1年の終わりにあたり

2005年12月31日 | 生きる意味

 1年の終わりにあたり、この1年、どういう仕事ができたか、振り返ってみることにする。

 まず著作としては、『空海の『十住心論』を読む』(大法輪閣)を3月に出した。

 昨年まではかなりのペースで本を出してきたが、アウトプットに時間を使い過ぎたという感じもあるので、今年は少しインプットに重点を置くつもりで、著作は意図的にこれだけに限った。

 主催する研究所の機関誌『サングラハ』は、他の執筆者や編集担当の協力も得て、予定通り6冊を出すことができた。

 論理療法、アドラー心理学、フランクル心理学、そしてマルクス・アウレーリウス『自省録』について、「落ち込みを乗り越えるための6つの智恵」というサブタイトルで連載している。

 これについては、来年もまた連載を続ける。

 連載が完結したら、出してくれるところがあれば、出版したいと思っている。

 大学では、ほぼ『コスモロジーの創造』(法蔵館)、『生きる自信の心理学』(PHP新書)と、『宇宙と私の大きな物語』(サングラハ心理学研究所パンフレット)、『唯識と論理療法』(佼成出版社)の内容を伝えた。

 大学、学部によって『聖徳太子『十七条憲法』を読む』(大法輪閣)のダイジェストを伝えたところもある。

 例年どおり、多くの学生が世界観・人生観の大きな変容を体験してくれた。

 研究所での講座やワークショップも充実したものだった。

 『ダーナ』(佼成出版社)という雑誌で、「日本の心と仏教」という連載をしながら、精神史を中心にした日本史の学びを持続している。

 これはかなり大変な作業で、まだ当分続くだろうと思っている。

 来年の論理療法の講義に向けて、ヴァージョンアップのために必要な英語の原書を読み続けている。

 外部での講演やワークショップ、非常勤講師としての集中講義など、かなりの数こなした。

 そして何よりも、このブログの記事をなるべく毎日書くことに、相当なエネルギーと時間を費やした。

 しかし、メッセージ発信の手段として大きな可能性を持っていると思うので、来年も可能な範囲で持続しようと思っている。

 大まかにいえばこんなところだろう。

 自分としては精いっぱいやったつもりだが、日本の精神状況の荒廃に対してどのくらい影響を与えることができたという目から見ると、まだまだ足りなかった。

 来年もまた、できるだけのことをして、足していきたい。

 晩年近い空海が「高野山万燈会の願文」の中で、

 「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きなん(虚空が果てることがあり、生き物がいなくなることがあり、涅槃に終りということがあるのならば、私の願も尽きるだろう(が、そういうことはないので、私の願も終わることがない)」

という誇大妄想ともいえるほどの、しかし感動的な、深い決心の言葉を述べているが、私もその口真似をして1年を終わろうと思う。


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歳の瀬の古典

2005年12月30日 | 生きる意味

 今年もあと1日あまりという時間になって、『正法眼蔵』を開きました。

 頁を繰っているうちに、目にとまったのは、傍線を引いた以下の個所でした。

 仏道を学習するに、しばらくふたつあり、いわゆる心をもて学し、身(しん)をもて学するなり。……

 身学道(しんがくどう)というは、身にて学道するなり、赤肉団(しゃくにくだん)の学道なり、身は学道よりきたり、学道よりきたれるは、ともに身なり。尽十方世界(じんじっぽうせかい)、是箇(これこの)真実人体(しんじつにんたい)なり、生死去来(しょうじきょらい)、真実人体なり。(『正法眼蔵』「身心学道」より)

 仏の道を実践的に学ぶには、仮に分ければ2つあり、いわゆる心によって学ぶのと、体によって学ぶのとである。……

 身学道というのは、体によって仏道を学ぶことであり、この赤い血の流れる体で仏道を学ぶことである。体は仏道を学ぶことから形成され、仏道を学ぶことから形成されるのも体である。世界のすべては、これはまさに真実の人体であり、生きること死ぬこと、去ること来ることも真実の人体である。(同、拙訳)


 1年間を振り返りながら、今年どのくらい学道ということに本気だったかなと思いめぐらしています。

 ここで、道元禅師は、心と体で学ぶのだと言っておられます。

 とりわけ体で学ぶということは、実際に体を使って学ぶこと、赤い血の流れる具体的なこの体で学ぶことだと言われます。

 さらに常識からは離れていますが、人間の体は仏道すなわちコスモスの進化の道筋から形成・創発されたものであり、コスモスの進化の道筋から創発されたのが体だともいえる、と言っておられます。

