空気とは何か1:空気の基本型

2010年10月30日 | 持続可能な社会

 山本七平氏が「空気とは何か」をどう解明しているか、私の理解できた範囲で、氏の文章を引用しながら整理していきたいと思います。

 まず、以下の文章で、物事の背後に何か宗教的・心理的な力のあるものがある、つまり「臨在している」と感じて、無意識的に影響を受けてしまうこと、「対象の臨在感的な把握」から「空気」が発生する、と述べています。


 一体「空気」とは何か。これを調べるための最もよい方法は、単純な「空気発生状態」を調べ、まずその基本的図式を描いてみることであろう。以下は大変に興味深い一例……
 大畠清教授が、……イスラエルで、ある遺跡を発掘していたとき、古代の墓地が出てきた。人骨・髑髏(されこうべ)がざらざらと出てくる。こういう場合、必要なサンプル以外の人骨は、一応少し離れた場所に投棄して墓の形態その他を調べるわけだが、その投棄が相当の作業量となり、日本人とユダヤ人が共同で、毎日のように人骨を運ぶことになった。

 それが約一週間ほどつづくと、ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人二名の方は少しおかしくなり、本当に病人同様の状態になってしまった。ところが、この人骨投棄が終ると二人ともケロリとなおってしまった。この二人に必要だったことは、どうやら「おはらい」だったらしい。実をいうと二人ともクリスチャンであったのだが――またユダヤ人の方は、終始、何の影響も受けたとは見られなかった、という随想である。

 骨は元来は物質である。この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない。従ってこの影響は非物質的なもので、人骨・髑髏という物質が日本人には何らかの心理的影響を与え、その影響は身体的に病状として表われるほど強かったが、一方ユダヤ人には、何らの心理的影響も与えなかった、と見るべきである。

 おそらくこれが「空気の基本型」である。といえば不思議に思われる向きもあるかもしれないが、われわれが俗にいう「空気」とこの「空気の基本型」との差は、後述するように、その醸成の過程の単純さ複雑さの違いにすぎないのである。

 従って、この状態をごく晋通の形で記すと、「二人は墓地発掘の『現場の空気』に耐えられず、ついに半病人になって、休まざるを得なくなった」という形になっても不思議ではない。


 ここまでで一言コメントすると、つまり二人の日本人はクリスチャンでありながら、骨という物質の背後に霊魂のようなものがあると感じてしまった(臨在感)わけです。そこから、気味の悪い「空気」・雰囲気を感じてしまった=「空気」が発生し、それに耐えられなくなったのだ、というのです。

 なるほど、日本人にとっては当然のように思えますが、山本氏によれば、ユダヤ人や西洋人は骨を臨在感的に把握することはなく、したがって気味の悪い空気を感じたりしないのだそうです。

 ユダヤ人や西洋人が感じないことを感じるところに、日本人の「国民性」の特徴があるわけです。


 物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態、この状態の指摘とそれへの抵抗は、『福翁自伝』にもでてくる。

 しかし彼は、否彼のみならず明治の啓蒙家たちは、「石ころは物質にすぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのため啓蒙的科学的教育をすべきだ、そしてそれで十分だ」と考えても、「日本人が、なぜ、物質の背後に何かが臨在すると考えるのか、またなぜ何か臨在すると感じて身体的影響を受けるほど強くその影響を受けるのか。まずそれを解明すベきだ」とは考えなかった。

 まして、彼の目から見れば、開化もせず科学的でもなかったであろう〃野蛮〃な民族――たとえばセム族――の中に、臨在感を徹底的に拒否し罪悪視する民族がなぜ存在するのか、といった点は、はじめから見逃していた。

 無理もない。彼にとっては、西欧化的啓蒙がすべてであり、彼のみでなく明治のすべてに、先進国学習はあっても、「探究」の余裕はなかったのである。従ってこの態度は、啓蒙的といえるが、科学的とは言いがたい。

 従ってその後の人びとは、何らかの臨在を感じても、感じたといえば「頭が古い」ことになるから感じても感じていないことにし、感じないふりをすることを科学的と考えて現在に至っている。

 ……多くの人のいう科学とは、実は、明治的啓蒙主義のことなのである。しかし啓蒙主義とは、一定の水準に〃民度〃を高めるという受験勉強型速成教育主義で、「かく考えるべし」の強制であっても、探究解明による超克ではない。

 従って、否定されたものは逆に根強く潜在してしまう。そのため、現在もなお、潜在する無言の臨在感に最終的決定権を奪われながら、どうもできないのである。

                        (『「空気」の研究』p.32-5)


 着かず離れずで関わってきた筆者の体験からも、日本の学問の世界の圧倒的な主流はいまだに「明治的啓蒙主義」のようです。

 こうした山本氏の指摘によって、そういう明治的啓蒙主義をベースにした受験戦争に勝つべく育てられ、それに集中して勝ち、続いて明治的啓蒙主義の学問を身につけることによって学歴を得、そして今の地位に就いた日本の政官財のエリートたちのほとんどが、いまだに「探究解明による克服」が苦手なのは、歴史的にはやむをえないことだなと納得しました。

