なぜとまらなかったか1――日本の場合

2006年08月31日 | 持続可能な社会

 そこで次に、これまでなぜとまらなかったか、私の推測をお話しします。

 まず日本について言えば、政治家、官僚、経済人の多数、つまり社会のある意味で主流にある方たちは、多くの市民のみなさんと同様、これまで紹介したようなデータをいちおうは見てはおられる(?)ものの、まさに「成長の限界」はもはや遠い未来のことではなく現実の問題になっていることを理解するところまで突き詰めて読み取っておられないように思えるのですが、どうでしょうか。

 ですから、いろいろな政党の政策課題を見ると、8番目とか10番目とかぐらいに環境と出てくるのだと思います(ごく最近は少しましになりましたが)。

 警告から35年あまりたった今でも、日本には環境の問題を最優先課題にしている有力政党が一つもありません(みどりの会議も前回の参院選で議席がゼロになり、代表の中村敦夫氏は政界を引退しました。)

 学者やマスコミ関係者のみなさんは、警告、批判、問題提起はすごくするのですが、それでとどまってしまいがちです。もちろんねばり強く長年市民運動に関わってきた方もいらっしゃいますが、運動に関わらず客観的な立場を保って、学者として冷静な知識や認識をお伝えする、警告するという姿勢を堅持する学者さんが多いようです。

 そして市民は何をしているかというと、ほとんどが「みじかなできることからする」というスタイルのリサイクルやネットワーキングや、場合によって批判や抗議行動です。

 これはつまり、日本では、持続可能な社会を創造することを本気で最優先課題とする人やそういう集団が社会の主導権を握っていないということです。それは、ただ主導権を握れなかったというだけでなく、握ろうというしっかりとした意思がなかったからだ、と私は見ています。

 これは、スウェーデンやその他の北欧諸国に比べて、あまりにも大きな違いです。前回も述べたように、スウェーデンは政府=国家が主導して「エコロジカルに持続可能な社会」を目指しているのです。

 なぜそういうことになったのかというと、70年までの日本の革新運動、市民・学生運動が70年で大きな挫折を体験し、そのまま回復していないということがあるでしょう。

 それ以後、心ある市民ほど、政治不信というか、深刻な政治・運動・組織アレルギーに陥っていると思います。

 多くの市民は、本格的に大きな運動や組織を立ち上げることをきわめて嫌って、ネットワーキング方式で一生懸命いいことをやってきたのですが、決して本気で政治・経済の主導権を握ろうとはしてこなかったように見えます。

 しかしこのことは、あえて言うと、日本の民主主義がきわめて未成熟だということを表わしていると思います。

 今さら言う必要もないほどのことですが、デモクラシーの原語のギリシャ語は「デーモス・クラティア」です。「クラティア」というのは権力ということです。民主主義というのは、「市民が権力を握る」ということです。民主主義、「人民が主になる」というと言い方がソフトになってしまいますが、本来の民主主義は「市民が権力を握る」、「市民の代表が責任をもって権力をになう」ということです。

 日本国憲法の前文では「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」となっています。

 つまり国の政治というものは、①国民に信託された「国民の代表者」が②「国民の福祉のために」③「権力を行使する」ものだ、ということです。この3つの要素のどれが欠けても、政治は歪んでいきます。

 そして、現在の日本の市民――はっきり「国民」という言葉を使うのに抵抗があり、こういう言い方になりがちなところにすでに大きな問題が潜んでいると思いますが――というより、「国民」の多くが忘れていることは、①②を大前提として、しかしはっきり③がなければ、国政=国全体の政治は動かないということです。

 国政レベルの対策なしに、環境問題が解決するとは思えません。さらに国レベルの対策さえできないのに、地球環境全体の悪化がとめられることはありえないでしょう。

 それに対し、まず国政レベルの政策が実施され解決に向かいつつあり、さらに世界全体に影響力を及ぼそうとしているのがスウェーデンです。

 しかし、今日本のいわば良識派の市民=国民は「権力をもつとすぐ腐敗するのだ」と思い込んでいて、「権力は握らないほうがいい、権力に対して絶えず距離をおいて、いつも批判的な立場で抗議行動をする」というスタイルをとります。そして、ネットワークを広げているとそのうち世の中がよくなるのではないかと思って35年やってきたけれども、よくならなかったのです。少なくとも、こと環境についてはよくなっていない、と先にあげたデータを元に私は思います。

 つまり、心ある国民が、国民の代表として、国民の利益のために、権力を握るということをはっきりと自覚的に課題にしなければ、先に進めないのです。

 政治・運動アレルギーを克服しないかぎり、日本人は先に進めません。

 ところが、戦前から戦後にかけて、一貫してデモクラシーを成熟させ続けてきたスウェーデンでは、「ほとんど腐敗しない権力」が実現されているようです(岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』岩波新書、参照)。そういう事実をよく学ぶことによって、日本人の政治アレルギーも克服できるのではないか、と私は期待しています。



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全体状況は悪化しているが希望もある!

2006年08月30日 | 持続可能な社会

 ここで確認を共有したいのですが、すでに60年代半ばに警告はあったし、さまざまな人やグループが誠実で真剣な努力を重ねてきたことはまちがいありません。

 しかし、地球環境は全体としては悪化しています。まず、このことをはっきり認識しなくてはいけないと思います。

 お話ししてきたように、最新のデータを見ても、全体としての地球環境はさらに悪化するばかりで、近い将来での改善の見込みは立っているようには感じられません。拾っていくと目の前が真っ暗になりそうな話ばかりです。

 さまざまな真剣で誠実な努力が、悪化の速度を遅くするうえで大きな貢献をしたことは確かですし、一生懸命やってこられた方にケチをつけようという気持ちはまったくありません。しかし、冷静にみると、にもかかわらず全体状況はあきらかに悪化しているのです。

 かつて私の研究所で、大井玄先生に講座をもっていただいて、1960年代には世界で4番目の面積があったアラル海――カスピ海の東にあり、カザフスタンとウズベキスタンの国境にまたがっています――が干上がってなくなりつつあることを、現場で見てこられた体験を通して報告していただきました。

 また、大井先生からコピーをいただいたペンタゴン(アメリカ国防省)発表のレポート(鳥取環境大学環境問題研究会訳)によると、温暖化→氷河の溶解と降水量の増大→北大西洋の淡水化→暖流であるメキシコ湾流が止まる→ヨーロッパのシベリア化→食糧不足に伴う世界規模の政治の不安定化、紛争の危険が増大していることが予測されています。しかもメキシコ湾流が止まってしまうのは、早ければ2010年頃かもしれないというのです。

 深刻にならざるをえない事例は、この他、挙げていけば無数にあります。そうした状況に対して、「今、多くの環境学者たちは非常な無力感に陥っています。私もそういう気持ちがします」と大井先生はいっておられました。日本でもっとも豊富で正確なデータに接する立場におられた方の言葉は、非常に重いものがあります。

 しかし、それに対して筆者は、あえて3つのことを申し上げてきました。

 1つは、「無力感」に陥る気持ちは十分、十二分にわかりますが、でも論理的・正確に捉えると、力が「ほとんどない」は、「まったくない」ではなく、「すこしはある」ことであり、そのことをちゃんと確認すれば、まず無力感から「微力感」くらいにはなるはずではないか、ということです。論理療法的に言えば、「無力感」は、非論理的な考え方から生まれた不適切な否定的感情ということになるでしょう。

