みちのくの山野草

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「演習」とは「架橋演習」?

2015-08-27 08:30:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて前回、「その訳を教えてくれそうなのが前掲の武治宛の書簡(243)だ」と述べたが、それは具体的には、9月23日付高橋(澤里)武治宛書簡(243)、
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
の中に書かれている「演習」がその訳を教えてくれると私は考えているからだ。
 それは一つには、「すっかりすがすがしくなりました」ということであれば速やかに下根子桜に戻り、それまでのような営為をそこで行うと賢治は愛弟子の武治に伝えるであろうと思いきや、「演習が終る」までは戻らないと言っていることとなり、この「演習」は極めて重要な意味合いを持っていると言わざるを得ないからだ。
 
 さてではこの「演習」と一体は何のことだろうか。『新校本年譜』によれば昭和3年9月23日の項に
    演習(*45)が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
とあり、〝*45〟の註釈として
    盛岡の工兵隊がきて架橋演習などをしていた。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)より>
となっているから、同年譜はそれは「架橋演習」のことであると言いたげだが、どうも私はそれは肯んじ得ない。なぜならば、及川雅義著『花巻の歴史 下』によれば、
 架橋演習には第二師団管下の前沢演習場を使用することに臨時に定めらていた。
 ところが、その後まもなく黒沢尻――日詰間に演習場設置の話があったので、根子村・矢沢村・花巻両町が共同して敷地の寄付をすることになり、下根子桜に、明治四十一年(一九〇八)、東西百間、南北五十間の演習廠舎を建てた。
 毎年、七月下旬から八月上旬までは、騎兵、八月上旬から九月上旬までは、工兵が来舎して、それぞれ演習を行った。
              <『花巻の歴史 下』(及川雅義著)より>
とあるから、この工兵等の架橋演習が行われた期間は「七月下旬から九月上旬まで」であったということになるだろう。したがって、賢治が武治に宛てた書簡の日付は9月23日だからその時点では既にこの架橋演習は終わっていたことになる。ところが、賢治が書簡に書いたところの「演習」は、この文章表現からしてまだ9月23日時点では終わっていないものと解釈されるから、この架橋演習のことではないとなる。したがって、『新校本年譜』が〝*45〟の註釈で述べている中身そのものは正しいとは思うが、注釈としてはちと違うのではなかろうか。

 そしてもう一つが、この当時「演習」といえばもっと皆からよく知られていたまさに「大演習」があったのだから、なおさらにだ。言い方を換えれば、その「大演習」がどんなものであったかということを知ればそれが「その訳」を教えてくれる。だから、どうして『新校本年譜』はこの「大演習」のことを持ち出していないのだろうかと、私からすれば極めて奇妙に感ずる。はたまた、もしこのことに気づかなかったというのであればそれはあまりにも不勉強であったということになろうし、「校本」と銘打っているのだからもちろんそんなことはなかろうにと、私はとても訝っている。

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