 しかし過去の歴史の積み重ねとしてやむをえないから、「潜在する無言の臨在感――「なんと言っても問題は経済(のみ)だ」という感覚――に最終的決定権を奪われ」て――「経済と福祉と環境の相互促進」ではなく「経済(景気回復)の排他的最優先」で――現在の決定が行なわれるのもやむをえない、その結果、未来の歴史がどうにもならなくなるのもやむをえない、では、次世代が困ります。

 ですから、臨在感に支配されず、専門別ではなく統合的な視野で日本の中長期のヴィジョンを描き実行-実現することのできる新しいタイプの「次世代のためのエリート」をなんとか早めになるべく多く養成するというのが、これからの優先課題ではないか、しかしどうやって? と考え始めているところです。

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「空気」で動くことのプラス・マイナス

2010年10月25日 | 持続可能な社会

 山本七平『「空気」の研究』に大きな示唆を受けて、これから「持続可能な国づくり」についての広報戦略をどうするか考えています。

 日本人が論理ではなく「空気」で動くということは、長い伝統によって根付いた国民性ですから、今日明日に変えることはもちろん不可能でしょう。

 では、すでに始まっており、これからますます深刻化すると思われる環境の悪化――奄美大島の「記録的豪雨」は「今回不幸にしてたまたま」ということではなく、この夏の「記録的猛暑」と同じく、まさのその一つの表われだと思われます――とそれによる社会・経済の混乱に適切な対応ができる可能性はゼロなのかというと、かならずしもそうではない、と考えられます。

 適切な対応ができるような「空気」が醸し出され、それを適切な方向へリードできるリーダーがいれば、日本人は適切な対応をできる大きな力をもった国民でもあるようです。

 ですから、「空気」が醸し出されさえすれば、また一丸となって戦えるでしょう。

 山本氏も、日本人が「空気」で動くことがいつもマイナスではない、どころか明治維新と戦後の奇跡の経済復興を遂げるという大変なプラス面があったことを公平に指摘しています。

 「空気」とは何かについて述べている個所を見ていく前に、その部分を見ておいたほうが、あわてて「じゃあ、日本はもうダメだ」と絶望し諦めてしまわないで済むかもしれません(『「空気」の研究』に収録されている「『水=通常性』の研究」より引用、p.152-4、改行は筆者)。


 幸か不幸か、確かにわれわれは、一つの力(エネルギー)に支配されている。これは否定できない。では一体、昔も今もわれわれを支配している「何かの力」とは何なのか? その力に抵抗することは不可能なのか?

 確かに「何か」と言っている間は不可能である――というのは、実体のわからないものには対抗はできないから。従ってもし……多くの人がさまざまの〝問題〝で感じている「何かの力」に本当に対抗し、この呪縛のような力から脱却することを望むなら、その「何か」を解明して、再把握し、これに対処する以外に方法はない。

 そしてその「力」は外部か来るはずはなく、われわれの内部すなわち日々の生き方の規範の集積の中に、いわばその通常性という無意識の規範の中にあるはずである。というのは無意識でないならば、われわれがそれに自滅するまで支配されることはあり得ないからであると同時に、これが一つの力である限り、それは必ずしもマイナスにのみ作用するとは限らず、その力はプラスにもマイナスにも作用しているはずである。

 そしてプラスに作用した場合は、奇跡のように見えるであろう。明治の日本をつくりあげたプラスの「何かの力」はおそらくそれを壊滅させたマイナスの「何かの力」と同じものであり、戦後の日本に〝奇跡の復興〃をもたらした「何かの力」は、おそらくそれを壊.滅さす力をもつ「何かの力」のはずである。

 その力がある方向に向くときに得た成果は、その力が別の方向に向いたときには一挙に自壊となって不思議ではない――その力をコントロールする方法を持たない限りは。

 ではここで、われわれはもう一度、何かを決定し、行動に移すときの原則を振りかえってみよう。それは「『空気』の研究」でのべたとおり、その決定を下すのは「.空気」であり、空気が醸成される原理原則は、対象の臨在感的把握である。そして臨在感的把握の原則は、対象への一方的な感情移入による自己と対象との一体化であり、対象への分析を拒否する心的態度である。従ってこの把握は、対象の分析では脱却できない。


 日本人が「空気」によって動くことで発揮する力を、どうしたら適切にコントロールできるかということがテーマであるわけですが、そのためにはまず「空気とは何か」を「解明して、再把握」することが必要だ、と山本氏は言っています。