 常識からは離れていますが、すでにつながり・かさなりコスモロジーを学んできた私たちにははっきりと意味のわかる言葉です。

 世界・コスモスのすべては、私たちの具体的な身体と一体ですから、まさに「真実人体」であり、コスモスが本当の私たちの人体、具体的な赤い血の流れる身体であるのなら、生きることだけではなく死ぬことも、この世にやってくることもこの世から去ることも、すべては真実の人体であるコスモスの働きそのものである、とまさにこの体を使って学んでいくのが、「身学道」という学び方です。

 1年が終わることも、また始まることも、私のこの体と一体のコスモスの働きです。

 体を使ってそれを覚ることが、人間に体が与えられている意味だ、というのです。

 私たちのコスモロジーからすると、私たち人間の身心はコスモスのかけがえのない自己覚醒器官なのでしたね。

 そういう学び方をこの1年してきたか、ちゃんと坐禅や作務をしてきたかと反省をしながら、来年も怠ることなく、コスモスと私が一体であることを体で覚るというくらいの境地を目指して精進できればと思いを新たにしているところです。

 といっても、「ねばならない」と「無縄自縛(誰も強制していないのに自分で自分を強制すること)」するつもりはありません。

 したいからする、したければする、ということですが。


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仏教:楽しく生きるための理論と方法

2005年12月28日 | 心の教育

 仏教の原点であるゴータマ・ブッダの言葉で、いったんここまでの学びの締めくくりにしたいと思います。


 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、4つの尊い真理を見る。――すなわち苦しみと、苦しみの成り立ちと、苦しみの超克と、苦しみの終滅(おわり)におもむく8つの尊い道とを(見る)。

 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免(まぬが)れる。

 悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮らそう。

                        (ブッダ『真理のことば(ダンマパダ)』岩波文庫、より)


 最後の句が明らかにしているように、ブッダは「楽しく生きよう」というメッセージを語っています。

 まったく、生きることや生きることの楽しさを否定していないのです。

 それどころか、ふつうの人々が悩んでいても、四諦・八正道をよりどころとしてあらゆる苦悩から解放された人は、「悩み無く、大いに楽しく生き」ることが可能だ、と言っています。

 原点としてのブッダにおいては、仏教は「楽しく生きるための理論と方法」という面があるのです。

 (もちろん、心安らかに死を受容できるようになるための理論と方法でもありますが、それだけではなかったのです。)

 続いて学んでいく大乗仏教では、そのことがいっそう明らかになります。

 大乗仏教提供の、「楽しく生きるためのノウハウ」をお伝えしていきますので、楽しみにしていてください。


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レポートの採点開始

2005年12月27日 | 心の教育

 今日も孫娘とのつきあいに一日が暮れましたが、気になるので、合間を見てはレポートの採点をし始めています。

 まだ20通くらい読んだだけなのに、今年も学びの結果のうれしい感想が次々と出てきます。

 2大学、3学部の600通ほどのレポートを読み進めるうちに、もっともっと出てくるでしょう。

 すべてご紹介したいほどですが、とりあえずその中の1つを掲載しておきます(学生たちには予め了承を取ってあります)。


 武蔵野大学 3年 女

 個体性として考えるのではなく、全体性・宇宙性で考えるというのは何てすばらしいのだろうと思いました。

 人には様々な煩悩があり、苦しみますが、この唯識の考え方でアーラヤ識に熏習していけば、どんどんマナ識が変わり、意識が変わり、さわやかに生きられるんだろうなと本当に思いました。

 この考え方は昔も今も、そしてこれから先にとっても生き方の役に立つ考え方で、宇宙と私・あなたは一体、全ては一体ということが解ることは、すごく大切なことだと思います。

 煩悩が浄化され、無住処涅槃に入るということはとても大変だけど、それまでの過程1つ1つはとても重要で、最終目的まで達したら、どんなにすばらしい、さわやかな人生が送れるのだろうと思いました。

 これからの人生での生き方について真剣に考えるようになりました。

 すばらしい考え方だと思います。

 教えていただき、本当にありがとうございました。


 私の授業は出席を取っていないのですが、この女子学生もそうですし、大多数の学生が皆勤、ないしそれに近い率で出席し続けてくれました。

 「教えていただき、本当にありがとうございました」といった感謝の言葉を読むたびに、「伝えたかったことを受け止めてくれて、本当にありがとう」という言葉が心に浮かびます。

