環境問題と心の成長23

2009年10月29日 | 持続可能な社会




トランスパーソナルな段階の否認

 前回述べたように、ウィルバーは、心の成長におけるプレ・パーソナルな段階とトランス・パーソナルな段階を明確に区別し、人間にはパーソナルな段階を超えてトランスパーソナルな段階へと成長する可能性があると主張しています。

 しかし、そこで問題になるのは、現代の欧米や日本などの先進国の文化のなかでは、トランスパーソナルな段階が必ずしも社会的に認知されていないということです。

 先進国社会の主流(例えば政府)の考え方は、近代主義・合理主義がベースになっているため、「信教の自由」というかたちで宗教が社会のなかに存在することを容認はしていますが、基本的に主観的、前近代的、非合理的、つまりプレ・パーソナルなものとみなしており、社会の精神性の主流になることは認めていません。

 ですから、社会の主流によって行われる公的な教育の背後にある心の発達論には、社会に適応できる自我の確立つまりパーソナルな段階までしか含まれていませんし、当然、日本の教育界・学校ではトランスパーソナルな段階への成長を促進するような教育は行われていません。

 それどころか、プレ・パーソナルな段階と混同されたままむしろ否認され禁止されています。

 そのことをもっともよく示しているものの一つが、改正前の教育基本法第九条でしょう。念のために引用しておきます。


  第九条(宗教教育) 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。

  ②国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。


 この条項は、第一項に「宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」とあるにもかかわらず、施行時から最近まで一貫して、実際的にはほとんど第二項のほうだけが機能してきたのではないでしょうか。

 つまり「学校で宗教の話をしてはいけない」というふうに理解され、タブーのように機能してきたのです。

 したがって、宗教立の学校に行った場合を除けば、一般に日本の子どもたちはプレ・パーソナルな面もトランスパーソナルな面も含め宗教に触れる機会がほとんどないまま大人になっていきます。

 そうした状況は、教育界だけでなく思想界やジャーナリズムなど文化一般においても基本的には同じであり、したがって日本ではトランスパーソナルな段階へと人間成長を促進するような文化装置がほとんど存在していません。

 それに対して既成宗教の内部には、私の知るかぎりどの宗教もどの宗派でも、プレ・パーソナルなものとトランスパーソナルな体験が区別されないまま混在していて、社会の主流に対して理性を含んで超えるようなトランスパーソナルな段階があることを説得的に主張できる状況にはないようです。

 そのことは、環境問題を根本的かつ総合的に解決するための不可欠の内面に関わる要素が欠けているということであり、まさに根本問題だ、と私には思われます。

 アメリカにも共通する近代社会のそうした状況に対して、ウィルバーは先のような区別をしたうえで、さらに非常に説得的な解明と弁明を加えています。

 それは、東西の精神的・宗教的な文化の伝統のなかに、トランスパーソナルな領域にアクセスしたと主張する人々がかなりの数存在しているという事実に加え、その人たちが語っていることを見ていくと、そこでは単に「主観的な」つまり普遍妥当性のない体験が語られているのではなく、実はある点で科学と同じような手続きで確認でき、そういう意味で普遍妥当性をもった体験が語られているということを指摘したことです。

 彼はそれを明らかにするために『進化の構造』の他に、テーマをそれに絞った『科学と宗教の統合』(吉田豊訳、春秋社)も書いて、非常に本格的で詳細な認識論、科学論を展開しているのですが、本連載に必要な範囲で、その論旨をできるだけわかりやすく紹介しておきたいと思います。


体験と意味内容と言葉

 ウィルバーはフランスの言語学者ソシュールの理論などを参照しながら、「あるもの」が「ある」とか「ない」という主張が、どういう場合に妥当性を持つかという問題を論じています。

 私たちがふだん何気なく使っている言葉には、三つの側面があります。

 イヌを例にすると、言葉が示している対象である実際のイヌ、「犬」「イ・ヌ」という文字や音、それからその言葉を聞いたり読んだりした時に心に浮かぶものの三つです。

 そして、「イヌがいる」と言われた場合、ほんものの犬を見たことがない人は、「イヌ」という言葉を聞いても、その言葉が意味している内容が心に浮かんできません。

 意味内容が浮かんでこないので、実際の犬と「イヌ」という言葉を意味内容を通じて一致させることもできません。

 「イヌ」という言葉が意味を持つのは、実際のイヌを見るという体験をし、「イヌ」という言葉を聞いて、「ああイヌとはああいうものなのだな」という意味内容を理解したことのある人たちだけです。