 そして、上記引用の最後のところでまとめを述べています。本ブログでは、今後、その内容を見ていきたいと思っています。

 しかし、重い内容であることと、筆者の多忙のためとで、やや時間がかかり、断続的になると思いますが、問題意識を共有していただける読者には、ぜひ辛抱しておつきあいいただきたいと願っています。



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BIGtomorrow誌11月号に監修記事掲載

2010年10月24日 | 広報

 『BIGtomorrow』という主として経済的成功=お金もうけの雑誌から、なぜか聖徳太子「十七条憲法」の記事のインタビュー―監修の依頼を受けました。

 これまでとは一味違う記事を掲載してみたいという編集者の意図を聞いて、協力してもいいかな、と思いました。

 もちろん拙著『聖徳太子「十七条憲法」を読む』やブログ記事のようなダイレクトな思想的主張ではありませんが、「十七条憲法」をビジネスの組織論・企業風土論として読むことはそれなりに面白いし有効性があると思います。

 なによりも、本気で「十七条憲法」の精神で経営している会社があったら、教え子たちを就職させたい! きっと、半年で「辞めたい」などとは言い出さないでしょう。

 よかったら買って読んでみてください。






















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国会議員が説教を聞くスウェーデン

2010年10月23日 | 持続可能な社会

 『スウェーデンの今』(http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe)というサイトには、まさにタイトル通りの、非常に参考になる情報が提供されていて、比較的頻繁に見ています。

 今日はやや久しぶりに見て、「そうか、なるほど」とまたうなずかせられました。

 1つは、スウェーデンの景気は順調に回復しているということ。(http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/e/5aedc130f0bbc654aa484f9a27de340d)←うらやましい!

 2つは、スウェーデンの国会議員の平均年齢は47歳で(http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/e/c1ebdee7c84a2d60e89c83f96833da9e)、18歳の国会議員もいるということ。(http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/e/cd10adc2967d519ee11690bc41cdd368)←希望がありますね。

 3つは、スウェーデンでは、今でも「国会の開会に先駆けては、議会と王宮の近くにあるストール教会でミサが行われ、ストックホルム主教区の主教が説教(説法)を説くことが慣例となっている。ただ、政教分離の原則があるため、宗教色の濃いものではなく、議会の開会を前にした緊張の面持ちの議員たちに国民の期待に応えてしっかりと頑張るようにエールを送るための儀式となっている。主教の説く説教(説法)も聖書の内容に基づくものではあるが、今の社会にとって特に重要なキーワードを選んで、一般的な道徳を説くものである」と書かれているように、プロテスタント・キリスト教が国民の精神的・倫理的な支えになっているということ。

 (この記事は「本心をさらけ出したスウェーデン民主党」という記事の前半なのですがhttp://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/e/4beac08d52fa3bb1f113d9f53c89deb1) 、筆者にはこのポイントが重要に思えました。)

↑筆者には、特に3番目が「やはりそうか」という感じでした。日本とスウェーデンのいろいろな差の中でも、日本では神仏儒習合のコスモロジーは決定的に崩壊に向かいつつあり、スウェーデンではいまだにプロテスタント・キリスト教が社会の中核に生きているという点が、決定的だと思います。

 中長期的展望で本格的に日本を再建するには、やはりコスモロジーの再建――もちろん「国家神道」の復権ではなく、現代科学のコスモロジーと統合された「神仏儒習合」の大改訂版――が不可欠だ、という考えを再確認した思いです。

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人間を連帯させる力

2010年10月20日 | 持続可能な社会

 夏休みが終わり、大学の授業が始まりかなり進んできています。

 どの大学でも学生たちの大半は、静かに真剣に聴いてくれています。

 O大では今日、授業のほかにチャペルアワーで講話をしてきました。みなさんにもシェアしたいと思います。




   聖書: ガラテヤの信徒への手紙 5・13―15
     : ヨハネの手紙一 4・12

 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互い仕えあいなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。(ガラテヤの信徒への手紙5・13―15)

 いまだかつて神を見たものはいません。私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされているのです。(ヨハネの手紙一 4・12)


 今日は、現代の日本人が「自由」という言葉の意味を取り違えた結果、社会的なつながり・連帯を失いつつあり、みんながとても孤独で不幸な社会になりつつあるのではないかということ、そして日本社会がもう一度つながり・連帯を取り戻すためには何が必要かということについて、聖書の言葉を手がかりに考えてみたいと思います。

 今年の一月三十一日、NHK総合テレビで「無縁社会――〝無縁死〟三万二千人の衝撃」という特集がありました。HPに掲載されている番組紹介は次のようなものでした(改行は筆者)。

 自殺率が先進国の中でワースト2位の日本。NHKが全国の自治体に調査したところ、ここ数年「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」など国の統計上ではカテゴライズされない「新たな死」が急増していることがわかってきた。
 なぜ誰にも知られず、引き取り手もないまま亡くなっていく人が増えているのか。
 「新たな死」の軌跡を丹念にたどっていくと、日本が急速に「無縁社会」ともいえる絆を失ってしまった社会に変わっている実態が浮き彫りになってきた。
 「無縁社会」はかつて日本社会を紡いできた「地縁」「血縁」といった地域や家族・親類との絆を失っていったのに加え、終身雇用が壊れ、会社との絆であった「社縁」までが失われたことによって生み出されていた。

