八戒、十戒、二百五十戒:戒の話 3

2006年05月31日 | メンタル・ヘルス

 五戒の次に「八戒(はっかい)」または「八斎戒(はっさいかい)」と呼ばれるものがあります。

 これは、在家の人が特定の時に限って守り、いわゆる精進潔斎(しょうじんけっさい)をする場合の戒です。

 五戒に、「不塗飾香鬘舞歌観聴(ふずしょくこうまんぶかかんちょう)」、香料を塗ったり髪を飾ったりせず、踊りを見たり、歌を聞いたりしないこと、「不眠高広厳麗床上(ふみんこうこうごんれいしょうじょう)」、高くて広くて豪華で美しい床で寝ないこと」、「不食非時食(ふじきひじじき)」、決まった時以外に食事をしないことが加わります。

 簡単にいえば、贅沢、華美なことをしないで身を慎むということでしょう。

 余談ですが、『西遊記』の猪八戒の名前はここから来ています。彼がいぎたなくて食欲、性欲などのコントロールがきわめて苦手だったからこそ、この八戒を守るようにという意味で、三蔵法師がつけたわけです。

 それから、さらに多くなるのが「十戒(じゅっかい)」または「十善戒(じゅうぜんかい)」です。

 不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語までは五戒と重なり、不飲酒が省かれて、「不両舌(ふりょうぜつ)」、二枚舌を使わないこと、「不悪口(ふあっく)」、人の悪口をいわないこと、「不綺語(ふきご)」、飾った言葉を使わないこと、「不貪欲(ふとんよく)」、欲張らないこと、「不瞋恚(ふしんい)」、腹を立てたり恨んだりしないこと、「不邪見(ふじゃけん)」、因果・縁起の理法を否定するような考えをもたないことの5つが加えられています。

 これも在家、出家共通の戒ですが、特に在家の信者の熱心な人には、この「十善戒」が授けられ、守るように教えられました。

 お酒の好きな人は、不飲酒が省かれているので、ほっとするかもしれません。

 かつての日本人の真面目さ、潔癖さ、正直さ、真面目さ、やさしさ、柔和さ、質素さといった美点は、先にお話した五戒や、こうした十善戒の心がお寺でのいろいろな機会に語られたお説法などを通じて庶民に滲み込んでいったことで育まれたという面がかなり大きいと思います(それは寺子屋で儒教が説かれたことと並行しています)。

 かつて私自身、仏教の意味は高尚で難解な教理や厳しい修行によって到る深い境地などだけにあると思いがちでしたが、現代のように荒廃してきて初めて、こうした一見当たり前のようにも思える、日常的な戒めがどんなに大切なところで日本人の精神性を育んできたのか、見直さなければならないと思うようになりました。

 人間は、倫理も含めてすべてのことに関して、教えられなければ学ぶことは困難です。

 私たちは、仏教だけに通用するのではない、普遍性のある、こうした十善戒のようなことをちゃんと子どもたちに教えることのできる教育制度を考えなければならないのではないか、と思います。

 (ただし、これまでお話してきたことと矛盾するように思われる方もあるかもしれませんが、私は現在の教育基本法の改正には疑問を感じています。

 民主主義というのは、議員の多数決という手続きを経ればそれでいいというものではないからです。

 教師〔つまり教育の現場を担う国民〕の大多数との合意が十分に形成されないところで――現状では形成されているとはまったく思えません――法律だけが制定されると、それは罰則を伴って強制的に執行されることになりかねません。

 強制によって本当には納得できていないことを教え-教えられることは、教育者にも子どもにも心の大きな歪みを生み出すことはほぼ確実です。

 心の歪みをもたらすようなものは教育とは呼べないでしょう。

 教育とは呼べないものを強制する法律を「教育基本法」として制定するのは、民主主義国家の国民のために存在している政治家としてやるべきことではありません。

 本当に意味のある改正をしたいのなら、何年かけても何十年かけても、国会議員の過半数だけではなく、現場の教師の大半が心から納得して子どもたちに伝えることのできるように中身の徹底的な合意形成に努力するべきだと思います。

 そのためには、これから国民の大半、教師の大半、そしてその代表としての国会議員の大半が心から納得できる日本のコスモロジーの創造から取りかかる必要があるのではないか、というのが私の意見です。

 拙速は、まさに速いだけできわめて拙いのです。

 「○年もかけて議論してきたのだから、もういいのではないか」という話ではありません。

 長い横道の、しかし大切なコメントでした。)

 さて、出家者すなわち僧が、守るべき戒はこんなものではありません。

 250もあるのです。「二百五十戒」といいます。

 さらに尼僧はもっとたくさんの戒を課せられます。

 しかし、これはお坊さんではない読者のみなさんにはあまり関心のないところでしょうし、正直なところ私も細かく正確には学んでいませんので、この授業では省きたいと思います。

 最後に、唯識の代表的古典の1つ『摂大乗論』(真諦訳)で、戒について述べられていることを紹介しておきたいと思います。

 そこでは、戒には3つあるといわれています。

 第1は「摂正護戒(しょうしょごかい)」といい、これは要するに、守るべき戒を正しくちゃんと守るということです。

 これは「戒」という言葉の一般的な意味そのままで、特別な特徴はありません。

 第2がいかにも大乗仏教らしい戒の捉え方で、「摂善法戒(しょうぜんぽうかい)」といいます。

 すべての善いことは全部やるという戒なのです。

 消極的にやってはならないことをやらないというだけではなく、やるべきことやるというだけでもなく、もっと積極的にやれる善いことは何でもやるというのですから、すごい話です。

 第3はいっそう大乗仏教らしく、衆生の利益になることなら何でもやるという戒、「摂衆生利益戒(しょうしゅじょうりやくかい)」です。

 第2、第3の戒は、もういわゆる「戒律」という言葉の印象から来るような窮屈な堅苦しい話を超えて、やれる善いことなら何でもやろう、衆生のためなら何でもやろう、という柔軟でスケールの大きな生き方の方針とでもいうようなものです。

 そして大胆にも、もし第1の意味での戒を破ることが衆生のためになることだったら破ってもいいと第3の「摂衆生利益戒」ではいわれています。

 まさにすべての衆生を救いたいという大乗の菩薩の願いにふさわしい「戒」のあり方ですね。

 まだまだベッドで寝たきりからようやく起きあがって、初歩の初歩のリハビリを始めたばかりの菩薩である私たちには、難易度の高すぎてうっかりすると怪我をしかねない戒ですが、究極の理想、指針として心にしっかりと留めておきたいものです。



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基本的な5つの戒:持戒の話 2

2006年05月29日 | メンタル・ヘルス

 私は、伝統的な仏教の戒律を授かって守っているわけではありませんし、戒律についてはあまり勉強していないのですが、いちおうおおまかなポイントだと思うことだけお話ししていきます。

 まず、僧も在家の人も共通に守る、非常に基本的な5つの戒、「五戒(ごかい)」というのがあります。

 不殺生(ふせっしょう)、殺さないこと、不偸盗(ふちゅうとう)、盗まないこと、不邪淫(ふじゃいん)、不適切なセックスをしないこと、不妄語(ふもうご)、ウソをつかないこと、不飲酒(ふおんじゅ)、お酒を飲まないこと、の5つです。

 不邪淫と不飲酒で引っかかる人は多いでしょうが(不飲酒については私もです)、他の3つは言うまでもないほど人間として非常に基本的なルールですね。

 覚るかどうかという話以前に、人間同士が信頼しあい安心して生きていく上で、これらは鉄則といってもいいでしょう。

 これらがきちんと守れただけでも、世の中はどんなに平和になるでしょう。

 これらが権威ある仏の教えとして広められたことによって、アジアの人、日本人の真面目な国民性が育くまれてきたことはまちがいありません(もちろん儒教の影響も大です)

 そして、前にお話ししたように、近代化によって仏教―神仏儒習合のコスモロジーが否定されるにつれて日本人の倫理性・精神性も崩壊しつつあります。

 私たちは、仏教の戒の意味をコスモロジー的視点からもう一度見直す必要があるのではないかと思います。

 それから、「不邪淫」はもともと、僧はセックスそのものをしてはいけない、在家は結婚という形式の外でのセックスはいけないという意味です。

 これは、いい悪いは別にして、現代の日本ではほとんど通用しない戒ですね。

 しかし、セックスは人間同士の行為ですから、これを「相手も自分も傷つけるような不適切なセックスは避ける」という意味に取れば、現代でもきわめて有効な規準だと思います。

