八識7:心の底の蔵―アーラヤ識①

2006年02月28日 | メンタル・ヘルス

 さて、唯識によるインフォームド・コンセントの手続きを続けましょう。


 私たちは、熟睡したり、泥酔したり、気絶したり、昏睡状態になったりすると、意識がなくなります。

 もちろん五感もほとんど働かなくなります。

 思わず知らず自分にこだわってしまうというマナ識でさえ働きません。

 (眠りが浅かったりすると、目が覚めてから、どうもマナ識的欲望から生まれたにちがいないという気のする変な夢を見たりすることはありますが……。)

 8つの心の領域・八識のうちの7つまでは休止してしまいます。

 しかし、目が覚めたり、酔いが醒めたり……すると、意識が戻ります。

 意識が戻ると、マナ識の働きも戻ります。

 さて、熟睡、泥酔、気絶、昏睡状態の時、意識はどこに行っていたのでしょうか?

 戻ってくる以上、完全に無くなっていたのではなく、どこかに行って、休んでいたと考えるほかありません。

 唯識学派の人々は、1つ、そういう日常的な事実に基づいて、そこから意識が出てきたり、そこに意識がこもったりするような、マナ識よりも深い心の底を想定するほかないと考えたのです。

 わかりやすく譬えれば、朝、仕事が始まる時に車を出し、夜、仕事が終わったらまた入れておく、車庫のような、心の倉庫・蔵があるというわけです。

 誰でも知っている「ヒマラヤ山脈」というのがありますが、これは「ヒマ=雪」の「アーラヤ=蔵」という意味です。

 その「アーラヤ」という言葉を使って、そういう心の奥の蔵は「アーラヤ」識と呼ばれました。

 それは、意識的な心ではありませんが、その元になっているのですから、より根源的な心・識といってもいいでしょう。

 そういう意味で、「識」を付けて、アーラヤ「識」といわれるわけです。

 こういうふうに説明されると、「アーラヤ識」が唯識学派とか仏教にだけ通用する特殊なコンセプトではなく、人間誰にでもある心の深層領域を指し示す普遍的な言葉であることが理解できるのではないでしょうか。

 (学んでみると、こういうふうに、仏教の核にある教えは、非常に哲学的・理性的で普遍・妥当性の高いものであることが納得できます。)


*写真は、松江風土記の丘の縄文住居の復元


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出雲大社でも松枯れ

2006年02月27日 | Weblog

 23日の講演の翌日、友人のお坊さんとその知人の方とに案内していただいて、初めて出雲大社にお参りしました。

 境内には、神社にふさわしい清々しい気配がありました。

 大きないわゆる大社作りの本殿には、「雄渾」という言葉がぴったりでした。

 「やはり、来てよかった。一度は来ておくものだ」と思ったことです。

 しかし、心痛む思いがしたのは、境内や特に神社の背後の山の松が枯れかかっていたことです。

 松枯れは西の方から進んできていて、日本全国に広がっていることですが、「やっぱり、ここもか」と、日本の原点の一つともいうべき場所であるだけに、改めてある種のショックを感じました。

 日本の原点の一つである出雲大社の背後を守る山が荒れてきていることは、日本全体の心の荒廃と環境の荒廃が深刻なかたちで同時進行していることの象徴のように思えてなりませんでした。

