みちのくの山野草

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3179 賢治昭和3年の病気(#4)

2013-04-03 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治から愛される賢治に》
 さて、
 たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。……③
についてだが、この文章は意味深長であり、これを注意深くを読み直してみるとあることが思い浮かんでくる。
病気であるということにした可能性
 まずは、なぜ佐藤隆房は
  両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。
という言い回しをしているのだろうか。どうしてこの部分を素直に
  両側の肺浸潤で病臥する身となりました。
と表現しなかったのだろうかということが、である。
 この著者自身が、つまり実質主治医の佐藤隆房自身が「たいした発熱があるというわけではありませんでしたが」と言っている一方で、なぜわざわざ「という診断」という文言で修飾したのだろうか。このことはかなり奇妙なことである。
 逆にこのような言い回しをされたのでは、
 賢治はたいした熱があった訳ではないが、佐藤隆房医師に頼んで賢治は「肺浸潤」であるという病名を付けてもらって重症であるということにし、友人等が見舞に来ても面会を謝絶していた。
という可能性があり、この穿った見方を一概に否定は出来ず、実はそれが真相ではなかったのかという疑いを持つ人だって現れてくるだろう。
自宅謹慎の可能性
 そして次が、その時期は岩手県下では大々的に「陸軍特別大演習」が行われた時期であり、その前には徹底した「アカ狩り」が盛岡だけでなく花巻でも行われた時期であれば尚更にそうだったのではなかろうか、ということがである。
 つまり、
 賢治は「陸軍特別大演習」を前にしての特高等の厳しい弾圧を受けて仕方なく、あるいは逼迫した状況から判断して自ら下根子桜の別宅から豊沢町の実家に戻り、「両側の肺浸潤」という病名の下に自宅に蟄居、自宅謹慎していた。
という可能性だって否定できないのではなかろうと主張する人も出てくるだろう。
 それゆえに友人がわざわざ見舞に訪ねて来ても、菊池武雄の場合がそうだったうにかたくなに面会を謝絶した。もし友人等に会ってしまえば賢治が病臥するほどの症状か否かすぐ読み取られる虞があると思っていたであろうからである、と。
 一方で、佐藤隆房が当時の賢治のことを
   療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました。
と自書『宮澤賢治』になぜ書けたかというと、佐藤隆房はその当時の賢治を実際診ていたからであり、その頃の賢治を直接見ることが出来た家族以外のおそらくほぼ唯一の人物だったからである。

 以上、一つの可能性が浮かび上がってきた。

『宮澤賢治』第四版の信頼度
 最後に一つだけ、誤解を懼れずに述べておきたいことがある。それはこの第四版で増補された「八二 師とその弟子」から導かれることである。
 その「八二 師とその弟子」は次のようにして始まっている。
 大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、冬の東北は天も地も凍結れ、道はいてつき、弱い日が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風に揺り動かされています。
 花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒マントを着た高等農林の生徒が辿って行きます。生徒の名前は松田君、「岩手日報」紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導に当たる」という記事を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。
 はじめての路ですから、距離も一層遠いように感じられ、曲がりや、岐れの数も大変多いと思いながら、ようやくその家らしい処に着きました。一群の松の木立は初冬の晴れた天にのびあがり、その傍の、木木にかまれた隔絶の家が、柾葺きの素朴な中に何かしら清浄さを感じさせています。
 北側の入口に立って訪ねますと、すぐに声がしてその家の主があらわれました。初めてお目にかかった宮沢賢治先生です。短くかった頭、カーキ色の農民服、足袋ははかないで。
             <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、第四版、昭和26年)197pより>
ここには、大正15年12月25日(大正天皇崩御の日)に松田甚次郎が宮澤賢治を下根子に訪ねる様が生き生きと実況中継しているがのごとくに綴られている。
 しかし、もし松田甚次郎の日記に従うならば、これは全くの虚構である。甚次郎がこの日に訪れたのは日詰であり、大干魃で苦しむ明石村を慰問しているからである。そして、その慰問後はその足で盛岡に戻っているからである。花巻には訪れていないし、ましてや下根子桜に賢治を訪れて等はいない。
 したがって、このことから懸念されることはこの「第四版」の信頼度は高いとは言い切れないことである。すると、自ずからこの『宮澤賢治』に書かれていることだってその信頼度には問題があると言わざるを得なくなってくる。証言として使用する際には慎重にということになる。

 では佐藤隆房の著書はこの辺で終わりにして、次からは別な人の著書において昭和3年の賢治の病気がどのように書かれているかを調べてみることにしよう。

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