2015年前半の講座予定

2015年02月25日 | 広報
*先日、お知らせしました日程のうち、高松講座6,7月の分について、会場の都合により変更になりましたので、改めてお知らせします。


 梅の花が咲き始めました。ようやくゆっくりとですが、春がやってきています。

 自然界に合わせて、私たちもいきいきと活動を始めましょう。

 東京講座の仏教は今週土曜日28日の『正法眼蔵・梅華』で一区切りです。

 3月からは大乗仏教の代表的経典『摩訶般若波羅蜜経』の要点を学んでいくことにしました。
 心理学は、引き続きコスモス・セラピーです。

 高松講座は、2月でコスロジー教育入門、3月で唯識心理学の学びはひとまず完了。

 4月から7月まで4回で論理療法を学んでいきます。

  生活の中でいろいろいやなことに出会うのは避けられませんが、ふつう、いやなことがあったらいやな気分になるのは当然と思われています。

 ところが、実はその出来事をどういう考え方で捉えるかによって、気分はひどくなったり、軽くなったりするのです。

 論理療法は、どういう考え方をすればいやな気分を軽くすることができるか、とてもシンプルで効果的な方法を教えてくれます。
 ストレス・コントロールの方法として、とても実績のあるものです。

 ストレスの多い時代、ぜひ、みなさんにもシェアしたいと思い、講座を設定することにしました。


 また、夏には、非常に久しぶりにコスモス・セラピーの2泊3日のワークショップを行なうことにしました。

 ぜひ、スケジュールに入れておいていただけると幸いです 


    高松集中講座

 3月 8日(日)「唯識心理学を学ぶ④」

 4月12日(日)「気分が軽くなる心の整理術―論理療法のすすめ①」
 5月10日(日)「論理療法のすすめ②」
 6月 7日(日)「論理療法のすすめ③」
 7月 5日(日)「論理療法のすすめ④」

 日曜日13:30-16:30 穴吹ホール(県民ホール)第一会議室

 
    東京集中講座

 2月28日(土)「正法眼蔵を読む・『梅華』」
 3月1日(日) 「コスモス・セラピー グレードアップコース」
 13:00-17:00 フォーラムミカサエコ8F会議室またはホール

 以下、土曜日は「大乗の菩薩とは何か――『般若波羅蜜経』の要点を学ぶ」
    日曜日は「コスモス・セラピー トレーニングコース」


 3月21日(土)フォーラムミカサエコ8F
   22日(日)浜離宮恩賜庭園 芳梅亭
   都営大江戸線「築地市場」(E18)「汐留」(E19)・ゆりかもめ「汐留」
   下車 徒歩7分
 JR・東京メトロ銀座線・都営浅草線「新橋」(G08・A10)下車徒歩12分
 4月25日(土)フォーラムミカサエコ8F
   26日(日)フォーラムミカサエコ8F
 5月23日(土)フォーラムミカサエコ8F
   24日(日)殿ヶ谷戸庭園 紅葉亭
   JR中央線、西武国分寺線・西武多摩湖線「国分寺」下車徒歩2分
 6月27日(土)、28日(土)フォーラムミカサエコ8F
 7月25日(土)、26日(日)フォーラムミカサエコ8F



   夏のコスモス・セラピー ワークショップ
 7月31日(金)〜8月2日(日) 
 於「白州・尾白の森名水公園『べるが』」(山梨県北杜市)

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閉ざす宗教をやめて開く宗教=霊性へ

2015年02月24日 | 仏教・宗教

 *以下は、2001年10月22日、桜美林大学での礼拝説教に若干の訂正を加え、「アメリカの同時多発テロとそれ以後の状況へのコメント」という副題を付けて『サングラハ』誌に掲載したものです。

 原理主義的宗教の問題をどう考えればいいのか、10年以上たった今でも基本は同じだと思っていますので、ブログの読者のみなさんにも改めてお読みいただいて参考にしていただきたいと思い、さらにごくわずかの訂正・増補を加えて転載することにしました。



 共通にある聖戦思想

 最近起こったアメリカでの多発テロに関わって、キリスト教とイスラム教の問題について、いろいろな方からコメントを求められます。とても複雑な問題なので、わずかな時間で語り尽くすのは難しいと思いますが、ここでポイントだけお話ししておきたいと思います。

 よくあるのは、「アメリカはキリスト教国なのに、どうして報復するんですか」という質問です。これは、「キリスト教の根本精神は愛であるはずなのに」という疑問です。それに対して私は、まず「キリスト教国だから報復するんです」と、意表をつくような答えからすることにしています。

 ご存知かどうかわかりませんが、イスラム教だけでなく、ユダヤ教とキリスト教にも、その一部として、はっきりと聖戦思想が含まれているのです。

 例えば典型的には、『旧約聖書』の六番目に『ヨシュア記』というのがあります。ヨシュアは、有名なモーセの後継者で、実際にイスラエルの人たちがカナンの地(今のパレスチナ)に入っていくときに、宗教的・軍事的指導者だった人です。彼はまさに軍事的指導者でもあったわけで、その侵入する際の戦いを指導し、それに勝ち抜いていくわけです。そして古代のパレスチナ人たちを殲滅しながら今の地に入っていくのですが、その際、侵入していくことが宗教の名、神の名において合理化されているのです。