 そして、私はいつもいうのですが、「微力でも協力すれば強力になる」のではないでしょうか。

 さらに2つめは、それだけを集中的に見れば「ある」、つまり環境問題解決のための力や方策はまちがいなくあるのであり、しかも確率的には―つまり比較すると―きわめて低いとしても、潜在的には大きな可能性を秘めていると考えることもできるのであり、私たちはその可能性に賭けるほかないのではないか、ということです。

 「大きくて自分一人の力ではどうすることもできない」と感じられるような危機(あるいはその情報)に直面した時、私たちが取りうる態度の選択肢がいくつかあり、どんなに小さくてもあるのならその可能性に賭けるというのが最善の選択だ、と筆者は考えています。

 それに関わって、筆者がこれまでにご紹介してきたような危機のデータを知ってから、それをまわりの方に伝えようとして受けた反応には、典型的に次のようなものがありました。

①「そういう話を聞いていると気持ちが暗くなるだけだから、聞きたくありません」。
 これは、非常に多く見られるもので、無視・逃避、あるいは抑圧という態度です。

②「今までもいろいろ大変だといわれてきたけど、結局どうにかなってきたじゃないですか。今回もおなじじゃないんですか?」。
 これは、危機の過小評価、たかをくくるという態度です。

③「個人でどうにかできるようなことじゃないでしょう。人類が滅びるとしても、それはそれでしかたないんじゃないですか?」。
 これは諦め、責任放棄という態度です。

④「何かしたいんですが、私に何ができるかわからないんです」。
 これは、問題意識を持っていながらまだ解決の方向性が見つからないという状態の場合もありますが、あえて率直にいうと、思考停止、勉強不足にすぎないこともあります。

⑤「私は環境には気を使っていて、~をやっています。これ以上、何をすればいいんですか」。
 これは、いわゆる「環境派」の市民の方によく見られるもので、環境問題は、近代という時代、近代産業主義の行き詰まりを示しているということ、地球規模の問題だという時間と空間のスケールへの認識不足であることが多いのではないでしょうか。

 いうまでもありませんが、これらのどの態度も問題解決にはつながらない、と筆者には思えます(こういうことをはっきりいうから、嫌われるんでしょうね、あーあ)。

 「大きくて」=地球規模で、「私一人の力ではどうすることもできない」=個人は微力なのなら、「地球規模の影響力のある強力な人間集団を組織して解決に当たる」というのが、唯一ありうる問題解決への道だと思います。これは、理の当然だと考えますが、いかがでしょう。

 では、地球規模の影響力のある強力な人間集団はあるでしょうか。『サングラハ』第75号(2004年5月)では、以下のように考えていました(とても残念ながら情報不足=勉強不足でした)。

                       *

 …資本主義経済―だけでなく社会主義経済を含む近代産業主義経済―には、一時的かつ局地的に―つまり近代、先進国で―貧困を克服できたというプラス面はあっても、原理的にいって、エコロジカルに持続可能な社会を構築できないという決定的な限界があると思われます。(中略)

 まず環境破壊について簡単に言えば、原因は近代の産業主義にあると思われます。そして、資本主義国では産業は国に所属した私企業が担っており、社会主義国では国家が産業をコントロールすることになっています。つまり、全体としての産業主義を変更することのできるのは国家だけであって、民間のエコロジー運動でもなければ国連の環境機関でもありません。

 もちろん国家主導でやったとしても、近代産業主義的な経済システムから真に持続可能な経済システムへ移行するのは、きわめて困難です。しかし、他に道がないとしたら、その困難な道を志向するほかない、と筆者は思うのです。(中略)

 筆者は、これまでも公言してきたとおり、まず日本を自然成長型文明を志向する国家にしたい、そしてそういう日本が世界のオピニオン・リーダーとして世界に働きかけることによって、世界全体を自然成長型文明へと移行・変容させたい、と考えています(略)。

 これは、どんなに大げさな夢のように聞こえても、ほとんど不可能なくらい困難に見えても、ほんとうによりよい世界を望むのなら、他には考えようがないのではないか、と思っています。
                       *

 しかし、幸いなことに、「近代産業主義的な経済システムから真に持続可能な経済システムへ移行する」という課題に、国家単位で取り組んでいる国があったのです。

 その代表がスウェーデンですが――繰り返し紹介してきましたが、小澤徳太郎『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書)をお読みになっていない方はできるだけ早くお読みになることを強くお勧めします――それだけではなく、北欧諸国はみな「持続可能な社会」を政府主導で目指しているようです。

 それは、北欧諸国にとって、必ずしも「大げさな夢」でも「ほとんど不可能なくらい困難」でもなく、今実現しつつある目標なのです。

 そして、特にスウェーデンは、これまでも国連の環境政策に大きな影響を与えてきましたが(例えば、1972年、スウェーデン・ストックホルムでの国連環境会議開催!)、さらにEU加盟後はEU全体の環境政策にも大きな影響を与えつつあります。

 環境(と経済と福祉の巧みなバランスの取り方)に関して、スウェーデンはこれからますます、世界のオピニオン・リーダーになってくれることでしょう。

 スウェーデンの現状を知ったことは私にとって、「希望ある衝撃」でした。

 その衝撃が、「日本も〈緑の福祉国家〉(=エコロジカルに持続可能な国家)にしたい! スウェーデンに学びつつ」のシンポジウムの企画につながっています。

 まず日本がしはじめたのではなく、「日本も…したい!」であるのは、日本人としてはちょっとだけ残念ですが、そんなことにこだわっている場合ではありませんね。

 どこの国が掲げたのであれ、希望は希望です。



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ポイント5:温暖化はこのままではとまりそうにもない

2006年08月29日 | 持続可能な社会

 先日、シンポジウムの発題者の一人である国立環境研究所の西岡秀三先生にお会いしてきました。

 西岡先生は、いわゆる地球温暖化・気候変動に関して日本を代表する研究者のお一人です。

 いただいた資料(国立環境研究所『地球環境研究センターニュース』2006年3月号)によれば、西岡先生は、「決して望ましくないがありえそうな気候変化物語」と題して、温暖化問題の現状を次のように考えておられます(赤い字の部分が引用、太字による強調は筆者)。


 ……工業化以前から0.6度の全球平均温度上昇が見られ、大気中の温室効果ガス濃度が上昇していることは事実と誰もが認める。……懐疑論者の問題提起は相変わらず続いているが……1970年代から大規模に開始された地球科学研究の集積、多要因を考慮したシミュレーションの結果からは、化石燃料の温室効果ガスが気温上昇の原因であるとの解釈が確定されてきている。


 氷河や永久凍土が溶け始め、南に住んでいるはずの生物が北に移動し始めており(先日西岡先生も出演しておられたNHKの番組では、沖縄や八丈島のエイが瀬戸内海に侵入してきていること、沖縄のチョウが神奈川県大磯まで来ていることなどを報道していました)、世界中で異常気象が発生しています。

 気候変動に関する政府間パネル(IPCC)では、「こうした変化が専門家の予想以上に早く進展しつつあることに危惧の念を示した(2006年1月)。」とのことです。


 気候変化で確かなことが一つある。大気中の温室効果ガスを増やし続けている間、気候は変化し続ける。気候変化をとめるには、大気中の温室効果ガス濃度をどこかで一定にする、すなわち年間の排出量と吸収量を斉しくせねばならない。地球の吸収量(陸域と海洋による)に等しくするには今の排出量を半分にまで減らす、大幅な減少が必要なのである。


 温室効果ガスの「今の排出量を半分にまで減らす」ことは、したいかしたくないかとか、できるかできないかではなく、ほんとうに持続可能な世界を創り出すためには必須の条件なのです。

 大量生産-大量消費-大量廃棄――廃棄されるものには温室効果ガスも含んでいます――というタイプの「経済成長」は、温暖化問題からしても、原理的にいって不可能ではないでしょうか(西岡先生がそこまで言っておられるわけではありませんが)。

