身の回りにあるものを生かして土地を肥やすことだった。
 そのために行ったのが、村の衆から「松田の息子が又ボロ臭い着物を着て、下肥汲みに行った。あんなに汲んでどうするのだ」などと笑い物にされながらの自給肥料の増産であった。具体的には
・下肥汲み(知人や親類からの)→1年間で600貫の下肥を汲んだ
・川芥を集めて堆肥の材料に→3年間で800貫近く集めた
・落葉を   〃     →250貫ほど集めた
・これらの集めたもので1400貫の堆肥を作った

<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
ということだったから、当時既にこのおばあちゃんや松田甚次郎は今で言う〝持続可能な農業〟を実践したと言える。というよりは、そうせざるを得なかった貧しい農家、高価な金肥を使えない小作農の現実がそこにはあったということかも知れないが、このような農業経営はあながち否定されるべきものではないと思った。そして『農民達は作物に愛着を持ち収穫を充分に希つてゐますが、それについて研究するでもなく、たゞ泥まみれになつて働くばかり…』と決め付けるのは失礼なことではなかろうか、と。

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