目覚めのための推論的理解:唯識のことば8

2017年01月31日 | 仏教・宗教

 かなり昔の『サングラハ』誌に連載し、その後、外付けのメモリーに眠っていた「唯識のことば」を少し書き直し、アトランダムだった内容も少し順序立てて、再活性化する試みを続けています。

 アクセス解析によれば、たくさんの方に読んでいただけているようで、とても喜んでいます。有難うございます。引き続きご愛読をお願いいたします。

 今回は、連載では第一回目だった、新年にちなんだ「夢」の話です。


 ……人が目を覚まして、夢の対象をはっきり認識するならば、それはただ識(心の働き)があるだけである。……

 たとえば人がまさに夢の中にあって、まだ目覚めていないならば、この〔それが夢だという〕自覚は生まれないが、もし人がすでに目覚めているならば、まさにこの自覚があるように、もし人がまだ真如の悟りを得ていないならば、この自覚はないが、もし人がすでに真如の覚りを得ているならば、かならずこの自覚がある。

 もし人がまだありのままの真理の覚りを得ていないならば、唯識ということについて、どのようにすれば推論的な理解(比智)を起こすことができるだろうか。

 聖なる教えと真の理論とによって、推論的に理解することができるだろう。

                        (『摂大乗論現代語訳』七七頁)


 唯識では、自我も外界も「夢・幻」のようなもので、「実在していない」といいます。

 しかし、ふつうの実感としては外界も自分もありありと存在しているわけで、納得しにくいのですが、それには表現の問題もあって、ただ「何も無い」といっているわけではなく、「他の者・物と関係なく、それ自体で、いつまでもある」という意味で「実体的に存在する」と思うのは妄想だというのです。

 〔自我や外界が現われては消えていく「現象」として存在するといえば存在していること、現象していることを否定しているわけではありません。〕

 しかし自我もその他のものも実在する(はずだ)という妄想の夢を見て、執着し、思いどおりにならないと苦しみうなされているのが私たちふつうの人(凡夫)です。

 そして、夢を見ている人はそれが夢だとは思っていないように、「実在すると思っているだけだ」といわれても、なかなかそうは思えません。

 しかし、悪い夢を見てうなされているとき、起こしてもらうと、初めぼやけた頭で「うん? 夢かな?」と思い、はっきり覚めると「なんだ夢か」とほっとすることがあるように、人生で悩み苦しんでいるとき、唯識のことばをよく聞くと、「そうか、自分の心の持ち方で自分を苦しめてるのか」と少し気が楽になりますし、はっきり覚めれば、究極のやすらぎ=涅槃に入れることになっています。

 唯識を学び少し目の覚めかかった、しかしまだそうとう寝ぼけて悩んでいる私たちとしてはどうすればいいのでしょう。

 「もし人がまだありのままの真理の覚りを得ていないならば……どのようにすれば」いいのか。

 答えは明快、「聖なる教えと真の理論とによって、推論的に理解すること(比智)ができる」と。

 唯識がしっかり理解できる・自分のものになると、智慧そのものではありませんが、「比智」が得られます。

 そして、推論的な理解・比智でも、かなり心を楽にする効果があることは確かです。

 初夢以来、とてもいい夢を見ている方は、もちろんどうぞそのまま夢を見続けていただいてかまいません。

 しかし、悪夢に悩まされがちな私たちは、しっかり目を覚ましてほっとするために、今年もまず比智から始まって実智に到る覚醒の歩みを続けることにしましょう。



 *比智から実智に向けた学びの講座 1) 2) を続けています。ご縁を感じていただける方はどうぞご参加ください(高松講座関係者のみなさん、3月の会場が変更になっています。ご注意ください。)。


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真理のことばを繰り返し聞く:唯識のことば7

2017年01月30日 | 仏教・宗教

 どのような人が知られるべきものの相に悟入できるのか。

 大乗〔の教え〕を多く聞く熏習を持続し……それゆえに功徳と智慧という二つの糧が得られる。

 諸菩薩はどのような状態で唯識の瞑想に悟入するのか。

 対象的な認識により、教えとその意味内容に似て現象する相を意言分別(心の中の言葉による分別)することによる、大乗の真理の相(法相)が生まれる状態においてである。……