 もちろん、心に浮かべるだけではなく、1月の最終授業では、はっきりと言葉に出して、学生たちに感謝をしたいと思っています。


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過剰な執着を離れれば心は爽やか:涅槃寂静

2005年12月26日 | 心の教育

 仏教には、「苦」だとか「滅」だとか「無」だとか、印象の暗い言葉がたくさん使われています。

 そのために、仏教は暗い宗教だという印象があります。

 それは、本質的に言うと誤解なのですが、そういう誤解は仏教の外部だけではなく、残念なことに内部にさえもあるようです。

 そういう私も、かなり長い間そういう誤解をしていました。

 「四法印」の場合の「一切皆苦(いっさいかいく)」という言葉もそういう印象で理解というか、誤解されてきたのではないかと思います。

 しかし私の読むかぎり、ゴータマ・ブッダのいう「苦」は、無条件で「あらゆるものが苦しみである」ということを言っているのではありません。

 「苦諦」のところでお話ししたとおり、「無明」、「渇愛」、「執着」があるかぎり不条理感があるという意味で、条件付きです。

 「無明」に始まる11の諸条件がなくなれば12番目の「老死」に関わる苦・不条理感はなくなる、というところにこそゴータマ・ブッダの教えの真髄があります。

 しかも、それには方法もあるというのです。

 「滅諦」と「道諦」でしたね。

 三法印の第三は、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」で、四聖諦では「滅諦」に当たります。

 この言葉も、「釈尊が涅槃に入られた」という言い方から「涅槃」は「死」を意味するようになり、その上に「寂」という漢字が「寂しい」という意味なので、まったく暗く寂しく陰気な意味合いにとられがちでした。

 これまでたくさんの社会人や学生たちに聞き取りをしてきましたが、ほとんど全員といってもいいぐらい例外なくそういう意味に解釈していました。

 前にあげた『平家物語』の次の句、「沙羅双樹の花の色、盛者必滅の理をあらわす」などの名文句もそういう誤解を日本全国に浸透させる上で大いに影響があったといえるでしょう。

 かつてキリスト教の牧師をしていたころ、僧職にある方と話していて、「キリスト教と比べて仏教は陰々滅々で暗くてダメですねえ。何しろ教祖の最後が復活ではなくて、涅槃ですからねえ」という言葉さえ聞いたことがあるくらいです。

 これは別に謙遜で言われたのではなくて、本気でそういう理解をしておられるという感じでした。

 しかし、「涅槃」とは、原語をカタカナ表記すると「ニルヴァーナ」で、「ニル・消える」+「ヴァーナ・炎」つまり「炎の消えた状態」を意味しており、炎のように人間の心を焼く煩悩が浄化されてまったく消えてしまい、実にすがすがしく爽やかになった心境のことです。

 「涅槃」自体にそういう意味があるのですが、煩悩の鎮まった状態をもっとはっきり表現したのが「寂静」という言葉です。

 煩悩の炎が消えてしまえば、静かな静かな心境になるのは当然といえば当然です。

 仏教のメッセージが「苦」で始まるために、暗い話だと誤解されてきたのですが、それは先にも言った譬えのように、医者が「あなたはこういう病気です」と宣告するのは、「こういう治療すれば治ります」という結論の前置きであるのに似ています。

 八正道の実践によって、無明・煩悩の炎に焼かれて苦しんでいた人間が静かですがすがしく爽やかな心で生きられるようになるというのですから、これはどう考えても明るい知らせです。


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孫娘とのクリスマス

2005年12月25日 | いのちの大切さ

 今日は一日、久しぶりにやってきた一歳半の孫娘と過ごしました。

 「ジージ」、「バーバ」はもちろん、片言がいろいろ話せるようになっていて驚くほどです。

 こちらの言うことはほとんど通じていて、「おいで」とか、「こっちだよ」、「あっちだよ」など指示がみんなわかります。

 特に可愛いのが、「ご本を読もうか」と言うと、自分の好きな絵本を持って当然のような顔をしてひざに坐ってくることです。

 彼女は、私が自分のジージであり、私にすごく愛されていることを信じ切っているようです。

 安心し切って、少しわがままも言います。

 しかし、もう「ダメ」もかなりわかるようになっていて、私が書斎で仕事をしていて、「ここはジージのお仕事するところだからね、ダメなんだよ」と言うと、入り口のあたりでもじもじするのですが、入ってきていたずらをしたりはしません。

 わがままもできるし、聞き分けもできるという、すんなりとした孫娘の育ちぶりに、すっかりうれしくなりました。

 もっとも感動したのは、食事の後で、娘が教えた「ごちそうさま」と手を合わせて頭を下げるご挨拶をちゃんとできたことでした。

 かみさんと二人で、心から「いい子だねえ」と絶賛しました。

 両親や祖父母とのこうした関係によって、自分の生きている世界への、エリクソンのいう「基本的信頼感」が育くまれていくのだな、と改めて思いました。

 何よりもうれしいクリスマス・プレゼントに恵まれた一日でした。

 孫が眠った後、記事を書きながら、私たち大人は、子どもたちみんなに、自分の生きている世界に対する不信感ではなく「基本的信頼感」をもてるような、あるべき社会を再建してプレゼントしなければならないのだ、と決心を新たにしています。