 また、取材を進めるうちに社会との接点をなくした人々向けに、死後の身辺整理や埋葬などを専門に請け負う「特殊清掃業」やNPO法人がここ二~三年で急増。無縁死に対して今や自治体が対応することも難しい中、自治体の依頼や将来の無縁死を恐れる多くの人からの生前予約などで需要が高まっていることもわかって来た。
 日本人がある意味選択し、そして構造改革の結果生み出されてしまった「無縁社会」。番
 組では「新たな死」が増えている事態を直視し、何よりも大切な「いのち」が軽んじられている私たちの国、そして社会のあり方を問い直す。


 この文章は、現代社会の一つの根本的な問題を実に的確に捉えていると思います。その中でも「日本人がある意味選択し、そして構造改革の結果生み出されてしまった『無縁社会』」という部分が重要だと思います。

 つまり、日本人は一九四五年にアメリカに負けて以来、アメリカの個人主義的な自由主義の圧倒的な影響の下に戦後の文化を形成してきて、「自由」はとてもいいことだ、人間の根本的な権利だと思ってきたのですが、その場合の「自由」とは、法律に違反せず他人に迷惑をかけさえしなければ、自分の好きなことをしてもいい、何をしようが自分の勝手だ、そして、自分が自由に選択したことについては自分が責任を取るべきだ、というふうな意味だったのではないでしょうか。

 それは戦前の日本では社会的なつながり・連帯が同時にしばしばしばり・強制・拘束であったことに対する批判としては、半分くらい当たっていた面もあったと思います。

 しかし、みんなが時には強制にも感じられるいろいろなつながりを断ち切って、自由に、というか自分勝手に生きる社会を選んだ結果、ある意味で当然のことながら、社会的なつながり・連帯が失われてしまい「無縁社会」になりつつあるではないでしょうか。

 若い世代のみなさんには、たとえ孤独でもやっぱり自由気ままに生きられるほうがいいと感じられるかもしれませんが、その自由気ままに生きられる経済的な基盤はいつまでも保障されたものでしょうか。
 親も年を取り、みなさんも年を取ります。いつまでも若くいられる人は一人もいません。年を取るプロセスで、病気になったり、失業したり、そうでなくても定年になり、高齢者になります。
 そうした時に、しっかりした社会的な保障がなされるような社会的な連帯がなければ、安心して生きることはとても困難になります。
 それどころか、人生の結末は「孤独死」→「腐乱死体で発見」ということになりかねません。

 そういう誤解された「自由」に対し、聖書の「自由」という言葉には、もっと本質的な人間洞察が含まれています。
 人間は確かに自由な選択ができる生物としてこの世に生まれてきた・「召し出された」のですが、その自由は「肉」つまり人間のもともとの傾向としてのエゴイズムに陥りがちなものであり、エゴイズムは「罪」つまり他者を傷つけることにつながりがちなのです。

 ところが、もう一方人間はもともと他者とのつながり・連帯なしには社会的にも心理的にも健全に生きていけない存在です。
 エゴイズムによって互いに争いあい、傷つけあっていると、当然、つながり・連帯は断ち切られてしまい、結局は共倒れになってしまいます。
 負けたものだけが滅び勝ったものは生き残るというのは、短期間だけ見ると一見そう見えますが、社会全体を長期で見れば、メンバー同士の連帯がなくなった社会はやがて滅びるというのは歴史的・社会学的な法則だといって間違いないでしょう。

 「律法」というのは古代ユダヤの倫理でも法律でもあるような社会の掟ですが、社会の掟・規範というのは、エゴイズムに陥って争いあい、その結果社会全体が崩壊するのを止めるために絶対に必要な枠組みです。
 目先自分勝手にやりたいという気持ちからすると、それはしばり・拘束のように思えますが、長い目で見れば、実はそれこそが安心・安全なつながりのある・連帯性のある社会を支えているのです。

 そして、社会的な規範の目的は、人間を拘束することではなく、人間が相互尊重をするようエゴイズムを抑制することにあります。
 聖書で、「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」と言われているのは、そういう意味だと思います。
 「隣人を愛しなさい」という言葉は命令形になっていて、まさに社会的な規範です。「愛しても愛さなくてもいいが、どちらかというと愛したほうがいい」などというのではありません。
 「それでは、強制であって自由ではないではないか」という疑問が起こるかもしれません。そこが、日本人の誤解だと思うのです。

