みちのくの山野草

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2215 賢治の施肥表(真城村の3枚)

2011-06-28 09:00:00 | 賢治関連
               《1↑「施肥表A」〔一一〕》(『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)より)

 以前〝賢治に肥料設計して貰った千葉恭〟において、
  千葉恭が宮澤賢治から肥料設計の指導を受けていたことを確認できた
と述べたが、その理由を今回は述べたい。

1.『校本全集』「施肥表A」〔一一〕について
 まずは、このブログの先頭の〝施肥表〟をご覧いただきたい。これは『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』に載っているもので、そこには
      場処 真城村 町下
そして
      反別 8反0畝
とある。

 これは以前賢治の肥料設計を多少検証をしてみようと思って、『校本全集』掲載のこれらの肥料設計書を眺めていた際に出逢ったものだ。
 この施肥表の存在を知って私は
  うっ、やった
と思わず飛び上がってしまった。

 実は、千葉恭自身が書き著している賢治関連の文献は少なからず存在するが、千葉恭と賢治との関連を記している恭以外の人物が書き著している文献には私の管見のせいか未だ出会っていない。
 少なくとも千葉恭は賢治と半年間は下根子桜で一緒に暮らしていることになるはずなのに、賢治の周りのだれ一人として千葉恭に関して触れている文献を残していないと思うのである。不思議なことに、客観的に賢治と恭の二人の関係を示す資料さえも何一つ存在しないのではなかろうか…そう思っていた。

 ところがそう思っていた矢先、ラッキーなことに場所が真城となっているこの施肥表が目の前に出現したではないか。
 あれっ〝真城〟といえば他でもない千葉恭の出身地だ。そして閃いた、この〝真城村町下〟とは千葉恭の実家の田圃のあった場所でななかろうかと。
 実は千葉恭の実家はやっとこさ真城折居だということを割り出していたし、千葉恭はたしか当時実家には田圃が8反、畑が5反あると言っていたはずということを思い出したからである。

 したがって千葉恭の実家では当時真城の〝町下〟というところに8反の田圃を持っていたという推論ができそうだ。
 となれば、果たして真城に〝町下〟という地名があり、そ場所に当時千葉恭の実家が田圃を持っていたかどうかを確認したくなった。実はその確認のために行ったのが過日の千葉恭のご長男宅訪問だったのである。

2.真城町下に千葉家の田圃が存在していた
 期待に胸膨らませながらご長男宅お訪ねしたならば、嬉しいことにこの閃きはズバリ的中しており、ご長男から
 『たしかに実家の近くに〝町下〟という場所があり、そこに田圃がありました』
と教えてもらった。そして
 『そもそも水沢の
   〝真城折居〟
はかつては
   〝真城村町〟
と呼ばれていて、〝折居〟は以前は〝町(まち)〟という呼称だった』
とも教えてもらった。

 さらには、ご長男に当時千葉家の田圃があった辺りを案内して貰った。
 因みに現在のその周辺地図は下図のようになっている。
《2 千葉恭の実家周辺地図》

      <『YAHOO!JAPAN 地図』より>
いまでも〝町下〟という地名は存在している。

 聞くところによると、この〝町〟という場所は当時の国道(現在の旧国道)沿いに家並みが連なっていたという。そしてその家並みの東側(現在の国道周辺)はその場所よりは地形的に一段低くなっていることが現場に立っていると直ぐに見てとれるから、〝町〟の下側という意味でその一帯が〝町下〟と呼ばれたであろうことが容易に想像できる。
 現在は、その町下にあった田圃の辺りはバイパス(現国道)になってしまってその田圃は存在しないが、当時千葉家の田圃があった辺りをご長男は指し示してくれた。

 というわけで、「施肥表A」〔一一〕は千葉恭の実家の田圃、町下にあった8反のそれに対する賢治が設計した施肥表であることはほぼ間違いなかろうと確信できた。
 以上が、前回
  千葉恭が宮澤賢治から肥料設計の指導を受けていたことを確認できた
と述べた理由である。