 どのようにして悟入することができるのか。……

 教えと意味内容を対象として、シャマタ(言葉やイメージを消す瞑想)とヴィパシュヤナー(言葉やイメージを使う瞑想)を絶え間なく、敬意をこめて修行し、怠ることがないからである。
                       (『摂大乗論現代語訳』第三章より)


 かつていろいろな仏教書を読んでいてどうしても解けなかった疑問が、唯識に出会った時、まさに氷解という感じに解けたという体験については、何度も書いたとおりです。

 上の個所も、そういう思いで読んだところで、どのようなプロセスで覚っていくことができるのか、きわめて明快に語っています。

 なるほど、こういう手順をきちんと踏んでいけば、覚れる=心の奥底まで爽やかになれるだろうな、と納得したものです。

 まずアーラヤ識には、生まれつき真理の種子が備わっているわけではなく、真理のことばを聞かなければ、覚ることはできないのですが、幸い私たちはすでに聞いています。

 では、一度聞けばすぐ覚れるのかというと、そうはいきません。「多く聞く熏習を維持」することが必要なのです。

 これは臨床的に実に的確で、特に洪水のように膨大な情報を次々と処理し使い捨てていくことに慣れている現代人には非常に重要な指摘です。

 私たちは、唯識のことばも情報の一種として「なるほど」と頭でわかって処理終了にしがちですが、それは熏習されたことではないのです。

 (残念ながら人間の心の深層は、パソコンのメモリーのようにキーボードをちょんと押すだけ記憶されるようにはできていません。)

 まして、頭・意識でわかったことは、深い無意識・アーラヤ識が変容したことでもありません。

 繰り返し繰り返し聞くことによって、ようやくアーラヤ識に染みていくのですが、さらにそれを維持しなければならないというのです。

 アーラヤ識は、迷いの種子でいっぱいで、一度や二度、覚りの種子を蒔いたくらいでは、負けてしまって芽が生えない、変容しないわけで、まず芽が生えるまで、何度でも蒔き続けなければなりません。
 
 そして次に、繰り返し聞いてしっかり覚えたことを自分の心の中のことばで明快に考え、正確な真理のイメージを描けるところまでいかなければなりません。

 聞きっぱなしではなく、納得し自分のことばになるまで思索するわけです。

 そしてそこでも終わりではなく、さらに言葉やイメージを使う瞑想法と使わない瞑想法(あるいは集中的瞑想と拡散的気づきの瞑想)の双方を「絶え間なく、敬意をこめて修行し、怠」らなければ、やがて必ず覚れるというのです。

 この修行のプロセスは、「聞・思・修(もん・し・しゅう)」とまとめられますが、「この手順を手抜きしないで続ければ覚れる」という指示を真っ直ぐ受け止めて、学びを進めていきたいものです。

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深い問いと深い答え:唯識のことば6

2017年01月28日 | 仏教・宗教

 私たちは、ごくふつうの世間並みのものの考え方でやっていけるうちは、修行とか覚りとか、世間・常識を超えた心など自分には関係のない話だと思っています。

 何かが起こり、それではもうどうにもならない行きづまり状態に陥った時初めて、なんとか、悩みを根っこから解決できる常識を超えた英知を得たいと思いはじめるものです。

 ところが、そういう思いが切実になるとほとんど同時に、自分が今まで世間の常識を超えた英知など、ほんのわずかでさえ、学んだこともなければ習ったこともない、だからもちろん身についても心の底に染みてもいないことに、愕然と気づかざるを得ません。


 この出世間の心は、いまだかつて修行されたことがない。したがって、けっして熏習されたこともない。もし、熏習がないとすると、この出世間の心はどういう原因から発生するのか。

 ……もっとも清浄な真理の世界から流れてくる〔真理を〕正しく聞くことによる熏習を種子とするので、出世間の心が発生することができる。(『摂大乗論現代語訳』六五頁』

 此の出世心は、昔より来、未だ曾て習を生ぜず。是の故に定んで熏習無し。若し熏習無ければ、此の出世心は何の因より生ずるや。……最も清浄なる法界より流るる所の正聞熏習を種子と為すが故に、出世心は生ずることを得。(国訳一切経『『摂大乗論釈』真諦訳、大東出版社、七七頁』



 旧約聖書『詩篇』第一三〇篇に「ああ主よ、我深き淵より汝を呼べり」という句がありますが、このことばもそうした自分の無智・無明に気づいて、深い絶望の淵に沈んだことのある人でなければ語れないことばです。

