リモート講座「コスモロジーセラピー入門」②

2021年10月28日 | 広報

 

 10月に続きコスモロジーセラピーの二回目の入門講座を行ないます。

 

 ところで、読者のみなさん、私たちが今日・ここで生きていることの始まりはいつだと思われますか?

 

 誕生日? もちろんそうですね。あるいは、お母さんが妊娠した時? それもそうです。 

 

 しかし、現代科学の宇宙論・コスモロジーの標準仮説を私のこととして理解すると、それはもっと前、138億年前ということになります。

 

 え?! と思われるかもしれません。考えてみましょう。

 

 138億年前に私たちの宇宙が誕生したとされていますが、もし宇宙が誕生しなかったら、私は誕生できたでしょうか? できなかったと思われます。

 

 つまり、138億年前に宇宙が誕生してくれたから、138億年経って私が誕生できたのですね。

 

 とすると、宇宙の誕生は私の誕生の準備だった! 宇宙の始まりは私の始まりの始まりだった! ということになります。

 

 しかも、138億年の間にはずいぶんたくさんの出来事があったと想像されますが、そのたくさんの出来事の一つでも違っていたら、私は誕生しておらず、今日・ここにはいません。

 

 138億年のすべての出来事が私が生まれられるように起こっているのですね。

 

 気づくと驚くべきことです。

 

 コスモロジーセラピーは、そうした138億年の宇宙の出来事が、ただ私と直接関係のない科学理論の話ではなく、すべて私に関係していることを学びながら、自分の存在が宇宙的な奇跡であり、そういう意味で宇宙的に価値ある存在であることに気づいていく、心のレッスンです(そこにただ客観的な宇宙論の知識を学ぶこととの違いがあります)。

 

 内容は、一回目と重なる部分と新しい部分がありますから、初めての方でもリピーターの方でも大丈夫です。ぜひ、ご参加ください。

 

 

 日時:12月5日(日)13:30〜16:30(休憩を入れて3時間)

 講師:サングラハ教育・心理研究所主幹 岡野守也

 費用:一般3千5百円、学生1千円

 場所:zoom使用

 *お申込みはサングラハ教育・心理研究所のHPのフォームでどうぞ。

 

 

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般若経典のエッセンスを語る41――格差のない社会を目指す

2021年10月16日 | 仏教・宗教

 第十三願は、「無上中下家族差別の願」である。まったく平等な社会・仏国土には、もちろんのことそれを構成している家族にも上流・中流・下流の格差があってはならないということである。

……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏の国土の中にはこのような下流・中流・上流の家族の差別がなく、一切の有情がみな金色に輝いて美しく人々が見たいと思うような最高に充実した清らかな様子になるようにしよう」と。

 貧しくて見た目も汚れてみすぼらしい下流階級がいるような国は、仏教精神の国ではない。そういう意味で、聖徳太子以来、建前としては日本はそういう国であってはならなかったのである。格差社会は日本という国のあるべき姿ではない。西洋由来の民主主義とかヒューマニズムももちろん一定の意味や有効性があると思うが、それと並行して、あるいはそれ以前に、私たち日本人は、この仏教の理想を思い出したいものだ、と筆者は思う。

 今、心の乱れから発生していると思われる様々な出来事の多発する状況のなかで、何よりも必要なのは、日本の精神的伝統の中核にあった大乗仏教がこんなに高い理想を掲げていたのだということを思い出すことではないだろうか。「こういう国を目指したくて『十七条憲法』が書かれたのではないのか。そのために日本のトップリーダーは仏教を国教にしたのではないのか。そのことを思い出そう」と言いたい(拙著『「日本再生」の指針――聖徳太子『十七条憲法』と『緑の福祉国家』』太陽出版、参照)。

 先取りして言うと、第十五願では、驚くべきことに菩薩の建設する仏国土には人々の自由を拘束する君主・独裁者は存在してはならないと述べられている。

 身分・階級の差別がなく、格差もなく、独裁者もいない、貧しく不幸な人は一人もいない、お互いが恩恵を与え合う、花園のように美しい国を創ることを大乗の菩薩は目指すのだ、と『大般若経』にはっきりと記されている。