 性は、命のすばらしい機能であると同時に、人間においては非常に歪み汚れたものになる危険も含んでいます

 かたちは時代によってある程度変わっていくにしても、男女がお互いを幸せにできるようなセックスが人間として適切であり、自分も含め誰かを傷つけるようなセックスは不適切であるという大まかな物差しがあれば、その時代、状況にふさわしいルールが出来上がってくるのではないか、と私は考えています。

 現代の日本では、最後の「不飲酒」という戒は、僧侶を含め守っていない人が圧倒的多数のようです。

 それどころか、仏教の裏用語で「般若湯(はんにゃとう)」というのはお酒のことです。

 「覚りに導くお湯」と呼んで、お酒を飲むこと=不飲酒戒を破ることをごまかしたのですね。

 東南アジアのテラヴァーダ仏教の僧侶の方からすると、日本の僧侶がお酒を飲むのは、許しがたい破戒に思えるようです。

 私もかつてプロテスタントの「禁酒禁煙」という厳格なモラルを守っていましたが、日本のお酒を飲むことによってコミュニケーションを図るという習慣を見ているうちに、「酒は呑むべし、呑まれるべからず」ということでいいのではないかと思うようになり、適度な範囲で人と楽しく飲むようになりました。

 呑まれてしまって羽目をはずし、大失敗、とんでもないことをするなんてことにさえならなければ、「不飲酒」は「酒に飲まれないこと」というゆるやかなルールでもいいのではないでしょうか。

 どちらにしても、原則は、心の健康回復のために妨げになることはしない、助けになることはするということだと思います。


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目標のためのセルフ・コントロール:持戒(じかい)の話 1

2006年05月28日 | メンタル・ヘルス



                    奈良東大寺戒壇院




 「菩薩のためのリハビリ・メニュー その2」は、戒律を守る・保持すること、「持戒(じかい)」です。

 この言葉を聞いただけで、「堅苦しそう」、「めんどくさそう」と思う方もおられるでしょう。

 私も含め戦後の日本人は、自由、というより自分の好きなようにすることがいいことだという思い込みが強く、「戒律を守る」なんていう言葉はほとんど死語になっています。

 そこで、仏教でいわれている戒律の内容の説明に入る前に、「戒」についての考え方そのものについて一言コメントをしておきたいと思います。

 重い病気になった場合、いろいろなことに「だるくて、めんどくさくて、何もしたくない。放っておいて、寝かせといてくれ。もういい。いろいろするくらいなら、死んだほうがましだ」という気分になることがあるようです。

 そういう気分になるのはよくわかります。

 しかし、いろいろ治療をしないでいると、よくなるのならいいんですが、よくなりません。

 ちっとも「もういい」なんてことはないんです。

 どんどん悪くなります。

 すんなり死ぬのなら楽になるかもしれませんが、たいてい死ぬ前にもっと悪くなって苦しみますから、ちっとも「まし」なんかではありませんね。

 よくなったほうがいいに決まっています。

 よくなるためには、やるべきことはやらなければなりません(←条件付mustですね)。

 やるべきでないことは、やってはいけません。

 その場合、よくなるのは誰でしょう?

 医者ですか、患者ですか?

 そう、患者さんご本人ですね。

 自分のために、やるべきことをやり、やるべきではないことはやらない、というのは、これは誰かに強制・束縛されることでしょうか?

 そうではありませんね。自分で自分をコントロールすることですね。

 それは、他律ではなく自律です。

 自分のために自分を律する、自分のために治療に必要な規則を守るわけです。

 それに似て、「持戒」というのは自分の心の健康回復-成長のためにすることですから、自分で納得して自分のために自分に戒律を課すこと、つまり「自戒」なのです。

 「持戒」は「自戒」で、自分のためです。

 「不放逸」「不誠実、怠惰、好き勝手な心」の記事で、私たちはマナ識と非論理的な考え方のせいで、目先、自分が楽をすること、自分の楽しいことをすること、自分の好きなように、自分勝手にすることがいいことだと思いがちだという話をしました。

 でも、よく考えたら、それは違うんでしたね。

 もう1つ、譬え話を。

 また金メダルの話ですが、金メダルを目指す選手は、毎日、どういう生活をしているんでしょう。

 好きなように食べ、好きなように寝、好きなように夜更かしをし、めんどくさいことはなるべくやらないようにし……というふうにしているわけはありませんね。

 筋肉トレーニング、ウェイト・コントロール、メンタル・トレーニングにいたるまで、できること=やるべきことは何でも精一杯やります。

 そういう人たちが口をそろえていうことは、「自分に勝つ」ということです。

 怠けたい、楽をしたい、好き勝手をしたい自分に、向上したい、金メダルを取りたい、世界記録を出したい自分が勝つんですね。

 目標のために自分で自分をコントロールする、セルフ・コントロールすなわち「自律・自戒」が「持戒」の基本です。

 もちろん仏教では、「戒師」から「授戒」されるのですが、それはトレーナーからトレーニング・メニューを提案されるようなものだと考えればいいでしょう。

 他から提示されたメニューを自分のために受け容れて実行するということです。

 「持戒」の基本的な意味がわかってから、私も「持戒・自戒」の努力をする気になりました(といっても、伝統的な仏教の戒律を授かって保つということをしているわけではありませんが)。



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ボランティアと布施

2006年05月27日 | 心の教育





 私たちがぺこぺこにお腹が空いている時に、足が歩きまわり、目や鼻などが食べ物のある所を見つけ、手が口に運んで、舌が美味しさを感じ、胃や腸が栄養を吸収する、という場合、足や目や鼻や耳や手が一方的に損をして、口や舌や胃や腸が一方的に得をしているわけではありません。

 それと似て、私たち人間が深いところでは一体――つまり一つの体――なのだとしたら、私が足や目や鼻や手の働きをし、他の人が口や舌や胃や腸の働きをしたとしても、私が損をし人が得をするわけではありません。

 一体である全身・全体のために体の各部分が、それぞれにふさわしい働きをしているだけのことです。

 「布施」は、そういう深い事実に目覚めて自他の深い生きる喜びを感じられるようになるために行なうリハビリやトレーニングのようなものなのでしたね。

 「私のため」と「人のため」がほんとうには別のことではなく、同じ「私たちのため」であることを実感したいので、練習をするわけです。

 布施は、「私が何かを人にあげる」というかたちの上では、いわゆるボランティアやチャリティ(慈善)と似ています。

 そして公平に見て(のつもりですが)、日本近代でいえば、仏教には布施という理想ないし建前はありながら、実行の点ではキリスト教のチャリティ、ボランティアには一歩も二歩も譲るところがあったと思います。

 しかし、布施はその目指す精神性においては、ある意味でボランティアよりも深い、あるいは高いといえるのではないでしょうか。

 キリスト教的なものであれ、ヒューマニズム的なものであれ、ボランティアは、「私」が「何か」を「人」にあげる、というかたちになりがちです。

 つまり、私と人と物が別の分離した存在であるという考え方が大前提になっており、何らかの意味でより多くの物をもっている私が、もっていない人に同情して、私の物をあげるというかたちになっているのではないでしょうか。

 (キリスト教的チャリティでもきわめて深い場合は、神の子が神のものを神の子のために使う、という精神、アガペーという愛の精神で行なわれることがありますが。)

 そういうボランティアは、下手をすると――うまくいっている場合ももちろんあるのですが――いくつかの問題を引き起こします。

 1つは、私が私の物を人にあげることによって、精神的な見返り(例えばやりがい、生きがい、誇り、喜び…)を求めているため、見返りがなかったら嫌になってしまうことがしばしばあるという限界です。

 ボランティア関係者の方によく見られる燃えつき症候群(バーンアウト・シンドローム)の大きな原因の1つ(すべてではありませんが)は、自分のしたことへの精神的な見返りがないという思いのようです。

 2つは、多くもっている=優越している私 対 少ししかもっていない=劣等なあなたというかたちになると、時としてしてあげる相手につらい劣等感を感じさせ、心理的に傷つけてしまうことがあるということです。

