みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

3085 『賢治随聞』の「あとがき」(#5)

2013-01-24 08:00:00 | 賢治昭和二年の上京
澤里への聞き取り時期
 さて、この「澤里武治氏聞書」(『續 宮澤賢治素描』所収)についてだが、澤里武治がこの聞き取りを関登久也から受けたのはいつ頃だったのだろうか。残念ながらその時期について関登久也は明らかにしていないが、少なくとも昭和21年10月30日以前であることは判った。
 というのは、『續 宮澤賢治素描』の「巻末記」に
 續素描は多くの門弟達の聞書を採録した。…(略)…澤里武治、安藤新太郎の諸氏の御記憶に就ても讀者は驚かれると思ふ。…(略)…
 昭和廿一年十月卅日秋晴れの日  
                             關登久也
            <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)214p~より>
とあるからである。
 したがって、チェロを持って上京する賢治を霙の降る寒い日に澤里武治がひとり見送ったときから20年も経ってない、澤里35歳以前の聞き取りであることが導き出せる。となれば、血気盛んな年齢の、とりわけ賢治から可愛がられていた澤里が花巻農学生時代に賢治を見送った年次のことを間違うことはあまりなかろう。
『宮澤賢治物語』出版の意図
 ここまで辿ってきて、私はこの「澤里武治氏聞書」のチェロに関する記載と、『宮澤賢治物語(49)』の記載内容を比べてみると後者の方がより詳しいことを思い出した。まてよ、ならば『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)の出版の意図を知る必要があるぞ、と思い付いた。
 すると、この『宮澤賢治物語』の「前がき」には
 かつて私は「宮沢賢治素描」という本を書いたが、今読んでみるとあまり簡略すぎて、読む人に果たして了解してもらえるかどうかという不安をもつている。そこで、それらの素材をもう一度丹念に改めてみたいと思う。………①
            <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)より>
そこで私は、『あっ、だからあのような表現を武治はしたのか』とひとりごちた。
思考実験(隠された事情)
 というのは、昭和23年2月5日発行の『續 宮澤賢治素描』では
 確か昭和二年十一月頃ろだつたと思ひます。…(略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。………②
となっていたのが、昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(49)』では
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。…(中略)…その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした。………③
となっているからだ。
 そこでここかは思考実験である。
 あのような「改稿」理由が挙げられてはいたが、実はその裏には隠された事情があったのである。
 それを以下に時の流れに沿って説明する。
(1) まずは、昭和23年以前に澤里武治は関登久也から聞き取りを受けて
 『たしか昭和2年11月頃の霙の降る日にチェロを持って上京する賢治をひとり見送った』
と答えた。これが②に当たる。
(2) 次に、この聞き取りを所収した『續 宮澤賢治素描』が昭和23年2月5日に出版された。その出版により、その滞京中の三ヶ月間にわたるチェロのはげしい勉強で、賢治は遂に病気になって帰郷したことが公に知られるようになった。
(3) 同時にこの頃ある人物X氏はこの滞京が広まることを憂慮した。このようなことが下根子桜時代の賢治にあったということになれば賢治のイメージにふさわしくないのでこの滞京はなかったことにしようとX氏は動き始めた。まずは、手始めにそれまでは殆どの「宮澤賢治年譜」には記載のあった昭和2年の9月の上京を「宮澤賢治年譜」から抹消した。
(4) その後、『續 宮澤賢治素描』出版から約8年を経た関登久也は、上掲①のような理由から『續素描』を丹念に改めた内容の著作を再び世に問おうと思って、昭和31年1月1日~6月30日の『岩手日報』紙上に『宮澤賢治物語』を連載した。その連載のうちの昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(49)』「セロ一」の中に上掲③が書かれていた。
(5) ②と③はほぼ同じことを言っている訳だが、『續 宮澤賢治素描』では問題にならなかったこの「昭和2年11月頃」について、この新聞連載の際には問題が生じた。この際に澤里が元にしなければならなかった「宮澤賢治年譜」はX氏からこれが正しい年譜だと言われて提示されたもので、それには昭和2年の賢治の上京はないことになっていたからである。
(6) それゆえ、澤里武治はそのことを訝しく思いながら、さりとて自分の記憶「昭和2年11月頃」には自信があるから「どう考えても」という表現をしてしまった。そして、この新聞連載によってX氏は焦った。この『宮澤賢治物語(49)』を読んだ読者の中には、澤里が変な「宮澤賢治年譜」を元にして証言させられていることを察知した人物が居るのではなかろうかという不安に襲われたからだ。
(7) そこへもってきて、昭和32年にはこの新聞連載が単行本として出版される運びとなったのでX氏は困惑した、この『単行本』化を避ける手立てはなかったからである。
(8) ところがなんと、その上梓直前に関登久也が急逝した。そこで、X氏は大胆にも改竄という行為に及んだ。当の本人が亡くなったので、後事を頼まれた人物に近づき
  ・昭和二年には先生は上京しておりません。

  ・昭和二年には上京して花巻にはおりません。
と書き変えることによってである。もうこのように書き変えれば、『単行本』の方で読んだ読者は一体澤里武治はなんと言いたかったか読み取れなくなってしまうからである。
(9) そして昭和45年頃になると『校本宮澤賢治全集』出版の動きが始まったので、その全集所収の「宮澤賢治年譜」の資料として『宮澤賢治物語』が使われるのはその改竄に関わっているだけにX氏は後ろめたさを抱いた。
(10)そこでX氏はM氏に『賢治随聞』の出版を慫慂し、併せて『校本全集』の「宮澤賢治年譜」の資料としてはこの『賢治随聞』に基づくようにと関係者に勧めた。
という事情と推移があったのである。
以上で思考実験終了

と推論すれば、あくまでも理論上だけだがそれほど無茶な筋立てでもないような気がしてくる。
 そして、このような推移であれば、あのような「改稿」理由をM氏が挙げるのも宜なるかなと思う。
 あっ、でもこれは思考実験と検証をごちゃ混ぜにした話であり不適切な使い方でした。あくまでも、この思考実験は一つの可能性を探っているだけであり、それが歴史的事実であった等ということを主張するつもりは毛頭ない。

 続きの
 ”阿部 晁「家政日誌」”へ移る。
 前の
 ”『賢治随聞』の「あとがき」(#4)”に戻る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3084 『賢治随聞』の「あとが... | トップ | 3086 名須川に対する栗原氏の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治昭和二年の上京」カテゴリの最新記事