 『ヨシュア記』の前にある『申命記』に「主はモーセに言われた。これがあなたの子孫にあたえると私がアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である」(三四・四)とあります。つまり、神さまがこの土地をくれると我々に約束したのだから、そこに入って行くんだ。それを邪魔する人間たちを殺すのは、神の名においてOKなんだ、という論理がはっきりと現われているのです。

 『ヨシュア記』には、例えばエリコという町を滅ぼしたときのことが、以下のように書かれています。私たちのイメージからすると、聖書にこういうことが書いてあるというのは驚くべきことですが。

 「角笛が鳴り渡ると、民は鬨(とき)の声をあげた。……。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声を上げると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに到るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした」(六・二〇-二一)。

 神の名において、こういうことが行われる、という思想が、『旧約聖書』――それはまずユダヤ教の聖典でもあるわけですが――の中に、一ヵ所や二ヵ所ではなく、あちこちに書いてあるのです。

 私はキリスト教絶対主義的な立場にいたときには、「聖書にどうしてこんなこと――戦争=殺人を認めるようなことが書いてあるんだろう?」と、疑問で疑問でなりませんでした。キリスト教絶対主義の立場を離れて、諸宗教をできるだけ公平に見るという立場に変わっていったとき、これはもともとユダヤ教にある思想で、キリスト教もそれを引き継いでしまっていることに気づいたわけです。

 それからイスラムはご存じのように、通称マホメット――より正確な発音はムハンマッドのようですが――が創始者ですが、もともと彼は商人の出身で、やがてある部族の代表になり、そういう意味でいうと政治的・経済的・軍事的指導者だったわけです。もともとの出身地のメッカから追い出され、もう一度メッカの町に戻っていくときには、まさに戦争を行なって、戦争に勝利して、メッカに凱旋しています。そのことからもわかるように、イスラムにももちろん聖戦思想があります。

 しかし元に戻ると、聖戦思想のオリジナルは、まずユダヤ教にあります。それからキリスト教も引き継いでいる。それからイスラムも引き継いでいるのです。この三つの宗教が、例えばパレスチナという場所でお互いに、神の名において自分たちは正しいのだ、と自己絶対化をしながらトラブルを起こすと、収拾のつけようがありません。

 そういう聖戦思想の論理でタリバンの人たちは、ユダヤ教国イスラエルを支援するキリスト教国アメリカに対しても、はっきり「イスラム教とキリスト教の戦い」というふうに自己主張をしています。

 アメリカのブッシュ大統領も最初、「これは善と悪との戦いである」という反応をしました。あれは明らかにプロテスタント原理主義的な発言である、と私は考えています。聞いたところでは、ブッシュさん自体、非常にファンダメンタルな、つまり原理主義的なキリスト教のクリスチャンであるようです。そのあとで、「十字軍」という失言もしました。これではまずい、というブレーンたちのアドバイスがたぶんあったのだと思うのですが、最近は建て前上は「これはイスラムに対する戦いでもなければ、アラブに対する戦いでもない」と、やっと少し頭の冷えた発言をするようになったので、私もいくらかホッとしています。しかし、本音は依然として善と悪との戦い、つまり、キリスト教的善とイスラム的悪との戦い、と思っているのではないかと思われてなりません。

 キリスト教の建前としてのイエスの言葉

 こういうことに関して、そういう聖戦を自己肯定するような論理がもともと宗教の本質なのだろうか、キリスト教の本質なのだろうか、というところを、原点だけ、どこまでも原則論ですが、考えてみたいと思います。

 原則論がどこまで貫かれるかは、一人ひとりのクリスチャンのいわば良心と国の状況しだいであって、もっとも本質的な原則論がいつも貫かれるとは限らず、それどころか実際のキリスト教の歴史を見ていくと、原則論が貫かれない場合のほうが多かったといってもいいようです。

 しかし、そこで皆さんにぜひ考えてほしいのは、現象としてのさまざまなトラブルを起こすものとしてしばしば自己絶対化するような宗教と、同じ名前がくっついていながらその宗教の中に含まれている普遍的な真理性をもった原則と、どちらがより宗教の本質か、ということです。

 それをどう捉えるかは皆さんにお任せしたいと思いますが、私は社会現象として実際には聖戦のところまで走ってしまうようなユダヤ教やキリスト教やイスラム教が、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教の本質ではない、と捉えています。そしてそれぞれどの宗教の中にも、世界の普遍的な平和に向かう志向というか、その原理というか、それはあると私には読めます。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つにわたって述べていると時間がありませんので、キリスト教の原則論のところだけ、皆さんが十分ご存じのところですが、状況が状況ですので再確認しておきたいと思います。