 原因は、酸性雨-土壌の変化-土壌の菌類の変化-害虫の繁殖-松枯れというふうな連鎖だと推測されます。

 その酸性雨は急激な近代化-工業化を進めている中国大陸から日本海を越えてやってきたもののようです。

 問題は日本だけのことではありません。世界のグローバルな近代化のマイナス面だといってまちがいないでしょう。

 これは、楽しい話ではないので、読者を増やすネタにはならないのですが、やはり書いておきたいと思いました。

 それは、ご先祖さま予定者である私たちにとって、子孫の世代のために放っておけないことだからです。

 何とかしたいですね。手はあるのですから。



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なぜ仏教について語るのか

2006年02月26日 | 生きる意味

 「いのちはつながってこそいのち」と、いろいろな機会に思います。

 特に今可愛い盛りの孫娘に会うと、「ほんとうにまぎれもなくこの子と私のいのちはつながっているんだな」と感じます。

 少し離れたところに住んでいるので、たまにしか会えないのがとても残念です。

 忙しい日程を何とか調整して、2ヵ月ぶりくらいに会うことができました。

 最初は少しはずかしそうでしたが、すぐになれて、すっかり自分のじーじとばーばだとわかって甘えてくれています。

 おそらく40億年くらい前の熱い原始の海の中で一匹のバクテリア的ないのちが創発して以来、一度も途切れることなく私のところまでいのちが続いており、娘にそしてこの孫娘につながっており、私たち人類が愚かでなければ、そのいのちのつながりはさらにずっとずっと続いていきます。

 これは、思うたびに驚きと感動を新たにせざるをえないことです。

 供養仏教は、そういういのちのつながりを――神話的であり、また直系に限定されがちだったという限界はあったにせよ――自覚させるという、日本人の精神性にとって決定的に重要な役割を果たしていたのです。

 霊性仏教は、いのちでないものをも含むすべてのつながりの直観から生まれ、哲学的仏教はそのことを言葉で説明したものです。

 そして、現代科学はまさに科学的に40億年にわたるいのちのつながり、137億年にわたる宇宙における万物のつながりを明らかにしてくれました。

 現代の日本人――若者だけでなくお年寄りまであらゆる世代、そして都市部だけでなく地方の隅々まで――が「いのちの意味」を再認識し、新たな合意を得ていく上で、それらのすべてが統合的に捉えられる必要がある、というのが、筆者が繰り返し主張-提案してきたことです。

 「伝えたい! いのちの意味」というタイトルのブログで、なぜ仏教という特定宗教にこだわっていると思われかねない記事を書き続けているのか、その理由をまた少し書いておきたいと思いました。
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希望の法師のみなさんに会いました

2006年02月25日 | Weblog

 曹洞宗島根県布教講習会に行って、昨夜帰ってきました。

 講習会でお話ししたことについては、非常に確かな手ごたえを感じました。

 日本の仏教が「つながりを大切にする心」を育ててきたこと、それが「供養仏教」の本質であること、それは「縁起」の理法を庶民に伝える方便として深い意味があった(今でもありうる)こと、現代科学のコスモロジーを媒介・方便とし霊性仏教と哲学仏教をエッセンスとして再確認し供養仏教と統合すること……といった提案に共感してくださった方がきわめて多かったのではないかと感じました。

 私は、かつて「日本仏教は絶滅寸前です」といっていました。

 いろいろなことを見ていて、最近は、「ほとんど絶滅したんじゃないですか」とまでいうほかないという気分でした。

 しかし、もしかすると復活しうるのではないか、という強い希望を今回は感じさせていただけました。

 諸菩薩、希望の法師のみなさんに会えた、という感じです。

 読者のみなさん、もうおわかりいただいていると思いますが、これは、単なる特定宗教としての曹洞宗や仏教の未来の話ではなく、日本人の精神性の未来の話なのです。


*写真は、大田市の三瓶山、とてもゆったりとしたいいお山です。山麓にある天台宗のお寺のご住職は30数年来の友人で、いつかそこで、ワークショップをさせていただこうと思っています。


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アンケート:どちらのタイプ

2006年02月24日 | メンタル・ヘルス

 アンケート:どちらのタイプの医者にかかりたいか

 あなたは、実は深刻な病気になっていて、自分でもある程度の自覚症状はあるが、それほど深刻だとは思っていない、思いたくないので、治療しようとしていなかったが、「もしかすると?」という気がして、ともかく医者に行って診断してもらおうという気になった、という場合、次のどちらのタイプのお医者さんにかかりたいですか?