 しかし、「改革なくして成長なし」が日本政府の方針であり、当面、すぐにはこの原理的な事実を飲み込むことができないでしょう、はなはだ残念ですが。


 気候システムには大きな慣性がある。今すぐ排出量を地球の吸収量にまで減らし、大気中の温室効果ガス濃度を今のままに保ったとしても、これまで平衡温度まで上げ切れなかった熱慣性分の上昇が今後も続き、究極にはさらに1度上がる。減らさないで今の排出量を維持し続けると、究極的に2~6度の上昇となる……。今の温暖化傾向からはもう逃げられないのである。少なくともこれからの数十年間、世界は温暖化した地球の上で生きていくことになる。

 この温暖化傾向にブレーキをかけることが出来るだろうか?気候の安定化に向けて、危険な目に遭わぬままソフトランディング出来るだろうか?答えは多分ノーである。このままでは危険なレベルを超えて温暖化が進む。そして、その後でそれをなんとか安全なレベルに押さえ込むための努力をすることになるだろう。危険なレベルを一旦は超える、いわゆるオーバーシュートしてしまう可能性は必至のようである。オーバーシュートしっぱなしでは破局に進む。それからも懸命な抑止努力がいるのは当然である。

 これは、悲観的とか楽観的とか評することのできない、客観性をもった予測です。
 これまで、様々な心ある人々の行なってきた努力は、オーバーシュートをとめるには不足していたらしい、というほかありません。
 それは、不足していたからダメだというのではなく、もっと、そして適切な努力をする必要がある、ということです。

 西岡先生は、きびしい予測をしておられますが、しかし絶望はしておられません。


 いつになったら温室効果ガスの本格的な削減が始まるのだろうか?人間社会のさがから見て、温暖化の被害が目で見て明らかになるか、突如起こりかねない大災害への恐怖を感じないと、本気の削減には進まないであろう。ただ、これからの10~20年の間に、科学の観測と予測がこれまで以上に警告を発するであろうし、これに応じて危険の切迫感は世界にみなぎることは予想できる。
 望まれることでは勿論ないが、気候変化の場合、主として途上国のあちこちから報告される毎年の干ばつ・飢饉・水不足のようなじわじわ進む被害の報告よりも、欧州の洪水頻発や14兆円の被害を出したカトリーナのような先進国で起こる大災害、さらにはabrupt change といわれる、気候システムの構造を変えてしまうような変化(海洋熱塩循環の停止、凍土地帯のメタン放出)あるいは、起きれば確実に被害を長期にわたって及ぼすグリーンランドや南極氷床の融解への懸念が、global participation に向けた交渉を加速する可能性が高い。……こうした abrupt change の兆候が様々に確認され警告されてきて、ようやく世界中で温室効果ガスの排出利用を削減しようという機運が盛り上がる。いよいよ世界は画期的な低炭素社会への覚悟をせねばならない。

 しかし、そうしたきびしいプロセスを経ながらも、最大の努力をして対応したとき、2050年頃から、温室効果ガスの排出が削減の方向に転じ、「今世紀末には排出量が吸収量に等しくなり、気候も安定するだろう。」といっておられます。

 とはいっても、それは「最大の努力をして対応したとき」であって、努力なしや努力不足では、そうはならない、ということでもあります。

 究極の持続可能世界とは、入りと出がバランスする世界である。そのトップを切って、大気への温室効果ガスの出入りを等しくすることに成功しそうだ。やれば出来る。22世紀の歴史書は、人類生存に成功した輝かしい21世紀の努力をたたえ、エネルギーに頼らない豊かな生活をうちたて、持続可能な社会へ導いた世紀と記すであろう。


 後の世代のために、おどろくほど長い展望をもって、最大限の努力をすることが、今の私たちに求められている、と思います。

 しかし、よく考えて見ると、それはいのちをより豊かにして次の世代につなげてから世を去るべき「ご先祖さま予定者」としては当然の任務なのではないでしょうか。

 それは大自然・コスモス・天の命ずること、つまり私たちの天命だといっていいと思います。



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ポイント4:生物種の絶滅の速度は減速していない

2006年08月28日 | 持続可能な社会

 近代以降、とくにこの百年、とくにこの3,40年の間に行なってきた人間の産業活動による環境破壊汚染の結果だと推測される、他の生物種に対する影響がどれくらいかも見ておきたいと思います。

 みなさんは、世界の生物種は毎日何種類ずつくらい絶滅しているとお思いでしょうか?

 米国科学アカデミーの発表によると、毎日――間違えないでいただきたいのですが、毎年ではありませんし、毎月でもないのです――毎日約200種の生物が消滅しているそうです。そして、それはずっと止まっていないということです。

 これはどういうことを意味しているかを、きちんと受け止めないといけません。「なんとなくたいへんらしい」「私たちにできる範囲の努力をしましょう」といったアプローチでは、この40年間、よくならなかったのです。

 ですから、環境に関わる思想と行動の発想を根本的に変えなければいけないと私は思っていて、根本的に変えるための提言をしてきました。

 地球の生物種は確認されているところで、約150万種だそうです。未確認のもののほうが多いらしく、500万から3000万種ぐらいいるのではないだろうかと推測されています。毎日200種ずつ滅びていくと、2050年ころまでに絶滅種は200万種にのぼるだろうといわれています。現存が確認されているのが150万種です。確認されている数よりも多い数が滅びるだろうということを、米国科学アカデミーが公式の発表として予想しているのです。
 以上は、1998年の第一版の時に把握した数字でした。

 今回、再確認のために国際自然保護連盟(IUCN日本委員会)の最新の記事を見てみると、状況は以下のようでした。


 世界的な絶滅危惧種の状況

 レッドリスト2004には15,589種の絶滅危惧種が記載されている。脊椎動物、無脊椎動物、植物、菌類を含む非常に幅広い分類群からなる種が記載されている。しかし、世界の190万種の既知種のうち3%以下しか科学的データがなく、この15,589という数字は絶滅危惧種総数の最も低い値といえる。……

 近年の絶滅について

 ……近年の絶滅の割合は、過去に記録されている絶滅の割合を遥かに超えている。知られている鳥類や哺乳類、両生類の過去100年にわたっておこった絶滅の確率は、現在の絶滅のスピードが過去の記録にある絶滅のスピードの50倍から500倍もの早さで進んでいることがわかる。もし絶滅した可能性のある種を加えると、自然の絶滅のスピードの100倍から1000倍にまで上る。これは極端に控えめな試算である。というのも記録のない絶滅を全く考慮していないからだ。この試算は非常に控えめなものだが、現在の絶滅のスピードは、少なくとも過去の割合を2倍から4倍のオーダーとなっている。


 生物種の絶滅に関しては、止まっていないだけではなく、絶滅のスピードの減速さえもできていないようです。


 この他あげていけば、地球温暖化、オゾン層の破壊、放射能汚染、環境ホルモンなどなど、ずいぶんいろいろな、深刻なデータがもっと山ほどあるのですが、このくらいのポイントをあげただけでも、私たちがどれくらい絶望的な状況にあるかということを数値で確認していただけると思うのです。

 くり返しますが、1969年、「あと10年しか余裕がない」と国連事務総長の警告があって、すでに35年経ったのです。これが今私たちのおかれている状況だということです。

 私たちが、こうしたデータを知らないだけで、「それほどたいへんではないのではないか」「何とかなるのではないか」「できることをしよう」という発想やアプローチにとどまって、結局、実際には環境の悪化を止めることができていないという状況に満足したりあきらめたりできないのなら、「では、どうすれば、ほんとうに止められるのか?」と考える必要があるのです。

