大乗の菩薩とは何か 7

2015年04月26日 | 仏教・宗教
 今回は、大乗の菩薩の三十の誓願の第二十六願から第三十願までです。

 第二十六願は、大乗の目指すのは小乗(声聞乗、独覚乗)とは別に大乗(あるいは仏乗)という派を立てることではなく、ただ一乗だということです。
 これは、より広く言えば、宗派間の分裂や対立を超えたいということであり、さらには宗教間の分裂や対立をも超えたいということです。
 これは、人類にとってきわめて困難ではあっても、必須の課題です。

 第二十七願で言われている「増上慢」とは、覚ってもいないのに覚っていると思い込んでいること、究極の真理をつかんでもいないのにつかんでいると言い張ることです。
 自分たちが最高、さらには唯一絶対と主張するのは、大乗の眼からみると「増上慢」であり、そうした増上慢が克服されないかぎり、宗派間、宗教間の対立・抗争はなくならないでしょう。
 菩薩は、そうした増上慢のない世界を創り出すことを悲願として精進し続けるのです。

 第二十八願は、自分の衆生を照らす光と照らし続けるいのちを無限にし、それを伝える人すなわち僧の数も無限にして、すべての衆生を洩れなく救いたいと願です。

 第二十九願は、自分が救いの働きをする領域・国土を限定することなく、宇宙大に拡大したいという願です。

 第三十願は、以上の願を実現するには長大・遠大・膨大な時間がかかり、実に多様な工夫が必要だが、それらすべてが空すなわち一体なる宇宙のことだと気づくと、それはまったく厭う必要も恐れる必要もないことだ、としっかり認識する必要がある、その心がまえ・覚悟を確立しようという願です。

 常識からすれば、こうした三十の誓願は誇大妄想的に大きく高い理想です。

 しかし、そこまで大きく高い理想を持ち、実現のために果てしなく働き続ける決心をし、そのことを書き残した『摩訶般若波羅蜜経』の著者である菩薩――覚りを求める人――がいたことは、歴史的事実でしょう。

 そうした人のメッセージに接して、「そんなこと、とても無理だ」と思うか、「及ばずながら、私もそうありたい」と思うか、それはそれぞれの自由だと思いますが、私個人としては、「まったく及ばずながら、それでも……」と思っています。



 〔第二十六願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に三乗(声聞・独覚・仏)があることを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生には二乗という名称もなく、純一に大乗のみであるようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に三乘有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生をして二乘の名も無く、純一大乘ならしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十七願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に増上慢があることを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生には増上慢という言葉さえないようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に増上慢有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生を増上慢の名も無からしめんと。乃至一切種智に近づく。

〔 第二十八願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、この願をなすに際して、もし私の光明・寿命に制限があり、僧の数に限りがあるならば、まさにこのような願を立てるべきである。私は六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の光明・寿命に制限がなく、僧の数に限りがないようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、是の願を作すに應じ、若し我が光明壽命量有り、僧數限有らば、當に是の願を作すべし。我れ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し。我れ佛と作る時、我が光明壽命量無く、僧數限無からしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十九願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、この願をなすに際して、もし私の国土に限りがあるなら、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、私が仏になった時には、私の一国土をガンガーの砂の数ほどある諸仏の国土のようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に、須菩提、菩薩摩訶薩は六波羅蜜を行ずる時、是の願を作すに應じ、若し我が國土量有らば、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時、我が一國土をして恒河沙等の諸佛の國土の如くならしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如きの行を作して、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第三十願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、まさにこのような思いを持つべきである。生死の道は長く、衆生の性質は多様であるけれども、その時にこそ次のような正しい思いを持つべきである。生死の果ては虚空のようであり、衆生の性質の果てもまた虚空のようであって、その中に実体としての生死往来もなく、また解脱する者もいないのだと。菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩は六波羅蜜を行ずる時、當に是の念を作すべし。生死の道長く、衆生の性多しと雖も、爾の時應に是の如く正憶念すべし。生死の邊りは虚空の如く、衆生の性の邊りも亦虚空の如し、是の中實に生死往來無く、亦解脱者も無しと。菩薩摩訶薩は是の如き行を作し、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。


