みちのくの山野草

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2505 10回目の上京の別な可能性(#34)

2012-01-30 08:00:00 | 賢治昭和二年の上京
下根子桜時代の詩の創作数の推移
 宮澤賢治の下根子桜時代の詩の創作数を「新校本年譜」を基にして数え上げてみた。それを月毎に表にすると下表のようになる。
 これをグラフ化して詩の創作数の推移を眺めてみる。

<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
 この図表からは
 ・賢治が羅須地人協会の活動から撤退した頃(昭和2年3月)から一気に詩の創作数が増した。前年と比べるとその多さは圧倒的である。
 ・松田甚次郎が2度目に訪れた月(昭和2年8月)を境にして翌年の上京(同3年6月)までの間は全くといっていいほど創作活動は為されていない。
ことなどが今さらながらよく判る。
創作皆無の月などについて
 ところで全く創作をしていない月であるが、次のような月ならば
 ・大正15年 4月=下根子桜に移ったばかりで多忙
 ・  〃   12月=上京してタイプライター、オルガン、エスペラントのマスターで多忙
 ・昭和 2年 1月=羅須地人協会の活動で多忙
ということで詩を詠む暇がなかったということは容易に理解できるが、昭和2年8月~3年6月の間の9ヶ月間を賢治は一体何をやっていたのだろうか。以前のような羅須地人協会の活動はもはやこの時期となればやっていなかったはずだから、肥料設計と稲作指導に専らであったのだろうか。
 しかし、例えば昭和2年9月~11月の間ならば農家は忙しいだろうが賢治の方は肥料設計や稲作指導をする必要のない時期であるから多忙ではなかったはず。ということは、賢治の詩の創作意欲は萎えてしまっていたということなのだろうか。そしてその他の月の場合もそうだったのであろうか…。
 特に、一般に高い評価を受けていると聞く次のような詩
 ・昭和2年の7月10日には〔あすこの田はねえ〕を
 ・   同  7月14日には〔南からまた西南から〕を
そして「新校本年譜」によれば
 ・昭和2年8月中旬には「野の師父」を
 ・  同  8月20日には「和風は河谷いっぱいに吹く」を
詠んでいるというのに、何故この後は急激に創作意欲が失われてしまったのだろうか。それとも賢治の心境に何か変化が起こったのであろうか、このような詩を詠んでしまったがゆえに。あるいは、松田甚次郎の再訪がその大きな原因の一つだったのだろうか…いや流石にこれはなしか。  

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