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昭和3年9月の賢治

2015-08-31 08:30:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 では、昭和3年9月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
九月五日(水) 妹クニと刈屋主計の養子縁組が行われたが賢治は病臥中で宴に出られなかった。
九月二三日(日) 高橋武治あて返書(書簡243)。
 「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。…」
九月 草野心平から「コメ一ピヨウタノム」の電報があった。当時草野は猛烈な貧乏生活の上、賢治に対する知識はアメリカ式農場を経営し、念仏を称え、ベートーヴェンをきき、詩をつくるというふしぎな人物という程度で、もちろん面識もなかった。この電報に対し、なるべく金になりそうな造園学の本が送られてきたという。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>
のようになる。ただし、詠んだ詩については前月8月同様9月も記載がない。また、書簡243の中身、及びその考察はについては既に一度考察済みだが以下に再掲しておく。
◇ 243 9月23日付 高橋(澤里)武治あて 封書
 盛岡市外 岩手県師範学校寄宿舎内 高橋武治様
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。休み中二度もお訪ね下すったさうでまことに済みませんでした。豊沢町に居ることを黒板に書いて置けばよかったとしきりに考へました。こんど出るときは大体葉書を出してください。学校ももう少しでせうがオルガンなどやる暇もありますか。どうかお身体を大切に切角ご勉強ください。まづはお礼乍ら、
    柳原君へも別に書きます。
  九月廿三日

            <『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)より>

 さてここでまず気になったのが「妹クニと刈屋主計の養子縁組が行われたが賢治は病臥中で宴に出られなかった」についてである。もちろん素直に考えれば、賢治は当時病臥中だから宴に出られなかったということは当然のことだろうが、逆に次のような可能性も考えられる。先に、菊池武雄が賢治を訪ねてわざわざ豊沢町の実家へ行ったのにもかかわらず賢治には直接は会えなかったのは「蟄居・謹慎」のためだったという可能性があると述べたのと同様に、「蟄居・謹慎」の身にあった賢治は半ば公的な「養子縁組の宴」には出るわけにはいかなかったというそれがである。

 次に書簡〔243〕についてだが、その中の「演習」に関しては既に考察済みではあるからそのことに関してはここではもう触れない。ただし「休み中二度もお訪ね下すったさうで」につては少し考えてみる。当時武治は岩手師範の学生だったから盛岡にいたわけで、夏休み中の武治は湯本村糠塚の実家に戻った際にでも下根子桜を訪ねていたのだろうか、それも賢治のいないそこを二度も。そしてのことを武治は賢治宛書簡に書いてよこしたのだろう。すると気になってくるのが、8月12~13日頃には一度菊池武雄と藤原嘉藤治が下根子桜を訪れたり、岩手師範が夏休み中に武治は下根子桜を二度も訪れていたりしていたとなれば、同じように愛弟子の柳原昌悦や菊池信一等もそこを訪れていたかもしれないし、しかもいずれの場合も賢治が留守中の下根子桜を訪ねたことになるということが、である。
 ところが、賢治はあの黒板にそのことを一言も書いていなかったし、それが少なくとも8月10日~9月23日の40日間以上も続いたということになるのだが、私はこのことが納得できない。言い換えれば、「豊沢町に居ることを黒板に書いて置けばよかったとしきりに考へました」という悔いは賢治らしからぬことだし、そこに気づかぬ賢治であったはずがない。しかも、賢治が下根子桜に居ないということを知った菊池武雄は後にわざわざ豊沢町の実家を訪ねたのだが賢治はその見舞いを謝絶したというのにもかかわらずだからなおさらにである。
 となれば逆に考えられることは、賢治はそのようなことをあの黒板に書くことはできにくかったということであり、下根子桜を去って実家に戻ったということはあまり公にできなかったということであり、賢治は身を隠す必要があったということの可能性である。

 最後に、草野心平がらみの記載についてだが、それまで一面識もなかった草野が賢治について「アメリカ式農場を経営し」と認識していたとすれば、それは賢治が下根子桜に移り住んでいた時のものなので、その当時の賢治に対するこれが風評の一つだったということが知れる。
 このことに関連しては、平澤信一氏はによれば、渡辺渡編輯の詩誌「太平洋詩人」において、
 宮沢賢治は銅鑼に於ける不可思議な鉱脈である。会つたこともないし、未来どんな風に進展してゆくか、予想さへつかない。岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが、お経を誦んだり、レコードをかけたり、木登りしたり、そんな事を考へても一寸グロテスクだ。曾て白鳥省吾氏が会いたい由を告げた時、私にはそんな余裕がないといつてはねかへしたそうだ。それを人づてに聞いたとき、私は内心万歳を叫んだ。
             <『宮沢賢治Annual Vol.10』(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)236pより>
と草野は述べているという。つまり、賢治は「岩手県で共産村をやつてゐる」という認識も当時の草野にはあったということになる。
 しかもそれは草野だけではなかった。というのは、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・年譜篇』の)27pによれば、あの三野混沌も「描写上の問題と労働せる作家や詩人」という論考の中で、
    (賢治は)共産村を営み、村の百姓仲間と芝居をやり、音楽をやり、書いたりしてゐるといふ。
と述べていたというからだ。
 もちろん、賢治が当時「共産村やつてゐる」という歴史的事実はあったとまでは言えないだろうが、面識の無い人達からでさえも賢治はこのように見られ、思われていたということは、賢治のこのような風評は世の中に結構広まっていたということになりそうだ。となればなおさらに、賢治は官憲から厳しいマークを受けていたということはどうも否定できなさそうだ。

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