 こんなに道に迷ってしまって、どうすればいいのだろう。自分の中には、手がかりになるものが何もない。

 アサンガも、若き日に、こうした絶望的な問いを発したことがあったのではないでしょうか。

 「もし熏習ということがないとすると、覚りの心はどういう原因から発生するのか」というのは、一見きわめて理論的に整理された疑問の出し方ですが、その奥にそういう切実な響き――いわば「実存的叫び」――が感じられ、修行中のアサンガにとってはきわめて深刻な問いだったと思われます。

 けれども、そうした切実な問いがあってこそ、答えに出会った時、いい知れない深い感銘をもって受けとめることができるのです。

 そういう意味で、人生のプロセスでは、苦しみは悪いものとばかりは決まっていないようです。

「 もっとも清浄な真理の世界から流れてくる〔真理を〕正しく聞くことによる熏習を種子とするので、出世間の心が発生することができる」という句からは、苦しい探求の末にようやく、真理の言葉を語ってくれる人に会い、その教えが心の奥底に染みてきて(熏習)、それが種子となって、やがて少しずつではあっても覚りの心が芽生えてくるという体験をした人の深い喜びの声が聞こえてくるような気がします。

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黄金を秘めた土としての人間:唯識のことば5

2017年01月17日 | 仏教・宗教

 毎日のニュースを見聞きしていると、テロ、国家・民族間の対立抗争、飢餓、経済の混迷、凶悪な犯罪、いっこうに改善されない環境の荒廃など、思わず心が暗くなってしまうようなことがほとんどで、時たま、心温まる話、希望を感じさせる話があるだけという状況のようです。

 私たちは、思わず(つまりマナ識の働きで)「どうしてこう(つまり私の希望どおりではない状況)なんだろう」と、ため息とともに深い疑惑の想いに陥りがちです。

 しかし、せっかく学んでいるのですから、唯識の智慧の目を借りて、せめて比知(ひち、推測的な知恵)であっても、「どうしてなのか」「どうすればいいのか」、しっかりと再認識しましょう。


 「存在には三種類ある。一は汚染された面、二は清浄な面、三は汚染されつつも清浄な面である」。……/

 黄金を秘めた土を譬えとしよう。……

 一には地面、二には黄金、三には土である。

 地面に関していえば、土は〔本当の〕存在ではないにもかかわらず現われており、黄金は真実の存在であるにもかかわらず現われていない。

 この土を火で焼いて精錬すると、土は現われなくなり、黄金のすがたが現われてくる。

 この地面に土が現われている時は、虚妄な相によって現われているのであり、黄金の現われる時は、真実の相によって現われるのである。……/

 このように、アーラヤ識はまだ無分別智の火によって精錬されない時は、この識は虚妄な分別性によって現われていて、真実性は現われていないのである。

 もし無分別智の火に精錬された時は、この識は完成された真実性で現われ、虚妄な分別性で現われることはなくなるのである。

                       (『摂大乗論現代語訳』九五頁)



 この世のいろいろな出来事には、汚染された面、清浄な面、汚染されながらも清浄な面の三つの面があるといわれています。

 まさに、私たちの生きている世界の姿そのもので、しかも、現象の量としては汚染された面が圧倒的です。

 ですから、もし私たちの目がいま現われている面だけに向いていれば、絶望したくなるのも当然です。

 しかし、それは譬えれば「黄金を秘めた土」のようなものだと、アサンガは言います(黄金は仏性の比喩です)。

 人間の世界の現状という「地面」を見ると、それはひたすら乾ききった土、あるいはドロドロの泥沼のように見えます。

 それは本当の姿・「真実」ではないのですが、確かに実際に現われているという意味で「現実」です。

 アサンガは、決してそうした現実から目をそらさず、しかもその奥に潜む真実に目を向けます。

 「アーラヤ識はまだ無分別智の火によって精錬されない時は……真実性は現われていないのである。もし無分別智の火に精錬された時は……完成された真実性で現われ」ると。

 仏性はまちがいなく存在しているが、放っておいても現われてはこない、開発する必要がある、ということで、つまり、個人レベルでも人類という大きなレベルでも、未来に希望があるかないかは、アーラヤ識が無分別智の火によって精錬されるかどうかにかかっているといっていいでしょう。