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大乗の菩薩とは何か 6

2015年04月24日 | 仏教・宗教

 菩薩が目指す国は、現代的に言えば完璧な「超福祉国家」です。

 それも外側の制度的な条件だけでなく、個人の人生の質(クォリティ・オヴ・ライフ)も自然との調和も考慮に入れた、すべての生きとし生けるものが幸せに暮らせる国なのです。

 第二十二願では超長寿社会に、二十三願では国民全体が外面的にも美しい国にしたい、第二十四願では、言うまでもなく国民全体が内面的にも美しい国にしたい、第二十五願では精神的な病も身体的な病もすべて癒される国にしたい、と語られています。
 

 ただ、第二十一願は、四季の巡りが美しい国日本に生まれた私たちにはピンと来ませんが、激しい暑さ、長い雨季というインドの風土では、常春の国が理想とされたのは理解できないことはありません。いずれにせよ、自然の営みと人間の営みが調和した世界にしたいということでしょう。

 現代日本人の常識からすれば、まったく不可能に思える、絵に描いた餅のような理想に見えるかもしれませんし、また常識=分別知からすれば当然そうなるでしょう。

 しかし、菩薩がそうした理想を描くことができるのは宇宙の一切の本来あるべき姿を知る智慧を身に付けつつあるからなのです。



 〔第二十一願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、日月・季節・年があるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中にはが日月・季節・年がないようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、日月・時節・歳數有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中に日月・時節・歳數の名有ること無からしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十二願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生が短命であるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生を寿命が無限であるようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生の短命を見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生をして壽命無量劫ならしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十三願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に〔仏の特徴である〕よい相がないことを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生にはみな三十二の相が実現するようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に相好有ること無きを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生をして皆三十二相成就すること有らしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十四願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生が諸々の善の機能から離れているのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生に諸々の善の機能を完成させ、この善の機能によって諸々の仏を供養させようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生の諸善根を離るるを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生をして諸善根成就し、是の善根を以て能く諸佛を供養せしめんと。乃至一切種智に近づく。


 〔第二十五願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に三つの毒(貪・瞋・癡)・四つの病があるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生には四種の病、すなわち冷たさによる病、熱による病、風による病、三種類の混ざった病および三毒による病がないようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に三毒・四病有あるを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして四種病、冷熱風病、三種雜病及び三毒病無からしめんと。乃至一切種智に近づく。



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大乗の菩薩とは何か 5

2015年04月23日 | 仏教・宗教

 菩薩の誓願は、特定の人や特定の生き物に限定されるものではなく、一切衆生=すべての生きとし生けるものに関わるもので、無差別平等です。

 第十六願は六道=六つの生存形態、第十七願は四生=生命の四つの種類の差別をなくすことが語られています。

 第十七願と第十九願では、一切衆生に5つの神通力=常識を超えた潜在能力と、光明=光り輝く人生の希望を与えることが誓願されています。

 面白いのは第十八願で、喜びを食べることで不快な便通のないようにしようと言われているところです。

 確かに、ストレスのない、爽やかな生活をしていると、便秘からも下痢からも解放されるでしょう。

 こうした誓願は、古代インド的にやや誇張されていたり、神話的であったりしますが、意味を読み取っていくと、私たちも及ばずながら、そうありたい、そうしたい、と思うことばかりではないでしょうか。

 明後日、東京集中講座で、これらの誓願についてより詳しい講義をしていきます。まだ、少しだけ席の残りがありますので、読者の中で、これからでも思い立って参加されたい方は、お申し込みいただけます。



 〔第十六願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に六つの生存形態の違いがあることを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生には六つの生存形態の名称、すなわちこれは地獄、これは畜生、これは餓鬼、是は神(阿修羅)、是は天、これは人ということがなく、一切の衆生がみな同一のカルマで四念処から八正道までのことを修行させようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、速やかに一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に六道の別異有ることを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして六道の名、是れ地獄、是れ畜生、是れ餓鬼、是れ神、是れ天、是れ人なりといふこと無く、一切衆生皆同一業をもて、四念處乃至八聖道分を修せしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、疾に一切種智に近づく。

 〔第十七願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に四つの生まれの類別、すなわち卵から生まれるもの、母の胎から生まれるもの、湿気からうまれるもの、突然生まれるものがあるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生には三つの生まれはなく等しく一つの突然生まれるものにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に四生、卵生・胎生・濕生・化生有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時我が國土の衆生をして三種の生無く等しく一化生ならしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第十八願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に五つの神通力がないことを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生には一切みな五つの神通力を得させようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に五神通無きを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして一切皆五通を得しめんと。乃至疾に一切種智に近づく。