 ①やさしい(というか気が弱い)ので、ショックを受けないようにあなたのあまりにも深刻な病気についてははっきり知らせないで、「まあ、大したことはありませんが、できれば、治療はしたほうがいいですね」といった感じに、やわらかくいってくれるお医者さん。

 ②治る病気は必ず治してあげたいと思っているので、「あなたの病気は、かくかくしかじかできわめて深刻ですね」と知らせ(インフォーム)、「しかし、粘り強く治療に取り組めば、時間はかかっても、おそらく治ると思います。やってみませんか?」と治療への同意(コンセント)を求める(ほんとうの意味でやさしい?)インフォームドコンセント型のお医者さん。

 唯識は、無明-煩悩という心の病に関する②タイプのお医者さんだといっていいでしょう。

 ①タイプのお医者さんにかかりたい方には、やや向かないかもしれません。

 でも、私は、②タイプのほうが、私にとってほんとうの意味で役に立ってくださるお医者さんだと思っています。

 あなたは、どちらのタイプのお医者さんにかかりたいですか? 選択するのはあなたです。


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草木経

2006年02月23日 | 生きる意味

 春が近づき、草が萌え、木の芽がふくらんできます。

 今日は、曹洞宗島根県布教講習会の講演に出かけます。

 「こうしたら若者に仏教が伝わった」というタイトルで90分×2回、この授業でお話ししていることのダイジェスト版をお伝えするつもりです。

 そして、曹洞宗の布教師のみなさんと、ぜひ、コスモロジー的仏教の理解を共有して、多くの人に伝える共同作業に向けて大きな合意を得たいと願っています。

 それにちなんで、『正法眼蔵』の好きな言葉をまた一つご紹介していきます。


 いはゆる経巻は、尽十方界これなり。経巻にあらざる時処なし。……あるひは百草の文字(もんじ)をもちひ、あるいは万木(まんもく)の文字をもちひる。(「仏経」巻)


 「いわゆるお経(真理の言葉)というのは、全世界がそれである。お経でないような時も所もない。……ある場合にはさまざまな草を(お経の)文字として用い、ある場合にはさまざまな木を文字として用いる」というのです。

 草や木を真理の言葉を表現する文字として使うのは、さあ、誰・何でしょう?



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八識6:マナ識に潜む根本煩悩④

2006年02月22日 | メンタル・ヘルス

 私たちの無意識にしつこいしこりのように存在しているのが、4つの根本煩悩です。

 宇宙と私のつながり-一体性にまったく無知であり(我癡)、それどころか他と分離した実体としての自分がいると思い込み(我見)、そういう自分を頼り・誇りにし(我慢)、そしてそういう錯視された自分に徹底的にこだわり、愛着・執着する(我愛)、という心の働きです。

 意味が初めてわかった時、私は、何と深く、何と正確な洞察だろうと感嘆したものです。

 ふつう「欲望」といった言葉で表現される人間のやっかいな心の働きは、非常に感情的・情念的なもので、理屈や意思でどうにかなるものではない、と考えられがちです。

 確かに愛着・執着したり頼り・誇りにするという心の働きは、分類でいうと「感情・情念」です。

 しかし、そういう感情・情念は実は思い込みや無知という深いところにしこっている思考・認識に基づいているというのです。

 あまりにも深いところにある思考・認識であるために、確かに表面的な意識の思考や認識によってダイレクトに変えることはできません。

 私の唯識の読みがまだここまで行っていなかった頃、4つの根本煩悩を並列的にお話していた時、ある聴講者の方が憤然として、「人間の煩悩ってもっと感情的でドロドロしていて、そんな認識でどうにかなるような簡単なものじゃありませんよ」と抗議されたことを覚えています。

 今だったら、「いろいろなものへの人間の強烈な愛着・執着や誇り・高ぶりといった煩悩は、確かにちょっとのことでどうにかなるような感情ではないですよね」と答えた後で、「でもそういう感情はさらに深い思考・認識の歪みから生まれていると考えられるんですよ。そして、そういう歪みを心のもっと深い底から変えることができる、というのが唯識の洞察なんですね。よかったら、もう少し先まで学んでみられませんか」とお話しすることができるでしょう。

