講習会場は関登久也の家だった
前回、昭和7年に佐々木喜善が花巻でエスペラント講習会を開いたときの会場は「明治屋」、つまり関登久也の家であったと考えてよさそうだとなった訳だが、たまたま調べていた関登久也の著書『北国小国』の中の「早池峰山と佐々木喜善」にそのことがはっきりと次のように述べられていた。
かなり回り道をしてしまったが、とまれ「明治屋」が関登久也の家であったことがこれで確定したと言っていいだろうから、一つもやもやは解消した。
あとは、〝中舘〟なのか〝中館〟なのかについては〝たて〟の字にはあまりこだわらぬこととして、それよりは下の方の〝名〟は何のかということに焦点を当て、はたして中館武左衛門その人かどうかをもう少し続けて探っていきたい。
この講習会を慫慂したのは賢治?
なお、関登久也のこの追想「早池峰山と佐々木喜善」を読んで新たに気に掛かったことが次の3点である。
①このエスペラントの講習会開催は知人から慫慂されたということ。
②その仲介者はKであること。
③かつて日本では、エスペランチスト=大本教信者が成り立つ場合が多かったのだろうかということ。
実は、私はこの追想を読むまではこの講習会は関登久也が中心となって開催し、講師も関登久也が選んだものとばかり思っていたが、①より、そうではなかったということを知った。意外であった。何のことはない知人から慫慂されたので関登久也は自宅でこの講習会を実施したのだった。
そこで私は、では一体この〝知人〟とは誰だったのだろうかと想像しながらこの追想を読み続けた。この際関登久也はその講師が佐々木喜善であることも直前まで知らなかった訳だから、関登久也の周辺で他に佐々木喜善を知っているといえば直ぐに思い付くのが賢治だから、もしかすると
〝知人〟=宮澤賢治
という等式が成り立つかも知れないなどと思っていたならば、次に②があったことによりこの〝K〟はまさしく賢治のKではなかろうかと、つまりこのエスペラントの講習会開催は賢治から慫慂されたのではなかろうか、とつい想像してしまった。
そして最後の③について。このことについては今後学ばねばならぬ事と思っているが、何となく直感で、「既成宗教の垢を抜きて一丸としたる大宗教」と書いて賢治が出そうとしていた書簡の宛先である中館武左衛門も大本教に関心を持っていたのではなかろうかと私は想像を更に逞しくしてしまった。
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前回、昭和7年に佐々木喜善が花巻でエスペラント講習会を開いたときの会場は「明治屋」、つまり関登久也の家であったと考えてよさそうだとなった訳だが、たまたま調べていた関登久也の著書『北国小国』の中の「早池峰山と佐々木喜善」にそのことがはっきりと次のように述べられていた。
早池峰山と佐々木喜善
去年の春エスペラントの講習会を拙宅で開いたが、その時の講師は佐々木喜善氏であつた。私は知人から慫慂されて講習会を開くことにしたのだが、迂闊にも講師の氏名を聞かずにゐて間際になつて、喜善氏だと知つた時には少なからず不思議な思ひをした。といふのはかれこれ廿年も前に、當時上閉伊郡土淵村に居住の氏に對して、少年の私がかなり長い手紙を書いたことを覺えてゐる。勿論エスペラントに就いて問合せの手紙なのだが、その手紙の相手の喜善氏が偶然にも今拙宅で開催されやうとしてゐる、エスペラントの講習に、しかも講師として來られるといふことは、これはかなり奇異な因縁でさへある。
尤もその廿年の間、喜善氏とは面語こそしないが、何かと交渉はあつた。然しエスペラントの喜善氏などは遠の昔に忘却してゐたのである。「講師は喜善さんですよ」と、仲介者のKに言はれても、それは少し變だが間違ひはないのかと、昔のことは忘れてさう思つた程である。成程民族學と喜善氏とを結びつけて考へることは、これはひとつの常識でさへあるが、エスペラントの講師とは思ひもよらぬことであつた。
…(略)…
九月廿一日には宮澤賢治氏を失くし、その廿九日には喜善氏を失ひ吾らの郷土は轉た寂寥にたへない。喜善氏が來花すると必ず宮澤さんを訪ねた。そして喜善氏の信仰する大本教が宮澤さんに依つて時に痛烈に批判されても喜善氏は宮澤さんにはかなはない、といつて頭をかいてゐるのであつた。