 国際自然保護連盟の評価によれば、スウェーデンは今世界でいちばん「エコロジカルに持続可能な社会」に近づきつつあるそうです(それでも、まだ達成はしていないというのですから、課題は大変です)。

 国単位で、環境の悪化を本気で止めようとしており、実際の効果をあげつつあると評価されているのです。

 エコロジカルに持続可能な世界を創り出したいという願いをもつ人間にとって、今、スウェーデンはいちばんのモデルになる、ということでしょう。


 昨日一日を使って、私たちはシンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい! スウェーデンに学びつつ」への参加呼びかけのDM450通以上を、政治家、学者、環境運動家などの方々に送ったところです。

 もうしばらくしたら、一般の参加者の方への呼びかけも始めますので、お待ち下さい。



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ポイント3:森林は減少し続けている

2006年08月26日 | 持続可能な社会
 このように例えば森林を耕地に転換しながら食糧増産をやってきて、それがほぼ限度にあるという状況の中で、「地球にやさしい」とか「地球の緑を守る」といった言葉が、とても希望があるかのように語られていますが、毎年地球の森林がどれくらいなくなっているか、データをご存じでしょうか。

 国連食糧農業機関やアメリカ政府の推定によると、1100万から2000万平方ヘクタールの森林が毎年なくなっています。日本の国土総面積が約3670万ヘクタールですから、つまり日本国土の3分の1ないし多めに見積もると2分の1以上の緑が、毎年、なくなっています。

 毎年ということはつまり森林の減少は止まっていない、ということです。

 2005年の国連食糧農業機関の資料によると

 「全体としての森林領域は減少し続けている――しかし減少率は減速しつつある」とのことです。

 「主に森林の農耕地への転換による非森林化は、一年当たり1300万ヘクタールという驚くべき割合で続いている。同時に、植林、景観修復、森林の自然的な拡大によって、森林領域の純量の減少は顕著に低減されている。森林領域の変化の純量は、1990-2000年の間の毎年マイナス890万ヘクタールから下がって、2000-2005年の間は毎年マイナス730万ヘクタール(ほぼシエラ・レオネやパナマほどの広さの面積)と推定されている。」(Global Forest Resources Assessment 20005, Executive Summary)

 様々な努力によって、幸いにして減少率は減速しつつあるのですが、しかしそれにしても依然として減少し続けている、止まっていないという事実が問題です。

 人口増加に関しても止まっていないし、森林の喪失についても止まっていないのです。

 こういう問題が世界的レベルでのデータに基づいて警告されはじめたのが、早めに見るとスウェーデン政府によるもので1960年代半ばです。ローマクラブレポート『成長の限界』と見ても、72年です。すでに40年近く経っているのです。

 非常に残念なことに、この40年近くの間、事態は何もよくなっていません。

 全体としての地球環境は、悪化し続けている、のです(これは、シンポジウムの呼びかけ人3人の共通認識です)。

 こういう言い方をすると、環境関係の運動を一生懸命やっている方にすごくいやがられてきました。「私たちが、こんなに一生懸命やっているのに、何もよくなっていないなんて」と。

 何だか、ネガティヴで理屈っぽくて意地悪で人の善意を理解できない人のように思われて、かなり損をしてきたような気もしないではありません。

 そこで最近は言い方を換えて、「いろいろ努力はなされていて、環境破壊のスピードを遅くする効果はあったとは思いますが、しかし基本的には止まっていない、と言い換えましょう。データ的・数字的にはそう認識せざるを得ませんよね」と言うと、いやいやながらわかってくださる方が多くなってきました。

 (しかし、今でも「そういう話は聞きたくない、認めたくない」と心情的に反応して否認される方も少なくないようです。私だって、できれば認めたくありませんけどね。)

 あと、より詳しいのデータは、例えばワールドウォッチ研究所『地球データブック』をしっかりと見ていただくと、私たちがどういう状況におかれているのかはっきりわかっていただけると思います。

 私たちが、気持ちの問題として「地球にやさしい」生き方をしたいと思うのは、出発点としてとても大切です。

 しかし、それにとどまらず、実際に地球環境の悪化をまず止め、それから改善していくには、まず、どういう状況になっているのか、どうしてそういう状況になったのかしっかりと知る・認識しておくことが必要ではないかと思うのです。



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ポイント2:人口増加に食糧増産が追いついていない

2006年08月25日 | 持続可能な社会
 前々回のブログでお話しした状況に対して、穀物の収穫量がどうなっているか、おおまかに見てみましょう(これは、第一版1999年時点に把握したデータのまま)。1050年には6億3000万トン、75年に12億3000万トンと約倍増しています。96年推定では18億4000万トン。つまり50年からいうと3倍に増えています。人口は50年から96年で約2.5倍です。それに対して食糧は3倍に増産できています。

 これなら大丈夫じゃないか、という感じがするかもしれませんが、実はこれは森林を耕地に転化し、膨大な化学肥料と農薬を費やして土壌汚染をやり、たいへんな量の地下水資源を汲み上げて灌漑をしながらここまできたわけです。最近は、これに遺伝子組み換えという危険な試みも加わっています。

 つまり環境の汚染、破壊、資源の浪費、生態系かく乱の危険を前提にしてここまできたということです。

 これから毎年8000万人(これは、7600万人になりましたが)増えていくということは、穀物だけでも2600万トン(これは、2470万トンになります)必要だということですが、すでに生産可能な土地は減少しつつあり、水資源、土壌の汚染流出は許容の限界にきているというのが、国連食糧農業機関その他信用していいと思われる機関の認識です。

 必要な食糧は穀物だけではありませんが、海洋資源も基本的には同じような状況にあるようです。

 ごく最近のFAOの発表を見てみると、以下のような状況です。

 「世界の8億5200万人の人々が十分な食料を作り又は購入する力を欠いている」(FAO日本事務所・プレスリリース、2005年12月7日

 「農産物の生産及び消費は、先進国よりも開発途上国でより増加している。しかしながら、最貧国においては、農産物生産の成長率が人口増加による農産物需要の増加に追いついていない、と4日にOECD-FAOが農業見通しを発表した。」(FAO日本事務所・プレスリリース、2006年7月4日

 「2006年7月 No.2発行  世界穀物在庫急減の予測:多数の国で食料危機継続
 FAOは7月発行の“Crop Prospects and Food Situation”(「穀物見通しと食料情勢」)の中で、世界の食料在庫は2006年に急減し、その原因は穀物の収穫減と需要の増大によると述べている。」

 つまり、FAOなど各機関のたいへんな努力にもかかわらず、人口増加に食糧増産が追いつかないという状況は克服できていないのです。



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日本の政治をこの路線のままにしておいていいのか?