 そして、それを実現するためには、まず求道者・菩薩自身から始めて人々すべてが六波羅蜜を実践して、心を成熟させていく、浄化していくことが必要なのである。

 『大般若経』からそうしたことを読み取ることができた時には、大きな驚きと喜びがあった。これこそ古来日本国の目指すべき理想だったのだ、古代日本にはそういう高い国家理想があったのだ、これは私たち日本人が根拠をもって誇りうる歴史的原点なのだ、と。

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般若経典のエッセンスを語る40――身分差別のない社会を目指す

2021年10月15日 | 仏教・宗教

 第十願は、「金沙布地の願」で、汚い泥や石や茨などばかりの国土を、国中が砂金のような宝に満ちたすばらしい国土にしたいというのである。

 それから第十一願は、人々が貪欲・無明によって悪業をなすことに執着していることから遠く離れさせてやりたいという「遠離恋著悪業の願」である。

 この二つは、内容的には第九願までの補足のようなものなので、簡略に紹介するだけにしておこう。

 

 全三十一願のなかでも特筆すべきだと思うものの一つが、次の第十二願「無四種色類貴賎差別の願」である。人々が四種類に分けられ貴賤の差別がなされている状態をなくしてしまいたいというのである。

 古代のインドに四種類の貴賎の別があったことは、一般常識としても例えば世界史の教科書などに語られているとおりである。まず宗教者階級のバラモン、次に武士・貴族階級のクシャトリア、さらに平民階級のヴァイシャ、そして四番目に奴隷階級スードラである。インドでは今でも、もっと細かく分かれた、きわめて多くのカーストがあるという。

 人間には身分の貴賤・差別があるという考えは、ブッダから二千五百年、大乗仏教から二千年を経ても、なかなか人類の共通意識にならないほど強固なものである。

 「自由・平等・友愛」の実現を目指してきたはずのフランスでもアメリカでも、貧困と差別を撤廃するはずだった社会主義国でも、依然として平等は実現していないどころか、むしろ格差が深刻化しているようである。

 平等が実現せず差別・格差があり続けるのは、なぜか。それは、分別知・無明があるからだと大乗仏教は主張する。

 人が自分と他人とを分けると、当然のように違いを見て、比較することになる。比較すると、上か下か同じかという価値の差別が始まる。そして、人間は他者と別れた自分(たち)を中心視し、自分(たち)のほうが上だと思いたくなる。そうした心理をスタートとして、社会のなかで競争さらには闘争が行なわれ、その結末として、勝者が上、敗者が下という身分の上下が固定化されていく。

 般若経典に、そこまでのプロセス全体が詳しく述べられているわけではないが、語られている内容を敷衍するとそうなる、と筆者は考えている。

 そうした差別のある社会の現状に対し、菩薩はそれを見て「このような四種類の貴賎の差別をなくしたい・必ずなくす」と誓い願うのである。

 この願には、大乗仏教の目指すところがいわばユートピア・平等世界であることがはっきり出ている。だとしたら、大乗仏教を志す人は、完璧に平等社会を目指さなければならない。仏教徒であると言いながら、社会にある差別を容認したり、まして積極的に肯定するということは、大乗仏教としてはほんとうはありえないことである。

 そして差別をなくすためには、まずその源泉である無明・分別知をなくさなければならない。

 毒のある草に喩えると、根を掘り出さないまま、葉だけむしっても、しばらくするとまた葉が伸びはじめる。時によっては、危機を感じ取った草はむしる前よりも強く繁りはじめたりすることもある。

 分別知の問題を無視したまま、あるいはそれに気づかないまま、現象としての差別・格差に反対し、なくそうというヒューマニズム的な運動が、繰り返し挫折したり、腐敗したりするのは、悲しいことだが当然ではないか、と筆者は考える。

 まず自らが六波羅蜜を修行し、そしてその六波羅蜜を教えて、人々を精神的に成熟させる。そして精神的に成熟した仏国土を美しく創りあげ、速やかに完成させる。一刻も早くこの上なく正しい覚りを実際に覚る。そうして、「我が仏国土の中にはこのような四種類の貴賎の差別がなく、一切の有情が同じ階級であってみな尊い人間という生存形態に含まれるようにしよう」と。