 3つは、可哀そうな人のためにいいこと・立派なこと・優れたことをしてあげている私という優越感が固まった傲慢な人間を生み出すことがあるという点です。

 率直にいって、福祉関係者の方の中には、もちろん本当に頭の下がるすばらしい人格の方もおられますが、かなり時々――微妙な表現ですね――えらそうで嫌味な方もいないではありません。

 こういう話をする時にはいつも但し書きをするのですが、これは、「だからボランティアには無理があるし、もとともと偽善なんだ。そんなものはやめてしまえ」といいたいのではありません。

 人のためにいいことをすることは、もちろんいいことです。

 昔、若気の到りで、牧師をしていた父に「偽善者は全然ダメだね」というふうなことをいったら、「まあ、偽善も善のうちじゃからのう。悪事を働くよりはええんじゃないか」――瀬戸内海の方言ではこういう言い方をするのですが――といわれて、深く深く「なるほど」と思ったことを思い出します。

 少々偽善的でも善行は進んで行ないましょう。

 言葉の意味からしても、ボランティアとは「自発的に進んで行なう人」ということですね。

 しかし私は、ボランティアをしている、あるいはしようとしている学生たちには、「ボランティアを布施の心でやれると、もっといいんじゃないかな」といいます。

 広く深い意味での私つまりコスモスが、私のものを、私のために動かすだけなら、別に見返りはいりません。

 本気でそう思えれば、見返りがなくても嫌になったり燃え尽きたりしないでしょう。

 そういう思いで――つまり平等性智に近づくべく努力しながら――行なえば、優越―劣等という分離した関係で相手を傷つけることも少なくなるでしょう。

 痛い左手を痛くない右手が撫でても、それは当たり前のことで、右手が左手より優れているわけではなく、撫でられた左手がしてもらった負い目や劣等感を感じることはありません。

 もちろん、右手がえらそうに「やってやった」と優越感に浸ることもありえません。

 布施の心で行なえば、傲慢な心になる危険が避けやすいでしょう。

 凡夫あるいはごく初歩の菩薩である私たちは、自他の分離を前提にしたボランティアをしていろいろな点で行きづまることがありがちです。

 ぜひ、つながって1つだから自然にする・せざるをえないという慈悲を目指すリハビリとしての「布施の心」で、そういう限界を超えていきたいものです。



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できることから始める:無財の七施+1

2006年05月26日 | メンタル・ヘルス





 私たちは、六波羅蜜というと何かすごいことをしなければならないのだと思い、すぐに自分には無理だと思うか、逆に無理をしてしまいがちです。

 しかし私の考えでは、布施も含め六波羅蜜はリハビリのメニューのようなものですから、回復度に合わせて徐々にやる必要があると思います。

 いくら人の役に立ちたいといっても、やっとベッドから起きて歩行練習を始めたばかりの人が、突然アフガンにでも行って炎天下の重労働のボランティアなどをしたら、すぐに倒れて、かえってまわりの人に迷惑をかけてしまうでしょう。

 泳げない人が、溺れている人を助けようとして飛び込んだら、自分も溺れてしまって、救助員に二重に手間をかけてしまいます。

 しかし、仏教の歴史の中でもそういうことがよくあったようで、「非力(ひりき)の菩薩救わんとしてかえって溺る」という言葉もあるそうです。

 ですから布施も、自分のいまの実力に応じて、無理のない程度にすこしずつやるのがいいんですね。

 溺れる人を助ける救助員になりたかったら、まず先に泳ぎをおぼえる必要があります。

 その場合、最初はボードにつかまってバタ足をするといった程度の練習から始めるわけです。

 幸い、例えば『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』というお経に初歩的メニューが書いてあります。

 「無財(むざい)の七施(しちせ)」といって、財力・実力がほとんどなくてもできる布施です。

①眼施(げんせ) 人をやさしい眼で見ること

②和顔施(わげんせ) やさしい顔をすること

③言辞施(ごんじせ) やさしい言葉をかけること

④身施(しんせ) 体を使ってできることをすること

⑤床座施(しょうざせ) 席をゆずること

⑥心施(しんせ) 心で思うこと

⑦房舎施(ぼうしゃせ) 宿をお貸しすること

 この7つです。

 人を見る時、なるべくやさしい目で見るようにしましょう。

 人にはなるべく笑顔で接するようにしたいものですね。

 激しい言葉、とげのある言葉を使わないで、やわらかなやさしい言葉を使うように心がけましょう。

 やさしい言葉というのは、時として本当に救いになるものです。

 旧約聖書に「優しい舌は命の木である。乱暴な言葉は魂を傷つける。」(箴言15・4)という言葉がありますが、本当にそうだと思います。

 それから、たとえ小さなことでも体を使ってできることをしてあげるように気をつけたいですね。

 例えば、体が不自由な方は、ちょっとものを取るのも大変で、そんな時そばにいる人が頼むとこころよく気軽に取ってくれるとすごく助かるのだそうです。

 電車などで、めんどくさがらないで、照れないで、必要だと思われる方にさっと席を譲るようにしましょう。

 私も、なるべくそうしていますが、でも、時に自分がとても疲れているとパスさせていただくこともあります。

 must化はしないことにしているからです。

 なかでも「心施」など、「心で思っても何もしなければ何にもならないではないか」と思われるかもしれませんが、そうではありません。

 苦しい時に誰かが思ってくれるだけでも、大きな心の支えになりますし、また心の深い思い・祈りはしばしば――必ずではないにしても──実現します。

 「念ずれば花ひらく」という言葉もあります。

 唯識の考え方からいうと、人間の心は奥深いところで他の人とも宇宙ともつながっていますから、私の思いが宇宙の働きと共振すると、私が何もできなくても、宇宙が他の人のためにそれを実現してくれることがあるようです。

 よかったら、実験してみてください(私の実験したところでは、100%ではないが、かなりの程度実現するという感じです。)

 具体的なやり方としては、私の訳したD・チョプラ『人生に奇跡をもたらす7つの法則』(PHP研究所)などが参考になるでしょう。

(ただ予めお断りしておきますと、残念ながら、全体としての宇宙は部分としての私の思いどおりになるとはかぎりません。私の思いが宇宙と共振しない場合もあるようです。)

 以上の項目の中の1つ、2つなら、私たちでも、お金がなくても、力がなくても、いつも必ずはできないにしても、なるべくそうするように心がけることはできますね。

 まあ、最後の宿をお貸しするのは、自分に家がなければできませんけどね。

 ところで、以上の七施に、私は人の言葉・思いに耳を傾けてあげるという布施を加えるといいのではないかと思っています。

⑧傾耳施(けいじせ) 人の言葉や思いに耳を傾けること

 七施の名前にならって、「傾耳施(けいじせ)」と呼びましょう。

 これもまた、財力がなくてもできることです。

 ただ、本格的にするには、かなりの根気と非常な共感力が必要ですが。

 ひたすらに耳を傾けるだけのように見えるロジャーズ派カウンセリングに大変なトレーニングが必要であり、したがってまたプロのカウンセリングは有料であるように、「相手の気持ちに深く共感しながら、しかも感情的に巻き込まれてしまわない」というのは、決してやさしいことではありません。