2006年08月24日 | 持続可能な社会

 このブログで何度も紹介してきた小澤徳太郎先生から、以下のようなメールと資料が届きました。

 みなさんと、ぜひ共有したいので、了解を得て、転載します。

                       *





 8月23日の岡野さんのブログ「伝えたい……」を拝見しました。

 『成長の限界』というレポートを出したローマクラブは、1968年に集会が行なわれて70年に発足した、財界人、政治家たちの地球の未来を考える研究グループです。72年の段階でレポートを出しましたが……

 この部分を読んで、時系列的にスウェーデンの行動を思い出しました。
 スウェーデンでは、1960年代前半ごろから環境問題の議論が起こり、68年にスウェーデン政府は、国連に国連初の環境会議の開催の提案を行い、ローマクラブが発足した70年には、大阪万博でユニークなスカンジナビア館を建て、環境問題の重要性をアッピールしておりました。

 私たちは一般に現在の環境問題の認識の原点は72年の「成長の限界」と理解しているようですが、これらの事実を総合的に考えると、スウェーデン政府の行動がローマクラブという国際的研究グループの活動より、先んじていたことがわかるような気がします。ご参考まで。

                       *

 改めて、スウェーデンの人びと――政府、パルメ首相らリーダー――の気づきがいかに早かったかということに驚かされます。

 1972年6月に開催された、スウェーデン・ストックホルムでの第一回の国連環境会議には、私たちのシンポジウムの呼びかけ人のお一人大井玄先生も出席しておられたそうです。

 先生は、その時以来、繰り返し現地での視察などによって、世界の環境の悪化と、スウェーデンなどの国の政策と日本の対策の違いを見てこられたのですから、初めてお目にかかった頃、私に「ほとんど絶望しています」とおっしゃった気持ちは痛いほどわかります。

 何しろ、1972年、日本も環境会議に代表を送りはしていますが、国内では7月に田中角栄氏が自民党総裁-首相になり、「日本列島改造論」をぶち上げていたのです。

 何という違いでしょうか。

 この政治路線の違いは、いまだにあまり変わっていないようです。

 必ず大量生産-大量消費-大量廃棄をともなう「経済成長」を維持し促進し続けるというのが、いまでも日本の政治路線です。

 自分たちの子どもたち・孫たち、「次の世代」のことを本当に心配しておられる市民のみなさん、日本の政治をこの路線のままにしておいていいとお考えですか?



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危機のデータのポイント1:人口問題

2006年08月23日 | 持続可能な社会
   
 環境の危機を警告するデータは、『成長の限界』(ダイヤモンド社)、ワールドウォッチ研究所の『地球白書』および『地球データブック』(どちらもダイヤモンド社)、石弘之さんの『地球環境報告』、『地球環境報告Ⅱ』(どちらも岩波新書)など、山ほど出ています。
 また、国連関係のデータは、それぞれの機関のHPで公開されています(国連環境計画 UNEP、 国連人口基金 UNFPA、国連食糧農業機関 FAO など)。
 こういうデータはほぼ信用していいだろうと思うのですが、そのデータのしかもポイントをきちんと押さえると、いま私たちがおかれている状況がきわめて困難だということが、感覚としてではなく、認識としてはっきりしてきます。

 人口問題

 まず、今の世界全体が抱えている問題の1つの大きなポイントは人口問題のようです。
 人類の歴史の中で人口問題を見てみると、国連人口基金の推計では、紀元前後(2千年前)が2.5億人ぐらいと推測されています。それから倍になるのに1600年かかっています。1600年ごろ5億人ぐらい。ところが10億になったのは1830年くらいだとされています。つまり、230年で倍、というか倍倍です。それから1930年には20億、つまり100年でさらにその倍になったわけです。1970年に40億、これは45年で倍になっているわけです。国連人口基金のHPに掲載されている以下のグラフをご覧になればおわかりのとおり、すごい曲線を描いて人口が増加している状況にあります。



 1999年が60億。国連では、かつて2020年に80億という推測をしていましたが、いま幅をもたせて2050年に91億くらいと推測しているようです。いずれにせよ、2020年とは14年後です。そこまで人口が増えるのにあとわずか14年です。90年代半ばにピークを迎えて以降、パーセンテージはわずかに下がったそうですが、それでも毎年7千万6百万人くらい増え続けているということです。

 『成長の限界』というレポートを出したローマクラブは、1968年に集会が行なわれて70年に発足した、財界人、政治家たちの地球の未来を考える研究グループです。72年の段階でレポートを出しましたが、その時点の予測が2000年に56億という予測でした。ところが、実際には95年にすでに56.9億になっています。つまり予測よりも5年早く56億を超えてしまったわけです。

 『成長の限界』の序論に、国連事務総長のウ・タントさんが、そういう予測に基づいてした、69年の発言が載っています。

 「私は芝居がかっていると思われたくはないけれども、事務総長として私が承知している情報からつぎのような結論を下し得るのみである。すなわち、国際連合加盟諸国が古くからの係争をさし控え、軍拡競争の抑制、人間環境の改善、人口爆発の回避、および開発努力に必要な力の供与を目指して世界的な協力を開始するために残された年月は、おそらくあと十年しかない。もしもこのような世界的な協力が今後十年間のうちに進展しないならば、私が指摘した問題は驚くべき程度にまで深刻化し、我々の制御能力をこえるにいたるであろう。」

 これは、69年時点の発言です。「芝居がかっていると思われたくはないけれども、データに基づいてこう言わざるを得ない」と国連事務総長が言っており、そういったことを踏まえた学者たちの警告にもかかわらず、人口に関しては(も)まったく抑制できないまま35年を経たということです。

 まずこの一事だけを取り上げても、私たちがおかれている状況がいったいどういうことなのかが、基本的に認識できると思います。
 ただ日本では、少子化現象が進んでいて、やがてこれから人口が減るだろうと言われていて、あまり深刻感がありません。
 しかし、これは世界レベルでは当然、これだけ食糧増産をこれからやっていかないと、億単位の餓死者が出るということです。しかも、2020年に向けて、あと14年しか余裕がないということです。

 ところが、食糧増産の基礎である生産可能な土地の面積はどんどん減ってきています。
 ぜひ、みなさんにも見ていただきたいのですが、人口の増加と生産可能な土地の減少が、時々刻々わかる WORLD CLOCKS というサイトがあります。これによると、人口は1秒間に3人増え続けているのに対し、生産可能な土地は7.67 秒に1ヘクタールの割合で失われていっているとのことです。
 ご自分の目でこの時計を見ていただくと、事態がきわめて深刻であることを実感していただけるのではないかと思います。

 しかしあらかじめ言っておくと、環境問題はきわめて深刻ですが、にもかかわらず私たちが正確な認識に基づいた適切な行動をすることができるならば、希望はある、と私は考えています。危機の認識を共有したいのは、希望に向かう行動を共有するための準備として不可欠だからなのです。みなさんを脅して、無力感や絶望感に陥れるためではありません。




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自然成長型文明に向けて:改訂開始

2006年08月22日 | 持続可能な社会

 改訂版 まえがき

 これから、すでにサングラハ教育・心理研究所のHPに掲載してある「自然成長型文明に向けて――持続可能な世界を創るための条件とは何か」(1999年)を少しずつ改訂しながら、連載(といってもやや断続的に)していきたいと思います。

 それは、第1に、スウェーデンについて学ぶことによって、私の考えていた方向が理想論ではなく現実に可能であることを確認できたこと、第2に、同じくそのために考えの一部はかなり修正する必要ができたこと、第3に、環境の危機についてのデータが――基本線は変わらないにしても――かなり古くなっているので、なるべく新しいものにしたい、という3つの理由によります。

 加えて言えば、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!――スウェーデンに学びつつ」に向けて、みなさんとさらに認識を共有していきたいという理由もあります。



 初版 はじめに

 私たちの世界が「エコロジカルな危機」にあることは、多くの専門家の方たちが早くから警告してきたとおりです。70年代の始めの頃、ローマ・クラブの『成長の限界』(邦訳ダイヤモンド社)やレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(新潮文庫)など、専門家の報告を読んで以来、私も大きな危機感を感じ、この35年、自分の思想的な最重要テーマの一つとして、いろいろ学び、考えてきました。

 といっても、私は、環境問題そのものの専門家ではなく、いわば心理学や意識・霊性・宗教に関わる分野が専門なのですが、そういう視点から見える、言える、原理的なことがあると思って、いろいろな機会に発言し、ある種の運動を提案してきました。

