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3084 『賢治随聞』の「あとがき」(#4)

2013-01-23 08:00:00 | 賢治昭和二年の上京
改稿の隠された事情は?
 さて、以上「改稿」の実態を調べてみた上での私の見解は
 わざわざ「改稿」するまでのものではないのではなかろうか。
である。それは、『賢治随聞』の「あとがき」でM氏が語っているところの改稿理由としている挙げている事柄と、その『賢治随聞』の「改稿」の実態が沿っていない感じがするからである。
 ということは、隠された事情が実はあったのではなかろうかということも探らねばなるまい、ということを示唆しているのだろうか。
関登久也の関連著作等リスト
 そこでまずは、宮澤賢治のことを扱った関登久也著作等を時系列に従って以下に並べてみる。
①『宮澤賢治素描』關登久也著 協榮出版社      昭和18年9月15日発行
②『宮澤賢治素描』關登久也著 眞日本社        昭和22年3月5日発行
③『續 宮澤賢治素描』關登久也著 眞日本社      昭和23年2月5日発行
   関登久也夫人岩田ナヲ没              昭和24年9月21日
④『宮澤賢治物語』関登久也著 『岩手日報』新聞連載 昭和31年1月1日~6月30日
   関登久也没                      昭和32年2月15日
⑤『宮沢賢治物語』関登久也著 岩手日報社       昭和32年8月20日発行
⑥『賢治随聞』関登久也著 角川書店           昭和45年2月20日発行
⑦『新装版 宮沢賢治物語』関登久也著 学習研究社  平成7年12月12日
 このリストを概観してみると、なぜ『賢治随聞』がこの時期に出版されてのか不自然な気がする。もう既に関登久也は①~③の三書を書き上げている訳だし、『賢治随聞』が出版される約13年前にもう関は亡くなっているからである。
 百歩譲って、『賢治随聞』が出版された昭和45年頃になると『宮澤賢治素描』や『續 宮澤賢治素描』はたまた『宮澤賢治物語』が入手できにくくなったし、出版元では再版の予定もないということだったので、遺族の了解を得て別の出版元から再版したという事情があったというのであればそれは分からぬこともない。ちょうど関登久也のご子息岩田有史氏がそう考えて⑦『新装版 宮沢賢治物語』を出版したように。ところがM氏は、そのような理由で出版したとも書いていないし、遺族と相談した上で企画したとも言っていない。なぜ、遺族でもないM氏が改稿してまでも『賢治随聞』をなこの時期に出版したのかやはり私は理解に苦しむ。
 もしかすると、この『賢治随聞』の出版年の「昭和45年」が賢治にとって何か特別意味を持った年次だったのだろうか。仮に、そのようなことがあって『賢治随聞』を出版したとでもいうような説得力に富む説明をM氏がしてくれていればこの不自然さを払拭できたかもしれないが、そのようなことをM氏が語ってくれている訳でもない。なお、私などはせいぜいこの「昭和45年」頃について思い浮かぶことは、高瀬露が帰天した年であり、一方で『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)の出版が胎動し始めたのがこの頃ではなかろうかということだけである。もしかすると、これらのことが遠因だったのだろうか。
 結局、このリストを見ながら出した私の結論は
 『宮澤賢治素描』などを改稿までしてこの時期に『賢治随聞』を出版したことは不可思議なことである。
である。
初出について
 そういえば、と私はこのときあることに気付いた。どうして「新校本年譜」はあのような註釈
*65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされる年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
        <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)326p~より>
をしていたのだろうかということに。
 なにも、出典は〝関『随聞』二一五頁〟の証言だけでない。それ以前の『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)の217pにも当該証言は書いてある。まして、このことに関する「澤里武治氏聞書」の初出は『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)所収のものである。
 つまり、そこには
          澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃ろだつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「澤君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三か月は滞在する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。驛の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つておりましたが、先生は「風邪をひくといけないからもう歸つてくれ、俺はもう一人でいいのだ。」と折角さう申されたましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸るといふことは私としてはどうしてもしのびなかつた、また先生と音樂に就て様々の話をし合ふことは私としては大變樂しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三ヶ月間のさういうはげしい、はげしい勉強で、遂に病氣になられ歸郷なさいました。
 セロに就いての思ひ出のうち特に思ひ出さるることは、先生は絶對に私以外の何人にもセロに手をつけさせなかつたことです。何か貴重なものに對する如く、セロにだけは手を觸れさすことはありませんでした。
             <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)60p~より>
ということが書かれている。それなのに、どうして註釈*65では『宮沢賢治物語』や、とりわけ初出の『續 宮澤賢治素描』については一言も触れていないのだろうか。

 もう少しこのことについては考えてみる必要がありそうだ。やはり裏に何か事情がありそうだから…。

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