 でもともかく、人に聞いてもらえ、わかってもらえるだけでも、大きな慰め、救いになることがあります。

 できるだけ、聞いてあげるという布施も実行していきたいものです。



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言葉と物と心を伝える:「布施」の話 2

2006年05月25日 | メンタル・ヘルス




 「あげる」というと、私たちはすぐに物のことを考えます。

 さらに現代のような貨幣経済の社会だと、物を買うことのできる「お金」を連想します。

 実際、日本の仏教で「お布施」というと、お葬式や法事を執り行なってくれたお坊さんに信者が差し上げるお礼、特にお金のことをいいますね。

 しかし、これはインドのもともとの大乗仏教の「布施」とはかなり違ったものになっています。

 本来の布施は、前回お話したように、修行のためにするもので、ということはまず修行者・僧侶が行なうべきものです。

 そして修行者が行なう布施は、3種類あり、物だけをあげるのではありません。

 何よりもまず、真理の言葉・教えをあげる、伝えるというのが、菩薩が行なうべき布施の第一です。

 ふつうの人・凡夫は、無明のために四苦八苦の苦しみをしています。

 その苦しみから解放されるには、智慧・覚りを得なければなりません。

 といっても、突然、八識が四智に変わり、究竟位の覚りを得るというわけにはいかないのでした。

 まず縁起・空という真理の教えを聞いて、学ぶことから始まります。

 苦しんでいる人をそういう学びの歩み、あるいは心のリハビリの第一歩に導き入れるには、ちゃんと言葉で説明をしてあげなければなりません。

 そういう真理・法の言葉を伝えてあげることを、「法施(ほうせ)」と読んでいます。

 常識的に物をあげることというのとは異なり、いろいろなかたちでの「説法」をすることこそ、菩薩がまず行なうべき布施なのです。

 しかし、その人が例えば今大怪我で激痛で苦しんでいるとすると、インフォームドコンセントだのリハビリだのといっているわけにはいきません。

 何はともあれ応急手当をしなければなりません。例えば止血、痛み止めの麻酔などなど。

 それに似て、物質的な面で苦しんでいる人、例えば餓えている人に、難しい仏教の教えを説いても、その時のその人の救いにはなりません。

 ですから、そういう場合は、まず食べ物など物質的な援助をするのです。

 そういう布施を「財施(ざいせ)」と呼びます。

 これも、状況によってぜひ必要なものです。

 しかし、建前としては、まず法施があって、その補助として財施がある、といっていいかもしれません。

 それから、補足的にいうと、日本仏教の「布施」は、僧侶がお葬式や法事をきっかけにして縁起の理法・つながりの大切さをちゃんと檀信徒の方にお伝えすることができれば、それは「法施」になります。

 その法施への感謝の意味を込めて、檀信徒が僧侶にお金などを差し上げるのであれば、それは「財施」です。

 そういう法施と財施が適切に循環しているのであれば、それは仏教の本筋からはずれてはいないと思います。

 そういう意味で、日本のお坊さま方は、葬式・法事、その他あらゆる機会を捉えて、お説法する努力をしていただけるといいのではないでしょうか。

 悪い意味で儀礼化・形骸化してしまい、わけのわからないお経を唱える葬儀と、それに対してわけがわからないにもかかわらず習慣として払わされる葬儀料という状態では、仏教としては堕落というほかありません。

 あ、余計なお世話だったかもしれません。

 それから、布施の最後、ある意味でいちばん大切なのは「無畏施(せむい)」です。

 畏(おそ)れのない心、つまり安らぎを与えるということですね。

 悩んだり、苦しんだりしておられる方の心が安らかになるお手伝いをすることは、仏教がもっとも重点的に行なうべき布施ではないか、と私は考えています。

 真理の言葉を伝えるのも、必要な物をあげるのも、その結果として心が安らかになるのでなければ、あまり意味がありません。

 心をもって生きている人間という生き物にとって、言葉も物ももちろんベースとして必要ですが、その上にさらに心の安らぎ・満足というものが必要です。

 以上のように、物、言葉、心の3つの面すべてについて、私に少しでも余りがあれば足りない人にあげる努力、布施の実行によって、私たち自身の心が他者との一体性、さらにはコスモスとの一体性を少しずつ実感できるようになる、というのです。

 ここで大切なのは、人のためというよりも、まず自分自身の心の健康回復のために行なうリハビリが布施なのだということです。

 これがわかってから、私も「なぜ、私が損をしてまで人のためにしなければならないんだ」という疑問はまったくなくなりました。

 布施は、自分のために人にやらせていただくトレーニングだったんですね。

 だから、布施をさせていただいた方に「リハビリに付き合って下さって有難うございます」と感謝してもいいくらいです。

 ともかく、無理のない範囲で、少しずつやっていきましょう。



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コスモスがコスモスをコスモスにあげる:「布施(ふせ)」の話 1

2006年05月24日 | メンタル・ヘルス




 コスモスの中のすべてのものはつながっており一つですが、それぞれの区別できるかたちははっきりあるのでした。

 人間同士に関してもそうで、すべての人間はいちばん深いところでは一体とはいっても、それぞれは区別できる個々人という意味で別人です。

 区別できるという意味での個々人がいるということは、ありのままの世界の姿(如・実相)で、それ自体は妄想でもなければ、悪いことでもありません。

 それどころか、それぞれ別の人間であるからこそ、すばらしい出会いもできるわけです。

 コスモス全体が、ずるずるべったり、混沌状態の一体だったら、いわばどろどろとうごめいているだけで、感動的な、古くてすてきな言葉でいうと「邂逅(かいこう)」、この人に遇えてよかった、生れてきてよかったというふうな出会いの体験はできません。

 ところがまずいことに、人間は分別知によって他の人を見ます。

 そうすると、自分とはまったく分離した別人、自分には関係のない「他人」というふうに感じられたりします。

 もちろん、自分にとって直接的な関わりのある人は「関係者」と感じられたりもするのですが。

 しかし、私たちが仏教を通して世界のほんとうの姿を学ぶと、すべては縁起・つながり、そして究極は空・一如の世界だということが、頭では納得できます。

 確かに頭で納得はできても、なかなか実感は湧きません。

 どうしても「私は私、人は人」、「私のものは私のもの、人のものは人のもの」というふうに分離的に感じられてしまいます。

 「私と人はつながっている」、「コスモスという意味では私と人は一体だ」という気がしないのです。

 それは平均的な・ふつうの・平凡な人にとっては、当然なことです。

 そこで、岐れ路になるのは、ちょっと古いジョークですが「赤信号、みんなで渡ればこわくない」式に、「みんなそうじゃないか。どこが悪いんだ」と、そのままに居座る――前回の譬えでいえばベッドに寝転んでリハビリをサボる――か、「実感はないけど、考えてみると確かにそうだな。どうしたら、本当のことが実感できるようになるんだろう」と考えて、方法を教えてもらって実行するかどうかというところです。

 他の人と私が深いところでは一体であることを、頭でわかるだけでなく、ハートで感じ、胆に納めていくためのトレーニング、リハビリの最初のメニューが「布施(ふせ)」です。

 これは分別知的な常識からいうと、「私」の「もの」を「人」に「あげる」という意味です。

 しかし無分別智・一体性の智慧からいうと、「私」も「人」も「もの」もおなじ一つのコスモスの現われです。

 もの(者・物)は、究極のレベルでいえば、すべてコスモスのものであって、誰か特定の個人のものではないのです。

 (いやぁ、これはお話ししている私も改めて自分で驚いてしまうほどの、常識外れの話……しかしどうも真理だと思われます。)

 だから、「私の物を人にあげる」といっても、あげる者ももらう者もあげ-もらう物もみんな本当は空・コスモスなのです。

 「私が物を人にあげる」のは、コスモスがコスモスをコスモスにあげる、というか、コスモスのある部分がコスモスのある部分をコスモスのある部分に移すだけのことです。

 これを、私と人と物という3つの要素がみな空であることに基づいた布施という意味で「三輪空寂(さんりんくうじゃく)の施」と呼んでいます。

 高い所にある水が低い所に流れていって、同じ高さになるのは、水の自然です。

 それと同じように、コスモスのこちらに余っていて、そちらに足りなかったら、そちらのほうに物が移っていくのが、コスモス全体の自然でもあるというのです。

 ところが私たちは、そんなことを言われても、実感もなければ、実行もできません。

 また前回の譬えでいうと、ベッドで寝たきりのようなものです。

 しかし、「金メダルを目指したい」、「近くのお店に買い物に行けるくらいには元気になりたい」と思うのなら、まず最初はせめてベッドに起き上がる練習程度でもいいから、とにかく練習を始めましょう、というわけです。

 ここで仏教内外の多くの人が間違いがちだったのは、仏教を学びはじめたならすぐに、大変な献身、自己犠牲、布施をしなければならない、できるはずだ、と考えてしまうことです。

 しかし、それは、寝たきりの人を突然炎天下のマラソンに出場させるようなもので、そんな無理をさせると病人は倒れてしまう、どころか死んでしまうかもしれません。

 無理なリハビリはリハビリにならないどころか、状態を悪化させますから、それは「治療」とは呼ばないのですね。

 リハビリは、ちゃんと回復の程度に合ったメニューでなければなりません。

 回復の程度に合ったメニューを、ちゃんと実行することが必要です。

 もちろん、治りたいのなら、リハビリをサボってはいけないのです(←念のため、こういうのは論理療法では「絶対視され、硬直したmust」とは区別されていて、「条件付のmust」と呼ばれ、こういう「ねばならない」は健全な社会生活には必要なものとして認められています)。