 キリスト教の何よりもの建て前は――建て前というと、建て前と本音のどちらが本当かという話にもなるのですが、私は建て前というのは人生でとても大事なものだと思っています――やはり教祖(神学的に救い主と言わないで、宗教学的に教祖と言っておきます)イエスが言ったこと、行なったこと、これがキリスト教の最高の建て前です。

 聖書の中にいろいろなことが書いてあります。『ヨシュア記』のようなことも書いてあります。しかしキリスト教がキリスト教であるためには、イエスの言葉を原点にしなければなりません。これが絶対的な建て前であるはずです。そのイエスがなんといっているか。

 「あなたがたも聞いているとおり、目には目を、歯には歯を、と命じられている」。やられたらやりかえせ、が常識だというのです。「しかし私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら左の頬をも向けなさい」(マタイによる福音書五・三八-三九)。

 こんなことを国際政治のなかで実行できるかどうかという社会政策論の問題があります。しかし、キリスト教国がほんとうにキリスト教国であろうとするのならば、この建て前を守ってほしい。例えばブッシュさんも大統領就任のときに聖書を手において誓ったわけです。だからこそ、私はこの建て前を守ってほしいと思うわけです。皆さんはどうでしょうか。

 これは、本来できるとかできないの問題ではないはずだ、という気がします。できないのだったらキリスト教徒をやめたほうがいい。キリスト教徒であるのならば、教祖の言葉に忠実であるということを、リーダーであればあるだけやらなければいけない、やってほしい。私なんかがいってもなかなか大統領のところまでは届かないとは思いますが、もし私がキリスト教という立場にいて、それに忠実であるならば、いかなる状況にあってもこの原則論は貫きたいと考えます。

 これまたよく、「あなたが、もし大統領だったらどうしますか?」と問われますが、私は、法的な意味での処罰は徹底的にやることを宣言したうえで、しかし国民に向かっては「我々の多くはクリスチャンなのではないでしょうか。イエスはどう言っているでしょうか。いま報復すべきときでしょうか。報復は報復をもたらすだけです。だからいま我々はこの痛みに耐えましょう」と、メッセージを送りたいと思います。今からでも遅くない、ブッシュさんにもそうして欲しいのですが、残念ながら、そうはいかないでしょうね。

 イエスの言葉に戻りますと、「あなたがたも聞いているとおり、隣人を愛し敵を憎めと命じられている。しかし私はあなたに言っておく」――イエスはそういっています――「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(五・四三-四四)と。

 これをやれれば、アメリカはほんとうに二一世紀の世界のリーダーになる資格があるのです。これをやってくれたら……です。それができないのなら、リーダー面するのはやめてほしい、と思います。

 日本は「和」の国

 それから少し脱線しますが、日本という国は平和憲法の国です。平和憲法の国に戦後になっただけではなく、じつは日本の初めての憲法はすでに聖徳太子の『十七条憲法』というかたちで制定されて千四百年近い歴史をもっています。その聖徳太子憲法の第一条には「和を以て貴しとなす」という言葉が記されています。千数百年来、日本国の理想は平和です。小泉さんには、その日本の首相の行動と発言としては、非常にお寒いもの、寂しいものを感じてしまいます。

 日本も「アメリカと友だちです」とか「自衛隊を派遣します」とかいっていますが、その前にきちんとブッシュさんに、「あなたはクリスチャンなんじゃないですか? あなたの国は、基本的にキリスト教徒が圧倒的に多い、ある種のキリスト教国なんじゃないですか? だったら、その建て前をきちんと重んじたほうがいいんじゃないでしょうか。我が国は和の国ですから、私はその建前を重んじます」と、忠告するのがほんとうの友だちだと思います。いちばん大事なときに付和雷同するのは友だちではありません。やってはいけないことをやっている友だちを止めるのが友だちではないでしょうか。

 もっとも、いまの日本の友だち感覚は、友だちがどんな倫理的に悪いことをやっていても、その人その人だから、といって止めないのが友だちのようです。悪いことをやっていたら止めるのが友だちだ、と私は思うのですが、どうでしょう。日本がアメリカの友だちならば、やっぱり止めるべきです。しかもアメリカはキリスト教国です。

 日本もアメリカも、みずからの原点のところからもう一度考え直してほしい。建て前はとても大事だ、というのはそういう意味です。

 自己絶対化を超える原理

 元に戻って、敵を許すなどということがほんとうに成り立つための根拠というもの、つまり争いをやめる根拠はなんでしょうか。ユダヤ教が自分の宗教を絶対と信じ、キリスト教が自分の宗教を絶対と信じ、イスラムも自己絶対化する……と、これでは平和がやってくるわけはないのです。しかし、そういう宗教の自己絶対化を超えてゆくものが、宗教自体のなかに含まれています。キリスト教の場合は、イエスのなかにその原点がはっきりと出てきています。それを示す言葉が次のところです。