 よく考えると「自由」自体、与えられたものであって、「自由であるかないかを決める自由」というのは最初からありません。
 そして、人間の「自由」は①自分が能動的に選択をしながら②生きることができるという自由であり、選択と生きることとどちらが基本的かというと、もちろん生きることです。
 そしてそういう「生きる自由」をみんなが与えられているのですから、他の人の「生きる自由」を侵害する危険のある自分一人の自分勝手な振る舞いは、そもそもそういう人間本来の「自由」ではないのです。

 そうではなく、愛・連帯の心をもってお互いが「生きる自由」を保障しあうように自分の能動的な選択を行なう、というのが本来の「自由」なのです。
 お互いの「生きる自由」を尊重し合わなければならないという規範なしに、一人一人が自分勝手な選択をして生きるというのは、「自由」の意味の大誤解であり、とても残念なことに戦後の日本人はそういう大誤解をしてきたのだと思われます。

 実はアメリカの「自由」という考え方も、もともとは基礎にキリスト教の「愛し合わなければならない」という教えがあって、個人個人が自分勝手にすればいいということではなかったのです。
 キリスト教の影響力が弱まるにつれて、自己選択・自己責任、その結果失敗したものの面倒を社会は見ない、という意味のほうが強くなってはいるようですが。

 さて、では今、私たちはどう考え、どうしたらいいのでしょうか。そのヒントになるのが、後の方の聖書の言葉です。

 ここで、ある意味で驚くべきことに、はっきりと「いまだかつて神を見たものはいません」と書かれています。これだけだと、無神論にもなりかねない言葉です。しかし、その次が大切で、「私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされているのです」とあります。

 人間は社会的動物であり、愛し合い、連帯しなければ、長期にわたって安心・安全には生きていけない動物だというのは、絶対的な法則です。
 その絶対的法則を定めた何かを「神」と呼ぶのだとすれば、私たちが愛し合い、連帯する時、そこに絶対的なものが実現し存在するという意味で「神が私たちの中にいる」という言い方も成り立つわけです。

 聖書が語る「神」とは、白いひげの光り輝く超能力のお爺さんなどではなく、人間同士に連帯して生きることを絶対的法則として強制する力のことです。
 「神は愛である」という言葉がありますが、それは「愛は神である」つまり「愛は絶対である」と言いかえることもできるでしょう。

 しかし、その一見強制にも見える法則・その力にしたがって愛し合い連帯する時にこそ、人間はお互いの「生きる自由」を保障しあって持続的に安心・安全に生きることができるのです。

 ですから、今、私たちのやるべきことは、まず「自由」と「愛・連帯」ということの本来の意味をしっかりと認識しなおすこと、そして次にはそれを社会全体に実現できるよう具体的な行動をしていくということだ、と私は考えています。

 みなさんは、どう考えるでしょう。ぜひ考えてみてください。


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『THE21』誌11月号にインタビュー記事掲載

2010年10月13日 | 広報

『THE21』誌に筆者のインタビュー記事が掲載されました。論理療法のエッセンスです。他の特集記事もおもしろいので、参考になると思います。書店、コンビニなどで、お買い求めください。















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『サングラハ』第113号が出ました!

2010年10月13日 | 広報

『サングラハ』の最新第113号が出ました。緑の福祉国家論、ウィルバー入門など、充実した記事満載です。





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新刊『仏教とアドラー心理学』

2010年10月11日 | メンタル・ヘルス


 久しぶりに書き下ろしました。ぜひお読みください。








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日本人は「空気」で動く

2010年10月04日 | 持続可能な社会

 「環境なくして〔人間〕社会なし、社会なくして経済なし」というのはまちがいのない論理だと思いますし、その環境が大変な危機にあることはデータと予測を見るとほぼまちがいないようなのですが、どうやら日本人はそういう論理やデータや予測では動かない国民のようです。

 長年、環境問題の深刻さについて多くの人に論理で伝えてきて、なかなか理解されず、ようやく理解してもらえたかなと思っても、動かない(動いても適切とは思われないやり方で動く)、ごく少数動く人がいても、長続きがしないのはなぜか、どうしたら多くの日本人が、問題を正確に理解し、適切に行動し、解決するまであきらめないで持続するのだろう、と特に最近深く考え込んでいます。

 そこで、いろいろ読んだり考えたりしていて、「なぜか」について、1つなるほどと思った解明がすでにご紹介した小室直樹氏の説でした。

 それに続いて、小室氏と山本七平氏の本格的な対談『日本教の社会学』(学研)を読んで、「そうか、日本人は理論やデータによる予測・警告では動かず、空気で動くんだなあ」と理解し、さらに山本氏の『「空気」の研究』(文春文庫、原著は1977年刊)も読んで、そうとうな残念感をともなって「そうか、これはもう前からわかっている人はわかっていたんだ。これまでの私のアプローチは、まるでムダだったとまでは思いたくないが、日本人にはおよそ有効性の低いやり方だったんだなあ」と納得しました。