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この世界には実体は存在しない:諸法無我

2005年12月24日 | 心の教育

 三法印の第二は、「諸法無我(しょほうむが)」です。

 諸法の「法」とは、「存在・もの」という意味です。

 原語(のカタカナ表記)は「ダルマ」で、漢訳ではだいたい「法」と訳されていますが、いろいろな意味があって、慣れていないと混同しがちです。

 まず「真理」、それから「規範」、そして「存在」などが主なところで、ここでは「存在」という意味です。

 ですから、「あらゆる存在は無我である」ということになります。

 「無我」という言葉はかなり一般的な日本語になっていますが、これまであまりにもしばしば誤解されてきた、と筆者は考えています。

その誤解を正すために、筆者は丸々本1冊本分書く必要があると思ったくらいです。

 詳しいことはその本(『自我と無我』PHP新書)を読んでいただくことにして、簡略にポイントだけお話しておきます。

 「無我」の言語は「アナートマン」で、接頭辞「ア=非・無」+「アートマン=我」です。

 問題は、この「アートマン=我」で、これは「自我」という意味もないことはないのですが、むしろ「実体」という意味のほうが主です。

 「アートマン=我=実体」と考えていいでしょう。

 そして、「実体」というのはまた、英語のsubstance の訳語でもあり、これらの4つの言葉はほぼおなじ意味だと思っていいでしょう。

 ですから、この句の全体を現代語訳すれば、「すべての存在は非実体である」ということになります。

 さて、実はこの「非実体=無我」こそ、ブッダの教えの核であり、後の大乗仏教まで一貫したもっとも仏教的だといってもいいほど重要なコンセプトなのです。

 「非実体=アナートマン」というふうに否定された対象の「実体=アートマン」は、漠然としたコンセプトではありません。

 「実体」とは、

 ①それ自体で存在することができる。

 ②それ自体の変わることのない本性・本質をもっている。

 ③いつまでも・永遠に存在することができる。

という3つの性質があるもののことをいいます。

 ゴータマ・ブッダは、この世のすべてのものは「縁起」・つながりによって存在するのであって、それ自体で存在している、存在できるようなものは何もない、と洞察しました。

 仏教では世界一般の話もさることながら、重点は人間にありますから、まず人間についていえば、親なしに自分だけで生まれてきて、空気も水も食べ物もなしに生きられるような人間は一人もいません。

 他の物についても、おなじことが当てはまるでしょう。

 だとすると、この世界には「実体」の第1の条件を満たすものはないといってよさそうです。

 そして、この世のすべてのものは変化していく・「無常」な存在ですし、他との関わりで性質も変わりますから、変わることのない本性がある、とはいえません。

 例えば私は、両親にとっては「子ども」であり、妻にとっては「夫」であり、子どもにとっては「父親」であり、学生にとっては「教師」であり……というふうに他との関わりで属性が変わります。

 例えば水は、魚にとっては棲みかであり、ヤゴにとっては棲みかですがトンボにとっては落ちると死ぬところであり、人間にとっては泳いだり、飲んだりすることはできても、ずっとそこにいると溺れて、窒息死する場所であり……というふうに、他との関わりで違った性質になります。

 というふうに、この世界には、「実体」の第2の条件を満たすようなものはなさそうです。

 そして、いつまでも・永遠に存在している、できるものは、この宇宙にはないようですから、「実体」の第3の条件を満たすものは何もないのではないでしょうか。

 つまり、「諸法無我」とは、そういう「実体」の3つの定義が当てはまるようなものはこの世界にはないという意味で、人間の自我だけではなく、すべての存在が「実体ではない」という意味なのです。

 そして「諸法無我」というコンセプトは、さまざまなもの(者・物)が、いろいろなつながりの中で一定期間、ある性質をもって存在し、やがて消えていくけれども、その時その時にはありありと現われることを否定しているわけではないのです。

 実際にありありと現われる形・象、つまり「現象」としての「現実」は認めるのですが、それは先にいったような3つの定義・条件を満たすような「実体」ではない、というのです。

 さて、ここでみなさんには、自分の好きか嫌いかを置いて、考えてみていただきたいのです。

 先の3つの定義・条件を満たすような「実体」は、この世界のどこかにあるでしょうか?

 もし、「ない」という答えを出されたなら、「諸法無我」という仏教の洞察を、哲学的な命題として普遍的だと認めたことになります。

 もし、「ある」という答えを出したいのなら、3つの条件を満たすものがこういうふうにあることを実証しなければなりませんが、それは無理なように私は思いますが、いかがででょう?