 重要なポイントは、体験と意味内容を共有している人だけが、「イヌ」とか「イヌがいる」という言葉を有効にコミュニケーションできるということです。

 人間がやっている言葉による認識というのは科学も含めすべて、本質的にそういうものです。

 したがって、イヌを見たことのない人は、誰かが「イヌがいる」と言っても、「そんなもの、言葉だけで、いるわけない」と否定することも、「言葉がある以上、いるはずだ」と肯定することも、原理的にはできないはずなのです。

 「ここにイヌがいる」と言われたところに行ってみて、「ああこれがイヌというものなのか」という体験を経て初めて、「イヌがいる」という言葉がほんとうかうそかを確かめることができるようになるわけです。

 確かめるということについて、ウィルバーはわかりやすい例をあげています。

 誰かが窓のそばで、「雨が降っている」と言ったとします。

 その「雨が降っている」という言葉がほんとうかうそかは、自分も窓のところに行って空を見ればわかります。

 降っていれば、ほんとうだとわかり、降っていなかったら、うそだとわかるわけです。

 つまり、ある言説が正しいかどうかは、その言説の元になっている対象を体験することによって確認できる。

 そして体験するには、例えば窓のそばに行くという手続きが必要なのです。


トランスパーソナルな体験の妥当性

 同じようにトランスパーソナルな領域についても、体験をしていない人がその言葉を聞いても意味がわかりませんし、「ある」とも「ない」とも言えないはずなのです。

 そうすると、例えば坐禅・瞑想を経て体験されたことの表現である〈空〉という言葉について、坐禅・瞑想をしたことのない人には、ほんとうともうそとも言う資格はないわけです。

 ほんとうかうそかを確かめたい人は、自分自身が坐禅・瞑想を実践してみて、「なるほど、空という言葉で示された体験はある」とか「やってみたが、そんな体験は起こらない」とか言うことができるようになるのです。

 トランスパーソナルなものは、他のすべての妥当性のある知識を獲得する時と同様に、手続きをきちんと踏んで確かめることができる、とウィルバーは言います。

「覚りたい、空ということを知りたいのなら、坐禅をしなさい。坐禅をするとこうなるのだ」という解明があり、そして自分もそれをやってみるとああそうか、と確認できるという、あらゆる知識獲得の普遍的なステップについて、トランスパーソナルな体験は開かれているというのです。

 ただし、トランスパーソナルな体験をした人々自体、「これは合理性の段階ではわからない」と言っているのですから、「合理性でわからない以上、それは存在しない」というふうに否定する資格は、実は合理段階にある人にはないはずです。

ただし、それが非合理かどうかは合理段階の人に判定する資格があります。

「合理性を含んで超えている」という場合、その合理性の部分は合理段階で判定できますが、そこから先については指示されたとおりのことをやってみて確認するしかないし、それは可能なのです。

 人類のスピリチュアルな伝統では――いつも必ずしも完璧なかたちではないにしても――「こういう体験をしたかったら、こういう行をしなさい。その行をするとこういうことが起こる」というふうに語られており、そのとおりやると、同じことが追体験できるようになっています。

つまり、そこにスピリチュアルな体験の普遍妥当性があり、いわば「スピリチュアリティの科学」が成り立つ可能性があるのだ、とウィルバーは主張しています。

 もしスピリチュアリティの科学が可能になれば、社会の構成員全体へのスピリチュアリティの教育も可能になり、そうすると社会全体のスピリチュアリティのレベルは飛躍的に向上し、それは環境問題の根本的解決にきわめて大きく貢献することになるはずです。



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環境問題と心の成長22

2009年10月16日 | 持続可能な社会




個人性を超えた(トランス・パーソナルな)発達段階

 進化は、個人の意識についても人類の意識についても、前のものを「含んで超える」(ヘーゲルのいう〈止揚〉)という構造になっている、とウィルバーは指摘しています。

 全宇宙の137億年にわたる進化も、その一部としての人類の進化も、個人の進化も、すべて前のステップを含みながら超えるという構造になっていて、前のものを否定してしまうのではなくて、含みつつ前の段階にあった限界を超えた新しいものが出てきているという構造になっているというのです。〈創発〉(エマージェンス)といいます。