 人間は、実にさまざまなものに愛着し、それはしばしば過剰な執着になり、病的なこだわりになって、自分をも人をも悩ませることになります。

 しかし、自他を悩ませる煩悩だとわかっていても、どうしようもなくそういう感情が湧いてきてコントロールできない、という体験は誰でもしたことがあるでしょうし、現に体験していて悩んでおられる方もいるでしょう。

 そういう煩悩について、よく「煩悩があるからこそ人間らしいんだ。煩悩がなくなったら、人生が退屈になる」という方がいます。

 (「だって人間だもの」というセリフもありましたね。)

 しかし、ここで、「大切にする」ことと「こだわる」ことは違う、「愛する」ことと「執着する」ことは違う、のではありませんか? といっておきたいと思います。

 「我愛」が浄化されてなくなっても、愛することはなくならない、どころかもっと純粋に美しく、感動的になる、と私は考えています(全体としての大乗仏教もそう主張していると思います)。

 心の奥・マナ識よりももっと深い底の底・アーラヤ識から無明・我癡と我見をただし、そのことによって我慢と我愛をも浄化する方法がある、というのが唯識のメッセージだ、と私は捉えています。

 ……そろそろ、希望のある話になってきました、よね?


*写真は、もうすぐ咲き始める春先の希望の象徴のようなイヌフグリの花、去年の写真です。


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講座案内

2006年02月21日 | メンタル・ヘルス

  サングラハ教育・心理研究所 (←3月1日付で改称します。)

 19期オープンカレッジ ご案内


 今日本では、戦後の自由主義-資本主義社会のマイナス面が深刻なまでに拡大しています。自由主義は過度な自由競争に、資本主義は拝金主義へとひずんできていて、優越か劣等か、勝ち組か負け組かという、不毛な二極分化-対立が進んできているようです。

 そうした不毛な状況に巻き込まれず、しかし決して不適応に陥らず、「自分らしく・人間らしく」、生き生きとこの社会を生き抜くために、今期は、そもそも何が「本当の自己」なのかというところを、ご一緒に学んでいきましょう。

 藤沢に新しい拠点ができました。土日の集中講座を追加する予定です。ご期待ください。


A講座:「自己実現の心理学」 於 ヒューマン・ギルド(神楽坂) 
4/11, 25 5/9, 23 6/13, 27 7/4, 18 火曜日全6回
 
 「自己実現」という言葉は、「競争社会」の雰囲気の中で「人を蹴落としてでも自分の思いどおりに生きること」というふうに誤解されてきましたが、それは、提唱者の代表ともいうべきマズローなどが伝えたかったこととはかなり、というかほとんど違っています。

 今、マズロー、アサジョーリ、フランクルなどを手がかりに、原点に帰って学びなおすことは、きっとこの時代の中で自分らしく生きるための、基本的なヒントになると思います。

テキスト:岡野守也『トランスパーソナル心理学』(青土社)

C講座:「『禅宗四部録』を読む」 於 不二禅堂(参宮橋)
  4/7, 21 5/12, 26 6/9, 23 7/7, 21 金曜日全8回

 中級講座では、基本的には大乗仏教の深層心理学・唯識の学びを持続してきていますが、合間に、禅の古典なども学びます。現在は、『摂大乗論』の学びを一区切りで中断して、禅の入門的な古典『禅宗四部録』を学んでいます。

 今期は、「君見ずや、絶学無為の閑道人、妄想を除かず真を求めず(諸君見たまえ、もはや学ぶべきものがなくなり実に閑になった道人を。妄想をなくそうともせず、真実を求めようともしない)」という冒頭の名句で知られる、7世紀末~8世紀初の永嘉玄覚(ようかげんかく)のものとされる『証道歌(しょうどうか)』の講読を行ないます。

 全回の『信心銘』に続き、研究所主幹がはじめて講義するものです。どうぞ、ご期待ください。

 なお、講義の前に30分程度の坐禅を行ないますので、坐禅のできる服装をご用意下さい。
テキスト:コピーを配布します。

●受講料は、一回当たり、一般3、5千円、会員3千円、専業主婦・無職・フリーター2千円、学生1千円×回数分です。
 都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。

