みちのくの山野草

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風聞や虚構の可能性

2022-07-10 12:00:00 | 賢治渉猟
《ヤマルリトラノオ》(真昼岳、平成30年7月19日撮影)
魑魅魍魎の世界
 ――「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」――

 そこで私は、関連する論考等を早速探し廻ったのだが、〈悪女・高瀬露〉に関して真正面から学究的に取り組んでいる賢治研究家の論考等はほぼ皆無なようで、やっと見つかったのが当時七尾短大教授だった上田哲の論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―」(『七尾論叢11号』所収)である。そこでは上田は、
 露の〈悪女〉ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。…(投稿者略)…この話はかなり歪められて伝わっており、不思議なことに、多くの人は、これらの話を何らの検証もせず、高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け容れ、いわば欠席裁判的に彼女を悪女と断罪しているのである。
            〈『七尾論叢11号』(七尾短期大学、平成8年)89p〉
とその経緯と実情を紹介し、
 高瀬露と賢治のかかわりについて再検証の拙論を書くに当ってまず森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』(一九四九年(昭和24)一月二五日 人文書房刊)を資料として使うことにする。…(投稿者略)…一九四九年以降の高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこの森の本を下敷にしており……
           〈同89p〉
と断定していた。やはりそうかとは思ったものの、ここは自分で確認してみる必要がある。
 そこでその「文篇」を渉猟してみたところ、「一方的な情報」とは上田の指摘どおり確かに『宮澤賢治と三人の女性』であった。その後はこれを「下敷」として、儀府成一が『宮沢賢治その愛と性』(芸術生活社、昭47)を著し、読むに堪えないような表現をも弄しながらその拡大再生産をしていたし、なかなり辛辣な表現を用いた著作が何度か再生産されていた。しかも、やはり誰一人として確と検証等をしたとは考えられぬものばかりがだ。こうなったら乗りかかった船、私もこの〈悪女・高瀬露〉を検証せねばならないだろう。というのは、上田の同論文は実は未完だったからだ。
 ついては、上田が「下敷」と称しているところの森荘已池著『宮澤賢治と三人の女性』をまず精読してみたところ、常識的に考えておかしいと感ずるところが幾つか見つかった。
 それは例えば、
 彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家もかりてあり、世帶道具もととのえてその家に迎え、いますぐにも結婚生活をはじめられるように、たのしく生活を設計していた。
           〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)89p〉
という記述だ。あのように崇敬の念を抱きながら亡き賢治を偲ぶ歌を詠むような女性が、このような厚かましいことをしたのだろうかという素朴な疑問が湧いたからだ。
 早速私は、露は当時鍋倉の寶閑小学校に勤めていたというから、鍋倉に向かった(2012年11月1日)。幸い、露の当時の教え子鎌田豊佐氏に会うことができて、露は「西野中の高橋重太郎」方(「鍋倉ふれあい交流センター」の近く)に当時下宿していたということを教わった。さらに、その下宿の隣家の高橋カヨ氏からは、
 寶閑小学校は街から遠いので、先生方は皆「西野中の高橋さん」のお家に下宿していました。ただしその下宿では賄いがつかなかったから縁側にコンロを出して皆さん自炊しておりましたよ。
ということも教わった。
 となれば、その下宿は賄いがつかなかったから寝具のみならず炊事用具一式も必要だったであろう。そこでそれを知った口さがない人たちが露のこのような下宿の仕方を、「もはや家もかりてあり、世帶道具もととのえてその家に迎え、云々」というような噂話に仕立てて面白おかしく吹聴したという蓋然性が高い。当時、賢治と露とのことはある程度世間に噂されていたという<*1>からだ。
 そして森は、裏付けを取ることなどもせずに、そのような噂話を元にして活字にしてしまった可能性があると考えられる。このように、露が下宿していたことや下宿の仕方等がその頃から90年近くが経ってしまった時点でさえも分かったのだから、森が当時そうしようとすればこれらのことはもっと容易に分かったはずだ。ところが森はそのことについて同書で何ら触れていない。よって、先に引用した森の記述内容は風聞か虚構の可能性が生じてきたということである。
 こうなると同様に不安になってくるのが、やはり前掲書の中の、
 彼女の思慕と恋情とは焰のように燃えつのつて、そのため彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた。
           〈同73p〉
という森の記述であり、当時の交通事情に鑑みればそれはほぼ無理だと思われるからだ。
 そこで、精確を期すために露の生家がどこにあったかをまずは確かめようとした。それが「向小路」であったことだけは知られていたのだが、賢治関連のどの著作にもそこが具体的にどこであったのかは明らかにされていなかったからだ。
 だが分かったことは唯一、上田の前掲論文等に載っていた生家の住所名、
    岩手県稗貫郡花巻町向小路二十七番地
だけだった。しかも、向小路一帯をあちこちいくら探し廻っても、高瀬という姓の家がないだけでなく、その番地がどこかを特定できる人にさえも出会えなかった。当時とは家並みも一帯の番地名も変わってしまったからだろうか。私は途方に暮れてしまった。
 そんな折、地元の花巻出身で東京在住の伊藤博美氏から私が頂いた『花巻市文化財調査報告書第一集』(花巻市教育委員会)に「大正期の同心屋敷地割」という地図が載っていた。そしてその地図から、「向小路二十七番地」とは、あの賢治の詩〔同心町の夜あけがた〕に詠まれている「向こふの坂の下り口」(向小路の北端)だったということを幸い知ることができた。
 次に当時の寶閑小学校のあった場所だが、これは案外簡単に判った。花巻市立図書館所蔵の『寶閑小学校創立九十一年』(寶閑小学校)により、「山居公民館」の直ぐ近くにあったことを知った
 よって、「露の下宿→宮澤家別宅」へと最短時間で行くとなれば、当時の『花巻電鉄鉛線 列車時刻表』(花巻温泉電氣鉄道、大正15年8月15日発行)等により、
     露の下宿~約15分~寶閑小学校~約45分~二ッ堰駅~鉛線約25分~西公園駅~約20分~露生家~約15分~「下根子桜」
となるから、往復で最低でも約4時間はかかっただろう。当然、「一日に三回もやってきた」ということは勤務日にはほぼあり得ない。もちろん、露が週末に生家に戻っていた際であればそれは可能であっただろうが、それでは「遠いところをやってきた」ということにはならない。露の生家と下根子桜の別宅との間は約1.5㎞、直ぐ近くと言ってよい距離だからだ。したがって、露が「一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた」という記述もまた、風聞か虚構であったという可能性が生じてきた。

<*1:投稿者註> 上田哲は『七尾論叢第11号』の73pで、「賢治と露の話は村中にひろがっていったようです」ということを鏑慎二郎から教わったと述べている。

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