 しかし、この35年、発言し、提案するたびに、いろんな人から「岡野さんは、どうしてそんなにあせるんですか。あせりすぎじゃないですか。あせりすぎると、危険ですよ」と言われてきました(最近はさすがにあまり言われなくなりましたが、それでもいまだに「そんなに深刻じゃないんじゃないですか」と言われることが少なくありません)。ずいぶんたくさんの方から、同じような言葉を聞きました。しかし私も若気の至りで、逆にどうしてみんながそんなにあせらないでいられるのかが、最近までよく了解できませんでした。まったく残念なかぎりです。

 1998年に20年あまり勤めた出版社を辞めて、サングラハ教育・心理研究所を通じて、執筆や講演といった広報と、特に人材育成のための活動に専心するのを決めたときにも、ほぼ同じことを、何人かに言われました。そういうことを言ってくださる方は、ほとんど親しい先輩や友人・知人で、私に対してぜんぜん悪意はありません。まったく悪意なく、それどころか善意で、「そんなにあせらなくてもいいんじゃない。物事は、そんなに急には動かないよ」と忠告したり、慰めたりしてくれたわけです。

 それに対して私は、慰められるよりは、危機感を共有できない――したがって当然行動も共有できない――ことに、いらだちやもどかしさを感じてきましたが、ようやく、1つ、あまりにも単純なことに気がついたのです。うかつだったのですが、危機に関してデータを共有できていなかったようだということです。

 それに気づいてから、何人にも確かめましたが、私のまわりの善意のある、問題意識もある方でも、ほとんどの方が、私と共通のデータを読んでおられなかったのです。失礼な言い方になって申し訳ないのですが、多くの方が地球環境について「なんとなく大変らしい」という捉え方をしていて、危機のデータと予測を正確につかんでおられないようです。これは、かなり多くの実際に環境運動をしている市民のリーダー的な方たちさえそうでしたから、ほんとうに驚いてしまいました。

 つまり、肝心の危機のデータと予測を共有していない方に、危機感だけ共有しようと迫ったら、「どうしてそんなにあせるんですか。危険ですよ」と言われてきたわけです。これは当然と言えば当然のことです(もっとも、データと予測を伝えても、「ふーん、そうなんだ。実感ないけどね」という感じで終わる方も少なくありませんが)。

 ひとことで「エコロジカルに持続可能な社会・世界を創り出していかなければならない」という言い方をすると、そういう建て前は、今まともに物を考えている人であれば誰もが認めざるをえない大前提だろうと思います。この建て前を公の場でまともに話をしたら、否定する人はまずいないという状況にあると思います。

 ところが公式の場ではなく、例えばお酒の席などで本音を話し始めると、しょっちゅう聞くのは、「それはそうなんだけれども、無理なんじゃないかなあ」「できないんじゃないかなあ」という声です。それどころか、本音として言うと「エコロジカルに持続可能な世界全体の秩序を創り出していくということは、しなくてはいけないことなんだけれど、できないんじゃないか」という思いを持っている方のほうが、かなり圧倒的と言ってもいいくらい多いような気がします。

 そして、もう一歩掘り下げて言うと、「できなくても、何とかなるんじゃないか」「成り行き任せで何とかなるさ」と、心のどこか本音のところでは思っているところがあるのではないかと思えます。もしかすると、それは、データと予測の厳しさを十分見ておられないために、楽観的でいられるのではないでしょうか。

 今言いましたように、公式の場では建て前は例えば「地球にやさしい」とか「持続可能な」といった言葉が語られます。ところが、本音はなかなかそうでもない。そういうふうな建て前とか、ましてや甘い願望とか、実現しない夢に終わらないために、まずどれくらい困難かということについて認識を共有するという作業をポイントだけでもやっておきたいのです。それからさらに必要な条件についての合意というかたちに入っていきたいと思います。

 ごく日常的な言い方をすると、以下のようなデータを学んだせいで、人類の未来が心配で心配で、それで、ついあせったように聞こえる提案をしてしまうわけです。そういう気持ちを共有していただけると幸いです。




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暑い熱い2日間

2006年08月20日 | 持続可能な社会

 昨日、今日、大船のお寺で、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!」のスタッフの合宿でした。

 猛烈な残暑(まちがいなく温暖化による異常気象)の中、講師の小澤徳太郎先生(『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』朝日選書の著者)を囲んで、暑い二日の熱い学びでした。

 改めて「環境問題はこの数十年ひたすら悪化の一途をたどっていること」

そして事態は、きわめて深刻で、相当多くの日本人が半分あきらめ半分楽観視しているのとまるで違って、

「誰かが何とかしてくれているはず」とか「成り行き任せで何とかなるさ」という状態ではない

しかし希望はある、スウェーデンはかなりの程度その希望の道の道しるべになりうる

という共通認識を深めました。

 昨夜は夜中の3時半過ぎまで話し合いをしていて、今朝は6時半には起きたので、もうくたくたです。

 今日は寝ます。

 そこで学びあったことの内容は、またおいおい書いていくつもりです。



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コスモロジーを伝えても元気にはならない?

2006年08月19日 | メンタル・ヘルス

 去年の8月20日からこのブログ授業を始めました。

 ちょうど丸1年です。

 このブログとほぼ同じ内容のつながり・重なりコスモロジーの授業をすると、学生の中から必ずといっていいほど出てくる、いくつかの典型的な質問があります。

 ネット学生のみなさんにも、たぶん同じような疑問・質問のある方がおられると思いますので、少しずつお答えしていきたいと思います。

 典型的な質問の一つは、「この授業を受けて、私は元気になったんですが、今すごく落ち込んでいる友達に伝えても元気にはならないんじゃないでしょうか?(あるいは、元気になりませんでした)」というものです。

 これは、かなりの程度そのとおりというほかありません。

 コスモロジー教育=コスモス・セラピーは、どちらかというと「予防志向」の方法で「治療志向」の方法ではありません。

 (この言葉は、小澤徳太郎先生がスウェーデンの環境政策と日本の環境対策との違いについて使っておられるものを借用しました。)

 落ち込み-自信喪失-うつ状態というのは、ある程度続くと「心の癖」、さらには「アイデンティティ」「パーソナリティ」にまで固着してしまいがちです。

 私の臨床的な経験からすると、いったんアイデンティティにまで固着してしまうと、落ち込んでいる私=私という心理状態になり、元気になると私が私でなくなってしまうような気がして、元気になりたいのになりたくないというアンビバレンツな状態になる人が多いようです。

 そうすると、コスモロジーを伝えて元気にしようとしてくれることが自分のアイデンティティを攻撃されることに思えて、素直に受け容れることができなくなるのです。

 そういう状態になっている人に、コスモロジーをすぐ直接伝えても効果はないどころか、逆効果のことさえあります。

 ここで詳しい臨床心理学的な手順を書くことはできませんが、落ち込みが癖-アイデンティティになっている人には、まずそのままの状態を受け容れるというアプローチから始める必要があります。

 そして、相手が十分受け容れられたと感じた(とこちらが感じる)段階になってようやく、「でも、元気になりたいんだよね? 元気になりたいのなら、お手伝いしたいと思うけど」というアプローチを始めることができます。

 そのための方法としては、私はアドラー心理学、論理療法、フランクルのロゴセラピー、サイコシンセシス、そしてコスモス・セラピーなどを総合的に使っています。

 つまり、コスモロジーは、いつでもどんな心理状態の人にでも有効というわけではないのです。

 しかし、その人と、予めかなり深い心のつながりができていて、その人の落ち込みが固着化していない段階なら、心を込めて伝えるとうまく伝わり、元気になってもらえることも少なくありません。