 〔第十九願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に大小便の不快感があるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の衆生にはみな喜びを食として便を排泄する不快感のないようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に大小便の患有るを見て、當に是の願を作すべし。 我れ佛と作る時、我が國土中の衆生をして皆歡喜を以て食と爲し便利の患有ること無からしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に光明がないのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の衆生にはみな光明があるようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に光明有ること無きを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生皆光明有らしめんと。乃至一切種智に近づく。

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大乗の菩薩とは何か 4

2015年04月22日 | 仏教・宗教

 
 『摩訶般若波羅蜜経』の「菩薩の30の誓願」の第四回目です。

 これとほぼ同じ内容を、『大般若経』で読んだ時、非常に驚きと感銘を感じたのは、特に以下のあたりでした。

 第十二願で、大乗の菩薩は徹底的に身分の差別を否定するものだと語られています。

 これは、強固な身分社会であった古代インドで、激越と言ってもおかしくないくらいの徹底した主張です。

 それどころか第十三願では、いわば社会階層の上・中・下があることも断固なくすべきだと主張されています。

 第十四願では、身体の差異もなくすべきだと言われています。

 そして驚異的と言ってもいいくらいだと感じたのは、第十五願です。君主制・王政が否定されているのです。

 ただし、法によって衆生を導くリーダーは例外とされていますが。

 これらを要するに、大乗の菩薩の創り出すべき国土は、徹底的な平等社会でなければならないということです。

 それは、大乗仏教―『摩訶般若波羅蜜経』さらには『大般若経』を精神的遺産としてきた日本国の本来目指すべき国のかたちは、格差を容認するような社会ではありえない。徹底的な平等社会でなければならない、ということでもあります。

 非常に努力した人が報われて上流になり、それにつぐ努力をした人が中流になり、努力をしなかった・できなかった人は下層になっても、それは当然だ、と言うのは、本当の「保守」での言葉はない、と歴史的事実に基づいて、私は主張したいと思っています。

 聖徳太子『十七条憲法』からも、聖武天皇が国分寺すべてに『大般若経』を揃えさせたことからも、あるいは『華厳経』にもはっきりと現われている菩薩思想からも、日本の真の保守派が徹底的に保守すべきなのは、平等社会という理想であり、その理想の実現への努力だと言うほかないのではないでしょうか。



 〔第十二願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、四種類の身分の衆生、すなわちクシャトリア・バラモン・ヴァイシャ・シュードラ〔という差別〕を見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生には四つの身分という名称さえなくしてしまおうと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、この上ない覚りに近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、四姓の衆生、刹帝利・婆羅門・毘舍・首陀見羅を見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し。我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして四姓の名無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。

 〔第十三願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に下・中・上、下・中・上の家柄があるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生にはこうした優劣をなくしてしまおうと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に下・中・上、下・中・上家有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして是の如きの優劣無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して。能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第十四願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生が種々に異なった身体であるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生には種々に異なった身体であることがなく、一切の衆生がみな端正で清潔で美しいという〔状態を〕実現させようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生の種種別異色なるを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして種種別異色なること無からしめ、一切衆生皆端正・淨潔・妙色成就せしんめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して。能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第十五願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に君主があるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生には君主という名称もなく、さらにはその形や像もないようにしよう、〔ただし〕仏法の王は除くと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に主有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして主の名も有ること無く、乃至其の形像も無からしめん、佛法王を除くと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。



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大乗の菩薩とは何か 3

2015年04月21日 | 仏教・宗教
 
 『摩訶般若波羅蜜経』の「菩薩の30の誓願」をご紹介していますが、今回は、第七願から第十一願までです。

 第七願では、覚れる人と覚れない人の違いを無くすこと、第八願では、地獄・餓鬼・畜生という悪い生存形態をまったく無くすこと、第十一願では、衆生の異常な執着を無くすことが菩薩の到達目標であることが語られていますが、これはいかにも菩薩らしい誓願です。

