みちのくの山野草

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2923 大船渡でのボランティア(9/28) 

2012-10-01 08:00:00 | Weblog
 この9月28日私は大船渡へボランティアに行った。
 その活動内容は大船渡湾岸のある側溝の泥上げ作業であった。
 最初は、そこにまさか側溝があるなどとは思わなかったが、土や泥などを取り除くと見事に立派な側溝がよみがえった。
 なお、生憎昼近くなると雨足が激しくなってきたので、午後の活動は中止になった。
千葉恭の生家は大船渡? 
 さて、ここ大船渡には2年前にも訪れている。それは賢治と一緒に暮らしたという男、千葉恭の情報を得るためであった。というのは、ある著名な宮澤賢治研究家S氏がある論考で
   彼は明治39年生まれ、気仙郡盛町の出身で、賢治より十歳の年下である
と述べていて、千葉恭の出身地は現在でいえば大船渡市盛町であるということがわかったからであった。
 当時私は千葉恭のことを知りたくて彼の生家を訪ねてみたかったのだが、いくら探してみてもその住所を知ることが出来なかった。そこで私はS氏のこの論考に望みを託して大船渡を訪ね回ったのだった。しかし、あちこち探し回ってみたものの全く手掛かりはなく、悄然とした花巻に戻ったものだった。
 なおそれは当然のことであった、S氏の記載は事実とは全く違っていて、千葉恭の出身地は大船渡ではなくて水沢市真城折居だったからである。いくら大船渡で探し回ったたところで、見つかるわけなどなかったのである。
千葉恭のことを語る資料
 一方、筑摩の『新校本年譜』等を始めとして千葉恭の著した論考は資料としてあちこちで用いられているが、こと千葉恭本人のことに関しては全くと言っていいほど語られていない。因みに、千葉恭に関する記述は本人が著したもの以外では、私の知る限り前掲のS氏の論考と『拡がりゆく賢治宇宙』の2つしかないはずである。
 しかし前者、S氏の論考の中で記述していた千葉恭の出身地は全く違っていたのだった。なぜあの大研究家がこんな書き間違いをしてしまったのだろうか。一方、後者には
楽団のメンバーは
   第1ヴァイオリン 伊藤克己
   第2ヴァイオリン 伊藤清
   第2ヴァイオリン 高橋慶吾
   フルート     伊藤忠一
   クラリネツト   伊藤與藏
   オルガン、セロ  宮澤賢治
 時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです。
<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)79pより>
とあり、千葉恭はこの楽団において時にマンドリンを受け持っていた、ということが記されている。そこで私は出版元の宮沢賢治イーハトーブ館に問い合わせた。
  『この出典は何でしょうか、教えていただきたい』
と。すると館員のお一人がご親切に調べてくださり、後刻私は教えてもらった。
  『あれは間違いです』
と。
本当に間違いか
 その後、上掲の楽団メンバーの記述を担当した方がA氏であることをたまたま知ることが出来たので私はA氏に同じことお訊ねした。すると、
  『あれですか、あれは私が直接平來作本人からお聞きしたことです』
と説明してくれた。そこでA氏に前の顛末をお話しすると
  『それは、平來作ただ一人の証言しかないからだという理由によるようです』
という意味のことを仰った。私には心做しかA氏は零されているように見えた。
 そこで私は、この件に関してこれだけ慎重な取扱をしているならば、他の件に関しても同様であったのかと振り返ってみたくなっていた。仄聞するところによれば、賢治に関わる多くのことが検証もあまりなされずに、あるいは全く検証もなされずにそれが「事実」として独り歩きしているという指摘がなされているということだし、実際私もここまで賢治の周りを彷徨ってみてその感をますます強くしているからである。
 一方で、下根子桜でこの楽団が活動していた頃に千葉恭はそこで賢治と長い間一緒に暮らしていたと判断できるし、千葉恭のご子息の『父はマンドリンを持っていた』という証言も別にあることから、
   自分(平來作)は千葉恭とともに時にあの楽団でマンドリンを弾いていた。
という意味の平來作の証言の信憑性はすこぶる高いと判断できる。したがって、
  『あれは間違いです』→『あれはほぼ事実です』
と訂正が出来るのではなかろうか、ということも。
 そしてこの平來作の証言していた内容が事実であるならば、当時千葉恭は賢治と一緒に下根子桜で生活していたということを傍証する<*>第三者による貴重な証言ということになる。
 したがって、この『あれは間違いです』という処理の仕方に対して私はバランスの悪さを禁じ得ない。
最後に
 私は側溝の泥や土をスコップで一輪車に放り込みながらこんなことを考えていた。そして、いまだに埋もれている側溝がまだあるらしいことに気付いたならばそれを隠している泥や土を取り除き、本来の側溝を取り戻してやりたいものだということも。

 本来はボランティア活動の報告をするつもりだったが、つい話が逸れてしまったことを最後にお詫びしたい。

*********************************** <*註> ***********************************
 伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協会時代―」で次のように証言している。
 私達は毎週火曜日の夜集まつて練習を續けたのである。林の中の一軒家で崖の上にある先生の家の周圍には松や杉や栗の木やいろいろの雑木生へて時々夜鳥が羽ばたいていたり窓にあたつたりして吾々を驚かしたものである。
 第一ヴァイオリンは私で、第二ヴァイオリンはさんと慶吾さんでフリユートは忠一さんクラリネツトは與藏さん、先生はオルガンとセロをやりながら教へてくれたのである。
 私達樂團のメンバーはこれだけだつたのである。練習に疲れると皆んな膝を突合はせて地質學や肥料の話しをしたり劇の話しをしたりラスキンの話をしたりした。夏はトマトを食べる日が多く、冬は藁で作つたつまごを履いて大豆を煎つて食べたりした。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版、昭和14年9月)392p~より>
 さらに、伊藤克己は「詩碑通信(其の二)―想出やいろいろのこと―」でも次のように証言している。
私達はその火曜日毎に集る日を大變樂しみにしてゐたものです。その集りにはレコードの他に劇の話をしたり、浮世繪を見せて頂いたり、花壇の話を聞いたりしたものです。
<『イーハトーヴォ第5号』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和15年3月)より>
 一方、楽団のメンバーの伊藤克己、伊藤清、高橋慶吾、伊藤忠一、伊藤與藏等の家はいずれも羅須地人協会の直ぐ近くだが、千葉恭だけは遠く水沢の出身。その千葉恭が、毎週火曜日の夜に行われていた(あくまでも伊藤克己の言っていることが正しければの話だが)という楽団活動に時に加わわっていたということになるから、平來作の証言は千葉恭が羅須地人協会に寄寓していた可能性が大であることを示唆している。
 なお、では千葉恭どうして毎週常に加われなかったのかというと、彼が『先生が大櫻にをられた頃には私は二、三日宿つては家に歸り、また家を手傳つてはまた出かけるといつた風に、頻りとこの羅須地人協會を訪ねたものです』と「宮沢先生を追つて(三)」で語っていることから了解できる。
 また、平來作及び渡辺要一も〝時に加わった〟ということになるわけだが、それは平は湯本村出身、渡辺は湯口村出身なので下根子桜からは遠いので毎週火曜日の夜に参加するのは難しかったから、ということで理解できる。
  
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