「豪いですね、あの人は豪いですね、全く豪いですね」と、喜善氏は言つてひとりで嬉しがつてゐた。時にはおかげ話はいゝですよ、と言つて相好をくづしてゐた。喜善氏は大本の神様を深く信じてゐたのである。
<『北国小国』(関登久也著、十字屋書店、昭和16)264p~より>去年の春エスペラントの講習会を拙宅で開いたが、その時の講師は佐々木喜善氏であつた。私は知人から慫慂されて講習会を開くことにしたのだが、迂闊にも講師の氏名を聞かずにゐて間際になつて、喜善氏だと知つた時には少なからず不思議な思ひをした。といふのはかれこれ廿年も前に、當時上閉伊郡土淵村に居住の氏に對して、少年の私がかなり長い手紙を書いたことを覺えてゐる。勿論エスペラントに就いて問合せの手紙なのだが、その手紙の相手の喜善氏が偶然にも今拙宅で開催されやうとしてゐる、エスペラントの講習に、しかも講師として來られるといふことは、これはかなり奇異な因縁でさへある。
尤もその廿年の間、喜善氏とは面語こそしないが、何かと交渉はあつた。然しエスペラントの喜善氏などは遠の昔に忘却してゐたのである。「講師は喜善さんですよ」と、仲介者のKに言はれても、それは少し變だが間違ひはないのかと、昔のことは忘れてさう思つた程である。成程民族學と喜善氏とを結びつけて考へることは、これはひとつの常識でさへあるが、エスペラントの講師とは思ひもよらぬことであつた。
…(略)…
九月廿一日には宮澤賢治氏を失くし、その廿九日には喜善氏を失ひ吾らの郷土は轉た寂寥にたへない。喜善氏が來花すると必ず宮澤さんを訪ねた。そして喜善氏の信仰する大本教が宮澤さんに依つて時に痛烈に批判されても喜善氏は宮澤さんにはかなはない、といつて頭をかいてゐるのであつた。
「豪いですね、あの人は豪いですね、全く豪いですね」と、喜善氏は言つてひとりで嬉しがつてゐた。時にはおかげ話はいゝですよ、と言つて相好をくづしてゐた。喜善氏は大本の神様を深く信じてゐたのである。
かなり回り道をしてしまったが、とまれ「明治屋」が関登久也の家であったことがこれで確定したと言っていいだろうから、一つもやもやは解消した。
あとは、〝中舘〟なのか〝中館〟なのかについては〝たて〟の字にはあまりこだわらぬこととして、それよりは下の方の〝名〟は何のかということに焦点を当て、はたして中館武左衛門その人かどうかをもう少し続けて探っていきたい。
この講習会を慫慂したのは賢治?
なお、関登久也のこの追想「早池峰山と佐々木喜善」を読んで新たに気に掛かったことが次の3点である。
①このエスペラントの講習会開催は知人から慫慂されたということ。
②その仲介者はKであること。
③かつて日本では、エスペランチスト=大本教信者が成り立つ場合が多かったのだろうかということ。
実は、私はこの追想を読むまではこの講習会は関登久也が中心となって開催し、講師も関登久也が選んだものとばかり思っていたが、①より、そうではなかったということを知った。意外であった。何のことはない知人から慫慂されたので関登久也は自宅でこの講習会を実施したのだった。
そこで私は、では一体この〝知人〟とは誰だったのだろうかと想像しながらこの追想を読み続けた。この際関登久也はその講師が佐々木喜善であることも直前まで知らなかった訳だから、関登久也の周辺で他に佐々木喜善を知っているといえば直ぐに思い付くのが賢治だから、もしかすると
〝知人〟=宮澤賢治
という等式が成り立つかも知れないなどと思っていたならば、次に②があったことによりこの〝K〟はまさしく賢治のKではなかろうかと、つまりこのエスペラントの講習会開催は賢治から慫慂されたのではなかろうか、とつい想像してしまった。
そして最後の③について。このことについては今後学ばねばならぬ事と思っているが、何となく直感で、「既成宗教の垢を抜きて一丸としたる大宗教」と書いて賢治が出そうとしていた書簡の宛先である中館武左衛門も大本教に関心を持っていたのではなかろうかと私は想像を更に逞しくしてしまった。
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