 しかし、常識的な菩薩のイメージと異なっていて、非常に興味深いのは、第九願と第十願です。

 第九願は、いわば社会全体をバリアフリーにしたいという誓願、第十願は、いわばレアメタル問題を解決したいという誓願と読むことができます。

 これも初めて読んだ時、とても面白いと思ったのですが、さらにある種驚きだったのは、第十二願などでした。

 これについては、また明日、ご紹介したいと思っています。


 〔第七願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生が三種類、すなわち一には必ず覚りを開くことになっている人々、二には必ず無明のままの人々、三にはどちらとも決まっていない人々という状態にとどまっているのと見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になりえた時には、私の国土の衆生には無明のままの人々などなくさらにそういう名称さえないようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生の三聚、一には必正聚、二には必邪聚、三には不定聚に住するを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛を得る時、我が國土の衆生をして邪聚無く乃至其の名をも無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、疾に一切種智に近づく。

 〔第八願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、地獄の中にいる衆生、畜生・餓鬼の中にいる衆生を見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の中では〔地獄・畜生・餓鬼はもちろん〕三つの悪い生存状態という名称さえないようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、地獄中の衆生、畜生・餓鬼中の衆生を見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し。我れ佛を得る時、我が國土中乃至三惡道の名も無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第九願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、この大地の切り株、イバラ、山岳、溝、汚れた場所などを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の中にこうした惡い地域がなく、手のひらのように平にしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、般若波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、是の大地の株杌・荊棘・山陵・溝坑・穢惡の處を見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し。我れ佛と作る時、我が國土に是の如きの惡地無く、平かなること掌の如ごとくならしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第十願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、この大地が土だけで金銀や貴重な宝石などがないのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土には黄金の砂で地面を敷き詰めさせようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、是の大地の純土にして金銀・珍寶有ること無きを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し。我れ佛と作る時、我が國土をして黄金沙を以て地に布しかしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第十一願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生が異常に執着するところがあるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生を異常な執着がないようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、この上ない覚りに近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生の戀著する所有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し。我れ佛と作る時我が國土の衆生をして戀著する所無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して。能く六波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。

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大乗の菩薩とは何か 2

2015年04月20日 | 仏教・宗教

 昨日に続き、第三願から第六願までを掲載します。

 第一願から第六願までは、六波羅蜜それぞれの実践が、単に個人の覚りのことだけでなく、一切衆生に関わることであるということを明らかにしています。

 というか、大乗の菩薩の目指す覚り・阿耨多羅三藐三菩提・この上なく比較するもののない覚りは、そもそも個人的なものではありえない、ということを明快に語っているのです。


 〔第三願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が忍辱波羅蜜を実践する時、諸々の衆生が互いに憎みあい、怒鳴りあい、刀や棒や瓦や石でお互いに傷つけあい殺しあうのを見たならば、菩薩摩訶薩はまさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で忍辱波羅蜜を実行し、私が仏になった時には、私の国土の衆生にこのようなことがないようにし、お互いを見るのが父のよう、母のよう、兄のよう、弟のよう、姉妹のようにし、よい友のようにみなに慈しみを実践させようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで忍辱波羅蜜を完成し、この上ない覚りに近づくことができるのである。

復 次に須菩提、菩薩摩訶薩は羼提波羅蜜を行ずる時、諸の衆生互に相瞋恚し罵詈し、刀杖瓦石もて共に相殘害し奪命するを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ羼提波羅蜜を行じ、我れ佛を得る時、我が國土の衆生をして是の如き事無からしめんと。相視ること父の如く母の如く兄の如く弟の如く姊妹の如く、善知識の如く、皆慈悲を行ぜしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩は是の如きの行を作して能く尸羅波羅蜜を具足し阿耨多羅三藐三菩提に近づく。

 〔第四願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が精進波羅蜜を実践する時、衆生が怠惰で精進せず、三乗、すなわち声聞乗・独覚乗・仏乗を捨て去るのを見たならば、菩薩摩訶薩はまさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で精進波羅蜜を実行し、私がこの上ない覚りを得た時には、私の国土の衆生にこのようなことがなく、一切の衆生が熱心に修行し精進し、三乗の道でそれぞれ覚りの向こう岸へ渡ることができるようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで忍辱波羅蜜を完成し、この上ない覚りに近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩は毘梨耶波羅蜜を行ずる時、衆生の懈怠して勤精進ならず、三乘・聲聞・辟支佛・佛乘を棄捨するを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ毘梨耶波羅蜜を行じ、我れ阿耨多羅三藐三菩提を得る時、我が國土の衆生をして是の如きの事無く、一切衆生勤修し精進し、三乘道に於て各度脱することを得しめんと。須菩提、菩薩摩訶薩は是の如きの行を作して能く毘梨耶波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。