 これで、いままでは千葉恭が賢治のことを語っている文献しか私は知らなかったので一方通行(〝恭→賢治〟という図式)の感があったが、この施肥表〔一一〕は賢治と恭を関係を裏付ける客観的な資料であり、ここに初めて〝賢治→恭〟という流れが出来た。

3.帰農した恭と賢治の間
 さてこの施肥表は昭和3年のもであるということも注目に値する。そして千葉恭が帰農してからの賢治と恭の関係がどうであったかも教えてくれそうだ。
 というのは、この『校本全集第十二巻(下)』を捲ってみるとこの施肥表〔一一〕以外にも
  場処 真城村
となっている施肥表としては以下の2枚が掲載されているからである。
《3 「施肥表A」〔一五〕》

《3 「施肥表A」〔一六〕》

       <いずれも『校本全集第十二巻(下)』(筑摩書房)より>
(因みに、『校本全集』に載っている「施肥表A」17枚中に真城のそれが3枚もあることになる。またこれらの3枚はともに表の左上にアルファベットがそれぞれ〝D〟〝C〟〝E〟と記載されているから、これらは一連のものと考えられる)

 さてこれらの施肥表、
 前者の場処は 真城村堤沢
であり
 後者の場処は 真城村中林下
となっている。

 一方前掲の《2 千葉恭の実家周辺地図》を再び見てみればそこには
  地名としての〝町下〟はもちろんのこと地名〝堤ヶ沢〟も〝中林下〟
もあることが直ぐに判る。
 おそらく、堤ヶ沢は堤沢のことだろうから
  地名の町下、堤沢、中林下
はいずれも今も当時も真城に存在していた、と結論して良かろう。
 したがって、これらの3枚の施肥表はいずれも当時(昭和3年)の真城村に実在した田圃に対して賢治が設計した肥料設計書であったとみなして間違いなかろう。

 では、これらの一連の3枚の施肥表の存在は何を物語ってくれるのだろうか。
 そう考えた場合に思い出されるのが「宮澤先生を追つて(二)」の中で述べている千葉恭の証言である。
 そこには、真城の実家に戻って帰農した後も恭はしばしば下根子桜を訪ねて賢治の指導を受けていた、とある。
 例えば
 農業に従事する一方時々先生をお訪ねしては農業経済・土壌・肥料等の問題を教わって歸るのでした。
とか
 私が百姓をしているのを非常に喜んでお目にかゝつた度に、施肥の方法はどうであつたか?とか、またどういうふうにやつたか?寒さにはどういふ處置をとつたか、庭の花卉は咲いたか?そして花の手入れはどうしているかとか、夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、また農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の年達に授けて実行に移して行くのでした。そして研郷會の集りにはみんなにも聞かせ、その後成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。
      <いずれも『四次元 5号』(宮沢賢治友の会 Mar-50)より>
と。
 すなわち、賢治が恭に
  施肥の方法はどうであつたか?
と訊いているわけだが、これは賢治が恭の実家の田圃に対して設計した肥料設計書に基づいて、実際は恭が行った施肥の方法はどうであったかという意味であろう。
 また、帰農した恭は地元で32名の仲間と一緒に「研郷会」を組織したわけだが、この施肥表3枚のうちの恭の実家のもの以外の2枚は、この会の仲間の誰かの田圃(堤沢や中林下)に対して恭が賢治に依頼して設計して貰ったものだろう、と考えてほぼ間違いなかろう。

 逆に言えば、これら3枚の真城村の田圃に対する賢治の作った昭和3年の施肥表の存在は、恭が下根子桜を去ってからの賢治と恭を関係を如実に示してくれていると言える。
 すなわち、恭が「宮澤先生を追つて(二)」で語っている〝賢治と恭の関係〟は恭の証言どおりであったと認識してほぼ間違いなかろうと。

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