 「コスモロジーは、残念ながら万能薬じゃないんだよね。でも、友達の状態をよく見て、うまく伝わりそうだったら、伝えてもいいんじゃないかな。ダメそうだったら、他の手を考えるといいね」というのが、そういう質問をした学生への私のアドヴァイスです。

 それから、一般的には、多くの心の病がつながりを見失ったことから起こるという事実を見ると、心理的健康のための予防策として、できるだけたくさんの子どもに、できるだけ早くからつながりコスモロジーの教育をしたい、というのが長年にわたる私の切実な願いです。

 ネット授業を受けて共感してくださったみなさん、ぜひ、一歩進んで、コスモロジー教育を広める運動に参加してください。



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君も星だよ

2006年08月16日 | 生きる意味




 先日、小学校の養護の先生をしておられる方から、勤務しておられる学校では、7月毎日、「コスモス」という歌を歌っていて、子どもたちはその歌が大好きなのですが、でも意味はよくわかっていないと思います、というメールをいただきました。

 そして、小学校の子どもたちにもわかりやすくコスモロジーについて話したいのですが、どう説明すればいいでしょうか、という問い合わせをいただきました。

 コスモロジーは、まだ大人・大学生版から中高生版までで、小学生用、幼児用はこれからですが、とりあえず、こんな工夫をしてみたら……とお答えしておきました。

 逆にお願いして、歌詞を教えていただいたのですが、こんな歌があるとは知りませんでした。

 もう、まるでコスモロジーですね(あえていえば、さらに内面の象限が必要ですが)。

 以下、ご紹介します。

 みなさんの中に、すでにご存知だった方がいらっしゃいますか? 当然 遅れてる 知らなかったの? という声が聞こえてきそうです。

 (最近(2010.5.17) You-tube で検索したら、何種類も聞くことができました。)


 近々、楽譜も送ってくださるそうなので、楽しみにしています。

                      *

   COSMOS
                作詞作曲 ミマス

夏の草原に 銀河は高く歌う
胸に手をあてて 風を感じる
君の温もりは 宇宙が燃えていた 遠い時代のなごり
君は宇宙 百億年の歴史が 今も身体に流れてる
光の声が天(そら)高くきこえる
君も星だよ みんなみんな
時の流れに 生まれたものなら
ひとり残らず 幸せになれるはず
みんな生命を燃やすんだ 星のように 蛍のように
光の声が天高くきこえる
僕らはひとつ みんなみんな
光の声が天高くきこえる
君も星だよ みんなみんな

                      *

 こんな歌を歌って、しかもちゃんと意味も学んで育った世代は、どんなふうになってくれるのでしょう。

 私の大学での教え子たちが「コスモス・ジェネレーション」と自称していますが、この小学生たちは、正真正銘、子どもの時からの「コスモス・ジェネレーション」になってくれそうですね。

 とても楽しみです。



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小さい政府がいい政府?

2006年08月15日 | 持続可能な社会

 前々回の記事「スウェーデンから学んでいること」に対するしゅとうくんの質問への答え――といっても価値判断の部分を除くと知識はほとんど受け売りですが――を、みなさんに共有していただくために本文にします。

 スウェーデンの政府は「大きい政府」か、という質問ですが、

 スウェーデン政治ではきわめて地方分権が進んでいますから、「強力な中央集権国家」という意味での「大きな政府」とはいいがたいようです。

 しかし、福祉・教育・環境といった公共部門の人員や予算の規模が大きいという意味では、やはりある種、「大きな政府」ではあるようです。

 そうすると、日本ではなんとなく「小さい政府がいい政府」という印象があって、スウェーデンについても「大きな政府ではまずいんじゃないか」という反論的疑問が出てきそうです。

 それに対しては、以下の神野直彦氏の文章が参考になると思います(改行、行空け、強調は筆者)。

                      *

 第二次世界犬戦後、日本では不思議なことに「大きな政府論」が登場してきたことはありません。右から左までのあらゆる政治勢力が政府を小さくしろといってきたのです。

 保守政党はそもそも自由主義を主張しているわけですから、政府を小さくしろといっても理屈は通ります。

 しかし特徴的なのは、目本では革新勢力までもが、政府を小さくすべきだと主張してきたことなのです。

 革新勢力は、減税して小さな政府にするべきだと、戦後一貫して主張してきました。

 日本の労働組合は、社会福祉政策であるはずの国民皆保険や皆年金の導入のときにも反対したのです。

 反対の理由は、国民から保険料を徴収することは財政投融資の資金を増加させるだけで、独占資本の利益による資本蓄積を促すだけだというものです。

 彼らの分析によると、日本は国家独占資本主義です。ですから、国家と独占資本が密約しているという認識の下に、そんな国家は大きくては困ると、一貫して小さな政府を標榜してきたのです。

 ヨーロッパの社民勢力のように大きな政府をつくって皆で協力していこうという発想が生まれませんでした。

      (神野直彦『痛みだけの改革 幸せになる改革』(p.83-4、PHP研究所)

                      *
 レーニン以来(あるいはマルクス以来)、マルクス主義に影響を受けた日本の革新派にもずっと引き継がれてきた「国家=悪」というイデオロギーが、「民主的な手続きによって、よりよい(ましな)国家・政府を作る」という発想を妨げてきたのではないでしょうか(かつて私自身その傾向がありました)。

 国家=悪なのなら、当然、「なくせないとしたら、せめてなるべく小さいほうがいい」という発想になります。

 そして、小さいとしても悪なので、「なくせないにしても、せめて自分は関わらないほうがいい」という発想も出てきます。

 そうすると、永遠の批判者=万年野党ということになるでしょう。

 もっと進むと永遠の反抗者・反体制、さらには脱体制ということになります。

 しかし、それでは世の中、特に環境はよくならないことは、ここ数十年、私たちが体験してきたとおりです。

 それに対してスウェーデンでは、戦後、社会民主党の党首ハンソンが提唱した「国民の家」という国家理念がありました。

                      *

 スウェーデン型福祉社会を形容する概念に「国民の家」がある。これは、ハンソンが社会建設のヴィジョンとして提示した概念である。……

 「国民の家」とは、胎児から墓場までの人生のあらゆる段階で、国家が「良き父」として人びとの要求・必要を包括的に規制・統制・調整する「家」の機能を演じる社会である。

 「国民の家では、誰一人として抑圧されることがない。そこでは、人びとが助け合って生きるのであり、闘い合うということはない。また、階級闘争ではなく協調の精神がすべての人びとに安心と安全を与えるのである。」

            岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』(p.76、岩波新書)

                      *

 戦後60年あまり、スウェーデンはこうした国家理念・国家理想を追求し続け、相当程度実現しているようです。

 遅ればせながら、私たち日本人もそうした国家理想を掲げ直して――聖徳太子の「和の国」という日本初の国家理想は、現代的に言い換えればまさに「国民の家」になると思います――新たな「追いつき追い越せ」に挑戦したいものです。

 「経済大国」に挑戦し実現した国民なのですから、「生活大国」にも本気で挑戦すれば実現できる潜在力を持っているはずです。

 問題は、発想法の転換だけでしょう。

 目先安上がり(に見えるだけ)の「小さな政府」ではなく、強力な協力のための「大きな政府」、あるいは経済・福祉・環境のバランスを取るために必要な適正規模の「中くらいの政府」こそ、近未来私たちの目指すべき政府である、と私には思えます。

 ともかく、政府について議論をする場合、問題は大きいか・小さいかという規模以前に、国民すべてのために適切に機能しているかどうかを問うべきだと思います。

 みなさんは、どうお考えですか?