●申し込み、問い合わせは
 サングラハ教育・心理研究所・岡野へ、E-mail: okano@smgrh. gr. jp 
または Fax0466-86-1824で。
 住所・氏名・年齢・性別・職業・電話番号・メールアドレス(できるだけ自宅・携帯とも)を明記してください。


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八識5:マナ識に潜む根本煩悩③

2006年02月20日 | 心の教育

 「私は他の誰でもなく私だ」という心の奥の思いは、自分と他者との「区別」という意味では正常かつ必要なものです。

 自分と他者との区別がつかないという心の状態は、乳幼児なら正常でありかつ可愛いものですが、大人になってもそのままだと病気です。

 仏教は、まだ発達心理学や臨床心理学のない時代にできたものですから、そのあたりが理論的に整理されていないところがあるようです。

 その点は、もし仏教-唯識の洞察を現代に活かしたいのなら、はっきりさせておく必要がある、と筆者は考えています。

 自己と他者との区別がわかるようになるのは、正常な発達です。

 自己と他者の区別がちゃんとできるようになり、「自分は自分だ」、「自分とはこういう存在だ」という思いが心の奥にしっかり確立することを、西洋心理学のコンセプトでいうと、「自我の確立」とか「セルフ・アイデンティティの確立」といいます。

 自我・アイデンティティの確立なしには、健全に生きてことはできません。

 それに対して、自己を他者と分離した実体であると思うのが、無明・根本煩悩なのです。

 こうした問題を考える上で、「区別」と「分離」という言葉の使い分けはとても重要です。

 しかし、言葉を使う動物である人間は、ともすると区別を分離と取り違えてしまうという強い傾向を持っています。

 ほとんどの人のケースで、区別というよりは分離のほうに傾いてしまっている、といってもいいほどです。

 ふつうの人間は、自己を実体視し(我見)、それを拠りどころ、頼り、誇りにするようになりがちです。

 実体視された自己を拠りどころにし、頼り、他者と比較して自分のほうが上だと誇りたくなる心のことを、「我慢(がまん)」といいます。

 これは、日常語の「我慢」の語源ですが、意味は逆です。

 我慢することはいいことですが、「我慢」は根本的な煩悩なのです。

 (日常用語と区別するために、唯識用語としての「我慢」は「ま」のところを高く発音するアクセントで読まれます。)

 これもまた、私たちの日常の現実を理解するのにとても役立つコンセプトです。

 競争社会におかれている私たちは、マナ識を過剰に刺激されがちで、やめよう、やめたほうがいいと思っても、ついつい人と自分を比較して、上だ・下だ、優れている・劣っている、と心安らかでなくなっています。

 「我慢」の働きによって心を悩まされる、つまり煩悩ですね。


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八識4:マナ識に潜む根本煩悩②

2006年02月19日 | 心の教育

 「無明」とか「我癡」とか「根本煩悩」といった言葉を聞くと、何か難解で抽象的で私たちの日常生活の現実とは関係のない話のような感じを受けるかもしれません。

 しかし、よく考えていくと、私たちの日常に起こる大小さまざまなトラブルから犯罪、そして戦争や環境破壊に到るまで、ほとんどすべてがエゴイズムに関わっています。

 日常的ないろいろなトラブルは、結局のところエゴとエゴとの衝突です。

 犯罪は、いうまでもなく「社会の法律がどうだろうと、オレはオレの好き勝手にやりたい」という犯罪者のエゴイズムから生まれます。

 例えば、今ニュースになっている、我が子がダメにされると思い込んで人の子を殺したという事件も、母親の病的なまでになったあまりにも悲しく愚かなエゴイズムから起こったことでしょう(ほんとうに悲しいことです)。