 〔第五願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が禅定波羅蜜を実践する時、衆生が五つの障害に覆われ、淫欲、怒り、眠気、後悔、疑いのために、初禅から第四禅に入ることができず、虚空処、識処、無所有処、非有想非無想処に入ることができないのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で禅定波羅蜜を実行し、私がこの上ない覚りを得た時には、私の国土の衆生にこのようなことがないようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで禅定波羅蜜を完成し、この上ない覚りに近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩禪那波羅蜜を行ずる時、衆生の五蓋に覆われ、婬欲、瞋恚、睡眠、掉悔、疑の爲に、初禪乃至第四禪を失ひ、慈悲喜捨、虚空處、識處、無所有處、非有想非無想處を失へるを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ禪那波羅蜜を行じ、我れ阿耨多羅三藐三菩提を得る時、我が國土の衆生をして是の如きの事無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く禪那波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。

 〔第六願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践する時、衆生が愚かで社会常識的および超越的な正しい考えを見失い、あるいはカルマもなくカルマの因縁もないと説き、あるいは実体的霊魂の永続性を説き、あるいは死んだらすべては終わりだと説き、あるいは〔単なる〕空無を説くのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で般若波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私の国土の衆生にこのようなことがないようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで般若波羅蜜を完成し、速やか一切を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩般若波羅蜜を行ずる時、衆生の愚癡にして世間・出世間の正見を失ひ、或は業無く業因縁無きを説き、或は神常を説き、或は斷滅を説き、或は無所有を説くを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ般若波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我が國土の衆生をして是の如きの事なからしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く般若波羅蜜を具足し、疾に一切種智に近づく。

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大乗の菩薩とは何か 1

2015年04月19日 | 仏教・宗教

 来週の土曜日25日は、東京・神田で「大乗の菩薩とは何か――『摩訶般若波羅蜜経』の要点を学ぶ」の第二回目の講義を行ないます。

 大乗仏教の菩薩の到達目標には、ただ覚りという個人の内面だけではなく、一切衆生の救済とそのための仏国土の建設という社会の外面の課題も含まれていることを、『摩訶般若波羅蜜経』という原典で確かめる、というのが講座の目的です。

 それはまた、『摩訶般若波羅蜜経』とほぼおなじ内容を含むより大規模の叢書『大般若経』という日本精神史の遺産の内容を、理解して受け継ぐための作業でもあります。

 そのことを明らかにするために、かつて雑誌に連載した、「日本人の心と仏教」の一部を以下に採録しておきますので、日本人としての健全で正当な精神的アイデンティティを再確立したいという思いをお持ちの方には、ぜひお読みいただきたいと思います。

    *       *       *

 天智天皇をリーダーとした大化の改新、弟天武の妻持統天皇をリーダーとした「大宝令」によって「律令国家」が確立します。……律令国家確立の背後には、そうした国家リーダーたちの高い理想・志があり、そのモットーが「和」でした。そして、「和」という日本の理想は、大乗仏教を核とした「神仏儒習合」の思想から生まれたものでした。

 持統に続いて即位したその孫文武天皇も、若くして亡くなった文武の後を受けたその母元明天皇も、その娘でおそらく次の聖武天皇までの中継ぎとして即位した元正天皇も、その理想をしっかりと受け継いでいるようです。

 とはいえ、文武から元正まで、具体的な政策としては律令制の確立に重点が置かれ、仏教については目立つ事跡はありませんが、七一〇年、元明女帝の時、唐にならって文明国にふさわしい都を築くため平城京へと遷都がなされていることは、注目すべきことでしょう。