 山本氏は、「戦艦大和の出撃などは〃空気〃決定のほんの一例にすぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて〃空気〃決定なのである。だが公害問題への対処、日中国交回復時の現象などを見ていくと、〃空気〃決定は、これからもわれわれを拘束しつづけ、全く同じ運命にわれわれを迫い込むかもしれぬ。」(『空気の研究』p.58)と警告しています。

 そして山本氏は、何とか「空気」の正体を見抜き、対処法を考え出そうと努力しておられますが、1977年初版の刊行以降30年以上たって、本はそうとう売れた(読まれた?)ようですが、それでも全体としての情況はまったく改善されていないように思えます。

 つまり、環境問題に関して今日本には、「政治主導で経済・財政と福祉と環境のバランスのとれた、エコロジカルに持続可能な国家を創ろう」という「空気」はなく、それ以外のたぶん「やっぱり景気だ」とか「このままでも何とかなるんじゃないか」という「空気」があって、それは「われわれを拘束しつづけ」、どんなにちゃんとしたデータと理論で示しても、なかなか理解しない、理解しても動かない、動きはじめても持続しないという情況を生み出しているのであり、やがて「全く同じ」ような「運命」――茹で蛙――「にわれわれを追い込むかもしれぬ」ではなく、確実に追い込むとシミュレーションできます。

 以下、ご存知の方はとっくにご存知のことですが、私同様、ご存知なかった方もおられると思いますので、山本氏の論旨がよくわかる部分を、長くなりますが、引用、紹介しておきたいと思います(読みやすくするために、若干改行等を加えています)。


 ……この「空気」という言葉……この言葉は一つの〃絶対の権威〃の如くに至る所に顔を出して、驚くべき力を振っているのに気づく。「ああいう決定になったことに非難はあるが、当時の会議の空気では……」「議場のあのときの空気からいって……「あのころの社会全般の空気も知らずに批判されても……」「その場の空気も知らずに偉そうなことを言うな」「その場の空気は私が予想したものと全く違っていた」等々々、至る所で人びとは、何かの最終的決定者は「人でなく空気」である、と言っている。

 驚いたことに、「文藝春秋」昭和五十年八月号の「戦艦大和』〔吉田満監修構成)でも、「全般の空気よりして、当時も今日も〔大和の)特攻出撃は当然と思う」(軍令部次長・小沢治三郎中将)という発言がでてくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはす べて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然 とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」できめられる。最終的決定を下し、「そうせざるを得なくしている」力をもっているのは一に「空気」であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。

 ……「空気」と「論理・データ」の対決として「空気の勝ち」の過程が、非常に興味深く出ている一例に、前述の『戦艦大和』がある。これをもう少し引用させていただこう。

 注意すべきことは、そこに登場するのがみな、海も船も空も知りつくした専門家だけであって素人の意見は介入していないこと。そして米軍という相手は、昭和十六年以来戦いつづけており、相手の実力も完全に知っていること。いわばベテランのエリート集団の判断であって、無知・不見識・情報不足による錯誤は考えられないことである。まずサイパン陥落時にこの案が出されるが、「軍令部は到達までの困難と、到達しても機関、水圧、電力などが無傷でなくては主砲の射撃が行ないえないこと等を理由にこれをしりぞけた」となる。従って理屈から言えば、沖縄の場合、サイパンの場合とちがって「無傷で到達できる」という判断、その判断の基礎となりうる客観情勢の変化、それを裏づけるデータがない限り、大和出撃は論理的にはありえない。だがそういう変化はあったとは思えない。もし、サイパン・沖縄の両データをコンピューターで処理してコンピューターに判断させたら、サイパン時の否は当然に沖縄時の否であったろう。従ってこれは、前に引用した「全般の空気よりして……」が示すように、サイパン時になかった「空気」が沖縄時には生じ、その「空気」が決定したと考える以外にない。

 このことを明確に表わしているのが、三上参謀と伊藤長官の会話であろう。伊藤長官はその「空気」を知らないから、当然にこの作戦は納得できない。第一、説明している三上参謀自身が「いかなる状況にあろうとも、裸の艦隊を敵機動部隊が跳梁する外海に突入させるということは、作戦として形を為さない。それは明白な事実である」と思っているから、その人間の説明を、伊藤長官が納得するはずはない。ともにベテラン、論理の詐術などでごまかしうるはずはない。だが、「陸軍の総反撃に呼応し、敵上陸地点に切りこみ、ノシあげて陸兵になるところまでお考えいただきたい」といわれれば、ベテランであるだけ余計に、この一言の意味するところがわかり、それがもう議論の対象にならぬ空気の決定だとわかる。そこで彼は反論も不審の究明もやめ「それならば何をかいわんや。よく了解した」と答えた。この「了解」の意味は、もちろん、相手の説明が論理的に納得できたの意味ではない。それが不可能のことは、サイパンで論証ずみのはずである。従って彼は、「空気の決定であることを、了解した」のであり、そうならば、もう何を言っても無駄、従って「それならば何をかいわんや」とならざるを得ない。