 つまり、報復をしない、敵を愛することが可能になる思想的・宗教的原点は、「あなたがたの天の父の子となるためである」(五・四五)というところにあるのです。

 私ははっきりと言ってしまって、白い鬚の光輝く超能力のおじいさんがどこか高いところにいて六日間で天地を創造したなどということは、これっぽっちも信じてはいません。しかしながら、我々が生きているこの宇宙を生成させた――科学の用語では創発、イマージといいます――大きな何かの力というものはある、と認めざるをえない。それは、たんに宗教的にではなく、科学的にも哲学的にも、きわめて合理的に認めざるをえない、と考えています(これに納得していただくには、私の本をしっかり読んでいただけると幸いです)。

 そういう普遍的な、いわば宇宙の原理を「神」と呼ぶのだと認識し直すと、それに対する直観と認識は、ユダヤ教にもキリスト教にもイスラム教にも、もちろん仏教にもあるのです。
 イエスは、それを「天の父」という言い方をしています。自らを超えた、すべてを覆う全体者……哲学的には「全体」という言い方をしてもいいと思います。科学的には、物理的な次元だけではなくてそれを含みながら超えている、「コスモス・宇宙」といってもいいと思います。その全体者やコスモスのなかに包まれた部分、あるいは宇宙の一部としての我々は、それにふさわしく生きなければならない。つまり、ここに普遍的原理がはっきりと示されています。

 そういう宇宙的な原理というか神は――ここはとても大事です――「悪人にも善人にも太陽を昇らせる」のです。この場合の「悪人」「善人」とは、たんに法律的・倫理的な善人・悪人だけでなく、宗教的に信じる人と信じない人という区別がされているときの「悪人」と「善人」です。もっとはっきりしているのは、正しい者、正しくない者というのはユダヤ教の律法を守る人、守らない人という意味です。

 ところが、神というのは、そういうふうな宗教的な意味まで含んだ善人にも悪人にも、正しい人にも正しくない人にも、同じように太陽を昇らせて雨を降らせる。つまり、事実として、ユダヤ教徒にもキリスト教徒にもイスラム教徒にも太陽は昇るのです。同じように雨が降るのです。

 私たちは、毎日毎日生きている。この生きていることはエネルギー活動であり、私たちが生きているということは一〇〇パーセント太陽エネルギーで生きているということです。ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も。

 それから私たちの身体は約七〇パーセントが水でできているそうですが、この七〇パーセントの水はまさに雨の恵みです。この雨の恵みは、ユダヤ教徒にもキリスト教徒にもイスラム教徒にも注いでいるのです。

 そういうふうに私たちは、みんな等しく宇宙のいわば一部であり、そういう意味での神の子であり、そういう意味で太陽の恵みを誰一人例外なく受けています。水の恵みを誰一人例外なく受けている。そこに普遍的原理があると思います。そこに、あらゆる宗教とイデオロギーを超えて人類が結びつきうる、あるいは結びつかなければならない原点があると思います。そういうふうな、すべての人が連帯しなければならない原理を、イエスははっきりとつかんでいます。だから、目先は敵に見える人も同じ宇宙の子、神の子だから愛さなければいけない、というのです。

 攻撃をしかけてくるのは、ほんとうはお互いに神の子だとわかってないからです。誤解に基づいてやっているわけです。それに対して、その誤解をきちんと解くべく、誤解させた自分の側の原因もなくすべく、努力をする必要があるのであって、仕返しをすることは、その人と自分との人間としての普遍的な連帯を破壊するだけです。

 もう一度いいますと、人間がすべて一つに連帯しなければならない、いわば宇宙的根拠ははっきりとあります。みんなが同じ太陽エネルギーをもらって、みんなが同じ水を身体の七〇パーセント持っていて(じつは身体のなかの元素はみんな同じです)、それどころか生物学的にいうと、私たち人類はたぶん同じ一人のミトコンドリア・イヴという女性から生まれたのではないかという学説もあったり、いま地上に存在するたぶん二五〇〇万種くらいの生物はすべて四十億年くらい前に発生したたった一つの命から枝分かれし、進化して、多様な生命になっているといわれます。これが、生物学のほぼ定説のようです。そういった科学的な見地からいっても、いわば人類はもともと一つなのです。もともと一つなんだ、ということをしっかり認識し直したら、これは連帯せざるをえないのです。しなきゃいけないのです。

 閉じる宗教から開く宗教へ

 しかし、古代的・神話的な、自己閉鎖性をもった宗教のなかでは、その気づきと、自己絶対化の傾向が両方併存しています。これを私は宗教学的には、「閉じる宗教」と「開く宗教」〔あるいは「霊性」〕と呼んでいます。ほとんどの宗教のなかに、同じ「宗教」という名前がついたもののなかに、自己絶対化し閉ざしていく宗教と、それから人類の普遍的なつながりあいに向かって開いていく宗教の要素が併存・混在しています。