 そして、そういう心の進化は、突然全人類レベルで始まってくれるわけではなく、気づいた個人一人一人の心の精錬からだけ始まるのです。

 つまり、希望は自分の実践から開け始めるということです。


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世の中にはなぜ嫌なことが起こるのか?:唯識のことば4

2017年01月16日 | 仏教・宗教

 「世の中って、どうしてこう嫌なことばかりあるんでしょう」という、疑問と嘆きの混じったことばを聞くことがよくあります。

 私も、かつてしばしばそういう思いを持ちましたから、その気持ちはとてもよくわかりますし、いまでも、毎日のようにひどいニュースが流れるのを見聞きしているとき、意識がぼんやりしていると、ふとそう思ってしまうこともあります。

 しかし唯識を学んで以来、意識がちゃんとしているときには、けっしてそういう疑問は浮かんできません。「これは、〔残念ながら〕当たり前のことが起こっているだけだ」と。

 人間がマナ識――自我を実体視し中心視している無意識の領域――を抱えた存在である以上、煩悩――自分も悩み人も悩ませること――が起こるのは当たり前なのです。


 〈意〉には、二種類ある。……二つめは、汚染された〈意〉で、常に四つの〔根本的な〕煩悩を伴っている(相応)。それは、一、身見(我見)、二、我慢、三、我愛、四、無明(我癡)である。この識は、他の煩悩の識の発生源(依止)である。……/一切の時に我執は生起しており、善、悪、無記、すべての心の中に遍在している。
                     (『摂大乗論現代語訳』四四~五頁)


 すでに学んできた方には復習になりますが、大切なことは何度でも繰り返してしっかり心に染みさせる(多聞熏習・たもんくんじゅう)必要があるので、学びなおしてみましょう。

 他と分離しそれだけでいつまでも存在するようなものは何もない(無我・非実体)というのは、仏教がいおうというまいと、普遍的な事実です。

 ところが、私たちは自分は自分だけでいつまでもいられる実体であるかのように深く思い込んでいます(無明、我癡・がち)、それどころか、他と区別はできても分離できない身体が実体としての自分であるかのように思い(身見・しんけん、我見・がけん)、それを頼り・誇りにし(我慢・がまん)、それをすべての中心にしてとことん愛着・執着(我愛・があい)しています。

 そこからいやおうなしに、怒り、恨み、ごまかし、悩み・悩ませること、嫉み、物惜しみ、だますこと、へつらい、傷つけること、おごり、内的無反省、対他的無反省、のぼせ、落ち込み、真心のなさ、怠り、いいかげんさ、物忘れ、気が散っている状態、正しいことへの無知という二十の煩悩が発生してくるのです。

 人間がマナ識(深層のエゴイズム)に動かされているかぎり、自他にとって嫌なことは必ず発生する。そこに何の不思議もありません。

 学生時代、善意で始まったはずの、例えばフランス革命がテロルにおわり、ロシア革命がスターリニズムに終わり、志で始まったはずの明治維新が昭和の軍国主義に到ってしまう……のはなぜか、深く考え込んでしまったことがあります。

 しかし、唯識を学んでからは、そういう疑問はさっぱりと解消されました。「これは当然のこと、ありえないことではなく、ごくふつうにありうること、仕方ないことなんだ」と。

 もちろん、それで問題が解決したわけでも、あきらめたわけでも、嘆きがなくなったわけでもありません。

 しかし、解決の糸口だけはしっかりとつかめたのです。

 私から始まりすべての人に広がる「アーラヤ識‐マナ識の浄化」です。

 唯識は、「それはできる。しかし三大カルパという膨大な時間がかかる」と言っています。

 しかし、たとえ信じられないほど長い時間がかかるとしても、やるしかないと考えています。

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見方を変えて希望を見る:唯識のことば3

2017年01月14日 | 仏教・宗教

 年の始めにふさわしく、何か希望のある話をしたいと思いながら、『摂大乗論』の言葉をあれこれ選んでいて、ふと、以下の二句について、講義や本では何度も取り上げましたが、この欄ではまだ本格的に取り上げていないことに気づきました。