 ではこれに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の戦後の言葉はどうか。「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答うる以上に弁疏(べんそ)しようと思わない」であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない。それは当然であろう、彼が「ああせざるを得なかった」ようにしたのは「空気」であったから――。こうなると「軍には抗命罪があり、命令には抵抗できないから」という議論は少々あやしい。むしろ日本には「抗空気罪」という罪があり、これに反すると最も軽くて「村八分」刑に処せられるからであって、これは軍人・非軍人、戦前・戦後に無関係のように思われる。

 「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。……何しろ、専門家ぞろいの海軍の首脳に、「作戦として形をなさない」ことが「明白な事実」であることを、強行させ、後になると、その最高責任者が、なぜそれを行なったかを一言も説明できないような状態に落し込んでしまうのだから……こうなると、統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって、そういうものをいかに精緻に組みたてておいても、いざというときは、それらが一切消しとんで、すべてが「空気」に決定されることになるかも知れぬ。とすると、われわれはまず、何よりも先に、この「空気」なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起るやら、皆目見当がつかないことになる。

 では一体、戦後、この空気の威力は衰えたのであろうか、盛んになったのであろうか。「戦前・戦後の空気の比較」などは、もちろん不可能だから何とも言えないが、相変らず猛威を振っているように思われる。もっとも、戦後らしく「ムード」と呼ばれることもあり、昔なら「議場の空気」といったところを「当時の議場の全般のムードから言って……」などという言い方もしている。そして時にはこの「空気」が竜巻状になるのがブームであろう。いずれにせよ、それらは、戦前・戦後を通じて使われる「空気」と同系統に属する表現と思われる。そしてこの空気が、すべてを制御し統制し、強力な規範となって、各人の口を封じてしまう現象、これは昔と変りがない。

 ……もし目本が、再び破滅へと突入していくなら、それを突入させていくものは戦艦大和の場合の如く「空気」であり、破滅の後にもし名目的責任者がその理由を問われたら、同じように「あのときは、ああせざるを得なかった」と答えるであろうと思う。こうなるとますます、この「空気」なるものの実体を解明せざるを得なくなるのである。
 (p.15-20)

 ……明治的啓蒙主義は、「霊の支配」(筆者注:つまり「空気の支配」)があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとして、それを「ないこと」にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは、否定し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。ところが、「ないこと」にしても、「ある」ものは「ある」のだから、「ないこと」にすれば逆にあらゆる歯どめがなくなり、そのため傍若無人に猛威を振い出し、「空気の支配」を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで迫いこんでしまった。戦艦大和の出撃などは〃空気〃決定のほんの一例にすぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて〃空気〃決定なのである。だが公害問題への対処、日中国交回復時の現象などを見ていくと、〃空気〃決定は、これからもわれわれを拘束しつづけ、全く同じ運命にわれわれを迫い込むかもしれぬ。(p.58)

 ……われわれの世界は、一言でいえばアニミズムの世界である。この言葉は物神論(?)と訳されていると思うが、前に記したようにアニマの意味は〃空気〃に近い。従ってアニミズムとは〃空気〃主義といえる。この世界には原則的にいえば相対化はない。ただ絶対化の対象が無数にあり、従って、ある対象を臨在感的に把握しても、その対象が次から次へと変りうるから、絶対的対象が時間的経過によって相対化できる――ただし、うまくやれば――世界なのである。それが絶えず対象から対象へと目移りがして、しかも、移った一時期はこれに呪縛されたようになり、次に別の対象に移れば前の対象はケロリと忘れるという形になるから、確かにおっちょこちょいに見える。だがこの世界では、「おっちょこちょい」に見える状態でないと、大変なことになってしまうはずである。簡単にいえば、経済成長と公害問題は相対的に把握されず、ある一時期は「成長」が絶対化され、次の瞬間には「公害」が絶対化され、少したって「資源」が絶対化されるという形は、「熱しやすくさめやすい」とも「すぐ空気に支配される」とも「軽挑浮薄」ともいえるであろうが、後でふりかえってその過程を見れば、結構「相対化」したような形になりうる世界である。それは良くいえば、その場その場の〃空気〃に従っての「巧みな方向転換」ともいえ、悪くいえば「お先ぱしりのおっちょこちょい」とも言えるであろうが、見方によってはフランスの新聞が日本のオイルショックへの対処を評したように「本能的」とも見えるであろう。
 ……アニミズム的ジグザグ相対化に基づく自由、それによる対象からの解放という状態は、確かに、平和・平穏を保障された環境を前提とする転換期・成長期に起る諸問題の解決には、よい方法であったと思う。これが明治と戦後のあの行き方を可能にし、福沢諭吉型啓蒙主義を可能にした。