 本格的な都の成立は、中央集権体制としての律令国家の確立と対応しています。そして、中央集権が確立しなければ、日本全国への仏教のトップダウンもありえませんでした。

 日本人全体が仏教を共有するための大きな働きかけをしたのは、聖武天皇ですが、その仏教振興は、それを実行・実現する場所としての奈良・平城京なしには考えられません。

 聖武天皇が、全国に国分寺・国分尼寺を造営させ、奈良に総国分寺としての東大寺とその本尊である大仏を建立したことはよく知られています。

 七四一(天平十三)年、国分寺・国分尼寺建立の詔の中で、聖武は「このごろ、田畑の稔りが豊かでなく、疫病がしきりに起こる。それを見ると身の不徳を慚じる気持と恐れがかわるがわる起こって、独り心をいため自分を責めている。そこで広く人民のために、あまねく大きな福があるようにしたいと思う。そのため…全国の神宮を修造させ、去る年には全国に一丈六尺の釈迦の仏像一体宛を造らせると共に、大般若経一揃い宛を写させた。そうしたためかこの春から秋の収穫まで、風雨が順調で五穀もよく稔った。これは真心が通じ願いが達したもので、不思議な賜り物があったのであろう。…」(宇治谷孟訳『続日本紀』)と述べています。

 しばしば「奈良仏教は鎮護国家の国家宗教であって、民衆の宗教、民衆の救いではなかった」というふうな評がなされてきましたが、こうした詔勅をすなおに読むと、そこには大きな誤解があったのではないかと思わされます。

 「鎮護国家」とは、単に迷信的な呪術によって自分たちの権力の維持を図るといったことではなく、人民すべてが幸せに暮らせる国になるよう祈り願うということだったのではないでしょうか。そういう意味で、この時代の仏教は、確かにまだ「民衆が信じる宗教」にはなっていなかったにしても、「民衆の幸せを祈る宗教」という面をまちがいなく持っていたことを正当に見直すべきだと思うのです。

 日本の総国分寺・東大寺の本尊は、これまたあまりによく知られた大仏すなわち毘慮舎那(または慮舎那)仏で、『華厳経』詳しくは『大方広仏華厳経』の教えの主体である仏です。

 「毘慮舎那」はサンスクリット語の「ヴァイローチャナ」の音を写したもので、「光明遍照=世界すべてを照らす光」という意味で、この仏さまは、蓮華蔵世界というところの千枚の花びらからなる蓮の花の上に坐っており(実際の大仏は十八枚)、その千枚の花びらそれぞれに一人ずつ釈迦如来がいて、人々を教え救う働きをしています。

 この像は、右の手のひらを開いて上げ(施無畏の印)、左手を伸ばす(与願の印)という手のかたちをしています。そのかたちには、人々に恐れや苦しみのない安らかなこころを与え、すべての願いを叶え、さらには覚りたいという願いを起こさせるという仏さまの心が象徴的に示されています。

 こういう意味をもつ毘慮舎那仏を総国分寺の本尊とし、その分身としての釈迦如来像を祀る国分寺・国分尼寺を日本全国に建てさせたことは、この仏の功徳の光が国中に照りわたって、日本が、人々の願いがかない、不安や苦しみなく生きていける、光溢れ調和に満ちた美しい国になることを、聖武天皇が本気で願っていたことを表わしています。

 いわゆる天平の時代は、「青丹よし寧楽の都は咲く花の匂うが如く今盛りなり」の歌に示されるような文化の花が開いた時代である一方、不思議なほど天災が頻発し、疫病の流行もあり、いくつもの政変もあって、決して民衆すべてが心安らかに暮らせるような時代ではありませんでした。

 この時代の基本史料『続日本紀』そのものを読んで気づくことは、律令制によって、一方では民衆からの収税が制度化されたと同時に、歴代天皇―政府は、天災・飢饉・疫病流行などの際には納税を免除あるいは延期したり、稲籾を貸し付けたり、しばしば物資を送り、医師を派遣するなど、民衆への援助も行なっているということです。

 こうした記事は、戦後の歴史教科書などではほとんど紹介されていないようです(私も学んだ憶えがありません)。しかし考えてみて、律令制という全国的な行政制度の確立なしに、部族的な地域社会の中だけでそうした「社会福祉」ができたでしょうか。飢饉や流行病や地震などで地域社会が壊滅状態になった時、より広範囲な行政制度や財政的基盤がなければ、援助は不可能でしょう。

 もちろん古代という時代の経済力の限界、身分制という限界はあったにちがいありませんが、「慈悲」や「仁」、「愛民」、仁政・徳治といった古代リーダーたちの理想は、けっしてひたすら主観的・観念的ではなく、かなりの実行を伴ったものだったようです。しかも、時代の制約を考えれば、それは精一杯の努力だったといってもいいのではないでしょうか。

