みちのくの山野草

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2530 高瀬露は悪女ではない(小倉豊文)

2012-02-24 09:00:00 | 賢治渉猟
 では今回は小倉豊文著『「雨ニモマケズ手帳」新考』より。

1.〔聖女のさましてちかづけるもの〕に対する小倉の論考
 小倉はいわゆる「雨ニモマケズ手帳」の29~30pの、例の〔聖女のさましてちかづけるもの〕について次のように同著において論考している。
 そこでは、まず小倉はこの詩を掲げて次のように続けている。
 この詩を読むと、直ぐ私はある一人の女性のことが想い出される。…(略)…その頃、賢治の住居に近い向小路の一人の若い女性が、協会員と同様に出入りし始めた。
続けて小倉はこの女性が高瀬露であることを明かし、「校本年譜」の高瀬露の次の註釈を引用している。
 高瀬露(一九〇一(明治三十四)一二月二九日生、一九七〇(昭和四五)二月二三日)湯口村鍋倉の宝閑小学校教師。妹タキも同じ学校に勤めたことがある。一九二四、五(大正一三、四)年ころ、農会主催の講習会がたびたびあり、農学職員が同小学校で農民を指導したので、賢治と顔見知りであった上、花巻高女音楽室で土曜午後にしばしば行われていた音楽愛好者の集いに出席していた。この集まりは藤原嘉藤治(独身で若い女性のあこがれだった)を中心に演奏をし、レコードを鑑賞し、音楽論をたたかわす楽しい会で、賢治は授業がすむと必ず現われ、藤原とのやりとりで女性たちを興がらせた。賢治が独居自炊をはじめた下根子桜の近く、向小路に住んでいた関係もあり、洗濯物や買物の世話を申し出たという。クリスチャンで教育者であり、明るく率直な人柄だったので、羅須地人協会に女性のいないこともあり、劇のけいこなどには欠かせない人であった。(中略)しかし彼女の情熱が高まると共に賢治の拒否するところとなった。顔に墨を塗って「私はライ病ですから」といい、高瀬はあまりの仕打ちに同級生であった関徳弥(登久也)夫人に訴え、それを知って関家に釈明にいき、父から説教を喰う結果となった。彼女との関係、立場などは書簡下書(書簡252a~c、本巻二八頁~三五頁)で察することができる。高瀬は後幸福な結婚をした。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)358p~より>
 これに引き続き今度はあの〝座談会「先生を語る」〟を引用し、さらに例の昭和2年6月9日付の露が高橋慶吾に宛てた次の書簡
高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。宮沢先生ノ所デタクサン賛美歌ヲ歌ヒマシタ。クリームノ入ツタパントマツ赤ナリンゴモゴチソウニナリマシタ。カヘリハズツト送ツテ下サイマシタ。ベートーベンノ曲ヲレコードデ聞カセテ下サルト仰言ツタノガ、モウ暗クナツタノデ早々カヘツテ来マシタ。先生は「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ。私ハイゝオ婆サンナノニ先生ニ信ジテイタゞケナカツタヤウデ一寸マゴツキマシタ。アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ。デハゴキゲンヤウ。六月九日 T子。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)113pより>
を紹介し、引き続いて次のように論考している。
 「イゝオ婆サン」と自ら書いているが、当時の彼女は数えの二十七歳である。一読して誰でも強い恋情を感得するであろう。「女一人デ来テハイケマセン」と言いながら、かなり親切に待遇している賢治の態度は如何に解すべきか。私は資料を読者に提供するにとどめておく。とにかく賢治が彼女の単独来訪を拒否した最初は、この手紙によって明らかである。しかし高橋氏の話によると、この後も彼女の単独訪問は繁々続いていた。しかして、顔に灰を塗る(墨という人もあるが高橋氏は灰であるという)とか、戸棚にかくれるとか、不在と偽るとか、森荘已池が訪問すると、彼女の辞去後の室内の女臭さを嫌って風を入れたとか、同夜宿泊すると彼女が泊まったと間違われるのを慮って一夜中電灯をつけておいたとか(森氏著「宮沢賢治と三人の女性――昭和二十四年一月、人文書房刊――、同氏講演「宮沢賢治と三人の女性」――昭和三十九年九月五日、盛岡市城西中学校に於ての自筆要旨――等)いった、むしろ奇矯ともいうべき賢治の行動は、何れも前掲の手紙以後であったと推定される。