 ウィルバーによれば、人類はすでに先駆者においてヴィジョン・ロジック段階のその先まで意識発展を遂げています。

 東洋・仏教についていえば、ゴータマ・ブッダやナーガールジュナ(龍樹)やアサンガ(無著)、西洋・キリスト教でいえばイエス、プロティノス、マイスター・エックハルトなどなどの人々は、自己と自己を超えた大いなるものとの根源的一体性に目覚めるという意識の最高段階に達しているといってまちがいないでしょう。

 そこで重要なことは、そういう人々の思想や行動を検討してみるとある面できわめて理性的であるということです。

 もちろん理性を超えている面もあるのですが、それは理性を「含んで超えている」ということであって、けっして理性に反したりそれを放棄したりしてはいないのです。

 確かに伝統的な仏教は、古代インドの宗教文化の世界から生まれたものであるため、六道輪廻や十界といった神話的な世界観を含んでいます。

 しかし仏教の中核にあるものはそうした神話的な世界観ではない、と私は理解しています。

 仏教のエッセンスは、現代人にとってもきわめて合理的に理解できるものであり、理解したうえで、さらにその先の単に理性だけでは到達できない、語りえない世界があることを示すものです(拙著『唯識と論理療法――仏教と心理学・その統合と実践』佼成出版社、参照)。

 例えば唯識の理論の大成者アサンガおよびその語っている唯識の教えは、けっして非合理的でも非論理的でもなく、きわめて論理的・合理的です。合理的な論理を駆使しながら、合理性を超えた世界があることを示そうとしています(拙著『大乗仏教の深層心理学――摂大乗論を読む』青土社、参照)。

 その他前にあげたような人類の先駆者についても検討してみると、人類の意識の発達・進化は理性段階で終わりではなく、ヴィジョン・ロジック段階でも終わりではなく、さらにその先があると考えてまちがいないようです。


自我の成長とビッグ・クエスチョン

 ヴィジョン・ロジックの段階では、理性的な自我が形成され、さらに自分が世界の中心ではない、いろいろな立場がある、みんながそれぞれの権利を持っているといったことが展望できるようになるのでした。

 しかし、世界全体を見渡しながら考えるというより成熟した新しい視点が確立できると、その一方で新しい問題も起こってきます。

 そういう豊かに成熟した大切な自己そのものが、実は有限である・必ず死ぬ存在であることの自覚です。

 例えば、生後すぐの赤ん坊は自我が確立していませんから、おそらく自分がやがて死んで無になるのではないかという死の不安・恐怖を感じることはないでしょう。

 自我が育ってくるのと並行して、その自我がやがては死ぬものらしいという自覚が育ってきます。早いと三歳くらいから五、六歳にかけて、多くの子どもが口にするしないは別にして、「ぼくは死んだらどうなるのだろう?」という疑問をもつようです。

 そういう問いを英語で「ビッグ・クエスチョン(大きな問い)」といいますが、不幸にして近代以降の理性・科学的なコスモロジーが主流の社会では、それに対する答えはありていにいってしまえば「無になる」とか「物になる」とか「骨・灰になる」、でなければ、いくらか慰めになりそうな言い方でもせいぜい「自然に還る」くらいしかありません。

 それはあまりにもきびしいので、現代の多くの親は、そういう問いに対して直接答えることができず、例えば「そんな暗いことを考えていないで、遊んでらっしゃい」とそらすようです。

 そうした対応は、子どもに対し暗にそうした問いを禁じ抑圧するという結果になります。

 子どもは直感的に、「こうした問いは問うても答えてもらえないものであり、問うてはいけないのだ」と思うのです。

 (ごく最近、「そういう質問をしたら、親父になぐられた」という事例を聞きました。お父さんも答えに詰まってしまい、子どもから挑戦されているとかバカにされているというふうに取ったのでしょうか。それにしてもちょっとひどい話で、これは「暗に」ではなくあまりにもあからさまな禁止です。)