 七四三(天平十五)年、大仏造営の詔には「朕は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位をうけつぎ、その志は広く人民を救うことにあり、務めて人々をいつくしんできた。国土の果てまで、すでに思いやりとなさけ深い恩恵を受けているけれども、天下のもの一切がすべて仏の法恩に浴しているとはいえない。そこで本当に三宝の威光と霊力に頼って、天地共に安泰になり、よろず代までの幸せを願う事業を行なって、生きとし生けるもの悉く栄えんことを望むものである」(前掲書)と語られています。ここには聖徳太子の「菩薩としての天子」という理想が脈々と引き継がれている、と私には読めます。

 こうした志への共感があったからこそ、それまでひたすら民衆の救済と布教に専心し、時には政府の仏教政策と対立した行基も、大仏建立に関し全面協力する気になったのでしょう。それもまたよく言われたような、権力への妥協・迎合ではなかったのだと思われます。

 戦後の進歩的知識人の批判精神は、日本のかつてのリーダーたちのマイナス面だけを見て、こうしたプラス面をほとんど見落としてきたのではないかと感じます。それには理由や必然性があったにしても、多くの弊害も残したといわざるをえません。

 そういう私も、日本仏教の再発見をきっかけにして、ようやくかつての日本のリーダーたちのプラス面、リーダーにおける「日本の心・日本の理想」を再発見しつつあるところです。
 
 飛鳥から白鳳・天平にかけての仏像や寺院などの仏教美術に、それ以後の時代とはある種「格が違う」といっていいほどの非常な高さを感じるのは、背後にそうした政治と仏教のリーダーたちが共有していた理想の高さがあるからなのではないか、とこのごろ感じています。

     *       *       *

 聖武天皇が、日本全国国ごとに国分寺・国分尼寺を建てさせ、特に『大般若経』一揃いを整備させたということは、そこに、日本のトップリーダーの「民さらには生きとし生けるものすべてが幸せな国にしたい」という願い・理想が表現されているということでしょう。

 確かに『大般若経』は、聖武天皇の時代からずっと、典型的には「大般若会(だいはんにゃえ)」というかたちで、呪術的な効果があるものとして儀式的に読誦されてきました。

 しかし、『大般若経』そのものには、呪術的な意味しかなかったのでしょうか。

 そもそも『大般若経』にはどういうことが書かれていたのでしょう。

 私たちは、これまでほとんどその思想的内容を知らないままできました。

 ところが私は、きっかけがあって、『大般若経』六百巻全体を読むことができ、その内容の深さに感心してしまいました。

 しかも、繰り返せば、「大乗仏教の菩薩の到達目標には、ただ覚りという個人の内面だけではなく、一切衆生の救済とそのための仏国土の建設という社会の外面の課題も含まれている」ということに気づいて、驚いてしまいました。

 その気づきと驚きをみなさんとシェアしたいというのが、今回の講座の目標なのですが、ご参加いただけないブログ読者のために、せめて原文だけでもご紹介したいと思います。

 『摩訶般若波羅蜜経』「夢行品第五十八」の後半に、大乗の菩薩の誓願すなわち実現目標が30項目あげられています。

 すでにかなり長くなっていますので、今日は、第一願と第二願だけ掲載します。

           *       *       *

 ブッダがスブーティに告げられた。

 (佛須菩提に告げたまう。)

 〔第一願〕

 菩薩摩訶薩がいて布施波羅蜜を実践する時、もし衆生が飢え凍えて衣服が破れているのを見たならば、菩薩摩訶薩はまさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で布施波羅蜜を実行し、私がこの上ない覚りを得た時、私の国土の衆生にこのようなことがなく、衣服・飲食・生活に必要な物が、まさに四天王の天界、三十三天・夜摩天・兜率陀天・化樂天・他化自在天の(天界の)ようにしよう、と。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで布施波羅蜜を完成させ、この上ない覚りに近づくことができるのである。

 (菩薩摩訶薩有りて檀那波羅蜜を行ずる時、若し衆生の飢寒凍餓し、衣服弊壞せるを見て、菩薩摩訶薩は當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ檀那波羅蜜を行じ、我れ阿耨多羅三藐三菩提を得る時、我が國土の衆生をして是の如きの事無く、衣服・飮食・資生の具、當に四天王天・三十三天・夜摩天・兜率陀天・化樂天・他化自在天の如くならしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩は是の如き行を作して能く檀那波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。)

