みちのくの山野草

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1546 日高見国

2010-06-17 10:00:11 | 北上・江刺周辺
      《↑『北上と和泉式部』》(平成22年6月8日撮影)

 そんな矢先、過日北上の国見山を訪れた際に立ち寄った『展勝地レストハウス』で関連する小冊子を見つけた。

2.日高見国
 そこでは『北上と和泉式部』(中津攸子著)という小冊子が売ってあった。そういえば以前北上の羽山を訪れた際に、近くに『和泉式部の墓』という案内標識があったことを思い出したのでその冊子を手に取ってみると、意外なことと説得力のあることが書いてあった。
 前者は、中津攸子氏は和泉式部は北上で生まれたと結論づけていたこと。
 後者は、その冊子の中に”第二章 実在した日高見の国”という章等があり、気掛かりであった”日高見国”関連の記述があったことである。

 調べてみると、和泉式部の墓というのは日本のあちこちにあるらしいから和泉式部が北上出身か否かはさておき、かねてから気になっていた”日高見国”については中津氏の仮説にかなり説得力があって興味深く読ませたもらったので、その一部を拾い上げて紹介したい。
 
 日高見国は日本書紀に記録されています。
 武内宿禰(たけのうちすくね)が二年間東国を調査して帰り、第十二代景行天皇に「東の夷(ひな)の中、日高見国あり。……これをすべて蝦夷という。亦、土地沃(くにこ)えて廣し。撃ちて取りつべし」ととんでもない報告をしたことが書かれています。
  …(略)…
 日高見国とは一言で言えば蝦夷と呼ばれる日本の原住民の作っていた豊かな六つの郡から成る国でした。この六つの郡から成る国の六つに陸奥の字を当てたのは朝廷です。
  …(略)…
 昔昔、縄文文化の盛んなころ日本全国は、日高見連合国のような形で長い間平和に暮らしていました。そこに中国大陸での戦に敗れた流民たちが九州に流れ着き、日向の族長である猿田彦の首根っこを押さえて道案内させました。紀元前後ころと思われます。
  …(略)…
 中国からの流民が次第に周囲を征服しながら大和に入り、大和の周辺を征服しやがて日本武尊に代表される軍隊をあくことなく西に東に出し続けました。
  …(略)…
 …朝廷に抵抗した人は鬼として伝えられました。…もちろん鬼とはもともと勇者のことでした。が流民王朝は恐れと侮蔑を鬼という言葉に込めたのです。しかし流民王朝の思惑にかかわらず、征服者の怖れた鬼は原住民の誇るべき勇者であり、先祖なのですから、当然ながらどこか懐かしいものとしても人々に伝えられました。
 この流民王朝を日高見国の協力を得て倒したのが応神天皇で四世紀の半ばでした。ここから正式に大和朝廷が起こり天皇が即位するのです。
  …(略)…
 奈良時代に入っても、東北を全く征服できなかった大和朝廷は、征夷大将軍を次々と送り込み、勿来の関まで、後に白河の関までをどうにか手に入れましたが、豊かであり文化程度も高く貿易の盛んな東北を征服することはついにできませんでした。
  …(略)…
 この広大な東北を統べていたのは安倍王で平泉の藤原三代の初代清衡の母は安倍王の娘です。
 後に豊臣秀吉が東北をさして日高見と書いている手紙が現存しているそうですから戦国時代末期でも東北を日高見と呼んでいたことがわかります。
  …(略)…
 東北には大和朝廷に征服されず独立国として豊かな金、たくさんの馬、コロンブスやマジェランなどが活躍する大航海時代より三百年も前から世界一の貿易をして栄えに栄えていた日高見国が存在していました。


 はたしてどこまでが事実かは日本史音痴の私にはよく分からないが、本ブログのタイトルが”みちのくの…”でもある上に、さらには蝦夷の末裔であると信じている私としてはなかなか説得力があるじゃないかと感心した次第である。
 なお、もちろんタイトルの”みちのく”は何も自虐的に付けた訳でもなく、「”みちのく”とは自然と調和する生き方をするという自負」という意味で付けたのである…な~んちゃって。

 ところで、本棚にたまたま『古代アテルイの里』という冊子が立て掛けてあったので、次はこの冊子から日高見国を眺めてみたい。
 
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