 そこで大きな問いはいったん心の奥底に抑圧されるのですが、やがて思春期つまり自我の確立期になるとふたたび浮上してくることが多いようです。

 しかし、ここでも親や教師やメディアからは答えが得られず、むしろふたたび禁止・抑圧される場合がほとんどです。

 私が大学で接している学生たちの報告に典型的なものがありました。

 高校生の時、倫理の教師に「人間はなんのために生きているのか。死んだらどうなるのか」といった問いをしたら、「そんなことを考えている暇があったら、英語の単語の一つも覚えろ。そんなことは大学に行ってから考えろ」といわれたというものです。

そして、大学に入って大学の教師に聞くと、「自分で考えなさい」というのが答えだったというのです。

 ビッグ・クエスチョンの答えは最終的にはもちろん自分で探すものであるとしても、人生の先輩は次世代の子どもたちに「自分はこう考えている」と、考えるためのヒントは提供すべきではないかと思うのですが。

 そこで、親や教師にならってビッグ・クエスチョンを問うことをやめ・抑圧した人間は、人間としての心理的成長もそこで停止してしまう、と私は考えています。

 自我が確立しつつある段階、さらにその先の自己実現的な豊かな生き方ができるようになった段階ではいっそう、そのかけがえのない価値ある自分がやがては必ずなくなる=死ぬ存在であることが自覚され、非常に実存的な不安が生じてくるわけです。

 その不安を抑圧するのでなければ、自我が確立し自己実現ができただけではもう問題が解決しません。

 このかけがえのない当の私がやがて消えてしまう私だという自覚に達します。

 その時、消えてしまわない永遠なるものを発見したいという思いが切実に出てきます。

 そしてその時こそ、個人性・パーソナルを超えたトランスパーソナルな段階への発達の機会――それは同時に好機でも危機でもありますが――なのです。

 私たちが宗教的・霊性的な欲求を抱くのは、たいていの場合、人生に限界を感じた時です。

 仕事や地位や家族といった、自分にとってきわめて大切なものを失った時、老いを感じる時、重い病気に冒された時、それを超える何かを求め始めます。

 そういう時、私たちは「こういう悩みや苦しみを超えた世界はないのか」と感じ、超える何かを求めますが、ウィルバーは、そういう個人性を超えた体験世界があることが歴史的に一貫して語られてきている事実をあげ、「超える何かはまちがいなくある」「超えた段階はある」というのです。


前(プレ)パーソナルと超(トランス)パーソナルの区別

 ただ個人性を超えた段階を考えるうえでの問題は、伝統的な宗教には先にも述べたような微妙な混同がしばしば見られることです。

 つまり、同じく「宗教」と呼ばれる領域の中で、理性以前の呪術や神話の世界と、理性やヴィジョン・ロジックを含んで超えるより高次の霊性的な世界の両方が語られていることです。

 そしてそれだけではなく、文化的な存在としては同じ宗教の中に両方の要素が入っています。

 例えば日本では、一般的に「仏教」というと、祟りとお陰、お守りやお札、加持祈祷、ご利益などの呪術的行為や、地獄―極楽、輪廻、因果応報といった前近代的・神話的世界観だと思われがちです。

 しかしいうまでもなく、「仏教」の中核にあるのはブッダやナーガールジュナやアサンガの語る覚りの世界です。

 それこそが、本来の「仏教」の中核なのです。

 こうした問題についてウィルバーは、理性的な個人=パーソナルな段階と対照して、それ以前のプレ・パーソナルな段階とそれ以後のトランス・パーソナルな段階を明確に区別することを提案しています。

 そして、近代以前にもプレ・パーソナルな意識だけでなくトランスパーソナルな意識が先駆的に存在してきたことを指摘しています。

 トランスパーソナルな意識は、先駆的に存在したために、同じ「宗教」の世界でプレ・パーソナルな意識と混在していますが、トランスパーソナルな意識は理性を「含んで超えている」のですから、理性以前のプレ・パーソナルな意識とは明確に区別ができる・すべきだといっています。

 前回述べたこととあわせてポイントをはっきりさせておくと、本格的な環境問題を引き起こしたのは確かに分別知的理性を獲得した近代人ですが、だからといって理性以前の前近代的な意識に戻ることによって環境問題を克服することはできないと思われます。