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*写真は、近所に咲いていた寒桜

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無常だからこそまた花が咲く

2005年12月23日 | 心の教育

 昨日で、大学の今年の授業がすべて終わりました。

 来年1月に最終授業が1度だけありますが、これでほぼ1年間終了です。

 つながり-重なりコスモロジーや唯識、論理療法や聖徳太子『十七条憲法』など、今年も学生たちはよく受け止め、吸収してくれました。

 「諸行無常」ということについていえば、日本文化の伝統の中でなされてきた「無常感」という形の美しくも悲しい情緒的な取り方から、「無常観」という哲学的な洞察へと認識を新たにしてくれたようです。

 「諸行無常」の話の中で特に心に残っているという学生が多かったのは、授業の中で何となく口をついて出た、

 「諸行無常だから花が散るけれども、諸行無常だからこそまた来年花が咲くんだよね。だから、無常ということはいいことなんだよ」

という言葉でした。

 諸行無常だから個体は死んでいくわけですが、諸行無常だからこそ新しいいのちが生まれてきて、いのちがずっとずっとつながっていくわけです。

 子供が生まれたときもそうでしたが、孫が生まれていっそう、「いのちはつながっていくものだなあ」という感慨があります。

 個々のいのちは死んでも、全体としてのいのちは40億年ずっと生き続けている、この先も行き続けていくわけです。

 「諸行無常」とは、そうしたいのちの営みを含むダイナミックな宇宙の働きを表現した言葉だと解釈することができるでしょう。

 そこに現代科学的な知見を加えて言うと、

 「諸行無常だからこそ、宇宙は進化する」

ということになるでしょう。

 さらに心理学的な言い方を加えると、

 「諸行無常だからこそ、人間は成長できる」

のですね。


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*写真は、桜の冬木立とその向こうのお日さまです。
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すべて形あるものは変化する:諸行無常

2005年12月22日 | 心の教育
 三法印の第一は、「諸行無常」です。

 諸行の「行」とは、「形成された存在」という意味です。

 仏教では、存在を「有為・形成された存在」と「無為・形成されない存在」に分類します。

 そして、「形成された存在」は、変化していくものであって、そういう意味で永遠性はない、「常」ではないことを、非常にはっきりと捉えているのです。

 これは、世界の姿をよく見ればある意味ではだれでもわかることですが、しかしふつうの人間は、普段あまりよく世界の本当の姿を見ていないものです。

 あるいは、見たくないので見ようとしない、といってもいいかもしれません。

 自分にとって大切なもの、自分が愛着しているものなどは、変わってほしくないので、普段は何となく変わらないかのように思っています。

 あるいは、欲張って、いいものにはもっといいように変わって欲しいと思ったりもします。

 もちろん嫌なものには、いい方に変わるとか、なくなるというふうに変わってほしいと思うわけですが。

 しかし私たちが大切にしていようがいまいが、愛着していようがいまいが、嫌っていようがいまいが、すべてのものは変化していきます。

 ただし、ここで「すべてのもの」というのは、「形成されたもの」のことです。

 すべての形成されたものは、否応なしに変化していく、それがありのままに観察された世界の姿だ、ということです。

 ここでのポイントは、自分の欲求や愛着や感情とかかわりなく、「ありのままに観察された世界の姿」というところにあります。

 ゴータマ・ブッダの教えの基本には、いつも冷静なありのままの世界の姿への洞察という姿勢があります。

 しかし日本では、代表的には『平家物語』の冒頭の有名な言葉、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」に表れているように、「諸行無常」という言葉をとても悲しい感情的な意味あいにとっています。

 そもそも仏教全体が、とても悲しい情緒的な宗教であるというふうに取られています。

 それには、日本文化としてのそれなりの意味も、それなりの味わいもありますが、ゴータマ・ブッダの教えのもともとの意味からいえば、違っているといわざるをえません。

 私たちが、「仏教」を学ぶという場合、先にお話ししたような6つの側面があることを意識しておく必要がありますが、特にゴータマ・ブッダの仏教と日本仏教のニュアンスの違いをはっきり押さえておく必要があると思います。

 ゴータマ・ブッダの教えとしての「諸行無常」は、きわめて理性的・哲学的な世界の姿の認識だったといってまちがいないでしょう。

 さて、ここでみなさんに考えていただきたいことがあります。

 みなさんの見るかぎりの形あるもの・形づくられたもので、変化しないもの、永遠に存在できるものがあるでしょうか?

 なさそうですよね?