 戦争は、「自分たちの利益や名誉や理念こそ絶対に重要だ」という集団エゴから生まれます。

 環境破壊は、人間のエゴイズムが人間以外の自然を破壊しているということです。

 それらの言葉は、そういう現実に起こっていることの原因になっている、「諸悪の根源」ともいうべきエゴイズムの根っこを明らかにしているという意味で、実は人間社会で毎日起こっている現実をはっきりと理解するためのカギ、「キー・コンセプト」だといってもいいでしょう。

 「我癡」そしてそれに続く「我見(がけん)」、「我慢(がまん)」、「我愛(があい)」というコンセプトの意味がわかってくると、現実――の特に醜い面の訳――がわかってきます。

 唯識は、ふつうの人間つまり「凡夫」がただ無知であるというだけでなく、さらに厄介なことに、実体(我)がある、特に実体としての自我があるという強固な見解・思い込みを持っていることを洞察しました。それを「我見(がけん)」といいます。

 真理を知らないだけではなく、まちがったことを信じ込んでいるのです。

 これでは、現実生活が、自分に関しても社会全体に関してもうまくいかないのは、ある意味では当たり前でしょう。

 人間の現実は、人間をも含みながら人間を超えている大きなコスモスの現実に反した勝手な思い込みで営まれているのですから。

 「何のお陰もこうむらない、私そのものというものが、いつまでもいる」ような思い込みが、どんなにおかしなものか、この授業では繰り返しお話ししてきました。

 しかし、そういう話を聞く以前はもちろんですが、聞いた後でも、なかなか心の底からつながりと一体性を感じるというふうにはなれませんよね?(私の場合はそうです。)

 けれども、四諦の場合、苦諦や集諦で話が終わりでないのと同じく、ここで話は終わりではありません。

 心の深い病の原因の説明はもうしばらく続きますが、やがて、「でも、ちゃんと手順を踏んで治療すれば治りますよ」という話になっていきます。


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八識3:マナ識に潜む根本煩悩①

2006年02月18日 | 心の教育

 私たちはふつうに育つと、「自分は自分だ」と思うようになりますが、ちゃんと順を追って教えられると、自分だけで生きていられる自分などいないということ、つながりによって生きている、生かされているということ、縁起ということはわかります。

 また、さらにすべてはつながり-つながり-つながりというふうになっているのだから、結局は一つだということも、理論として頭ではわかります。

 しかし、実感はなかなか湧いてきませんし、実感に基づいた心からの実践もできません。

 どうしても、私は私、人は人、物は物というふうに思えてしまうのです。

 しかも、それぞれがまるで分離・独立して存在する実体であるかのような気がしてしまいます。

 いくら、すべては実体ではない、「無我」である、といわれても、そうは思えないという働きが心の奥にある、と唯識は洞察したのです。

 さらに驚くべきことは、その働きをさらに詳しく正確に分析していることです。

 それは、すべての現象的な煩悩の根なので、「根本煩悩(こんぽんぼんのう)」と名づけられています。

 その根本煩悩の働きは4つに分類されています。

 まず、何よりもすべてのものが非実体=無我であることについてまったく無知です。

 それを〔無〕我についての愚かさという意味で「我癡(がち)」といいます。

 これは、修行者たちが、意識で「無我」だと学ぶ前はもちろん、学んで分かっても、どうしてもそれを実感しているとは思えない反応が心の奥から湧いてくる、という自分たちの姿を実に厳しく反省したところから生まれた概念だといっていいでしょう。

 「我癡」というコンセプトは、それまでの仏教用語でいうと「無明」に当たりますが、自己洞察がいっそう深められています。

 つまり、人間の無明や煩悩といったものが、意識の世界で片づくようななまやさしいものではなく、無意識の世界に深く根を下ろしたきわめて厄介なものであることが、はっきりと洞察されているのです。

 私は、マナ識、特に「我癡」というコンセプトに出会った時、なぜ、人間はほとんどエゴイズムから自由になれないのかという、長年の疑問がすっきりと解かれたような気がしました。