 個々人、とりわけ社会のリーダーたちが理性を含んで超える段階に成長することによってのみ、環境問題の根源的な克服の展望が開けてくる、と私は考えています。




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環境問題と心の成長21

2009年10月08日 | 持続可能な社会





日本的自然感から合理的自然観へ

 日本には伝統的に、自然への没入・一体化に憧れる文化があります。

 そのためかつて「我々日本人は自然を愛する民族だ」という自己イメージがありました(現在でも残っているのかもしれません)。

 ところが、特に戦後の高度成長期にそれに伴って公害が大きな社会問題になった頃には、国際的に「こんなに自然を破壊している民族はいない」と批判されるような状態になりました。

 幸いにしていわゆる環境技術の進歩によって、最近は目立った個別の「公害問題」はかなりコントロールできるようになっているとはいえ、決して全体としての「環境問題」が解決の方向に向かっているとはいえないことは、これまで述べてきたとおりです(第3回に掲載した「問題群としての地球環境問題」等参照)。

 なぜそういうことになるのかを考えてみると、一つには「自然というものは、人間と一体であり、人間をいつも守ってくれる母のような存在だ」という日本の伝統的自然感は、決してエコ・システムと人間社会との関係を科学的に認識できるような合理的自然観ではないからだと思われます。

 つまり、「自然環境には資源と浄化能力に関して限界がある」といった理性的な認識なしに、一方では神話的な「人間が何をやっても結局は受け入れ守ってくれる母なる自然」といった思い込みを持ちながら、もう一方限度を超えた近代産業主義的な経済行動を続けていたら、予想もしていなかったしかし必然的な結果として起こったのが日本の「環境問題」だったのではないでしょうか。

 繰り返すと、いわゆる「環境問題」は、理性以前の、他者や自然環境が差異化できていない呪術的・神話的な段階に戻ることによって解決できるわけではなく、差異化して認識したうえで統合する視点を獲得することによってのみ、解決の糸口がつかめるのではないか、と私は考えています。

 神話的な世界観や呪術的な世界観では、エコ・システムの具体的な仕組みは認識されていません。

 人類は、理性的な自我を確立することによって環境問題を生み出してしまいましたが、同時にそれによって初めて、エコ・システムがどういうものであるかを認識できるようにもなったのです。

 これからほんとうにエコロジカルに持続可能な社会を創り出していくためには、エコ・システムの認識が不可欠であり、さらにそれにどう接していくかという方法の認識や、それを実行できるパーソナリティや、社会システムをどう変えていくかといったことが問題になりますが、それには何よりもまず形式操作―エコロジカルな認識のできる理性的な自我の確立が必要なのだといっていいでしょう。


ヴィジョン・ロジック段階――総合的合理性

 前回まで見てきたように、ウィルバーはピアジェの発達心理学を援用しながら、「自他が完全に混沌とした状態で同一化している状態から、自他がはっきり差異化された状態、自我の確立に達することによって、かえってエゴ中心性がだんだん克服されていく」と捉えていました。

 しかし、ウィルバーはさらに、人間の発達はそこからまだ先があり、先までいかなければいけないと言います。

 人間の意識の発達は合理性―自我の確立で終わりではなくエゴ中心性の克服には、まだその先があるというのです。

 そこから先の高次の段階は、かつて仏教では〈無我〉という言葉で表現されていた段階ですが、ウィルバーは、理性―自我段階の後、ただちに無我的な段階に発達・移行するとは考えていません。

 その前に、個人としても集団・人類としても、人間の意識はもう一段階経ていく必要があると言い、その合理性の次の段階を「ヴィジョン・ロジック段階」と呼んでいます。

 それは、例えば早いところではすでにヘーゲルが唱えた「弁証法的理性」のような、ただ物事の部分おのおのを合理的に見るだけでなく、全体を総合的に展望(ビジョン)するような、より高次の理性のあり方、総合的に世界を捉える認識・論理(ロジック)の段階です。

 具体的には例えば、私にとって合理的―有利かということだけでなく、あなたにとってもそうか、私たちにとってもそうかということを、全体として展望することのできる総合的な理性・論理性の段階を意味しています。