 私も、金メダル級の「布施」はできませんし、やりません。現状の自分の回復状態に合っていないと思うからです。

 でも、自分にできる範囲+αの「布施」的なことは、なるべくするように努力しています。

 体を壊してしまわないように注意しながら、でも少しずつ難易度を上げていきたいと思っているという段階にあります。

 六波羅蜜の話――というかそもそも仏教の話――をすると、時々、私のことを修習位以上究竟位に限りなく近い菩薩なのではないかと善意の誤解をする方や、「お前が菩薩ならおれにこうしてくれるべきだ」と建前を振りかざして勝手な要求をする人がいたりするので、誤解なきよう、ちょっと現状報告をさせていただきました。

 この授業は、まだまだ未熟、修行中の菩薩が、これから修行を始めるかもしれない菩薩候補生、後輩のみなさんに、ちょっと先輩として、ちょっとアドヴァイスしている、といったふうなものだと思って下さい。

 お役に立ちそうなら、さらに付き合ってください。



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心を超健康にする6つの方法:六波羅蜜(ろくはらみつ)1

2006年05月22日 | メンタル・ヘルス




 これまで、すべてをばらばらに見てしまうのが迷いの心であり、すべてのものをつながって一つと見ることができるのが覚りの心であること、凡夫の八識の心はどういうものか、そこからどんなにひどい煩悩が湧いてくるか、それに対して覚った人の四智の心はどんなにすばらしいものか、凡夫から菩薩になりさらに覚った人=仏になるには5つの段階があることを、非常にシステマティックに学んできました。

 ここまで学ぶと――あるいは学んでいる途中にも――「では、どうすればいいのか」という問いが心に浮かんできたのではないでしょうか。

 ある意味ではそこがいちばん聞きたいところだったかもしれません。

 丁寧すぎるくらいの情報提供・インフォーメイションの後でようやく、唯識ドクターは、「……というわけで、あなたの心は病んでいますが、次のような処置をすれば治ります。やってみますか」と治療方法の説明と同意・コンセントのプロセスに入っていきます。

 「治療法は6つの方法がセットになっています。1つだけでも効果はないことはないんですが、ぜんぶをやることでそれぞれが相互に促進しあって、効果が顕著に高まります。試してごらんになりますか」と。

 それぞれの名前をあげておくと、「布施(ふせ)」、「持戒(じかい)」、「忍辱(にんにく)」、「精進(しょうじん)」、「禅定(ぜんじょう)」、「智慧(ちえ)」の6つです。

 まず、ごくおおまかに説明しておきましょう。

 「布施」というのは、施すこと、いろいろないいものをあげることです。

 「持戒」というのは、戒律を維持する、きまりを守るということです。

 「忍辱」というのは、辱めを忍ぶ、自分を害するものに対して仕返しをせず忍耐することです。

 「精進」というのは、精一杯一所懸命に修行を進めることです。

 「禅定」というのは、心を静め、深め、集中して、つながって一つである空の世界を実感するための瞑想です。

 「智慧」というのは、これまで学んできたような言葉による智慧から始まり、言葉を超えた空の智慧、四智まで、いろいろな深さの智慧全体を示しています。

 この6つの方法を、心を込めて、時間をかけて、しっかりと実行すれば、心は徐々に癒され、健康になり、最終的には超健康といってもいいくらいのレベルに成長していく、というのです。

 最初、おおまかな説明を聞いただけでは、「なんだか堅苦しくて面倒そうだな。もう少し楽しくて楽な方法はないのか」というふうな気がするかもしれません。いや、たいていの人がそういう気がするでしょう。

 そういう方には、「面倒だけど治る方法と、楽だけど治らない方法と、どちらがお好きですか? どちらがあなたの利益になるでしょう?」と聞くことにしています。

 前にお話しした譬えでいうと、寝たきりから起き上がって、歩けるようにリハビリをする場合、かなり根気が必要だったり、場合によってはそうとう痛かったりするようです。

 でも、歩きたかったら、がんばるしかないんですよね?

 ベッドで寝転んでいるほうが当面楽かもしれませんが、それでは歩けるようになりません。

 歩けるようになった時の未来の喜びと、寝たままでいる今の楽さと、みなさんはどちらを選択されますか?

 もちろん最終的にはみなさんの自由ですが、長い目で見たら明らかに、がんばったほうがみなさんの利益になると思います。

 ですから、強制はできませんが、強くお勧めします。

 ……といっても、もう少し詳しく説明しなければ、何をどうすればいいのかわかりませんね。

 続けて、お話ししていきたいと思います。



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入口に立った菩薩:資糧位(しりょうい)の意味

2006年05月21日 | 心の教育




 すでにおわかりのとおり、この授業では、特定宗教としての「仏教」だけの話をしているわけではありません。

 いわゆる「仏教」は呪術性や神話性の面も相当に大きいのですが、理性・哲学性の面を見ると、仏教のエッセンスには「つながりコスモロジー」として現代科学とみごとに調和する非常に普遍妥当性がある、という話をしているのです。

 現代科学の全体像と仏教のエッセンスを合わせて見ていくと、深い「いのちの意味」が見えてくると思います。

 そして、現代科学と仏教から学べるつながり・重なりコスモロジーは、近代の分別知的な理性、つまりばらばらコスモロジーの限界を超えるものではないか、という私の判断をみなさんにお伝えしているわけです。

 そういう流れ・コンテクストで、この「五位」説、特に資糧位というコンセプトを考えていて、ふと面白いことに気づきました。

 それは、資糧位は覚りを求める存在=ボーディサットヴァ=菩薩の最初の段階であり、まだ縁起、空、一如ということを頭で理解している段階です。

 しかしそれはもう、分別知がもっとも発達した、主客分離、分析的な方法による近代の理性=ばらばらコスモロジーを超えるものの見方を身につけつつあるということです。

 まだ理論的な理解という意味では、理性の段階を超え切っていませんが、単なる理性の段階は過ぎています。

 すべてのことを縁起・関連性、空・非実体性、一如・一体性という方向から見ることができるようになりつつあるのです。

 そこで、最近ふと気づいたのですが、資糧位というのは、人間の心理的発達段階でいうと、K・ウィルバーのいう「ヴィジョン・ロジック(展望論理)」の段階だということもできるでしょう。

 例えば、自分と他者はつながっていて一つなのだから、条件さえ調えれば自分と他者の利益は矛盾・対立するものではないということを、大きな展望の中で見通すことができます。

 そして、すべては空・非実体だから、絶対に変わらない・変えられないようなものはないことを知っていますから、間違っており硬直していて一見変えられそうにないものでも、根気よく理にかなったかたちに変えようとします。

 そのためにはどうしたらいいか、総合的な視点から筋道立てて・論理的に考えぬくこともできます。

 そう考えると、ばらばら・別々に考えると矛盾・対立していてどうしようもないように見える事ばかりの時代にあって、より高く広い視点から見渡してそれを解決できる道筋を見出せるのは、ヴィジョン・ロジックをこなせる資糧位の菩薩だということもできそうです。

 最近スウェーデン・ショック状態だといいましたが、ようやく最初のショック状態から少し鎮静してきていて、ふと、スウェーデンのすぐれた指導者たちは近代的理性を含んで超えながらヴィジョン・ロジックの段階に達した人々、つまり唯識用語を当てはめればいわば資糧位の菩薩だということができるのではないか、という気がしてきました。

 それにつれて思い出したのは、惜しくも飛行機事故で亡くなった、スウェーデン出身の第二代の国連事務総長ダグ・ハマーショルドさんは、忙しい仕事の合間をみてはしばしば瞑想をしていた、というエピソードです。

 彼は、加行位の菩薩だったのでしょうか、あるいは通達位くらいまで行っていたかもしれません。

 さらに、そこで希望が湧いてきたのは、リーダーたちが、必ずしも修習位や究竟位の菩薩まで行けなくても、資糧位から通達位くらいまでの菩薩になれたら、環境と福祉と経済のみごとなバランスのとれたすばらしい国・緑の福祉国家を創出することができるのではないか、ということです。