 この〔心の〕領域(界)は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の〔六つの〕種類(六道)〔の差異〕があり、また涅槃を得るということもある。
 もろもろの存在は、蔵(アーラヤ)によって存在する。それは、一切の種子ともいうべき識〔情報の集積体〕であるがゆえに、〈アーラヤ〉と名づける。私は、このことを、勝れた人(菩薩)のために説く。


 唯識・仏教が私たちに告げてくれるメッセージの中でも、人間の希望の根拠をもっとも端的に語っているのが前の句です。

 「この心の領域」とはアーラヤ識のことで、人間の心のもっとも深い層としてアーラヤ識があることは、確かに今のところ大多数の人間つまり凡夫が輪廻の世界・六道に迷っている依りどころ・理由であると同時に、人間が涅槃・悟りを得る潜在可能性を持っている、覚者・ブッダになれることの依りどころ・根拠でもある、というのです。

 人間の現状を見ると、確かに誰もが深い深い煩悩を抱えているようです。

 しかし、ということは、人間すべてに煩悩の発生源であるマナ識とアーラヤ識がある証拠です。

 そして思いがけないことに、誰もがアーラヤ識を持っていることは、誰もが煩悩を克服できる可能性も確実に与えられているという証拠なのです。

 つまり、唯識的に見ると、人類にはアーラヤ識があり、だから今のところ、いろいろろくでもないことをしているが、まただからこそ、それを超える可能性も確実にある、ということです。

 唯識は私たちに、人間の悲惨な状況をたじろぐことなく見つめながら、しかもそれで絶望してしまうのではなく、かえってそこから希望の根拠を見出すという、ある種の「思想的な離れ業」とでもいうべき洞察を示しています。

 私たちは、いろいろなご縁のお陰で、もう唯識に触れているのですから、人類の中でも、言葉のもっともいい意味で「勝れた人・エリート」になる候補生です。

 読者のみなさんは、後の句で「私は、このことを、勝れた人(菩薩)のために説く」といわれている説法の対象・聴衆つまり勝れた人・菩薩に、実際、いつの間にかすでに少しなりつつあるのですから。

 凡夫として生まれてアーラヤ識を与えられ、唯識・仏教に出会って菩薩になりつつある人間・私がいる。それは、いわば既成事実、揺るぐことのない事実・現実です。

 そこに、そしてたぶんそういうところにだけ、この厳しい時代に生きている私たちの、そしてあえて大きくいえば人類の希望があるのだと思います。

 そういっている筆者も、世界や日本の様々なネガティヴな現象ばかり見ていると、失望どころかまったく絶望しそうになります。

 しかし年の始めに当たり、私たちは、現象に左右される常識的・凡夫的な見方をやめ、唯識的・菩薩的に世界やものの本質を見ることにしましょう。

 そして希望を忘れることなく、またもし与えられるならば、この一年のいのちを意味深く生きるよう精進しましょう。


唯識の心理学
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青土社


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見方を変えれば見えるものが変わる:唯識のことば2

2017年01月13日 | 仏教・宗教

 「唯識」には、「ただ心だけ」つまり「ものごとがどう見えるかはその人の心のあり方しだい」という意味があります。

 それについて、わかりやすいのが「一水四見」(いっすいしけん)の譬えです。


 餓鬼と畜生と人間と 天人はそれぞれに 一つの対象について見方が異なっているので それぞれの対象を成り立たせるということがある (『摂大乗論』第八章より)


 同じ一つの水が、餓鬼には咽喉が渇いてたまらないのに飲めない、燃え上がっている臭い膿の流れに、魚という生物には住む世界に、人間には飲めるが下手をすると溺れて死んでしまういわゆる水に、天人には歩くことのできる透き通った水晶の床のように見える。

 けれども、見方によってそれぞれ別の対象が見える・成り立っているので、どれかが唯一絶対に正しい見方というわけではない、という譬えです。


 かつて、初対面の岩手県出身の若い人と話をしていて、私が「岩手ってとても雰囲気のあるところですよね」というと、彼は、謙遜というより、本気かなという調子で、「何もないところですけどね」と答えたことがありました。

 「何もないところ」というのはよくある言い方ですが、いうまでもなく、本当に「何もないところ」などこの地上にあるはずはないので、これは、彼にとって「価値があると思えるもの」または「関心のもてるもの」は「何もない」という意味でしょう。