 だとすると、「諸行無常」ということは、特定宗教としての仏教の教義として、信じるか信じないかという話ではなく、だれでも世界のありのままの姿をよく見、よく考えたら、そう言わざるをえないこと――哲学用語でいえば普遍的に妥当な「命題」――ということになりますね。


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真理の3つの印:三法印

2005年12月21日 | 心の教育

 生前、ゴータマ・ブッダは、自分の教えを本に書こうとか、体系的にまとめておこうという意図は持っていなかったようです。

 教えているその時その時、聞いている相手にふさわしい、相手の慰めや救いになるような説き方をしています。

 それを「応病予薬(おうびょうよやく)」とか、「対機説法(たいきせっぽう)」とか、「方便(ほうべん)の教え」といいます。

 余談ですが、「ウソも方便」ということわざは、こういうところからきています。

 そのため、ある人に説いたことと別の人に説いたことが、単純な論理でいえばくい違っているということがしばしばあったようです。

 もっとも典型的なのは、死後の生・輪廻があるかないかということについても、ある人には「生きているときにいいことをしたらいいところに生まれ変わる、悪いことしたら悪いところに生まれ変わる」といった説き方をしており、別の人には「修行者にとって輪廻があるかないかはどうでもいいことだ」というニュアンスの説き方をしています。

 この2つは、単純に取ればもちろん矛盾していますね。

 こういうことが他にもいろいろあったようです。

 それで、弟子たちがブッダの真意がどこにあるかわからなくなった場合、生きている間はブッダに直接聞けばよかったのですが、ブッダが亡くなった後、どう解釈すればいいかいろいろ問題が起こってきます。

 そういうこともあって、ブッダの死後、言い残した言葉の解釈の違いなどによって、仏教にはいろいろな派ができてきます。

 そこで後に、最小限3つないし4つの特徴があることが「仏教」と呼ばれる条件であるとされるようになりました。

 「三法印(さんぼういん)」とか「四法印(しほういん)」とかいわれます。3つないし4つの法=真理の印という意味です。

  「三法印」というのは、次の3つのコンセプトです。

 ①諸行無常(しょぎょうむじょう)=すべての形成された存在は変化する。

 ②諸法無我(しょほうむが)=あらゆる存在は実体ではない。

 ③涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)=煩悩が鎮まると絶対の安らぎに到る。

 「四法印」は、この②と③の間に「一切皆苦(いっさいかいく)=すべては最終的には自分の思いどおりにならないので不条理感の苦しみがある」を入れます。

 この「三法印」または「四法印」をどう解釈するかは、派によってかなりの違いがあります。

 ここでコメントしておくと、この授業では、話が複雑になりすぎないように、大乗仏教の1つの学派である唯識――などから学んだ私の――解釈に限定してお話ししています。

 ですから、他にも相当たくさんいろいろな解釈がありうるということは、頭に入れておいてください。

 私は自分の解釈が唯一だとも絶対だとも思わないように気をつけていますが、今のところ自分が学んだ範囲で「もっとも妥当ではないか」というくらいには思っています。

 もちろん、他の方から教えていただいたり、自分自身の学びが深まったりして、解釈を変える可能性は十分にあるとも思っていますが。


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4つの聖なる真理4

2005年12月19日 | 心の教育

 四諦・4つの聖なる真理の第四段階は「道諦(どうたい)」です。
 
 「それでは、どうすれば無明をなくすことができるか?」という問いに対する答え、つまり「こうすればなくすことができる」という方法=道についての教えです。

 具体的には8種類あって、「八正道(はっしょうどう)」といいます。

 正見(しょうけん)=正しい見解
 正思惟(しょうしゆい)=正しい思索
 正語(しょうご)=正しいことばづかい
 正業(しょうご)=正しい行為
 正命(しょうみょう)=正しい生活
 正精進(しょうしょうじん)=正しい努力
 正念(しょうねん)=正しい思い
 正定(しょうじょう)=正しい暝想