 人類すべてが究竟位の覚りに到らなくても、世界の主要国の主要なリーダーたちがヴィジョン・ロジック段階くらいまで発達してくれればいい、資糧位くらいの菩薩になってくれればいい、あるいはそういう人間がリーダーになればいいわけです。

 そうとうに困難だが、そのくらいまでなら現段階の人類でもなんとか実現可能ではないか、という気がしてきました。

 秋のシンポジウムには、ぜひ仏の国土を浄化したいという誓願を抱いた諸菩薩に集まってほしいものです。

 聴講生のみなさんも、ぜひそういう菩薩の一人になって下さい。



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究極の覚りまでの5段階2:入口から最終目的地まで

2006年05月19日 | 心の教育

 人から「あそこはすばらしいよ。ぜひ行ってみるといいよ」といわれて、旅に出たくなることがあります。

 でも、いろいろあって結局は行かずじまいということもよくあります。

 しかし、「やっぱり行こう!」と決心して準備を始め、そして実際に出かけると、一定の時間は当然かかりますが、やがて目的地の入口に到達します。

 この話をするといつも思い出すのは、中国のかなり奥のほうにある五台山という仏教の聖地に行った時のことです。

 夕方家を出て成田まで行き、かなり待ってから、夜間飛行で上海に向かいました。

 うつらうつらと寝たり起きたりして、「なんだかやっぱり遠いなあ」と思いながら夜を過ごし、やがて空が明るんできて、早朝の上海空港に着陸した時は、「そうか、大陸に来たんだ」と思いました。

 しかし、それからが長かった。ほんとうに長かった。

 中国大陸というのは本当に広いですね。ある意味、うんざりすることもあるくらいの広さでした。

 途中、他の仏教遺跡をいろいろ見たせいもあるのですが、最終目的地までは本当に遠かったです。

 でも、旅というのは――目的地に行って用事だけ済んだらトンボ還りというビジネスの旅は別にして――途中も楽しい、どころか場合によっては途中こそ楽しいものです。

 もっとも記憶に残っているのが、大同からマイクロバスで五台山まで走った最終コースです。

 これがまた恐ろしく長い道でした。

 大同市内を出ると、そこは高速道路という名前の舗装もあまりしっかりしていないガタガタ道で、バスは埃を巻き上げながらひた走りました。

 うれしかったのは、道路の両側が美しいポプラ並木だったことです。

 ポプラは私のもっとも好きな樹木の一つで、その並木の新緑の葉が日の光に映え風に揺すられてキラキラ輝いているのを見ると、もううっとりとしてしまいます。

 ところが、もう旅に出てかなりになっていて、疲れもそうとう溜まってきていましたので、眠いのです。

 「この美しい景色を見逃してなるものか」と思うのですが、もうたまらず目がふさがってきます。

 少し居眠りして、ふと気づいて、「もったいない。がんばらなくっちゃ」と目を引っ張るのですが、睡魔には勝てません。

 しかし悔しいので、また目を覚まそうとします。

 ……ということを何度か繰り返しているうちに気づいたのは、このポプラ並木は果てしなく続いていて、1時間や2時間では終わりそうもないらしいということです。

 そこで安心して一眠りして起きてみると、案の定、まだ並木は続いていました。

 朝から午後のかなり遅い時間、夕方近くまでそうとうなスピードで走っていたと記憶していますから、どんなに少なめに見ても時速80キロ×6時間以上、500キロは続く並木道でした。

 出た時はたっぷりと繁った青葉、遥か向こうにようやく五台山が見えてきた時は、ようやく芽生えてきた新緑の葉、「気候もこんなに違うんだ」と思いました。

 ともかく、こんなに美しいポプラ並木を朝から夕方まで見ているという体験は、生まれてこの方初めて、一度切りでした。

 一種の「至高体験」でした。

 そして夕方、かなり肌寒い五台山の麓の宿に着いた時には、「そうかここが五台山なんだ」という感慨がひとしおでした。

 でも、五台山に登るのは翌日です。

 ……あ、私の思い出話をしているようですが、これは譬えです。

 我が家から成田、そして上海、それから途中いろいろあって、大同から五台山の麓までは、覚りの旅でいうと、「加行位(けぎょうい)」から「通達位(つうだつい)」、そして「修習位(しゅじゅうい)」に当たります。

 長いフライトの後で、上海空港に着いたということは、まちがいなく中国に来たということですが、目的地の入口です。

 入口ですが、中国にはまちがいありません。

 しかし、それから目的地までの旅がこれまた長いのです。

 長いということだけ考えるとうんざりしそうですが、ところが途中も美しい、楽しいものです。

 途中だけだったとしても、「やっぱり旅に来てよかった」という感じです。

 そして目的地の麓に来るとほっとするというか何というか、「来たぞうー!」という感じですね。

 でも、また翌日、これまでよりももっと険しいデコボコ道、ちょっと運転を誤ると谷底に落ちそうな道を猛スピードで走らないと、山中にある仏教寺院には着かないのです。

 ひやひやしながら、お尻が痛くなりながら、それでもやっと着いたお寺は、とても風格のあるお寺で、金色に輝く立派な仏さま――ちょっとわび・さび好みの日本人にはピカピカすぎて違和感がありますが――がおられました。

 そういう仏の境地、究極の段階を「究竟位(くきょうい)」といいます。

 つまり、八識が完全に四智へと変容した、すばらしい境地です。

 このように、覚りたいと思ってから究極の覚りに到るまで、「資糧位」、「加行位」、「通達位」、「修習位」とステップを踏んで、最終段階「究竟位」に到るというのが、唯識の「五位説」の大まかな話です。

 大変と思えば大変、人間にはこんなにもすばらしい成長可能性があると思えばすばらしい話ですね。

 で、どちらと思うかは、あなたの選択です。



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「スウェーデン・ショック」状態

2006年05月18日 | 持続可能な社会

 ここのところの記事で書いたとおり、最近、小澤徳太郎『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書)を読み、スウェーデンの政府が主導する〈緑の福祉国家〉構築への着実なステップを知って衝撃を受けました。

 続けてそこに紹介されている本と自分で買って積読になっていた本を何冊か読み、衝撃はさらに深くなっています。

 もう、「スウェーデン・ショック」状態です。

 岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』(岩波書店)は、すでに1991年に出た本で、出た時に買ってあったのですが、何と15年も積読状態でした。

 なぜ、もっと早く読む気にならなかったのか、残念です。

 ここで受けたショックは、昨日の記事にも書きましたが、何よりも「権力は必ず腐敗する」――マナ識が平等性智に変容しないかぎり――と思っていたのに対し、統合的な理性――ウィルバーのいう「ヴィジョン・ロジック」――のレベルに成熟した指導者群と適切なチェック機能があれば、「権力は必ずしも腐敗しない」というスウェーデンの実例つまり事実(だと思われます)です。

 続いて神野直彦『人間性回復の経済学』(岩波新書、2002年)を読んで、経済学の分野でも「日本の構造改革を支えている経済政策思想は、「新自由主義」と呼ばれる」ものであり、「…新自由主義は人間の生活を破壊し、人間の生活をおびやかしていく。しかも、市場経済によって破壊される恐れのある人間の生活を保護する使命を担っている財政をも破壊してしまう」ことへの、論旨明快な批判がなされていること知った。

 「たしかに、重化学工業を機軸とするケインズ的福祉国家という、経済システム、政治システム、社会システムの結合方式は行きづまっている。とはいえ……ケインズ的福祉国家を解体して、市場経済つまり経済システムをむやみに拡大する構造改革を実行しても、社会的危機が激化するばかりである。」

 ではどうすればいいのか。ここでもモデルはスウェーデンです。

 「…現在のエポックで展開している第三次産業革命では…スウェーデンでかかげられている言葉で表現すれば、人間の歴史が工業社会から「知識社会」を目指して大きく動きはじめたのである。」

 内容は簡単に要約できないので、本を読んでいただくほかないのですが、要するに「知識社会」へと産業構造を変革していくことで、経済と福祉と環境のバランスを取ることのできる「人間性回復の経済」が実現できるというのです。

 なぜスウェーデンはこういうふうになれたのだろう、という疑問の半分くらい、歴史的プロセスは、これも積読だった百瀬宏『北欧現代史』(山川出版社、1980年)で解けてきました。

