みちのくの山野草

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3075 「社会運動としての羅須地人協会」より

2013-01-17 08:00:00 | 賢治渉猟
 青江舜二郎は『宮澤賢治 修羅を生きる』の中の「社会運動としての羅須地人協会」で次のようなことを主張していた。
 (小田邦雄)氏は「賢治は社会運動をやる代わり稲作増収の肥料設計による農民への寄与を意図した」とし、それを彼の〝菩薩行〟としているのである。だが私が花巻でその教え子たちから聞かされたところにしたがえば、賢治はそれを社会運動の代わりとしてではなく、「社会運動として」、すなわち労農運動の一つとして羅須地人協会を設立したのであった。
 その派の機関誌はもちろん、いろいろな印刷物が羅須地人協会の事務所にはきていたし、賢治は資金のカンパにも忠実に応じていた。肥料設計は教師時代からすでにやっていたから、そのためにこの協会を設立したというのは、おかしいとその教え子たちはいい、その一人が一つの挿話を聞かせてくれた。
 賢治は大変音楽が好きで…(ここには例のアメリカの商社へのレコード用竹針の商品化売り込みのエピソードが書かれていて)…
 二ヵ月ほどたって返事がきて…(中略)…その話にはのれないとあった。賢治はそのとき「だから資本主義はやっつけなけりゃならんのだ」と足踏みをしてさけんだという。
                   <『宮澤賢治 修羅を生きる』(青江瞬二郎著、講談社現代新書)154p~より>
 ここからは、少なくとも青江は直接関係者から取材をした上で論考しているということが確認できる。何となく、現地に足も運ばず関係者から取材もせぬままに多くの賢治の研究がなされすぎいていると感じている私にすれば、その青江の姿勢は評価すべきだとまず思う。
 その上で疑問に思ったことが例えば、
 その派の機関誌はもちろん、いろいろな印刷物が羅須地人協会の事務所にはきていたし、賢治は資金のカンパにも忠実に応じていた。
の部分も教え子たちの証言であるとするならば、この中の「事務所」とは一体どこにあったのだろうか、ということである。あの下根子桜の宮澤家の別宅の建物の中に「事務所」といわれるものがあったのだろうか。
 そして次に思ったことは、羅須地人協会が肥料設計のために設立されたと見るのはおかしいという教え子の指摘はその通りだと思うが、だから「賢治はそれを社会運動の代わりとしてではなく、「社会運動として」、すなわち労農運動の一つとして羅須地人協会を設立したのであった。」と直ぐに結論できるのだろうかということである。
 いずれ、当面は青江のこの論考は論考として受けとめながら『宮澤賢治 修羅を生きる』をもう少し読み続けることとするが、少なくとも後程名須川溢男のそれと比較検討しながらこの論考を再考する必要があるということなのであろう。 

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