 ところで、「平等」は、ヒューマニズムの理想であり、とりわけフランス革命の標語だと思っている人が多いのではないだろうか。

 しかし、実は「平等」という言葉はもともとは仏教用語なのである。西洋思想を輸入した明治の知識人は仏教の知識もかなりあり、equality、フランス語でégalitéを訳す時、仏教用語の「平等」を当てたということらしい。

 そういう意味では、本来の「平等」とは、むしろゴータマ・ブッダ-大乗仏教の「すべての人に階級がなくなり、すべての人が尊い人間になる」という理想を語る言葉である。

 しかし歴史上の仏教は、しばしばこの「平等」という理想を見失って、身分制の社会を肯定するイデオロギーと化したり、仏教内部でさえも僧侶たちに階級があり、いわば身分の差別があった(ある?)ようだ。

 しかし、それは言うまでもなく、『大般若経』で語られている「平等」という大乗仏教の理想に反している。

 繰り返せば、大乗の菩薩は人々がまったく平等な社会・仏国土の建設を目指しているのである。

 

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般若経典のエッセンスを語る39――すべての人にとってバリアフリーな国を

2021年10月13日 | 仏教・宗教

 それから面白いのが、第九の「無雑穢業国土平坦の願」である。菩薩の建設する仏国土では汚れや危険なものがまったくなく、土地は平坦であるようにしたいという。いわば、お年寄りや体の不自由な人のためだけでなく、すべての人にとってバリアフリーな国を建設したいというのである。

 

……悪しきカルマによる障害があり、住んでいるところの土地に〔危険なほどの〕高低の差があり、堆積や溝、汚れた草や切り株、毒のとげやいばら、汚染が充満しているのを見たならば……この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって貪欲を離れ欠乏のない状態にしてやれるだろうか」と。……有情の居場所の土地が平らであり、園や林、池や沼にはさまざまな香りの花々が咲き乱れて美しく、はなはだ愛すべきであるようにしよう」と。……

 

 今の日本は、例えば核のゴミを筆頭に処理しきれないゴミが山積している。放射能汚染も決して全面除染できたとは思われない。日本の周りも含め世界中の海が廃棄物、特にプラスティックで汚染されている。清掃活動をしてもしても、海岸には毎日ゴミが打ち寄せる。地方は衰退し、耕作放棄地は荒れ放題だし、山林も荒れてきている。そして、その荒れた山林にゴミの不法投棄が行なわれ、建設残土等の不法投棄が行なわれている……等々、自然の理に反した経済の営みが、日本でも世界でも、国土を荒廃・汚染させいのちへの危険を増しつづけているのではないだろうか。

 自然の理に反した経済の背後には、無明から生まれる過剰な欲望・貪欲が潜んでいる。貪欲が国土を荒廃・汚染させるのだから、国土を美しく再建するためには、過剰な欲望から離れ自由にならなければならない。

 しかし、それは「清貧」を目指すというのとやや異なっていて、自然の理に沿った豊かさというのがあるのであり、自然の理に沿って美しく豊かな国土を創りたいというのが、菩薩の願である。

 菩薩の願は、いわば「心に花を」といった個人的な精神論にとどまらず、「この世を花園に」という大きなスケールの具体的な目標も含んでいる。含んでいるというより、心の美しさと国土の美しさは表裏一体のことと捉えられていると理解していいだろう。

 この「心も国土も花園のように」という願は、「人間なんてそんなものじゃない」とか「現実はそんなものじゃない」と思い込んでいる現実主義者には、きれいごとにすぎないと見えるだろうし、きれいごとと言えばある種きれいごとかもしれない。しかし、こんなにきれいなきれいごとはないのではないかと思う。

 そして、確かにこれは現状の現実ではないが、未来に実現すべき「未来の現実」のヴィジョンなのである。それが実際に可能になるには、第九願にあったように、すべての人が覚れると定まり、第一から第六までに語られた六波羅蜜を実践し、分別知・無明から解放される必要がある。

 その場合、「この世が花園だといいな。ユートピアだといいな(誰かにやってほしい)。」と思っているだけでは菩薩とは言えない。菩薩は、いわば先駆者として自ら無明からの解放すなわち覚り・菩提を追求しつつ同時に命がけで仏国土を実現しようとする。