 人間のエゴイズムの源泉は、心の奥深くに根を下ろした、自我の非実体性への徹底的な無知=我癡なのだ、そうか、そうなのだ、と。


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坐禅は心を爽やかにする方法

2006年02月17日 | 心の教育

 今日はこれから「坐禅入門」の講座に行ってきます。

 「坐禅は安楽の法門」と呼ばれるように、坐禅すると心が安らかに、楽になります。

 よく誤解している方がありますが、坐禅は苦行ではないのです。

 自分を苦しめて鍛えるというより、心を余計な分別から解放し、安楽にし、浄化して、爽やかに生きられるようになるために、坐禅をするのです。

 「ために」というと、「それはちがう!」というDogenismの方もおられるかもしれませんが、そういう場合は、「坐禅儀」をお読みください。

 「安楽」どころか、「大安楽の法門」と書いてあります。

 初歩の段階では、「大安楽」になりたくて坐禅をする、ということでいいのではないでしょうか。

 実際、習熟してくると、坐禅するたびに爽やかな気持ちになれます。

 また次の機会に、みなさん、やってみませんか。


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八識2:六識とマナ識

2006年02月16日 | 心の教育

 私たちは、熟睡している時、気絶している時、ひどく泥酔している時を除くと、自分で自分のことがわかっているという心の状態にあります。「意識」ですね。

 意識は、五感を通じて入ってくる外界からの刺激を認識します。

 目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、体でさまざまな身体感覚を感じます。

 意識がぼんやりとしていると、目で見ていたり、耳で聞いていたりしても、見聞きしているものが何だかわからないということがあります。

 意識は、五感を通じて入ってくる感覚をとりまとめて、それが「何」なのかをはっききり判断するという役割をしています。

 つまり、「わかる」というのは、まさに「分かる」で、分別知なのです。

 意識は、自分が誰・何だか分かっており、外側のものが誰・何だかを分かるという働きをしています。

 意識は、いつも分別しているといっていいでしょう。

 仏教では、こうした五感+意識を「六識」と呼んでいることは、すでにお話したとおりです。

 原始仏教から大乗仏教も空の思想までは、人間の心を「眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)という「六識」で捉えていました。

 しかし、修行中に、例えば「無我」や「空」ということをいくら意識で「分かる」ことができても、それは本当に「覚る」こととは違うという体験をした修行者たちの中から、六識で捉えきれない人間の心のもっと深く暗い部分を想定するほかないという自覚が出てきたのです。

 一切は空である以上、執着してもしきれませんし、する必要もありません。

 ところが、そう学んでも、自分の心の奥から自分や自分の大事なものに執着する気持ちが、なぜか、どうしても、湧いてきます(よね? みなさんはいかがですか?)。

 執着する自分も執着されるもの(者・物)もみなもともと空なのだ、といわれても実感は湧かないのです。

 心の奥にあって、自分と自分でないものを分けておいて、自分や自分にとっていいものにこだわる思いを湧き起こさせる領域のことを、唯識は「マナ識」と呼んでいます。

 サンスクリット語の「マナ」は「思い量る」という意味ですが、「マナ識」は特に実体としての自分があると思い量って、それに執着する心です。

 意識で簡単にコントロールすることのできない、煩悩を湧き上がらせる心の奥深い領域について、唯識は驚くべき洞察を加えています。

 私の知るかぎり、世界の宗教や思想の中で、こんなにも的確に人間のエゴイズムの深い源泉を探り当てたものは、他には見当たらないようです。


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梅と春と世界と

2006年02月15日 | 生きる意味

 毎年この季節になると思い出すのは、道元の『正法眼蔵』「梅華」の巻です。

 全体が実に美しい文章ですが、特に次の個所がとても深くてとても美しくて、初めて読んだ時からずっと心に残っています。

 老梅樹の忽(たちまち)開華のとき、華開世界起(かかいせかいき)なり。華開世界起の時節、すなはち春到(しゅんとう)なり。

 訳すと、「老いた梅の木にたちまち花が開く時、花が開いて世界が起こるのである。花が開いて世界が起こるというその時、すなわち春が来るのである」といったところでしょうか。