 第一次世界大戦、第二次世界大戦の中で、何とか巻き込まれず中立-平和を維持しようとしてきた北欧の人々のまさに血の滲む苦闘に心打たれました。

 多くの人々の英雄的努力の集積なのです。考えてみれば当然のようですが。

 まだ解けないのは、なぜ北欧、とりわけスウェーデンに、柔軟で賢明で英雄的な指導者が次々と生まれてきたのか、そういう文化、国民性がなぜ、どういうふうにして育まれてきたのか、という疑問です。

 これからさらにいろいろ学んでいきたいと思っています。いい文献、情報をご存知の方、ぜひ教えてください。



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シンポジウム:日本を〈緑の福祉国家〉にしたい! 広報1

2006年05月17日 | 持続可能な社会




 今日は、シンポジウム「日本を〈緑の福祉国家〉にしたい!(仮題)」の広報の意味で、書き終えたばかりの『サングラハ』の「近況と所感」の一部を刊行に先立って掲載することにしました。

                   *

 今年度は、学生だけでなく教師の方ともとても不思議な出会いがありました。

 前号でもご紹介した『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書)の小澤徳太郎先生との出会いです。

 私がその本をブログで紹介したら、教え子の一人がそれを読んで、今年法政社会学部に小澤先生が非常勤で環境論の授業に来られることを知らせてくれました。

 お会いして話をしたいと思っていたので、「これは何というタイミングだろう。大学へ行ったら連絡先を聞こう」と喜んでいて、最初の授業に行って終わって講師室に帰ると、なんと、事務の方が小澤先生の名刺と伝言を伝えてくれたのです。

 その教え子が小澤先生の授業に出て、終わって話に行き、私の紹介で小澤先生の本を読み始めていると伝えたのだそうです。

 先生は、「スウェーデンはどうでもいい。日本をなんとかしたいのだ」と言っておられたそうで、どうも本気の人のようでした。行動の速さはその本気さの表われのようです。

 早速連絡を取って、次回の私の授業の後でお目にかかることになりました。ところが、小澤先生は、私の「自然成長型文明に向けて」もHPを検索してすでに読んでくださっており、さらにその日は早めに来て、なんと私の授業を聞いて下さったのです。

 終わってからうかがうと、授業を聞いた結果、持っていた疑問がほとんど解消したとのことでした。そして、環境に関する見解がほぼ一致していることも確認できました。

 その日は、お互いに次の予定があって時間が足りなかったのでもう一度会うことになり、次にお会いした時には、徹底的に合意点を確認することができました。

 そこで、「日本を〈緑の福祉国家〉にしたい!(仮題)」というシンポジウムを提案したところ、全面的に参加・協力していただけることになりました。

 本誌に連載してくださっている前国立環境研究所所長の大井玄先生にも加わっていただいて、これまでの環境論、環境運動に足りなかったところをはっきりさせ、これからの日本と世界がどこに向かったらいいのか、明快な方向指示になる共同提案をしようということで、完全に意思一致ができました。

 今後、本誌でもやや詳しく論じていくつもりですが、まず三者の合意点を簡略にお伝えしておきます(先日、大井先生ともしっかり確認をしました)。

①エネルギーの無制限な消費を続けることは地球環境そのものの限界からして不可能である(しかしエネルギーの浪費をしなくても、環境・福祉・経済のバランスを取ることが可能であることはスウェーデンで実証されつつある)。

②(スウェーデンが典型的であるように)環境問題の根本的な解決には政治・政府主導の方向付けが必要である。

③本当に環境・福祉・経済のバランスの取れた〈緑の福祉国家〉を実現するには、それを可能にする国民の文化、指導者の資質という心の問題を視野に入れることが不可欠である。

 まず、夢のエネルギー技術ができたら、無限にエネルギー消費を続けるような経済の拡大もそのままできる、ということは、廃熱―熱汚染ということを考えるとまったく不可能です。

 そのことに気づいていない、技術によって環境問題がすべて解決できるかのような主張に対しては、ここではっきりノーを言った上で、しかし、環境・福祉・経済のバランスの取れた社会の質的成長は可能であることをスウェーデンは実証しつつあることの事実認識を共有していきたいと思います。

 それから、環境問題という大きな問題は、個々人ができることからすることによっては解決できません。

 一国の経済システムそのものの方向転換は、政治・政府の強力な方向づけなしには実現しないでしょう。逆に言うと、スウェーデンは、政府の方向づけがあれば実現しそうな実例です。

 日本人もここで政治アレルギーを克服して、持続可能な社会を構築できる、政権担当能力のある政治勢力を創出する必要があると思われます。

 そういう政治勢力を創出するには、そういうヴィジョンと能力のある政治的指導者が必要です。

 その指導者は、権力そのものを自己目的としてしまうことのないような、高い人間的資質を持っている必要があります。

 そして、そういう指導者が生まれ選出されるには、そういう質の高い国民文化が必要です。

 そして、ここからはまだ討論―合意の過程を踏んでいない私の意見ですが、岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』(岩波新書)などを見ると、スウェーデンはきわめて賢明な指導者を次々に生み出す国のようです。

 同書に描かれている、スウェーデンの政治家たちの柔軟で実際的でありながら、時間をかけて確実にヴィジョンを実現していく政治力には驚いてしまいます。

 しかも、「スウェーデンは長期政権にありがちな政治腐敗の定期的噴出・腐敗の構造化という事態を慎重に回避してきた。そのために、権力が自ら、定期的にその構造を徹底的に分析・調査してきた。権力の自虐的とも言える自己省察は感動的でもある。権力が自らの既得権を調査の対象にするという行為は、デモクラシー成熟の条件であるかもしれない。」(同書137頁)というのです。

 「権力は必ず腐敗する」という言葉がありますが、驚くべきことに、ほとんど腐敗しない権力も実在するようです。「自浄能力のある権力」というのが現実にあるのです。

 こうしたスウェーデンの実例からすると、日本の良識的な人の多くが無意識にもっている――私ももっていました――「権力(政治)は汚い。だから、権力(政治)に近づくと自分も汚れる。だから、汚れないためには、権力(政治)には手を出してはいけない」という思い込みは、日本の政界の現状を見ただけの「過度の一般化」であったということが言えそうです。

 岡沢氏の語るスウェーデンの政治の姿が、理想化・美化されたものでなく、おおむね事実だとしたら(どこまで事実かこれから自分で確かめていきたいと思っていますが)、その事実をしっかり認識することが日本人の政治アレルギーへのきわめて有効な解毒剤・治療薬になるのではないか、と私は期待しているところです。

                   *

 つい最近の授業の後、話しにきた学生にシンポジウムの話をしたら、日本の良識的な人(学生)の典型的な反応をしました。

 〔そういう政治的な運動をすることは〕「危なくないですか?」と。

 私は、「放っておいてこのまま環境が悪化していくことの危なさと、運動をすることの危なさの、どちらがより危ないと思うかい? 運動しないでおいたら、自動的に環境はよくなるのかな? 今の政府がちゃんとよくしてくれているのかな?政治の主導権を取ることを考えない市民運動をすることで、全体の環境はよくなってきたのかな?」と問うと、その学生はポイントに気づいてくれたようです。

                   *

 確認しておくと、かつても今後も、サングラハでは直接政治運動をするつもりはありません。

 しかし何よりもまず、現代において「本当によりよい社会とはどういう社会か」、「そういうよりよい社会を創出できるよりよい指導者とはどういう人間か」ということを明らかにしたいと思うのです。

 そのことを通じて、政治も含めあらゆる分野のすぐれた指導者を育てたいと思っています。

 それは、創設以来変わることのない、サングラハの目標です。

 心のことを重要視してきましたが、決して、ただ心のことだけをやっているのではないのです。

 この秋(日程はほぼ11月19日(日)で決まると思います)、予定しているシンポジウム「日本を〈緑の福祉国家〉にしたい!」も、それ自体を政治運動や政治集団へと展開していくつもりはありませんが、そこで示された方向を刺激―ヒント―指針とした新しい政治運動や政治家が育つことは期待しています。