 二一世紀初頭にいる私たちは、閉じる宗教はもうやめにしましょう。しかしながら、開く宗教は、まさにそれがないと、そこへの気づきがないと、人類が平和にやっていく原理が見つかりませんから、あらゆる宗教のなかに「開く宗教・霊性」を発見しながら、「あなたのところにもあるんだね、私のところにもあります。あ、あなたのところにもあるんだね」という確認をしながら……それぞれの個性を捨てる必要はありませんが、しかしそれぞれの個性のなかから普遍性に向かって開いていくところをしっかりとつかむ、というふうに私たちはありたいと思います。

 そういう意味で私は、イエスの原点に全面的に合意するという意味ではキリスト教をやめていないのですが、閉ざす宗教、ましてや聖戦思想に走るような宗教としてのキリスト教からは全面的に離脱しています。

 イエスの原点に忠実な存在という意味なら、キリスト教徒という立場は私は捨てていません。みなさんも特定洗礼を受けているかどうかは別に、たぶん心の底にまったく同じ願いを共通に持っているだろうと信じますので、そういう私の願いとみんなの願いを象徴的に、宇宙に向かって、あるいは自然に向かって、神に向かってでも仏に向かってでも、言葉はどうでもいいのです、自らを超えた大いなる者、何者かに向かって、我々の願いを捧げるという意味での祈りを、一言だけご一緒したいと思います。

 祈り

 「天と地との、すべてのものの、創造主である父なる神よ、いま世界のなかであなたの子どもたちがまったく無駄な争いをしています。どんなに無駄な争いであるかを、一人ひとりにあなたが教えてくださいますように。そして、あなたの愛と平和への教えさとしを私たちがみずからのものとし、また多くの人のものとすべく、日々を精進することができますように。一日も早く世界全体に豊かさと平和とがやってきますように。あなたがお力をお与えください。そして、私たちが努力を続けられるよう励ましてください……」

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原理主義に未来はない

2015年02月05日 | 仏教・宗教

 長い間宗教や霊性について社会的発言をしてきた者として、読者の心のなかに「イスラム原理主義者によるテロ事件が頻発し、多くの犠牲者が出ている状況に対して、岡野はどう思っているのか、発言をしないのか」という問いが潜在しているのではないか、と感じており、何かお答えしなければならないのではないか、と思っていました。

 その前にまず、犠牲者の関係者の皆様に心からお悔やみを申し上げ、亡くなられた方のご冥福をお祈りしたいと思います。

 ここのところずっと、何を言うべきかと考えていたのですが、ふと、もう20年も前、1995年に書いた「〈宗教〉に未来はない」という文章(『コスモロジーの創造』2000年、法蔵館、所収)を思い出して読み返し、ほぼこれに尽きると思ったので、以下、抜粋して再掲することにしました。

 ただ、そこで使った〈宗教〉という言葉はより正確に〈原理主義的宗教〉〈原理主義〉と言い換えて読んでいただきたいと思います(ところどころ〔 〕で補います)。


 〔原理主義的〕〈宗教〉に未来はない

 「宗教に未来はない」、しかし「近代主義にも未来はない」、未来は「宗教から霊性へ」という方向にあると、公的な場でものを書き始めて以来、基本的にはずっとおなじことばかり繰り返してきた(たとえば、『トランスパーソナル心理学』1990年、青土社、吉福伸逸氏との対談『テーマは〈意識の変容〉』1992年、春秋社、など)。……


  なぜ「〈宗教〉に未来はない」か


 〈宗教〉の定義

 まず明確にしておくと、未来がないという〈宗教〉とは、みずからの派の教祖―教師、教義、教団、儀式、修行法などの絶対視、つまり言葉の悪い意味での「信仰」と「服従」を不可欠の条件として、人を富や癒しや調和、生きがい、安心、あるいは救い、死後の幸福な生命、悟り……といった肯定的な状態へ導く(と自称する)システムとグループを指す。……これには、一見非宗教的であっても、自己絶対視の体質を抜けられない〈イデオロギー〉をも含めるべきだろう。

 自己絶対視と敵意

 何を根拠にしようと、自己絶対視は、かならず人を敵と味方に分断する。敵を生みだす思想は、かならず敵意を生み出す。

 自己を絶対とみなしている宗教やイデオロギーにとって、自己の味方でない他者は、せいぜい布教し、改心させる(時には洗脳する)対象ではあっても、そのままで認めうる存在ではない。そして、いくら布教しても信じない他者は、哀れむべき存在であり、それにとどまらず、布教に反対する者は憎むべき呪われた存在とみなされることになる。

 事と次第では、神(人類、人民、民族、国家、正義、真理……などに置き換えてもおなじことだが)に反する者は、神に呪われたものであり、したがって神に代わって我々が殺してもよい、という結論にまで到る。

 建て前上、「布教・説得はしても強制はしない」などと寛容な構えを見せても、自己絶対視は心情としていやおうなしに敵意、すなわち憎悪・殺意を含んでしまう。だから、寛容でありうるのは、集団がまだきわめて小さいか、あるいは逆にかなり大きくなって余裕がある時のことであって、余裕がなくなると、とたんに敵意を剥き出しにする。

