みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

あやかし〈高瀬露悪女伝説〉

2017-06-06 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
            『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』






 続きへ
前へ 
 “『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
第二章 「賢治伝記」の看過できぬ瑕疵
 さりながら、私の問題提起が、まして一連の主張がそう簡単には受け容れてもらえないであろうことは充分に覚悟している。そこには構造的な問題が横たわっていそうだからである。そこで、前掲の〝㈠~㈦〟などのような事柄については、どう決着がつくかはまだまだ時間を要するだろうから歴史の判断を俟つしかないと今は思っている。
 ただし、捏造された〈悪女・高瀬露〉だけは人権に関わる重大な問題だからそうは思えない。先の〝㈠~㈦〟などとは根本的に違うからただ俟っているだけでは駄目である。そこで、このことについて少し詳しく述べてみたい。

 あやかし〈高瀬露悪女伝説〉
 巷間、〈高瀬露悪女伝説〉なるものが流布している。しかし、この伝説はある程度調べてみれば信憑性の薄いことが容易に判る。それはまず、賢治の主治医とも言われている佐藤隆房が、
 櫻の地人協會の、會員といふ程ではないが準會員といふ所位に、内田(〈註一〉)康子さんといふ、たゞ一人の女性がありました。
 内田さんは、村の小學校の先生でしたが、その小學校へ賢治さんが講演に行つたのが緣となつて、だんだん出入りするやうになつたのです。
 來れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利と有難がつて、
「この頃美しい會員が來て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」
 と、集つてくる男の人達にいひました。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年、175p~>
と『宮澤賢治』で述べているからである。
 次に、宮澤賢治の弟清六も、
 白系ロシア人のパン屋が、花巻にきたことがあります。…(筆者略)…兄の所へいっしょにゆきました。兄はそのとき、二階にいました。…(筆者略)…二階には先客がひとりおりました。その先客は、Tさ(〈註二〉)んという婦人の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。…(筆者略)…。レコードが終ると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで讃美歌を歌いました。メロデーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)236pより>
と追想していて、賢治はある時、下根子桜の宮澤家の別宅に露を招き入れて二人きりで二階にいたと、あるいはまた、
 宮沢清六の話では、この歌は賢治から教わったもの、賢治は高瀬露から教えられたとのこと。
<『新校本宮澤賢治全集第六巻詩Ⅴ校異篇』225p>
という訳で、賢治は露から歌(讃美歌)を教わっていたということも弟が証言していたことになるからだ。
 よってこれらの証言からは、「羅須地人協会時代」の賢治は、しばしば露に出入りしてもらっていろいろと助けてもらっていたということや、露とはオープンで親密なよい関係にあったということなどが導かれる。
 一方で露本人については、
   君逝きて七度迎ふるこの冬は早池の峯に思ひこそ積め
  師の君をしのび來りてこの一日心ゆくまで歌ふ語りぬ
というような、崇敬の念を抱きながら亡き賢治を偲ぶ歌を折に触れて詠んでいたことを『イーハトーヴォ第十号』(昭和15年)等によって知ることができる。
 そしてもう一つ大事なことがあり、露は19歳の時に洗礼を受け、遠野に嫁ぐまでの11年間は花巻バプテスト教会に通い、結婚相手は神職であったのだが、夫が亡くなって後の昭和26年に遠野カトリック教会で洗礼を受け直し、50年の長きにわたって信仰生涯を歩み通した(雑賀信行著『宮沢賢治とクリスチャン花巻編』より)という。
 そこでここまでのことを簡単にまとめ直してみると、羅須地人協会にしばしば出入りして賢治を助け、しかも賢治とはある一定期間オープンで親密なよい関係にあり、賢治歿後は師と仰ぎながら偲ぶ歌を折に触れて詠んでいることが公になっていて、しかも長い間クリスチャンであった露が、まさか〈悪女〉であったとは考えにくい。だから、巷間流布している〈高瀬露悪女伝説〉は少なくともあやかしであることを否定できないということだ。
 ところがあにはからんや、山下聖美氏は、
 感情をむき出しにし、おせっかいと言えるほど積極的に賢治を求めた高瀬露について、賢治研究者や伝記作者たちは手きびしい言及を多く残している。失恋後は賢治の悪口を言って回ったひどい女、ひとり相撲の恋愛を認識できなかったバカ女、感情をあらわにし過ぎた異常者、勘違いおせっかい女……。
とか、あるいは澤村修治氏は、
 無邪気なまでに熱情が解放されていた。露は賢治がまだ床の中にいる早朝にもやってきた。夜分にも来た。一日に何度も来ることがあった。露の行動は今風にいえば、ややストーカー性を帯びてきたといってもよい。
とかなり辛辣なことを、それぞれの著書『賢治文学「呪い」の構造』(平成19年、59p)、『宮澤賢治と幻の恋人』(平成22年、145p)の中で述べているという現実が昨今でもある。
 はてさて、先の清六の証言内容等とは正反対とも言える、露の人格を貶め、尊厳を傷つけているとしか思えないようなこれらの記述の典拠は一体何であろうか。
〈註一〉内田康子とは高瀬露の仮名であることが知られている。
〈註二〉当時そこに出入りしていてオルガンで讃美歌が弾けるイニシャルTの女性といえば高瀬露がいるし、露以外に当てはまる女性はいない。
****************************************************************************************************

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 花巻城址(6/3) | トップ | 県北のとある草原のアズマギ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

「羅須地人協会時代」検証」カテゴリの最新記事