 ただこの行き方は、日本軍と同じく「短期決戦連続型」となるから、「長期持久・長期的維持」はできない。さらにこの維持を前提とする超長期的計画はたてられないのである。そのため、成熟社会ではきわめて危険な様相を呈する。

 では、どうすべきなのか。われわれはここでまず、決定的相対化の世界、すべてを対立概念で把握する世界の基本的行き方を調べて、〃空気支配〃から脱却すべきではないのか。ではどうすればよいか、それにはまず最初に空気を対立概念で把握する〃空気の相対化〃が要請されるはずである。
(p.69-71)

 日本人は「情況を臨在感的に把握し、それによってその情況に逆に支配されることによって動き、これが起る以前にその情況の到来を論理的体系的に論証してもそれでは動かないが、瞬間的に情況に対応できる点では天才的」という意味のことを、中根千枝氏は大変に面白い言葉で要約している。「熱いものにさわって、ジュッといって反射的にとびのくまでは、それが熱いといくら説明しても受けつけない。しかし、ジュッといったときの対応は実に巧みで、大けがはしない」と。

 ……この傾向は確かにわれわれにあり、またあって当然と言わねばならない。われわれは情況の変化には反射的に対応はし得ても、将来の情況を言葉で構成した予測には対応し得ない。……言葉による科学的論証は、臨在感的把握の前に無力であったし、今も無力である。戦時中もそうであったが、このことは戦後も変っていない。

 「大躍進」のとき桶谷繁雄氏が専門の冶金学の立場から中国の土法製鋼で鉄ができるはずがないことを論証したところ、総攻撃にあった経験を記しておられる。冶金学者の科学的技術的専門的論証はだれも信用せず、土法高炉が立ち並ぶ壮大な写真に人びとは反応するわけである。同じように洗剤騒動のとき、メーカーは少しも売りおしみをしていないし、減産をしているわけでないことをいかに論証しても無駄であったことを、ある会社の社長が、「あれにはホトホト弱り果てた」といった口調で話されたことがあった。この場合も、この社長がどのように論証したところで、洗剤が倉庫に山積みになっており、代議士などの摘発隊が、勇ましくブッている写真と記事の方に人は反応するわけである。

 同じことは今もなお行なわれている。先日原子力発電の今井隆吉博士が「その人に提供し、その結果その人がもっているはずの情報量と、その人の態度変更とは関係ない」ことが、さまざまの調査の結果明らかになり非常に驚いた旨話された。簡単にいえば原子力発電について三、四時間かけて正確な情報を提供し、相手の質問にも応じ、相手は完全に納得したはずなのに、相手はそれで態度は変えない。そして、いまの説明を否定するかの如く見える一枚の写真を見せられると、その方に反応してしまうという。これも土法高炉の写真に反応するのと原則的には同じことであろう。これは桶谷氏の二十年近い昔の体験ときわめて似ている――いかに土法で鉄が出来ぬと専門家が学問的にこれを論証しても、また人びとがその論証に納得してもそれで態度を変えず、一枚の壮大な写真の方に反応してしまう。そしてこれはまさに戦争中の状態なのである。こういう事倒は挙げて行けば際限がない、というより逆の事例を探す方が困難なわけである。
 (p.212-4)


 以上のように、日本人は「情況の変化には反射的に対応はし得ても、将来の情況を言葉で構成した予測には対応し得ない。……言葉による科学的論証は、臨在感的把握の前に無力であったし、今も無力である。戦時中もそうであったが、このことは戦後も変っていない」のであり、「この行き方は、日本軍と同じく「短期決戦連続型」となるから、「長期持久・長期的維持」はできない。さらにこの維持を前提とする超長期的計画はたてられないのである。そのため、成熟社会ではきわめて危険な様相を呈する」といわれているとおり、日本社会は「きわめて危険な様相を呈している」と思われます。

 スウェーデンの「予防志向」「バックキャスト」とまるで逆で、日本人の環境への対応は「治療志向」「フォアキャスト」である、と環境スペシャリストの小澤徳太郎氏が指摘しておられますが、それは日本人の宿瘂(しゅくあ、慢性病)ともいうべき国民性のようです。

 山本氏は精神分析の岸田秀氏と『日本人と「日本病」について』(文春文庫、青土社)という対談もしておられますが、まさに「日本病」――これはもちろん集合的な内面=無意識的文化の問題です――というべきでしょう。

 では、「空気」の正体は何か、どうしたらそれに対処できるか、つまり日本病の治療法はあるか、ということですが、山本氏は『「空気」の研究』で正体はかなり――完全ではないと思われますが――見破っていますが、対処法については、ともかく「自覚化・意識化」するという必要・不十分な条件しか見いだせていないように思えます。

 そのあたりについては、また書きたいと思っています。



山本七平全対話 (4)
山本 七平
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「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
山本 七平
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