 しかも行き詰まると、「敵」は、外だけでなく内にもいるように見えてくる(「うまくいかないのはあいつのせいだ」などと)。したがって、憎悪・殺意は、ほとんど必然的に、外だけでなく内にも向かう。

 それが「宗教」だけではなくすべてのイデオロギーに秘められた心情の問題である……「絶対に正しい我々が、絶対にまちがったあいつらを改宗させるか、さもなければ全滅させることによって、正しい、すばらしいユートピアがやってくる」(かつて埴谷雄高がいった言葉を借りれば「あいつは敵だあいつを殺せ」)というタイプの思考システムと、それが生み出す心情は、程度の差はあれ必ずといっていいほど、憎悪―闘争―虐殺をもたらすがゆえに、もはや、人類の未来にとって、それこそ絶対に無効―有害である。

 その点について、『キリスト教の本質』(上下、船山信一訳、岩波文庫)などにおけるフォイエルバッハの宗教批判の言葉は、古典的でいまさらのようだが、依然として日本の市民……の大多数の常識にはなっていない、どころかほとんど知られてもいないらしいから、改めて引用しておきたい。


 宗教は自分の教説にのろいと祝福・罰と浄福を結びつける。信ずる人は浄福であり、信じない人は不幸であり見捨てられており罰せられている。したがって、宗教は理性に訴えないで心情に訴え、また幸福に訴え、恐怖と希望との激情に訴える。宗教は理論的立場に立っていない。(邦訳下、7頁)

 ……信仰そのものの本性はいたるところで同一である。信仰はあらゆる祝福とあらゆる善とを自分と自分の神へと集める。……信仰はまたあらゆるのろいとあらゆる不都合とあらゆる害悪とを不信仰へ投げつける。信仰をもった人は祝福され神の気に入り永遠の浄福に参与する。信仰をもたない人はのろわれ神に放逐され人間に非難されている。なぜかといえば神が非難するものを人間は認めたりゆるしたりしてはならないからである。そんなことをしたら神の判断を非難することになろう。(同、122頁)

 ……信仰は本質的に党派的である。……賛成しないものは……反対するものである。信仰はただ敵または友を知っているだけであってなんら非党派性を知らない。信仰はもっぱら自己自身に心をうばわれている。信仰は本質的に不寛容である。(同、126~127頁)


 右であれ左であれ、人間に平和と幸福をもたらすと自称した思想が、なぜ憎悪と悲劇を生み出してきたのか。それは、絶対視された物差しによって、天国・ユートピアに入る資格のある者とない者の心情的な絶対的分離=敵意をもたらすからである。自己を絶対視する思想としての〔原理主義的〕〈宗教〉には、原理的にいって、人類規模の平和をもたらす力はない。そういう意味で、未来はないのである。

 もちろん、悲しいことながら、ここ当分人類は争い続けるだろうし、争い続けながらも生き延びている間は、建て前として平和を叫びながら実際には平和をもたらせない〈宗教〉も生き延びるだろうし、そういう意味でなら、まだしばらく宗教に未来はある(それどころか、現象的には、一時、宗教紛争、宗教戦争の元になるような〔原理主義的〕宗教の勢力はかえって増大するかもしれない)。

 しかし、繰り返すが、人類規模の平和な未来の実現ということからいえば、もはや〔原理主義的〕宗教に有効・妥当性はない、と思う。


  なぜ「近代主義に未来はない」か


 近代主義とは何か

 ……人間主義+理性・科学主義+進歩主義=〈近代主義〉は、基本的に無神論的・反宗教的であり、宗教を批判し超えようとする試みであり、いわば「宗教の代案」であった。

 近代の進歩的な思想家たちは、宗教は、人間が自分自身の理性の力によって解決すべき・できる問題を、神話・観念・空想によって、心理的に慰めるだけで、かえって現実的な解決を妨げる、そういう意味では、人類の進歩にとって害のあるものだ、と批判した(典型的にはマルクスの「宗教は民衆のアヘンである」)。そして、近代の進歩的思想家たちの宗教批判には、たしかに当たっているところも少なくなかった。

 近代主義の立場からいえば、人間が、理性―科学―技術によって社会を進歩させれば、人生の問題はすべて解決できるようになるはずであり、そうなれば宗教は必要なくなる、はずだったのである。そして、それがある程度までは有効であるように見えてきたので、近代のいわゆる先進諸国の大勢を占める思想になってきたのだ。

 それについては、右であれ左であれ、欧米であれ日本であれ、進歩的な指導者や知識人たちは、いまだにそう考えているのではないだろうか。そして日本でも、明治以後のいわゆる近代化の流れの中で、近代主義は主流の思想となり、特に戦後は、ほとんど無意識的な常識にまでなっている。

 近代主義とニヒリズム―エゴイズム

 しかし私の考えでは、人類の現段階の問題としていえば、宗教だけでなく、近代主義にも未来はない。それはまず第一に、近代主義は原理的に人間の〈ニヒリズム〉―〈エゴイズム〉を克服する根拠を見失っているからである。……