ヴィジョン・ロジックと人類の未来

 今、人類・国際社会の平均水準はとりあえず理性段階になっており、いわゆる先進国は我が国を含めてどこも、社会を営むうえでの建前は理性・合理段階にあるといえるでしょう。

 しかし他方、世界全体として見れば、実際上は合理段階以前の神話段階にあって自国・自民族の神話にこだわっている国も少なくないのが現状です。

 そうした状況で、神話段階にある国はもちろん合理段階に達した国でも、自国中心主義を克服することはきわめて困難です。

 例えば私にとって合理的か、うちの会社にとって合理的かということと、日本にとって合理的かということ、世界にとって合理的かということはレベルがまるでと言っていいほどちがっているからです。

 特に残念ながら日本の小市民は、私・我が家にとって合理的か(得か)、私の所属する組織にとって合理的(利益につながるか)かくらいまで考えるのが精一杯で、日本全体にとって何が合理的かを本気で考える人も多くはないようです。

 まして、人類にとって合理的か、生態系にとって合理的かというレベルまでものを考える人は、これまた残念ながらきわめて少ないのではないでしょうか。(悲観して言っているわけではなく、現状認識です。それが単なる偏見であれば幸いなのですが)。

 ここで注意しておかなければならないのは、自国中心主義を克服するとは、自国を否定することではなく、自国も生きながら、他国も生きられるグローバルな調和のとれた世界とはどんなものなのか、全体的な展望を持つことだということです。

 今、人類が直面している国際金融の破綻から生じた大不況、環境、世界平和などの問題は、まさにグローバルな問題ですから、本音で自国―自民族中心主義を超えてグローバルつまり地球中心主義的に考えることのできる、ヴィジョン・ロジックという意識水準に達している人々、特にリーダーが増えないかぎり、場当たりの対症療法的な対策はできても、本質的で永続的な解決策の構想は不可能ではないかと思われます。

 世界のリーダーの多数が、「我が国の利益」だけでなく、「各国間の利益の矛盾の調整」だけでもなく、「どういうあり方が、我が国にもよく、他国にもよく、生態系全体にとってもいいのか」という発想ができるようになった時に初めて、そうしたグローバルな問題の解決の糸口が見えてくるのだと思われます。

 しかし今のところしばしば開かれる環境に関わる国際会議でも、自国中心主義を克服できない国が多く、「環境も大事だが、我が国の景気の回復のほうが先だ」とか「我が国として貧困を脱することのほうが優先課題だ」といった主張のぶつかりあいと妥協にとどまって、問題の本質的な解決に向かうような結論には到っていないようです。

 そうした個人合理性や特定の集団合理性では、人類はもう先に進めないことは明らかであり、しかも幸い合理性自体の中にそれを超える要素がすでにあって、それをグローバルに使うだけで、意識のもう一つ先のステップまで進むことができる、人間の意識はヴィジョン・ロジック段階まで発達する可能性をもともと持っている、とウィルバーは言っています。

 そういうふうにウィルバーは、心の発達段階を飛び越えた覚りの話をせず、順序として、まず理性の確立、そして次はグローバルな理性の確立が必要だと言っています。

 ともかく人類の平均的水準は、まだ先進国でも建前が合理性になったという段階であり、国民全体が合理的に考える能力を身に着けているところまでいった国は少ないようです。

 日本もいちおう建前は合理性ですが、国民の意識水準はなかなかそうなっていません。

 しかし幸い北欧諸国のように、国民の相当多数が合理段階に達しており、すでにヴィジョン・ロジック段階まで達したリーダー群を持っているのではないかと推測できる国もすでに存在しています(典型的には1972年国連人間環境会議以来のスウェーデンの国際的発言と行動を追ってみるとそう推測できます)。

 ともかく、人間・人間集団の意識が、個人合理性や国家合理性ではなく、世界合理性、生態系合理性のところまで展望できる合理性、ヴィジョン・ロジックの段階に進化することによってしか、グローバルな問題の解決のめどはつかないでしょうし、そこまで達するには確かにさまざまな困難があるのですが、幸いにして個人レベルでも国家レベルでもまちがいなく希望はある、と私は考えています。



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