 何度もお話ししていますが、一つのモデルは松下村塾です。

 ある方向性をもった学びの集まりですから、ある意味で思想運動だということはできるでしょう。

 しかしこれも何度でも繰り返す必要があると思いますが、決して参加者に何かを強制することのない、まったくの自発性と合意に基づいて学びの共有を目指す運動なのです。

 私たちの時代の大きな危険を放置したくない方、よかったらコミットして下さい(ということは、よくなかったら、いつでも自由に去っていただいてかまいません、ということです)。

 みなさんのご支援とご参加を心からお願いします。


*以上の記事を、自由にリンクしたり、コピー、引用して広報に協力したいただけると幸いです。


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メッセージの種

2006年05月15日 | Weblog



 今日は一日、研究所の会報『サングラハ』の原稿を書くことで終わりました。

 ブログも会報も著書も……みんな生きる意味と希望のメッセージのつもりです。

 タンポポの綿毛の種のように、いろいろなところへ自由に飛んでいって、また花を咲かせてもらいたいものだと思うのです。



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究極の覚りまでの5段階1:五位説(ごいせつ)について

2006年05月14日 | 心の教育



 唯識では、覚りたいと思ったところから究極の覚りを得たところまで、大まかにいうと5段階あるとし、段階のことを「位(い)」といいます。

 第1段階は、資糧位(しりょうい)です。

 これは、修行を凡夫の迷いの国から仏の覚りの国への旅に譬えると、旅のための資金や食糧を準備する段階です。

 凡夫の国から仏の国への旅は、長い長い旅ですから、行き当たりばったりで、準備もなくガイドもなしに出かけたのでは、途中で迷ってしまい、下手をすると遭難してしまうかもしれません。

 しっかりとしたガイドブックを入手してよく読み、目的地のすばらしさにわくわくすると同時に、目的地までの道筋や交通手段、途中で起こりうるトラブルや危険についても、予めしっかり頭に入れておく必要があります。

 具体的にいうと、まず、お経や唯識の理論書などガイドブックに当たる仏教の文献を学んで、よく理解することです。

 それから、もちろん教えについて理論的に学ぶだけでなく、修行の方法についても学んでおく必要があります(このブログでは、この後、お話しすることになります)。

 さらに重要なのは、経験豊かなリーダー・旅行ガイドさんに当たる、よい師を見つけることです。

 現地に行ったことがなく、自分もガイドブックを読んだだけというガイドさんは、当てになりませんから、気をつけたほうがいいと思います。

 一緒に迷い、ひどいと無理心中・共倒れということなりかねませんからね。

 それから、修行の旅というのは楽しいだけではなくそうとう厳しい場面もありますから、励ましあう仲間はぜひ欲しいですね。

 そういう善い先生、善い仲間のことを、仏教では「善知識(ぜんちしき)」といいます。

 善知識に出会うことができたら、修行の旅、そして人生という旅そのものが、たとえ厳しくても方向はしっかりわかっていて、努力は必ず報われる、みんなでがんばれる、やりがいのある旅になるでしょう。

 さてしかし、いくら準備をしっかりしても、歩き出さないかぎり、それは旅にはなりません。

 「旅行」というくらいで、歩行・実行しなければ旅にはならず、目的地には近づきませんね。

 覚りへの旅の歩行のことを「修行」というわけです。

 修行を実行する段階のことを「加行位(けぎょうい)」といいます。

 行を加える、行に参加する、実践にコミットする、というふうな意味です。

 具体的には、この後お話しする6つの修行方法・「六波羅蜜(ろくはらみつ)」を実践することです。

 ここで、渋い、シブーイことを言っておかなければなりませんが、「仏教を学ぶ」ということの本当の意味は、行を実践する、六波羅蜜を実修するということで、仏教の本を読むのは、あくまでもその準備にすぎない、ということです。

 「仏教の勉強をしています」とか「仏教の研究をしています」というのは、それ自体とても大切なことですが、資糧位にいることであって、加行位には踏み出していない段階なのです。

 仏教を自分のものにしたいのなら、加行位に入る、修行の実践にコミットすることが必須です。

 これは読者にはぜひ、心に留めておいていただきたいことです。

 「良薬は口に苦し」とか「諫言耳に逆らう(心からの忠告はしばしば聞きづらいものだという意味)」という言葉もあるとおり、もしかしたら嫌味に聞こえるかもしれませんが。

 もちろん、「教養仏教」でいいという方には、強要するつもりはありませんし、できもしませんね。

 しかし、そういう方も含めみなさんに、「旅行ガイドや旅行記を読むのも楽しいですが、ちょっと面倒でもきつくても、実際の旅に出たほうがはるかにすばらしい体験ができますよ」とお誘いしておきたいと思います。



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覚りへの段階:時間をかけてステップを踏んで

2006年05月13日 | メンタル・ヘルス

 人間の病んだ心の仕組み、心の病の原因といろいろな症状、つまり八識と煩悩の話の後で、究極の健康状態になった心、つまり四智の話をすると、よく「四智なんて、自分の現状とはあまりにも差がありすぎて、確かにすばらしいけど、現実性のないただの理想論のように感じる」という感想が出てきます。

 私はそれに対して、「寝たきりの病人に、回復のプロセスのていねいな説明抜きで突然、あなたはオリンピックに出て金メダルが取れるようになりますよ、と言っても信じられないようなものですね」と答えます。

 まず、床の上に起き上がれるようになり、ベッドの手すりにすがって立てるようになり、歩行器を頼りに廊下をそろそろ歩けるようになり、松葉杖をついて歩く練習をし、かなり痛い思いもしながらしっかりリハビリをして、病院の庭くらいなら散歩できるようになり、退院してふつうの生活に戻れるようになり……というステップを踏んで健康を回復してから、ようやく軽いトレーニングができるようになります。

 そのステップは人によってさまざまですが、それなりに時間がかかります。

 「寝たきりから三日目で奇跡的な金メダル」なんていうことは、まあ起こらないでしょう。

 しかし、1年、2年、3年とかけて、奇跡的に復帰する選手はいるものです。

 それから、金メダルには到達できなくても、ふつう程度に健康な生活ができるようになる人はたくさんいます。

 唯識では、八識の凡夫から四智の仏・覚った人への成長・変容は非常に長い時間をかけてステップを踏んでいく必要がある、と考えられています。

 何年かがんばって修行して、ある時に一瞬はっと覚ったら、もうそれで終わり、というふうなことはないのです。

 まず、いわば、自覚症状があって自分が病気であることに気づいて医者にかかり、診断を受け、病気とその治療法の説明を受ける段階があることになっています。

 続いて、説明がしっかり納得できたので、実際の治療・リハビリを実行しはじめるという段階があります。

 この2つのステップだけでも、相当に長い時間がかかるというのです。

 なるべく手間と時間と費用をかけないでインスタントに治りたいと思うのは人情つまり凡夫の気持ちですが、唯識ドクターは「かけるものはかけないと治りませんよ」と一見クールに聞こえる、しかし本当にはいちばん親切なインフォームド・コンセントの手続きを踏んでくれます。

 今、この連載記事でやっているのは、いわばそういう手続きです。

 それから、ようやくベッドを離れて少しふらふらしながらでも歩けるようになるという感じの健康回復の本格的第一歩のステップに達します。

 しかし、それからのリハビリが非常に長いというのです。

 というか、リハビリからふつうの生活、それから軽いトレーニング、そして金メダルへの挑戦のためのハード・トレーニングと、回復のプロセスは切れ目なく続いていきます。

 そして、そういう4つのステップを全部踏み切れたら、いわば金メダル的な完璧な健康、というか超健康のステップにも行けるかもしれない、というわけです。

 その5つのステップを「五位(ごい)」といいます。

 さて、この譬えで考えてみて、みなさんは、「どうせ金メダルまでは行けそうもない」と思った場合、「それなら、ずっと寝たきりでいい」とか思ったりされるでしょうか?

 私は、たとえ金メダルは無理でも、がんばってリハビリして少なくとも健康なふつうの生活ができるレベルくらいまでは回復したいですし、できればジョギングか地域の運動会で走れるくらいにはなりたいと思います。

 それは、単なる理想論ではなく、現実性のある到達目標なのではないでしょうか。

 そして、そういう可能な到達目標の向こうに、かなわないかもしれない美しい夢として金メダルのレベルもあっていい、ということなのではないかと考えています。

 さて、五位の1つ1つの段階については、次回から説明をしていくことにしましょう。



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