 私たちの常識では、まず梅とは別に全体としての世界が存在しており、その世界が春になり、そこで老いた梅の木にも花が咲く、ということになります。

 ところが、徹底的にすべてのものの一体性を覚っておられる道元禅師の目には、梅の花が咲くことと世界がそこで新たに生起することと春になることもまた一つのことです。

 無我であり無常である世界は、一瞬一瞬、新たに起こるのであり、それは梅の花として起こったり、春として起こったり、さまざまな区別できるものとして生起しながらも一つです。

 コスモスには、一瞬一瞬、新たな創発が起こっています。

 よく考えると、古い木(と私たちには思えるもの)に梅の花が咲くことも、実はコスモスの新たな創発だというほかありません。

 そして、梅の花が開くことにおいて、「春」と名づけられた新しいかけがえのない時が起こっているのです。

 早春、梅の花が咲くというごく当たり前のことをこんなに深く体験することは、私たちの心の発達段階ではできません。

 ただ憧れと崇敬の思いで道元禅師の言葉の深さと美しさを味わうだけでいい、といえるかもしれません。

 けれども、つながり-かさなりコスモロジーを学んできた私たちには、少なくとも論理としては解釈できますので、とりあえず私にできる解釈で味わってみました。


 今日、散歩に出ると、まだ若い梅の木の昨日はようやく開きはじめた蕾だったのが、まさに「たちまち」という感じに開いていました。

 初々しく清楚な白さが何ともいえず好ましい、と感じたことです。


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坐禅入門講座

2006年02月15日 | 心の教育
●いよいよ明後日になりました。めずらしく今回はまだ余裕がありますので、今からでもお申し込みいただけます。

    初心者のためのやさしい坐禅入門


 今年も、授業や講座を受けた方の中から、一度坐禅を体験してみたい、坐禅の仕方をおぼえたいという声がありますので、坐禅の入門講座を企画しました。

 ぜひ多くの方に体験していただきたく、昨年に続き、安い参加費にしました。

 「やってはみたいが、ちょっとこわい」「足が痛いんじゃないか」「棒でたたかれたりするんじゃないか」とこわがっておられる方のために、サングラハ式はスパルタ式と反対で、とてもソフトにご指導します。

 警策(肩をたたく棒)を使ったり、怒鳴りつけたりということは一切しません。

 また、なるべく足の痛い思いをしないように、ていねいな準備の柔軟体操もご指導します。

 「黙って坐れ」ではなく、「わかって坐ろう」がモットーで、必要な説明は十分に行ないます。

 体をととのえ、呼吸をととのえ、心をととのえる――この一見シンプルな方法は、実はとても深いもので、いったん身に付けると一生の精神的財産になるでしょう。

 といっても、あまり構えないで、まず最初は気楽に心の洗濯-リラクセーションのつもりでお出かけ下さい。

 入門者だけでなく、再入門の方も、坐禅を教えられるようになりたい方もぜひどうぞ。

●日時:2月17日(金)午後12時~5時頃

●会場:不二禅堂(小田急線普通で新宿から2駅め「参宮橋」の1つだけの改札を出た道を左、最初の2叉路を左(ゆるやかな下り坂)、その後参宮橋商店街を直進(青少年センター方面への左に直角に入る道に行かないように注意)、マルコウストアの先のT字路も左(ややきつい上り坂)、徒歩約5分で道の左側。看板がありますが、一軒手前の3階建てマンションの陰に隠れてあまり目立たないので要注意。)

●指導者:サングラハ心理学研究所主幹・岡野守也

●参加費:一般2000円、会員1500円、学生・準学生1000円

●テキスト:『サングラハ実践の手引き』『サングラハ第78号』(『坐禅義』講義)。お持ちでない方には当日配布します。

●持参品:筆記用具、軽い運動のできる服装

●申込みは 
 サングラハ心理学研究所・岡野へ、E-mail: okano@smgrh. gr. jp 
 または Fax0466-86-1824で。
 住所・氏名・年齢・性別・職業・電話番号・メールアドレス(できるだけ自宅・携帯とも)を明記してください。
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