 しかし、近代主義は、スタートの時点での、ヒューマニズム=人間尊重という建て前にもかかわらず、論理的な必然として、ニヒリズムーエゴイズムに到り、モラルの低下-崩壊をもたらすものであった。

 すなわち、自分を超えたもの――神とその創造した自然――に服従する存在ではなく、神を否定し、自然を操作することのできる、能力ある主体という面に視線が集中していた間はよかった。しかし、やがて自然を物質として見る視線が人間自身に向けられた時、人間も客体・対象、生物、有機体の一種、物質の組み合わせにすぎないと見られることになった。人間の心もまた、脳という物質の働きに還元して捉えられる。

 だが、もし物質の働きにすぎないとしたら、いのちや心にどんな意味がありうるというのだろうか。物質科学主義の視線によっては、人間の生の意味を見出すことはできない。そういう意味で、近代主義は、論理的必然として、ニヒリズムに到るのである。

 しかし生きている個々人にとっては、自分が、結局は物質の組み合わせにすぎないとしても、今、心をもち生きていることは事実、というか実感である。ニヒリズムという帰結を漠然と予感しながらも、なお生きているという実感をもち続けている個人は、もはや客観的な物質的自然に生きる意味の根拠を求めることはできない。

 意味がないにしても、なお生きるのは、自分の中に生きたいという心情・欲望がなぜか与えられているからで、それ以外の理由はない、ということになる。

 ところが、個人・自分の主観―心情―欲望だけが最後の物差しだとすれば、「ひとに迷惑さえかけなければ」、さらには「迷惑をかけたとしても、自分が報復を受けることがなければ」「自分のやりたいことはなんでもやっていい」ということになりかねない。近代主義には、それ以上のモラルが生まれる根拠はほとんど見出しがたいのではないだろうか。あるいは、近代主義はモラルの根拠を見失ったといったほうがいいだろう。つまり、近代主義のもたらすニヒリズムは、さらにほとんど必然的にエゴイズムに到り着くほかない。

 ……ニヒリズムとエゴイズムの悪循環を克服する原理を見出しえていないところに、人間の心の面に関する近代主義の決定的限界がある。

 近代主義と環境破壊

 さらに第二に、先に述べた環境の崩壊も、近代主義がもたらしたものだ、ともいえる。……環境破壊は、個人レベルでのエゴイズム―ニヒリズムとおなじく、近代主義的な態度の必然的な帰結であるともいえる(近代に進歩の面がないというわけではないが)。……

 加えていえば、近代は、なぜ、声高く平和を語りながら、かつてない大規模な戦争を行ない、そしていまだに戦争を廃絶しえないのだろうか。

 近代主義は、個人レベルだけでなく集団レベルでも、エゴイズムを超える原理や制度を見出しえていないということが、一つの(唯一ではないが)大きな理由なのではないだろうか。集団レベルでのエゴイズムを超えうる原理と制度を見出さないかぎり、環境破壊も戦争も、根本的な解決はできない。そういう意味でも、近代主義には未来はないと思う。

 宗教でも反宗教でもなく〈霊性〉へ

 では、自己絶対視と敵意を生み出す宗教でもなく、エゴイズムとニヒリズムを克服しえない近代主義―反宗教とも異なる、人類の未来を拓きうるような立場はあるだろうか。

 ある、それは〈霊性〉の立場である。あるいは霊性と理性の融合された立場、そういう意味でいえば、宗教と近代主義双方の問題点を十分に批判し、しかし普遍妥当な面を正確に取り出して融合した立場である、というのが私の考えである。

 〈宗教〉には、たしかに先に述べたような問題点・限界がある。しかし本来宗教の核にあったのは、人間のいのちは、どこまでも人間のいのちでありながら、人間自身が生み出したものではなく、人間を超えた、より大きなものによって生まれたものだ、という感覚だったのではないだろうか。「生きることは生かされて生きることである」「私より大きな何ものかが私を生かしている」という直感、さらに、人間だけでなく、生きているものもそうでないものも、すべてのものがより大きな全体(神、仏、自然、宇宙)に包まれているという根源的な事実への目覚めが、宗教の核にあるものだと思う。

 しかし包んでいる何か全体なるものを「神」「仏」「ブラフマン」「アラー」「道」……と呼ぶか、あるいは「自然」または「宇宙」と呼ぶかは、本質的な問題ではない。また、教祖は、それを深く直感した人間なのであり、教義・教団・儀式・修行法といったものは、その直感を他者に伝え共有するための媒介・手段にすぎず、しかもそれらは時代的・文化的に限定されていて絶対ではなく、また絶対でなくてよいものなのではないだろうか。絶対なのはそれを直感し、表現した〈宗教〉ではなく、人間を超えた「より大きな何ものか」そのものである。