 〔第二願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が持戒波羅蜜を実践する時、衆生が殺害をなし、邪な考えを持ち、寿命が短く、病が多く、顔色がよくなく、威厳がなく、貧乏で財産がなく下賤な家に生まれて様子が醜いのを見たならば、菩薩摩訶薩はまさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で持戒波羅蜜を実行し、私が仏になりえた時には、私の国土の衆生にこのようなことがないようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで持戒波羅蜜を完成し、この上ない覚りに近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩の尸羅波羅蜜を行ずる時、衆生の殺生し乃至邪見、短命、多病、顏色好からざる、威徳有ること無き、貧にして財物に乏しき、下賤の家に生じて形殘醜陋なるを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ尸羅波羅蜜を行じ、我れ佛を得る時、我が國土の衆生をして是の如き事無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩は是の如きの行を作して能く尸羅波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。

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「茹で蛙」状況は進んでいる

2015年04月17日 | 持続可能な社会

 最近、お知らせ以外ブログ記事の更新をほとんどしていないのは、長年、ものを書き発言をしてきて、もう書くだけのことは書いた、言うだけのことは言った、あとはおなじことの繰り返しになってしまうから、という思いが強かったのが大きな理由の一つです。

 しかし、日本や世界のニュースを見聞きしていると、繰り返しであっても、改めて言う、言い続けるべきこともあるのではないか、という気もしてきています。

 特に気候変動・温暖化という地球的な危機の進行に対して、日本は政府も市民も全体としては適切な対応をしておらず、いい気持ちでぬるま湯の鍋に入っているうちに、気がついた時にはぐにゃぐにゃになっていて、もう出ることもできず茹で上がってしまった「茹で蛙」のような状況がどんどん進んでいる、と感じられてなりません。

 それで、ブログに「このままでは茹で蛙になってしまうのではないか」という危惧を、いつから・何回くらい書いてきたのか、ブログ内検索をしてみたところ、以下のとおりでした。

 よろしければ、読み直してみていただけると幸いです。

 特に去年1月3日の「可能な最大限の努力を持続する」は、そのまま今日の所感にしたい内容です。

 関係者のみなさん、ぜひ読んで、ご意見や感想をコメントしてください。


 2006年7月15日 「もう夏?」
 2007年8月21日 「今年は記録的猛暑・去年も記録的猛暑・来年はもっと?」
 2008年7月28日 「今日のことば 11: この世と妥協してはならない」
 2010年8月25日 「猛暑の中、環境問題の根本問題について考える」
 2010年9月2日 「日本人よ、茹で蛙になる前にジャンプせよ!」
 2010年10月4日 「日本人は「空気」で動く」
 2011年9月6日 「 日本再生は可能なのだろうか?」
 2011年9月12日 「危機的状況と飛躍的進化」
 2014年1月3日 「可能な最大限の努力を持続する」

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『サングラハ』第140号が出ました

2015年04月14日 | 広報

 今回も少し遅れてしまいましたが、『サングラハ』第140号が出ました。

 会員のみなさんのお手元にはもう着いているころだと思います。

 ブログ読者で、まだ未入会のみなさん、よろしければぜひご入会=ご購読ください。

 講読=連絡会員の年会費は5000円です。

 お申込みは、okano@smgrh.gr.jp まで。



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新刊案内:『自然といのちの尊さについて考える』

2015年04月14日 | 持続可能な社会

 仏教学者・東洋大学学長の竹村牧男氏や茨城大学農学部教授の中川光弘氏が中心になって研究を続けているエコ・フィロソフィ研究会に、筆者もお誘いを受けて関わっていますが、その研究成果の第二弾が出ました。

 筆者に近いシニア世代と非常に若い研究者たち、それぞれの示唆深い論考が満載されています。

 部厚くてややお値段が高いのですが(本体3800円、ノンブル社)まさに「環境・エコと哲学・フィロソフィ」の関連に関心のある読者にお読みいただけると幸いです。

 筆者は、「自然といのちの尊さの根拠――宇宙的ヒエラルキーとバランス」という論考を書いています。




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