学びの区切りと継続

2006年12月28日 | 生きる意味


 暮の仕事を片付けたり、次のステップに向けて関係者たちと意見交換をしたり、いろいろなお問い合わせに対応したり……していて、ブログの更新がお休みになっていました。

 今日は、夕食前と夕食後、またリヒテル「平均律」を聴きながら、『摩訶般若波羅蜜経』の第71品から第82品まで読みました。

 「実際品第八十」の以下の須菩提(スブーティ)と世尊(ブッダ)との以下の対話が心に響きました。


 須菩提(しゅぼだい)仏に白(もう)して言(もう)さく、「世尊、若し衆生畢竟(ひっきょう)じて得(う)べからざれば、菩薩は誰(た)れの為の故に般若波羅蜜を行ずるや。」

 仏須菩提に告げたまはく、「菩薩は実際の為の故に般若波羅蜜を行ず。須菩提、実際と衆生際と異なれば、菩薩は般若波羅蜜を行ぜず。須菩提、実際と衆生際は異ならず、是(ここ)を以ての故に、菩薩摩訶薩は衆生を利益(りやく)せんが為の故に般若波羅蜜を行ず。……」

 スブーティがブッダに申し上げた、「世尊よ、もし衆生というものが究極的には実体的に把握できないものだとしたら、菩薩は誰のためというので智慧の修行をするのでしょうか。」

 ブッダはスブーティに告げられた、「菩薩は、宇宙的真理の本性(コスモスのロゴス)のために智慧の修行をするのである。スブーティよ、宇宙的真理の本性と衆生の本性が異なったものであるのならば、菩薩は智慧の修行をしないであろう。スブーティよ、宇宙的真理の本性と衆生の本性は異ならないのだ。それだからこそ、菩薩・大士は衆生を幸せにするために智慧の修行をするのである。」


 菩薩とは、衆生・生きとし生けるものすべてと宇宙が一体だということを知って、宇宙のため=衆生のために智慧の実践をするのだ、というのです。

 もちろん、菩薩=宇宙=衆生ですから、菩薩は自分のため=宇宙のため=衆生のために、衆生を幸せにするために智慧を学び続けるわけです。

 ある種、永遠に鳴り響き続けるという感じのする――もちろん実際には曲ごとに終わりがあるのですが――リヒテルのバッハ・平均律を聴きながら、菩薩の永遠の慈悲行ということを思いました。

 今年と来年というのもこだわれば分別ですから、緩やかに区別することにして、やはり今年中に『摩訶般若波羅蜜経』を読み終えたいものだと思っていますが、あと8品ですから、たぶん出来るでしょう。

 1年の区切りに学びの区切りもつけたいと思っています。

 そう思いながら、クリシュナムルティが自分の創立した学校の子どもたちへのトークの終わりに語った、「子どもたちよ、いったん始まると、学びには終わりはないのだよ」という言葉を思い出しました。

 今年も来年も許されたいのちの限りは、みんなが幸福になるための英知を学び続けたいものです。







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