…(略)…同巻(=『校本宮澤賢治全集第十四巻』:投稿者註)ではじめて発表された賢治のT女史宛の手紙下書によれば、二人の手紙の往復は賢治の発病後も継続しており、クリスチャンのT女史は法華経信者となって賢治との交際を深めようとしたり、持ち込まれた縁談を賢治に相談することによって賢治への執心をほのめかしたりしたが、賢治の拒否の態度は依然変わらなかったらしい。その結果T女史は賢治の悪口を言うようになったのであろう。この点、高橋氏は否定していたが、私は関登久也夫人(賢治の妹シゲの夫岩田豊蔵の実妹ナヲさん)から直接きいており、賢治が珍しくもこの件について釈明に来たことも関から直接きいている。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)114p~より>
2.小倉の論考から言えること
 さて、小倉豊文のこの論考からは次のようなことが言えそうだ。
(1) 賢治が露の単独来訪を拒否した最初は昭和2年6月9日頃であるが、高橋慶吾の話によると、この後も露の単独訪問は繁々続いていた。
(2) したがって、顔に灰を塗るとか、戸棚にかくれるとか、不在と偽るとか、森荘已池が訪問すると彼女の辞去後の室内の女臭さを嫌って風を入れたとかいった、むしろ奇矯ともいうべき賢治の行動は、何れも前掲の手紙以後であったと推定される。
(3) 賢治の露宛手紙下書によれば、二人の手紙の往復は賢治の発病後も継続しており、クリスチャンの露は法華経信者となって賢治との交際を深めようとしたり、持ち込まれた縁談を賢治に相談することによって賢治への執心をほのめかしたりしたが、賢治の拒否の態度は依然変わらなかったらしい。その結果露は賢治の悪口を言うようになったのであろう。
(4) このことは高橋慶吾は否定していたが、小倉は関登久也夫人ナヲからこのことを直接聞いており、賢治が珍しくもこの件について釈明に来たことも関から直接聞いている。
 これらの考察は後ほどある程度まとまってから行いたいが、次の2点だけをここでは確認しておきたい。その第一点目は、
 賢治が露の単独来訪を拒否したことが記してある葉書の日付である昭和2年6月9日頃以降も、露の単独訪問は繁々続いていたと高橋慶吾は言っていた。
ということ。その第二点目は
 〝露はその後も賢治への執心をほのめかしたりしたが賢治の拒否の態度は依然変わらなかったらしく、その結果露は賢治の悪口を言うようになったのであろう〟ということに関しては高橋慶吾は否定し、ナヲは肯んじていた。
である。
 また高橋慶吾宛の葉書からは、おそらく昭和2年の6月上旬のある日
(7) 露は賢治の所で賛美歌を歌ったり、パンやリンゴを御馳走になったりしたが遅くなったので寄るつもりだった慶吾の所には寄らずに帰った。
(8) 賢治はまだレコードを聞かせると言ったが暗くなっていたので露はそれは辞退して早々帰宅した。その際露はずっと賢治に送って貰った。
(9) 露は賢治から『女一人では来てはいけない』と言われたのでがっかりするとともに、今後は伺えないでしょうと慶吾に伝えて寄こした。
というようなことが言えそうだ。
 がしかし、この葉書は本当に露本人が6月9日に書いたものなのであろうか、という疑問が多少私にはある。なぜならば、6月上旬に〝クリームノ入ツタパン〟は売っていたかもしれないが、時期的に〝マツ赤ナリンゴ〟はまだ販売も収穫もされていないと思うからである。
 よって、私はこの書簡は鵜呑みには出来ず、極めて慎重に取り扱う必要があると判断している。実際、この昭和2年6月9日付の高橋慶吾宛書簡そのものを小倉は見ている訳ではなくて、小倉らが見たものは慶吾が提供した「端書」のあくまでも写しだという(『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)115p)から、この「端書」は高瀬露本人が書いたものであるという100%の保証がある訳でもない。まして、高橋慶吾に関わることであればなおさら慎重な扱いが必要であろう。

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