《創られた賢治から愛される賢治に》
承前
やはりアンタッチャブル?いけない話が大分それてしまった。話を元に戻そう。
私がこの『評伝 宮澤賢治』から知ったことは、境氏がここで「賢治昭和3年の病気」に関して述べていることは、既に佐藤隆房が『宮澤賢治』で述べていたことの焼き直しであるのではなかろうかということであり、新たなことは何も書かれていないのではなかろうかということである。
やはりここは、境氏にはもっと別な可能性はなかったのだろうかということも是非探求していただきたかった。とはいえ、境氏のことだからそれをしなかった訳ではなかろう。この下根子桜からの撤退は、賢治の総体の中で極めて重要な行為であり、ターニングポイントの一つでもあるはずだから境氏も追求しようとしたはずである。
しかし前掲書にはそれが著されていないということは、境氏が取材しようとしてもこの「賢治昭和3年の病気」に関しては周縁の人達の口は固く、それはやはりアンタッチャブルなことだったということを物語っているということなのではなかろうか。
それに触れることはタブーであった?
それがアンタッチャブルでっあったであろうことは『昭和文学全集・第十四巻宮澤賢治集』からも窺える。そこには小倉豊文の「解説」があるが、
〝一四 羅須地人協會時代〟の中には「賢治昭和3年の病気」に関しての記載はなく、
〝一七 病床時代・技師時代〟の中に
この時代は、三十三歳の八月病臥以降三十六歳の三月の一時快癒までと…(略)…
<『昭和文学全集・第十四巻宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年)376p~より>と、かろうじて一言「三十三歳の八月病臥」があるだけでそれ以上は言及していない。
常に学究的な態度で臨んでいるはずの小倉にしてかくの如しだったということは、この「賢治昭和3年の病気」に触れることはタブーであったとか、あるいはそれを公にすることはタブー扱いであったということなのではなかろうか。
つまり、賢治は昭和3年の8月に病気になって豊沢町の実家に戻って病臥したということになっているが、実はその真相は、
賢治は病気であったから実家に戻った訳ではなくて、その真の理由は「陸軍特別大演習」を前にして行われた官憲の厳しい「アカ狩り」から逃れるために、賢治は病気であるということにして実家に戻って謹慎、蟄居していた。
のであり、それゆえにこの「賢治昭和3年の病気」に触れることはタブーであった、ということはなかっただろうか。あるいはまた、一部の人はこの真相を知っていたがそのような人は皆緘黙を通したということかも知れない。実際、賢治に関わるあることで、ほんの一部の人には知れ渡っていることのようだが、それを誰も公には活字にしていないことがあるが(そしてこの場合にはその人の人格や人権に関わることだからそれは当然の対処だが)、この「賢治昭和3年の病気」の真相もある面ではそれと似ていて、活字で公にすることは憚られていた(こちらの場合はそのような対応が当然とは言えないと私は思うが)という構図があったということはなかっただろうか。
小倉でさえも「賢治昭和3年の病気」に関しては何ら探究していないことに鑑みると、そんなあらぬことまで私は想像してしまう。
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