の8つです。

 この8つきちんと実践すれば、無明はなくなる……苦しみはなくなる、というわけです。

 八正道の内容は、大乗仏教の「六波羅蜜」と重なっていますから、くわしい説明はそこでします。

 ただここで大事なポイントだけ述べておくと、しばしば誤解されるのですか、ここでいう「正しい」とは一般的な意味の正しさではありません。

 「倫理・道徳的に正しい」とか、「正確」とかいう意味ではないのです。

 ここでの「正」とは、「縁起の理法(および次回にお話しする「無常」、「無我」という法)にかなっている」という意味なのです。

 まず最初の「正見」とは、あらゆるものを縁起・つながったものとして見るということです。

 私たちはふつう、自分と人とを別々に分かれたものと見てしまっていますが、これは正しいものの見方ではないのです。

 次の「正思惟」とは、同じようにあらゆるものごとを考えるときにすべてをつながった縁起的存在として考えていくということです。

 ものごとを「私には関係のないことだ」と、人を「私にはかかわりのない人だ」と考えるのは、仏教的にいうとまちがった考え方なのです。

 ですから、ものを言うときも、関係を大切にしたていねいな言い方、礼儀正しい言い方、やさしい言い方をするのが、「正語」なのです。

 もちろん、自分の中で自分にいう言葉=セルフ・トークに関してもおなじことです。

 事実としてある自分の能力や価値をちゃんと認めるセルフ・トークが「正語」だといっていいでしょう。

 そして、いい関係を育てていくような行動するのが、「正業」と言われます。

 それが特定の行動だけでなく、私生活全体のものになっていくのを「正命」といいます。

 そしてあらゆることにおいて、いい関係を守り育てていくように努力することが「正精進」です。

 人間、努力をすればいいというものではなく、努力をして悪事を働くということもあれば、無駄な努力をすることもあるわけですからね。

 そしていつも関係・縁起のことを忘れない、気づきの心を保ち続けることが、「正念」です。

 最後の「正定」は、縁起の理法にかなった、縁起の理法を覚ることができるような瞑想をすることです。

 瞑想にも、縁起の理法にかなわない、超能力を開発するだけの瞑想や、恍惚状態に入って自己陶酔・自己満足するだけの間違った瞑想もあるのです。

 「瞑想」という名がついていれば何でもいいというわけではないのですね。

 こうした縁起の理法にかなった8つの実践方法を行なえば――時間や努力は必要ですが――無明をなくし、覚りを得ることができ、そうすると過剰な愛着・執着を離れることができ、そうすると老いや死に関する不条理感から解放される、というのです。


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4つの聖なる真理3

2005年12月18日 | 心の教育

 四諦・4つの聖なる真理の第三段階は「滅諦(めったい)」です。

 人生の根本的な苦しみである不条理感の主な原因が「無明」→「渇愛(愛)」→「執着(取)」だとすれば、それらがなくなれば不条理感という精神的苦痛もなくなるはずです。

「無明がなければ、行はなく、行がなければ…渇愛がなければ…執着がなければ…老死〔の苦しみ〕はない」という順観の洞察です。

 当たり前のことをいうようですが、ここでさすがブッダがすごいと思うのは、ただ「老死〔の苦しみ〕」をいやがっているだけでなく、一歩一歩原因追究をし、さらに原因からなくしていけば結果としての苦しみはなくなるという、最後の最後のところまで洞察しきったところです。

 私たちがよくやるように考えている途中で、「こんなこと、むずかしくてわかりっこない」とか、「そんなこといったって、無理なんじゃないか」と立ち止まったり、挫折したりしなかったのです。

 ですから、学ぶ私たちもぜひ、「執着がなければ」と聞いたらとたんに「人間、執着をなくすことなんてできるんだろうか?」と反応して、そこで止まってしまったり、「渇愛がなければ」と聞いたらすぐ「欲があるからこそ人間らしいんじゃないか」などと自己防衛的な反応をしたりしないで、話を最後まで聞きたいものです。

 この第三段階の話の最後は、「無明がなければ」ということです。

 不条理感に苦しむのは無明があるからで、無明がなくなれば不条理感の苦しみは無くなる、というのです。

 「そんなことできるのか?」という問いに対して、答えは「適切な方法を実行すればできる」ということです。

 否定的な言い方に替えれば、「適切な方法を実行しなければ無明はなくせない」→「渇愛はなくせない」→「執着はなくせない」ということになりますね。

 ですから、私たちが愛着・執着から離れ不条理感から解放されて、爽やかに生き生きと生きられるかどうかは、適切な方法を実行して無明をなくすことができるかどうかにかかっているわけです。

 それが、次の第四・最終段階の「道諦(どうたい)」です。


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フォーラム「仏教と心理学の協力」

2005年12月17日 | 心の教育

 今日は、武蔵野大学の大学院の公開講座フォーラム「仏教と心理学の協力:その限界と可能性」に、発題者の一人として行ってきました。

 企画・司会が武蔵野大学の仏教学のケネス・田中さん、発題が高野山大学のスピリチュアル・ケア学科の井上ヴィマラさん、駒沢大学の高橋良博さん、それに私でした。

 帰ってきたのが、12時前なので、内容の報告はまたいつかにしますが、内容のある討議ができました。

 おそらくこれをきっかけに、長年の懸案だった仏教心理学会の創設が可能になるのではないかと思います。

 期待してください。そして、実現したら参加してください。


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4つの聖なる真理2

2005年12月16日 | 心の教育

 四諦・4つの聖なる真理の第二段階は「集諦(じったい)」です。

 譬えると、病気を直すには、はっきり自分が病気だと自覚しなければなりませんね。

 そうして診断を受けて、病気の原因がわかれば、治療の対策もできるわけです。

 そして原因をなくしてしまう根本的な治療をすれば、病気は治ります。

 医者が、診断をして病気だということを知らせるのは、病人を絶望させ暗い気分におとしいれるためではありません。

 治療すれば病気が治るという、希望を与えるためです。

 ブッダが「苦諦」を説いたのは、そういう治療に先立つ診断に譬えられるでしょう。

 苦しみの原因を明らかにするのが、「十二縁起」の逆観で、遡って原因を探っていくと、特に「執着(取)」→「渇愛(愛)」→「無明」が「苦」の原因であることをブッダは解明したのです。