 言葉の悪い意味での〈宗教〉〔つまり原理主義〕と区別するために、そうした、より大きなものを直感し、すべてのものがみなそれに包まれていることに目覚めるような人間の心の奥底の領域を、私はあえて〈霊性〉と呼んでいる。これは、もちろん誤解さえなければ、たとえば「本当の宗教」とか「宗教の本質」とか呼んでもかまわない。

 いのちの原点において、私は、私でないものとふれあい、私でないものに支えられているという事実(かつて滝沢克己がいった言葉を借りれば「インマヌエルの原事実」「人間の原点」)は、近代主義が見落としたことであるが、しかし本来理性と矛盾・対立するものではない。誰でも目を開けさえすれば見える、すべての人に共通の事実なのである。

 そして、私のいのちが、どこまでも「私」のいのちでありながら、同時にいわば「私でないものから貸し与えられ、それに支えられている」いのちであるという事実にこそ、ニヒリズムを超える原点がある。つまり、人間のいのちは人間を超えた何かから与えられたものである以上、いのちの意味もある意味ではあらかじめ与えられているといっていいだろう。いのちには、かならず可能性・能力・潜在力が与えられている。個々の人間にとっては、その与えられた意味を発見できるかどうか、つまり与えられた可能性・潜在力を実現できるかどうかだけが問題であって、意味―可能性があるかどうかは問題にならないのだ。

 そしてその事実がすべての人にとって共通の事実であるというところに、エゴイズムを超える、根源的な倫理―モラルが成立する原点があると思う。生かされて生きている私が、おなじく生かされて生きている他者に対して、それにふさわしく接するかどうかが、倫理の根源的な基準になるだろう。人類規模の平和も、そこからのみ可能になるだろう。

 さらにいえば、同じ宇宙に包まれた宇宙の一員・一部として宇宙の他の一部にどう働きかけるかという視線で見た時、自然は単なる〈資源〉ではなく、自らとつながり、私を支えてくれるもの、ある意味で私の延長、と見えてくるだろう。そのことに気づいた時、私はもはや私を破壊することはできない。環境が私と本質的につながったものであることを深く自覚した上で営まれる経済は、近代の産業主義経済の妥当な面を受け継ぎながらも、決定的に変容したものになるだろう。

 おわりに

 そのような、〔原理主義的〕宗教の限界と近代主義の限界を超える〈霊性〉の自覚は、現在のところ残念ながら、日本の市民の大多数が共有するものにはなっていない。そういう意味で、既成・新・新新の宗教も近代主義―反宗教も含めて、私たちの文化―精神性はまだきわめて未熟だと思う。しかし、私たちがもはや〔原理主義的〕〈宗教〉をまったく必要としないほど〈霊性〉的に成熟した未来を思い描くことは、決して根拠のない願望ではない、とも思うのである。


コスモロジーの創造―禅・唯識・トランス・パーソナル
クリエーター情報なし
法蔵館



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サングラハ第139号が出ました

2015年02月02日 | 広報

 『サングラハ』の今年最初の第139号が出ました。

 今回のメイン記事は、意識上の根本煩悩の2です。

 一種の共時性でしょうか。今回は、価値観の硬直性の問題・「見取見(けんしゅけん)」についても論じています。一部を以下に引用・紹介させていただきます。

 「人類史の中できわめて広く見られる価値観の硬直性という問題は、他者に対しては『疑』というかたちで現われますが、自分自身の中でもある特定の宗教や信仰やイデオロギーや世界観にとことんこだわるというかたちで起こります。そういうものの見方を『見取見』というわけです。

 唯識の中にこういう洞察があることを初めて学んだ時、私には驚きでした。ほとんどすべての思想は『私の・この思想は正しい』と主張するのです。おとなしめのところでも『最高に正しい』で、おとなしくないところは『唯一・絶対に正しい』と言いますからね。ところが唯識・仏教では、…『特定のものの見方に執着することそれ自体がまちがいである』と。…

 人間が価値判断しながら日々の営みをし集団を形成するにはいちおう特定の世界観を持たざるをえないけれども、それを絶対化してしまったら、それは本末転倒、手段を目的化してしまうことだ、と仏教は自覚している。これはすごい思想ですね。

 といっても、仏教と名乗っていても、「信じ込みなさい」という原理主義的な宗教に陥る危険はありますし、また実際しばしば陥ったりしているように見えます。けれども、私の理解するかぎりの本来の仏教は、原理主義ではありえない。…

 …思想というものは、個人としても集団としても人間がちゃんと生きていくために、方便としては必要だけれども、それを絶対化したとたんに、他者に対しては「同じことを信じないやつは哀れなやつか、敵だ」ということになるのです。…

 二十世紀、日本の天皇制国家神道であれ、あるいはナチズムであれ、あるいはスターリニズムであれ、とにかく特定の考え方を絶対化することによっ人類はさまざまな惨害を引き起こしてきましたし、二十一世紀になってもさまざまな原理主義が惨害を起こしています…」

 ではどうすればいいのかということも含めて、詳しくは、このブログの過去の記事をお読みいただき、さらによろしければ本誌をご購読いただいてお読みいただければ幸いです。




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