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夏の京都で

2006年08月11日 | Weblog

 先日、四国に行く時、途中下車して、暑い暑い京都を歩きました。

 夏ならではの花(ノウセンカツラ、サルスベリ)と、夏の紅葉に出会いました。

 真夏も、京都は美しかった。

 醍醐寺の庭園が実にすばらしかったのですが、撮影禁止でした。









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スウェーデンから学んでいること

2006年08月10日 | 持続可能な社会

 少し前の記事で『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書)と、その著者小澤徳太郎先生との出会いの報告をしました。

 出会いといいましたが、『スウェーデンに学ぶ…』で知ったスウェーデンの政府が主導する〈緑の福祉国家〉構築への着実なステップは出会いを超えて衝撃でした。

 続けてそこに紹介されている本と自分で買って積読になっていた本を何冊か読み、さらにスウェーデンものの本をさらに買い込み、衝撃はどんどん強くなっています。

 過去の記事にも書きましたが、もう、「スウェーデン・ショック」状態で、このショック状態は今でも続いています。

 岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』(岩波書店)は、すでに1991年に出た本で、出た時に買ってあったのですが、何と15年も積読状態でした。

 なぜ、もっと早く読む気にならなかったのか(あの頃は「福祉国家」という印象だけで、環境の面をほとんど知らなかったせいもあります)。

 ともかく、はなはだ残念です。

 ここで受けたショックは、何よりも「権力は必ず腐敗する」――マナ識が平等性智に変容しないかぎり――と思っていたのに対し、統合的な理性――ウィルバーのいう「ヴィジョン・ロジック」――のレベルに成熟した指導者群と適切なチェック機能があれば、「権力は必ずしも腐敗しない」というスウェーデンの実例つまり事実(だと思われます)です.

(これは、ある種プラスのショックです。)

 続いて神野直彦『人間性回復の経済学』(岩波新書、2002年)を読んで、経済学の分野でも「日本の構造改革を支えている経済政策思想は、『新自由主義』と呼ばれる」ものであり、「…新自由主義は人間の生活を破壊し、人間の生活をおびやかしていく。しかも、市場経済によって破壊される恐れのある人間の生活を保護する使命を担っている財政をも破壊してしまう」ことへの、論旨明快な批判がなされていること知りました。

 「たしかに、重化学工業を機軸とするケインズ的福祉国家という、経済システム、政治システム、社会システムの結合方式は行きづまっている。とはいえ……ケインズ的福祉国家を解体して、市場経済つまり経済システムをむやみに拡大する構造改革を実行しても、社会的危機が激化するばかりである。」

 ではどうすればいいのか。ここでもモデルはスウェーデンです。

 「…現在のエポックで展開している第三次産業革命では…スウェーデンでかかげられている言葉で表現すれば、人間の歴史が工業社会から「知識社会」を目指して大きく動きはじめたのである。」

 内容は簡単に要約できないので、関心のある方には本を読んでいただくほかないのですが、要するに「知識社会」へと産業構造を変革していく中で、経済と福祉と環境のバランスを取ることのできる「人間性回復の経済」が実現できるというのです。

 もちろんスウェーデン・モデルをすべてそのまま日本でやれるわけではありませんが、原則は日本にも適用可能であり、どうすればいいか、神野氏は『二兎を得る経済学――景気回復と財政再建』(講談社α新書、2001年)で説得力のある提案をしておられます。

 また、「小泉改革」が、「痛みだけの改革」であって、「幸せになる改革」ではないことへの、わかりやすく徹底的な批判を『痛みだけの改革、幸せになる改革』(PHP研究所、2002年)で書いておられますが、そこでも対案のモデルはスウェーデンです。

 筆者はもちろん経済学・財政学はまったくの素人ですが、神野氏の論をたどりながら、「うん、これなら確実に行ける!」という感触をつかんでいます。

 (これも、プラスのショックです。)

 みなさんもぜひ読んでみてください。

 それにしても、なぜスウェーデンはこういうふうになれたのだろうという疑問は、歴史的プロセスについては、これも積読だった百瀬宏『北欧現代史』(山川出版社、1980年)で半分くらい解けてきました。

 第一次世界大戦、第二次世界大戦の中で、何とか巻き込まれず中立―平和を維持しようとしてきた北欧の人々のまさに血の滲む苦闘に心打たれました。

 多くの人々の英雄的努力の集積なのです。考えてみれば当然のようですが。

 さらに岡沢憲芙『スウェーデンは、いま』(早稲田大学出版部、1987年)、『スウェーデン現代政治』(東京大学出版会、1988年)、岡沢他編『スウェーデンの政治――デモクラシーの実験室』(早稲田大学出版部、1994年)を読んで、ごく早い時期にマルクス主義と決別し、資本家との協力・妥協の路線で、経済的発展と福祉の充実という一見相反しそうな課題をみごとにバランスをとって達成してきた、スウェーデン社会民主党のきわめて賢明なリーダーたちのことを知り、感動しました。

 すでによく知られているのだと思いますが(私はぼんやりとしか知りませんでした)、訓覇法子『スウェーデン人はいま幸せか』NHKブックス、1991年)でスウェーデンの福祉のみごとさにうなってしまうとともに、武田龍生『福祉国家の闘い――スウェーデンからの教訓』(中公新書、2001年)と合わせて、福祉と財政のバランスの難しさも考えさせられました。

 しかし先にあげた『スウェーデンに学ぶ…』や『二兎を得る経済学』によれば、それは九〇年代前半までのことで、神野氏の言葉では、「二〇世紀から二一世紀への峠を、スウェーデンは『自信と楽観主義』ととも越えた。スウェーデンの『予算説明書』は、そう胸を張って宣言している」のだそうです。

 知れば知るほど、なんともみごとと言うほかありません。

 日本の現状と比べてちょっとため息が出てきてしまいます。

 (といってもなんの問題もない夢のような国だと思っているわけではありません。ただ日本の現状よりはるかにいいようだということです。しかし、内面の問題、特にニヒリズムの問題については解決できていないのではないかと推測されます。)

 そういうことを可能にしたのは、まずイデオロギーで硬直していない非常に成熟した大人の知恵をもった政治家、それとみごとに連携・提携している社会科学者と自然科学者、そしてちゃんと協力・妥協することを知っている企業家、もちろんそうした優れたリーダーを生み出す能力をもった国民……。

 なぜ北欧、とりわけスウェーデンに、柔軟で賢明で英雄的な指導者が次々と生まれてきたのか、そういう指導者を生むような文化、国民性がなぜ、どういうふうにして育まれてきたのか? これが私の当面の疑問です(ウィルバーの四象限理論でいうと左下象限の問題)。

 一般的に指摘されるのは、冬の厳しい国で自分に責任を持ちながらしかし助け合わなければ生き延びられないという状況の中で「自律」と「連帯」の精神が養われたということです。

 それから1809年にはすでに四身分(聖職者・貴族・市民・農民)の議会が成立し、1866年(日本では明治維新の二年前)には二院制議会になっていたという、民主主義の伝統―成熟が指摘されます。

 おそらくは、その基礎としてプロテスタント・キリスト教によって培われてきた「愛」の精神が国民性に浸透していることがあるのではないか、と私は推測しています。

 これから秋のシンポジウムに向けて、さらにいろいろ学んでいきたいと思っています。

 ここのところ、読む本の90%くらいがスウェーデンもので、まわりの人に「スウェーデン漬け状態だ」と言っているくらいです。

 しかし、どうも肝心の精神性に関するいい文献が見当たりません。情報をご存知の方、ぜひ教えてください。



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