 あるいは、都市的・近代的な価値のものさしで計ると、「価値があると思われている」便利な、にぎやかな、派手な、洒落た……場所はないという意味も含まれていたかもしれません。

 「でも緑は多いでしょう」と私、「ええ、それはそうですが」と彼。
 「自然は豊かですよね」、「そうですね」、
 「私は賢治ファンのせいで、そういう目で見るからかもしれませんが、岩手の自然には独特の深い味わいというか雰囲気というか、そういうのがあるように感じるんです」、
 「そうですか、そういうのは感じたことないですね」。

 「そこらへんの道端の草木まで、何か賢治の童話や詩に描かれているような匂いというか、さわやかな空気というかがあるように感じるんです」、
 「自分の故郷のことをそんなふうにほめてもらえると、うれしいです」、
 「いや、ほんとうにいいところですよ。思い入れ・投影にすぎないかもしれませんが、私はそう感じるんです」。

 たとえ思い入れでも、岩手の自然に「ポラーノの広場」のような空気を感じるほうが得だと私は思っており、相手が自分の子どもくらいの若い人だったので、つい説教オヤジになって、「せっかくなんだから、感じないと損ですよ」とやってしまいました。

 幸い、彼は素直に「そうですよね」と答えてくれましたが。


 見方を変えれば、見えるもの・対象も変わる。

 見えるものが変われば、気持ちも変わる。

 だとしたら、これまでの自分の見方にこだわっていないで、よりいい気持ちになれるようにものの見方を変えてはどうですか、というのが唯識と論理療法とコスモス・セラピーからの共通の提案です。


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見方と気持ち:唯識のことば1

2017年01月12日 | 仏教・宗教

 去年は、おかげさまで過去の著作のうち2点、『唯識と論理療法――仏教と心理療法・その統合と実践』『仏教とアドラー心理学――自我から覚りへ』(どちらも佼成出版社)が重版になりました。

 それにちなんで、かなり前に『サングラハ』に連載した「唯識のことば」がいわば休眠状態になっていてもったいない気がしていましたので、少しだけ書き直して、このブログで徐々にみなさんにシェアすることにしました。

 以下、第1回目です。


 どんなことを落ち込み(惛沈)というのか。外的対象(境)に関して心を耐えられなくさせることが本性であり、爽やかさ(軽安)と気づき(ヴィパッサナ)を妨げるのが働きである。ある説では、落ち込みは愚かさ(癡)から派生するものと分類される。(『成唯識論〔じょうゆいしきろん〕巻六より)


 唯識の古典『成唯識論』を読みはじめて四十年あまりになり、何十回となく読んでいると思うのですが、それでも、改めて読むとこんなことも書いてあったのかと思うことがしばしばです。

 亡くなった作家の埴谷雄高さんが「古典は成長する」ということをいっておられましたが、確かにそうだと思います。自分が成長すると、古典から読み取れる内容も成長するのです。

 かつて論理療法を学びはじめたとき、例えばA・エリス『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには』(川島書店)を読みながら、二十世紀の心理療法の洞察の基本がすでに千年以上前の唯識の中にはあったんだな、と感心したものです。

 私たちふつうの人間は、なぜ落ち込むのか(うつになるのか)というと、それは、自分の(心の)外で起こっている出来事(外的対象・境〔きょう〕、心の外という意味で自分の体も含まれます)がよくないからだとか、他の人のせいだと思います。

 よくないことやよくない人と出会うと、「こんなひどいこと・人、耐えられない」と思い、心のエネルギーがあれば腹を立てたり(忿・ふん)、そのエネルギーもないと落ち込んだりする(惛沈・こんじん)わけです。

 これはふつうの私たちにとっては、ごく日常的なことで、「自然なこと」あるいは「人間らしいこと」あるいは「仕方のないこと」と考えられています。

 けれども、唯識も論理療法もほんとうはそうではないといっています。

 落ち込みは、愚かさ(癡・ち)―思い込みにまでなった非論理的・非合理的な考え方から生まれるのだというのです。

 論理療法の基本・ABC理論では、ある出来事(Activating event)が必ず同じ結果 (Consequence) を生み出すわけではなく、それをどう捉えるか、その人の信念になっている取り方・ものの見方(Belief system)によって、まるでといっていいくらい違うといいます。

