阿部孝の証言
以前〝10回目の上京の別な可能性(#22)〟において、次のような阿部孝の証言が引用されているということを投稿したことがある。
なかなか手厳しい阿部孝の証言ではあるが、一方で賢治が
とすれば残念ながら、少なくとも大正が終わる頃、つまり大正15年末頃の賢治のチェロの腕前は相当ひどかったということになりそうだ。
ただし、この阿部の証言が事実だとするといろいろな問題が派生してくる。例えば、賢治は鈴木バイオリンの新品のチェロを買ったわけではないことになるかもしれない、などの。
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以前〝10回目の上京の別な可能性(#22)〟において、次のような阿部孝の証言が引用されているということを投稿したことがある。
中学時代からの友人阿部孝…その阿部が『四次元』第一五号第七号(昭和三八年七月)で「チェロを弾く賢治」について書いている。
いつ頃か、賢治は、野中の一軒家のあばら屋に一人籠もって、食うや食わずの生活をしながら、毎日チェロを弾いていた。
チェロを弾くといえば、聞こえはいいが、実はチェロの弦を弓でこすって、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いっぱいで、それだけでひとり悦に入っていたのである。…
いつ頃か、賢治は、野中の一軒家のあばら屋に一人籠もって、食うや食わずの生活をしながら、毎日チェロを弾いていた。
チェロを弾くといえば、聞こえはいいが、実はチェロの弦を弓でこすって、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いっぱいで、それだけでひとり悦に入っていたのである。…
<『チェロと宮沢賢治』120pより>
その出典をこの度見ることができたので報告しておきたい。もちろんそれは『四次元』第一五号第七号(昭和三八年七月)であろうと思っていたならば、私の場合は『四次元 百五十号記念特集』(1963.7)であるが、1963年は昭和38年だから実は全く同じものだと思う。それは次のようなものであった。 大正の終わる頃
二、チェロを弾く賢治
いつの頃からか、賢治は、野中の一軒家のあばら屋にひとり籠もつて、食うや食わずの生活をしながら、毎日チェロを弾いていた。
チェロを弾くといえば、聞こえがいいが、実はチェロの弦を弓でこすつて、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いつぱいで、それだけでひとり悦に入つていたのである。
軒端までいつぱいの八重むぐらに埋もれたあばら屋の中から、とぎれとぎれにもれてくる、陰にこもつた怪しい弦の音に、遠くから耳をそば立てた人々は、ここを狐か狸の宿と思つたかもしれない。
食うや食わずの生活、といつたが、人間の命をつなぐ食事としては、これ以上の粗食は考えられない、と思われる程の粗食であつた。「おふくろが心配して、時々女中に重詰めなんか持たしてよこすんだが、ぼくは箸をつける気にならん」と、彼はぶぜんと語るのである。
…(略)…何を苦しんで、こんなルンペンのできそこないみたいな、親不孝のまねをしなければならないかつたのか。…(略)…
ところで、当時ちやうど西洋音楽に凝り固まつていて、レコード集めに血道を上げて揚句の果てに、とうとう自分自身で、楽器の音を出してみなければ満足ができなくなつた彼は、町の古道具屋で買いこんできた中古のチェロが、すなわちこれだつたのだ。ところが、これが彼にとつては難物で、いつまでたつても彼の演奏は、そのぎいん、ぎいんの域から、ぬけでるけしきはなかつた。
二、チェロを弾く賢治
いつの頃からか、賢治は、野中の一軒家のあばら屋にひとり籠もつて、食うや食わずの生活をしながら、毎日チェロを弾いていた。
チェロを弾くといえば、聞こえがいいが、実はチェロの弦を弓でこすつて、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いつぱいで、それだけでひとり悦に入つていたのである。
軒端までいつぱいの八重むぐらに埋もれたあばら屋の中から、とぎれとぎれにもれてくる、陰にこもつた怪しい弦の音に、遠くから耳をそば立てた人々は、ここを狐か狸の宿と思つたかもしれない。
食うや食わずの生活、といつたが、人間の命をつなぐ食事としては、これ以上の粗食は考えられない、と思われる程の粗食であつた。「おふくろが心配して、時々女中に重詰めなんか持たしてよこすんだが、ぼくは箸をつける気にならん」と、彼はぶぜんと語るのである。
…(略)…何を苦しんで、こんなルンペンのできそこないみたいな、親不孝のまねをしなければならないかつたのか。…(略)…
ところで、当時ちやうど西洋音楽に凝り固まつていて、レコード集めに血道を上げて揚句の果てに、とうとう自分自身で、楽器の音を出してみなければ満足ができなくなつた彼は、町の古道具屋で買いこんできた中古のチェロが、すなわちこれだつたのだ。ところが、これが彼にとつては難物で、いつまでたつても彼の演奏は、そのぎいん、ぎいんの域から、ぬけでるけしきはなかつた。
<『四次元 百五十号記念特集』(1963.7)24p~>
賢治のチェロの腕前なかなか手厳しい阿部孝の証言ではあるが、一方で賢治が
2a4 這ひ松の
なだらを行きて
息吐ける
阿部のたかしは
がま仙に肖る
なだらを行きて
息吐ける
阿部のたかしは
がま仙に肖る
<『校本宮澤賢治全集第一巻』(筑摩書房)102pより>
と詠んだことのある〝がま仙〟が阿部孝その人であれば「おあいこ」なのかもしれない。「鼬幣稲荷(いたちべいなり)神社」の息子で、盛岡中学卒業後に東大に進み、後に高知大学の教授、そしてその学長まで勤めた阿部のこの証言は偽りのない賢治の実態だったといえるえかもしれない。なぜなら賢治と阿部はお互いに思ったことをズバリ言い合える友達同士であり、賢治の実態を阿部は有り体に吐露していたのであろうと考えられるからである。とすれば残念ながら、少なくとも大正が終わる頃、つまり大正15年末頃の賢治のチェロの腕前は相当ひどかったということになりそうだ。
ただし、この阿部の証言が事実だとするといろいろな問題が派生してくる。例えば、賢治は鈴木バイオリンの新品のチェロを買ったわけではないことになるかもしれない、などの。
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