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岩手国民高等学校と賢治

2015-04-04 09:00:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
加藤完治
 さて前掲したように、伊藤清一によれば、この国民高等学校に入ってきた生徒の指導に当たった「高野主事は筧克彦や日本国民高等学校長加藤完治から薫陶を受けた直系」ということだが、この加藤完治といえば、高村光太郎が太田村山口の山小屋で7年間に亘って己をいわば「流謫の刑」に処していたのに対して、己の戦争責任の取り方に関してその対極にいた(上 笙一郎の表現を借りれば「己の戦争責任に平然としていた」)と思われる人物の一人である。
 この加藤完治については、『満蒙開拓青少年義勇軍』(上笙一郎著、中公新書)や『「賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)などによれば、
 1926年に茨城県友部町宍戸に「日本国民高等学校」を創立し、加藤は校長となって農民子弟教育にあたった。この「日本国民高等学校」とは、校長の人格が教育の基本をなすというデンマークの国民高等学校本来の理念を追求する民営の全寮制私塾であるはずだったが、現実には筧克彦の古神道に基づく農本主義思想を鼓吹するという加藤の教育方法は、デンマークのそれとは全くちがっていたという。
 そして1931年に満州事変が起こると、加藤は東宮鉄男(満州農業移民の基礎を築いた人物、張作霖爆殺事件の立案・実行者の一人とも)と共に満州農業移民計画を取り進め、加藤は国民高等学校の生徒の内で農家の二、三男の卒業後の身の立て方について思い悩んだ結果、辿り着いた結論が中国大陸への移民であった。そこで加藤は満蒙開拓青少年義勇軍の設立にかかわり、1937年に茨城県内原へ移転した日本国民高等学校に隣接して、1938年(昭和13年)満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所を開設し、翌年加藤は同訓練所の所長となった。
ということであり、上笙一郎の前掲書によれば、加藤によって満蒙に送り出された計86,530名の青少年義勇軍の内の約24,200名(約28%)が満州の荒野や収容所で悲惨極まる最期をとげ、幸い後に帰国できた約62,300名も言語に絶する辛酸を嘗めたという。

国民高等学校における賢治
 また同じく前掲したように、伊藤清一によれば 
 日課の皇国運動(やまとばたらき)は、後に六原道場などに持ち込まれた。目的は皇国精神を発揚することにあり、県当局にとっては国策に沿った主要な訓練であったろう。
ということであったが、たしかに六原道場の日課の中に「日本体操」というものがあり、それは、石黒英彦の恩師でもあった先の筧克彦の創案にかかわるもので、皇国運動からとり入れたものだったということだから、この国民高等学校の流れは皇国運動のみならずその精神も少なからず「六原青年道場」や「岩手県立青年学校教員養成所」に受け継がれていったに違いない。そして実は、戦時中この六原道場は先の内原訓練所と併せて「南の内原、北の六原」と並び称せられて、あどけない多くの少年達を「満蒙開拓青少年義勇軍」として満蒙に送り出していたのだった。
 さて、賢治はこの国民高等学校の講師として、
 この学校の開設時期は真冬であり、手足が冷たくて困ったことを覚えているが、宮澤賢治は寒い中厳しい行事を率先して生徒と共に実行した
ということのようだが、菊池忠二氏も前掲書の中で、やはり伊藤清一の
 宮沢先生は、その頃大変ご健康でした。朝の行事の大和働きなど、上衣をぬいで気合いをかけながら、生徒と共に真剣におやりになり、駆け足の時なども、途中で中止されるような事はありませんでした。
という回想を紹介している<*3>。
 また、国民高等学校と賢治に関して森荘已池は『ふれあいの人々』の中で次のようなことを述べている。
 六原道場が、まだ開かれていない時代だったので、学校の教室を使って、夜は講演会や座談会、朝早く起きて「かけあし」をさせた。
 賢治も招かれて「芸術概論」や、詩や短歌を教えた。これが後の六原道場の芽生えになったのである。…(以下略)
              <『ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部)より>
 さらには、堀籠文之進は次のように語っていたと佐藤成は伝えている。
 朝六時に起きてまず駈足からはじまる。駈足とかやまとばたらき(体操)はつらいので私は時にすっぽかしましたが宮沢さんは頑健そのもので、朝の行事の〝みそぎ〟とか〝やまとばたらき〟とか一度もかかさず、上衣をぬいで気合いをかけながら、生徒たちと一緒に真剣にやりました。駈足の時なども、途中で中止したり落伍したりしませんでしたので生徒も感銘していました。
             <『宮沢賢治-地人への道-』(佐藤成著)207p~>
 したがてこれらのことからは、賢治の生真面目さと責任感の強さが窺えるが、賢治でさえも大和働(=皇国運動)等を率先垂範して行ったということにその時代の抗いがたい流れを私はそこに見てしまう。そして、「日本国民高等学校」「岩手国民高等学校」「六原青年道場」「内原訓練所」は皆加藤完治で串刺しにされていたという見方もできそうだ。

<*3:註> 関登久也の『宮澤賢治物語』によれば、同じく伊藤清一は
 その頃は加藤完治の主義が流行していたころですから朝々の行事には大和働きとか、何十分かを駈足するとかみそぎをするとか、講師諸先生も、随分おつらいことだつたと思います。生徒の私達も、精神力をふるいおこして堪え忍びながら、教えを受けたものでした。
 その時つくづく感心したのは、それらのはげしい行事を、宮沢先生は一度もかかさず、率先して生徒達とともに、実行されたことでした。
              <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)236pより>
と語っている。           

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