みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1250 新庄市立図書館

2009-11-19 08:00:05 | その他地域
   <↑ 月刊『素晴らしい山形』H1991,12月号より>

 新庄市立図書館を訪ねてみると、松田甚次郎に関する資料が纏めて置かれているコーナーがあり、閲覧出来た。その中には見てみたかった資料等も幾つかあった。

 その一つは、斎藤 たきちの『賢治の心で山形の地を生きて』という随筆であった。その中には
 私は今、甚次郎の生涯の一面を振り返ってみた。それは賢治の思想を原母にして燃え尽くしたひとつの生き方だった、と言うことがいえよう。晩年、日中戦争が深まるなかで国策に協力、戦争賛美者となっていく過去を持つにしても、当時左翼の人々が相ついで転向し国全体の流れが戦争体制へのめりこんでいった時代相を考えるとき、ひとり甚次郎のみを犯罪者と呼ぶことはできない。しかし、賢治のしんの思想を引き継げなかった負の行為もそこに視る。いや、亡き賢治の思想を時代相に接続する苦闘にもまして、周囲にいた小野武夫や加藤完治の行動に影響されて賛同者になっていたと見るべきだろう。これらの汚れた経歴を抹殺することはできないにしても、賢治と出会い、師として生涯信じつつ生を閉じたその生き方は、今なお掘り尽くせぬ鉱脈のひとつだ、というのが私の甚次郎観なのである。
   <『月刊 素晴らしい山形』1991,12号より>
ということが書いてあった。
 この文章の前半は、私も以前”戦争協力に関して”で述べたような想いと同じであったので少しほっとした。しかし、後半の特に”これらの汚れた経歴”という表現からは、そうか松田甚次郎はこのようにも見られてもいたのだいうことをやはり認識すべきなのだと思い知らされた。最後の”今なお掘り尽くせぬ鉱脈のひとつだ”という甚次郎に対する冷静な見方から判断して、斎藤の捉え方はほぼ妥当なのものなだろうと思えたからである。

 そしてその2つめが『甚次郎とその時代』という、同じく斎藤 たきちの覚書である。
 その中に、結城哀草果の松田甚次郎に関する次のような批判
 「農村の或者がおもいあがって、たまたま農民道場めいたことをはじめると、世人がそれをはやしたててすぐ有名になってしまう。地元の村人は一向関心をもたず、迷惑にさえおもっているうちに、若年の道場主がどんどん名高くなって、恰も救世主のような面をして講演をして歩くようになる。ところが、かかる級の人物は世間に掃くほどおっても、農村におる者が特に目につく、鳥なき里の蝙蝠であるのと、本当に偉い農村人物を見出す目を世人が持っておらぬからである。国の宝となる農民は黙々として働き、村と国を治めてめったに声を大きくしない。三十そこそこの若年者が、生意気に農民道場主とはいったい何事ぞやと、罵りたいことが往々にしてある。かかる事業は、国か県の事業に合流して成績をあげるべき時代になった。」(昭和十四年・アララギ)
  <『地下水19号』より>
をまず載せている。思い起こせば、この結城哀草果(ゆうきあいそうか)という人物は以前”松田甚次郎の来花(その2)”で登場してきた人物でる。そこでは松田甚次郎が結城哀草果に対して一目置いていることが解るが、その哀草果は甚次郎に対して敵愾心すら燃やし、苦々しく思っていたのだということがこの文章から窺える。

 そして斎藤 たきちは続けて次のように
 「農民道場」というテーマで右のエッセイを書いたのは、歌人の結城哀草果であった。たしかに松田の実践は、彼の独創に根ざした思考、実践の産物というよりも、当時、ジャーナリズムの寵児となった、「農民道場」運動の亜流であったように思われるフシがある。しかし何故に農民道場運動がひろがり、その門をたゝく若き農民の多くがいたかは、又別の問題でもあろう。身銭を切って入塾し、汗を流して働きながら、一片の社会的資格の証書すら与えられない場に青春の生き方をさらすことは、現実変革の意識と、未来の生活をきりひらくひとつの期待と可能性をそこに賭け、内発的な燃焼の場として位置づけたからに他ならないと思う。
 わたしはそうした意味で、哀草果の言葉に抵抗を感じる。たとえその行為が、稔り少ないものであったにしても、それに青春の情熱をかけた生きざまからわたしは学びたいと思う。

   <『地下水19号』より>
と述べている。斎藤は哀草果の見方を一部認めながらも、その歴史的背景を踏まえなければならないし、迸る若者の想いと情熱を理解してやらねばならぬと哀草果を戒めているようにも思える。

 さらに、斎藤はこの覚書の最後の方で
 「明治、大正を通じて教育方針を仔細に検討すれば、その重大影響に驚くであろう。東北に職を報ずる教師自身が少しく才智の優れたる者と見れば「東北を捨てて都に出でよ、東北にありては絶対に成功の機会は到来せず」と、誰憚らず教えたのである。」という教育が、一般的であった。この現実の実感は、公教育批判から不信へとつながってゆき、「村塾」や「道場」運動創出の下地となっていったことは推察される。
と斎藤の見方を述べている。
 当時の少なからぬ若者が身銭を切ってこの村塾に入塾し、社会的資格の証書すら与えられない場に青春の生き方をさらした背景には、このような教育の本質にも悖る公教育がはびこり、そのことに対する不信感があったためなのだと私は悟らされた。

 なお、この図書館の松田甚次郎のコーナーに次のような画用紙に墨書されたものもあった。
【水五則】

ついうっかりして、その謂われは訊かないままに図書館をお暇してしまった。

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