 このことから逆にはっきりするのは、「苦」という言葉は一般的な意味での「苦痛」とか「苦しみ」ということではないということです。

 私たちが何かに執着・愛着していて、それを失った時に感じるのは、単に生理的な「苦しみ」というより、それがあってはならない「不条理」だと感じるという心理的・精神的苦しみです。

 それは実際上もはっきりしていることですが、覚りをひらいた人でも例えば怪我をすれば痛みを感じますし、毒を飲めば苦しいのです。

 覚ることによってなくなるのは、そういう生理的苦しみではなく、生まれてきたことへの不条理感、せっかく生まれてきたのに老いたり病んだりし、結局は死ななければならないことへの不条理感という、そういう精神的な意味での深い深い苦しみなのです。

 私は、「苦」をそういうふうに解釈した時、ブッダの教えがきわめて合理的・説得的・普遍的であることがわかった気がしました。

 私たちが、望んだわけでもないのに生まれたこと、望んでいないのに老いたり病んだりすること、そしていちばん望まないことなのに死ななければならないことを、自分の「望み(という名の愛着・執着)」を離れて、ごく自然なことと受け容れることができたら、不条理感という精神的苦痛はすっきりとなくなってしまうでしょう。

 というとここで、「愛着・執着を離れるなんてことができるんだろうか?」という疑問が生まれるでしょう。

 また、「愛着・執着がなくなってしまったら、人生が面白くないんじゃないか? 人間味がなくなるんじゃないか?」といった疑問も出てくるかもしれません。

 どうしてかについては、徐々にお話していくわけですが、結論を先にいえば、離れることはできる、離れたらかえって人生が面白くなる、人間味豊かに生きられるようになる、というのがブッダの答え(の私の解釈)です。

 一歩一歩学びを進めていきましょう。


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4つの聖なる真理1

2005年12月15日 | 心の教育
 
 「縁起の理法」を覚ったブッダは、その体験に基づいて教えを展開しました。

 その教えのもっとも中心的なものとして、「ブッダは四諦(したい)八正道(はっしょうどう)を説かれた」といわれます。

 まず「四諦」「四聖諦(ししょうたい)」ですが、「四つの真理」「四つの聖なる真理」という意味です。

 第一は「苦しみという真理(苦諦・くたい)」、第二は「苦しみの原因という真理(苦集諦・くじゅうたい、または集諦・じったい・じゅうたい)」、第三は「苦しみの止滅という真理(苦滅諦・くめつったい、または滅諦・めったい)」、第四は「苦しみの止滅に到る道という真理(苦滅道諦・くめつどうたい、または道諦・どうたい)」、まとめて「苦・集・滅・道(くじゅうめつどう、くじゅめつどう)」といいます。

 ブッダは、無明・分別知に基づいて営まれる人生は基本的に苦であり、それには無明・分別知という原因があり、原因がある以上、その原因をなくせばそれはなくすことができるのであり、かつそのための道・方法はあるのだ、ということを説かれた、ということです。

 一般的に、ブッダは、生まれることは苦しみであり、老いることは苦しみであり、病むことは苦しみであり、死ぬことは苦しみである、と人生は基本的に「苦」だと教えたことになっています。まとめて「四苦(しく)」といいます。

 さらに、人生には、愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)があり、憎い人に会う苦しみ(怨憎会苦)があり、求めるものが得られない苦しみ(求不得苦)があり、存在の五要素そのものの盛んな働きが執着の元になるという苦しみ(五蘊盛苦)があり、前の四苦と足して「八苦(はっく)」といわれます。

 しかし私の理解では、これはあくまでも「無明に基づいて営まれているかぎり」という条件がついた話だと思われます。

 もし、ブッダの教えが「この世はひたすら苦である」といっているのならば、仏教はひじょうに暗くて悲観的で、いまどきはやらない思想だということになりますが、「苦諦」はあくまでも出発点なのです。

 人生の苦しみをなくすために、まずしっかりと現状では苦しみがあるという事実を認める。

 それから、その原因を見つける。

 無明という原因がわかれば、それを取り除く可能性が出てくる。

 そして、その方法を学んで実行する。

 その結果、無明が明・覚りに変われば苦しみはなくなる。

……と、最後まできちんと話を聞けば、仏教はむしろ根源的な希望のある話なのです。

 私はいつも学生たちに、「ちゃんとわかると、仏教はすごく明るい宗教・思想なんだよ」といっています。

 最初は、「ふーん」という顔をして聞いていた学生たちは、やがて「そうなんですね。仏教ってすごく明るいものなんですね。それがわかったら、とても好きになりました」といった感想文を書いてくれるようになります。

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