 よくないこと(A)→怒りや落ち込み(C)、ではなく、よくないこと→「こんなことが私に起こるなんて耐えられない」というふうな取り方・思い込み(B)→怒り、落ち込み、絶望など(C)、というつながりになっているというわけです。

 ところが、Bの「耐えられない」というのは非合理的な思い込みであって、ほとんどのよくない出来事は「確かにつらいけれど、絶対に耐えられないほどではない」とものの見方を合理的に変えることで、激しく不愉快な怒りや重苦しくつらい落ち込みが、比較的軽いいら立ちや失望感へと変えられる……というのです。

 「見方を変えれば、気持ちが変わる」というわけです。

 実際に論理療法の技法を使ってやってみると、(努力は必要ですが)確かに軽減されます(拙著『唯識と論理療法』佼成出版社、『いやな気分の整理学――論理療法のすすめ』NHK生活人新書、参照)。

 それに加えて、さらに「すべては(よくないことも)実体ではなく、永遠に変わらないものではない」という智慧のことばを思い出し、超合理的ともいうべき無分別智にアクセスするための禅定をすると、心に気づきと爽やかさが戻ってきます。



唯識と論理療法―仏教と心理療法・その統合と実践
岡野 守也
佼成出版社



仏教とアドラー心理学―自我から覚りへ
岡野 守也
佼成出版社



いやな気分の整理学―論理療法のすすめ (生活人新書)
岡野 守也
日本放送出版協会


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マルクス・アウレーリウスの往生術

2017年01月11日 | コスモロジー

 今年は年初から新しい講座の資料を準備する作業に追われています。

 これまでも取り上げてきた、フランクル、キューブラーロス、唯識、道元、空海に加え、新約聖書の『ヨハネ黙示録』、日本浄土仏教の原点ともいうべき源信の『往生要集』などの言葉を、いわば「往生術」つまり、ただ死ぬのではなく、「よりよく生きてから、さわやかに逝く」ためのヒントという角度から読み直す試みで、自分自身にとってもとても新鮮な読み直しが進行中で、みなさんにご紹介するのが楽しみになってきています。

 チラシに掲載するのがもれましたが、まさに動乱の時代を生き抜いてさわやかに逝ったローマ皇帝にしてストア哲学者であったマルクス・アウレーリウスの言葉も往生術のヒントとして取り上げます。

 かつてブログ記事でもご紹介しましたが1)2)3)、今回は下記の拙著で試みた私訳を使いますので、関心のある方は比較していただけるとおもしろいかもしれません。

 また今回は、要点だけですが、いつかまた下記の著書をテキストにして詳しくお話できればと思っています。


ストイックという思想
クリエーター情報なし
青土社

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2017年の年初に当たって

2017年01月07日 | 持続可能な社会

 もう寒の入りで、お年賀の時期は終わったのですが、今年初めての記事なので、やはり明けましておめでとうございます、と申し上げておきたいと思います。

 今年はどんな年になるのでしょうか。多くの論者が世界はこれから「流動化の時代」になると予想していますが、確かにそうでしょう。

 その大きなきっかけの一つは、昨年のアメリカ大統領選での大方の予想を裏切った大番狂わせです。

それは、予備選での社会民主主義者であることを明言したサンダースの健闘とも対応した、現状への大きな不満から来た、何であれ「変化」を求める声の現われだと解釈できそうです。

 確かに間違いなくそれぞれの国も世界全体も大きな変化が必要な時代だと考えられますが、言うまでもなく変化すればいいわけではありません。

 今必要なのは、国と世界の新しくよりよい秩序に向けた変化、すなわちエコロジカルに持続可能な互恵的福祉社会・世界に向けた変化である、と私たちは考えています。

 世界も日本も、当面、それとは違った方向に向かっているようですが、宇宙は、時には紆余曲折、逆行するように見えて、長い期間で見れば、結局成るべきように成っていく・意志を貫徹するものです。

 当面しばらくどうなるかよりも、結局どう成るべきか―どうするべきかのほうに、私たちの関心の焦点はあります。

 私たちは、これまでしっかり宇宙進化の方向について学んできたのですから、今年も、当面の状況に振り回されて、役に立たない過剰な不安に陥ったり、逆に安易で短期的な期待をすることのないよう用心しながら、しっかりとした方向性を見据えて有効性のある心配(心配りと対処)をしていきましょう。
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