 目指すところは、下手をすれば軟弱なきれいごとに見えかねない。あるいは不可能な理想だとも取られかねない。しかしその理想の実現に向かって、命がけで渾身の努力・雄々しい努力をする。それが菩薩なのだ、と。

 こうした大乗の菩薩論は、単なる個人の精神論ではなく、人々の先駆者・リーダーの心・志のあるべきかたちを語った精神論なのだ、と筆者は理解している。

 

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般若経典のエッセンスを語る38――不幸な場所をすべてなくす

2021年10月11日 | 仏教・宗教

 八番目は「離三悪趣苦の願」で、すべての生き物・人々を三つの悪い・不幸な生存形態から離れさせたいという願である。

 

 ……菩薩大士が……もろもろの有情が三つの悪い生存形態、一には地獄、二には畜生、三には餓鬼の世界に堕ちているのを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中には地獄・畜生・餓鬼の世界がなく、またそういう三つの悪い生存形態の名前さえなく、一切の有情が良い生存形態に包み取られるようにしよう」と。……

 

 神話的な仏教の世界観では、今生で善業を積まず悪業を重ねていると、人間界でもより悪い状態に生まれ変わり、悪業が重いとより下の生存形態に堕ちることになっていて、最悪がすべて苦しみの世界である地獄、それから何を食べてもしても満足のできない餓鬼、性欲と食欲のことしか考えられない畜生、絶えず争い傷つけあっている修羅・阿修羅である。そのうちの阿修羅を除いた特に悪いところを「三悪趣」または「三悪道」という。

 菩薩は、人々が悪業の結果・報いとして三つの悪い生存形態に堕ちて苦しんでいるのを見た時、いわば「自業自得だ」「私には関係ない」というふうに他人事と見て放置することはしない・できない。

 人々はほんとうは自分と一体なので、自分のこととして、「我が仏国土の中には地獄・畜生・餓鬼の世界がなく、またそういう三つの悪い生存形態の名前さえなく、一切の有情が良い生存形態に包み取られるようにしよう」と懸命の努力をするのだという。

 「良い生存形態」とは、人間界の中のいい所と、天界と、そこから上の世界のことで、つまり衆生すべてが三つの悪い生存形態から離脱して極楽・天国・ユートピアのようなところで暮らせるよう、渾身の力を込めて身命を顧みず努力する。

 それだけでなく、菩薩が建設する仏国土には、地獄・餓鬼・畜生という生存形態がまったくなく、したがってその名前さえないようにするのだという。

 そうすることで、菩薩大士はこの上なく正しい覚りに限りなく接近するのだ、と言われている。

 第一願以下すべて最後のところに「是の菩薩・摩訶薩は此の〇〇波羅蜜多に由りて速に円満するを得て無上正等菩提に隣近(りんごん)す」とある。決して到達するのではなく、「接近する」のである。

 つまり、覚りきって、苦しみに満ちた六道・六種類の生存形態から自分だけが解脱・脱出してしまわない。そこにとどまって衆生救済の働きをし続ける、それが大乗の菩薩大士なのだという。

 

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『サングラハ』第179号が出ました

2021年10月10日 | 広報

*『サングラハ』読者のみなさん、最新の第179号が出ました。発送済ですので、間もなくお手元に届くと思います。ご愛読ください。

 

   目 次

■近況と所感  …………………………………………………………………… 2

■「典座教訓」講義 (2) ……………………………………………岡野守也… 4

■コスモロジー心理学各論 (6) ……………………………………岡野守也…15

■痴呆、認知症そして老耄(認知障)(11)  ……………………大井玄…… 20

■仏弟子たちのことば (11) ………………………………………羽矢辰夫… 27

■『インテグラル心理学』を手にして (2) ………………………増田満…… 29

■国際比較で見る日本のコスモロジー崩壊 (7) …………………三谷真介…38

■講座・研究所案内……………………………………………………………… 50

■私の名詩選 (78) 西行の秋の歌……………………………………………… 52

 

*購読の問合せ、申込みは研究所HPのフォームでどうぞ。

 

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