四国の地震

2014年03月14日 | 原発と放射能
 昨夜、夜中の2時過ぎ、かなり大きな地震がありました。滝宮は震度4でした。
 
 こちらに来てから始めての本格的揺れでした。

 揺れの時間がそうとう長く、「いよいよ南海トラフか?」と非常に不安でした。

 震度5強のところもあったようです。

 震源は伊予灘とのこと、つまり伊方原発の沖合いです。幸い津波はありませんでしたが。

 日本はどこに行っても地震列島であることを、改めて実感させられました。

 こんな地震列島日本で、福島のあまりにも過酷な事故を体験した後で、収束の目途も本当には立っていない中で、まだ再稼動などと言っていることは、心情的にも理性的にも信じがたいという気がします。

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『失敗の本質』に学ぶ

2012年07月13日 | 原発と放射能
失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)
クリエーター情報なし
中央公論社




 専門家が「事故の起こる確率は、ヤンキースタジアムに隕石が落ちる確率のようなもので、ほとんどゼロに近い。絶対安全だ」と言い募ってきて、結局、原発事故は起こりましたが、それでも政府-電力会社-多数の企業人-大多数の専門家-かなりの数の市民が、止めようとしないどころか再稼動に踏み切ってしまいました。

 それはなぜだろう、それはリーダーの多くが日本のこれからあるべき姿について合理的で中長期的な展望――グランド・デザイン、理念とビジョン――を持っていない・持てないため、短期・一時の失敗があっても隠したり誤魔化したりせず明らかにしてその失敗から学んで方向転換をするという姿勢が取れないという体質を持っているためだ、と考えている中で、名著という定評があるので買っておいたままだった『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』(1989年、ダイヤモンド社、1991年、中公文庫版)を取り出して読んでみて、なるほどやはりそうか、とうなづきました。

 本書では、ノモンハン、ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテ、沖縄、各戦の敗北・失敗という六つのケースを取り上げていますが、詳細は本文を見ていただくことにして、いくつかポイントだと思った文章を紹介して共有したいと思います。

 「そもそも軍隊とは、近代的組織、すなわち合理的・階層的官僚制組織の最も代表的なものである。戦前の日本においても、その軍事組織は、合理性と効率性を追求した官僚制組織の典型とみられた。しかし、この典型的官僚制組織であるはずの日本軍は、大東亜戦争というその組織的使命を果たすべき状況において、しばしば合理性と効率性とに相反することを示した。つまり、日本軍には本来の合理的組織と馴染まない特性があり、それが組織的欠陥となって、大東亜戦争での失敗を導いたと見ることができる。日本軍が戦前日本において最も積極的に官僚制組織の原理(合理性と効率性)を導入した組織であり、しかも合理的組織とは矛盾する特性、組織的欠陥を発現させたとすれば、同じような特性や欠陥は他の日本の組織一般にも、程度の差こそあれ、共有されていたと考えられよう。……日本軍の組織的特性は、その欠陥も含めて、戦後の日本の組織一般のなかにおおむね無批判のまま継承された、ということができるかもしれない。
 なるほど日本軍の組織原理や特性は、すべてがいかなる場合にも誤りではなかったであろう。日本軍の組織的欠陥の多くは、大東亜戦争突入まであまり致命的な失敗を導かなかった……平時において、不確実性が相対的に低く安定した状況のもとでは、日本軍の組織がほぼ有効に機能していた、とみなされよい。しかし、問題は危機においてどうだったか、ということである。危機、すなわち不確実性が高く不安定かつ流動的な状況--それは軍隊が本来の任務を果たすべき状況だった--で日本軍は、大東亜戦争のいくつかの作戦失敗にみられるように、有効に機能しえずさまざまな組織的欠陥を露呈した。
 戦後、日本の組織一般の置かれた状況は、それほど重大な危機を伴うものではなかった。したがって、従来の組織原理に基づいて状況を乗り切ることは比較的容易であり、効果的でもあった。しかし、将来、危機的状況に迫られた場合、日本軍に集中的に表現された組織原理によって生き残ることができるかどうかは、大いに疑問となるところだろう。」(23-25頁)

 「いかなる軍事上の作戦においても、そこには明確な戦略ないし作戦目的が存在しなければならない。目的のあいまいな作戦は、必ず失敗する。それは軍隊という大規模組織を明確な方向性を欠いたまま指揮し、行動させることになるからである。本来、明確な統一的目的なくして作戦はないはずである。ところが、日本軍では、こうした。ありうべからざることがしばしば起こった。」(268頁)

 「作戦目的の多義性、不明確性を生む最大の要因は、個々の作戦を有機的に結合し、戦争全体をできるだけ有利なうちに終結させるグランド・デザインが欠如していたことにあることはいうまでもないだろう。その結果、日本軍の戦略的目的は相対的に見てあいまいになった。この点で、日本軍の失敗の過程は、主観と独善から希望的観測に依存する戦略目的が戦争の現実と合理的論理によって漸次破壊されてきたプロセスだったということができる。(274頁)

 「日本軍の戦略思考は短期的性格が強かった。日米戦自体、緒戦において勝利し、南方の資源地帯を確保して長期戦に持ち込めば、米国は戦意を喪失し、その結果として講和が獲得できるというような路線を漠然と考えていたのである。連合艦隊の訓練でもその最終目標は、太平洋を渡洋してくる敵の艦隊に対して、決戦を挑み一挙に勝敗を決するというのが唯一のシナリオだった。しかし、決戦に勝利したとしてそれで戦争が終結するのか、また万一にも負けた場合にはどうするのかは真面目に検討されたわけではなかった。/日本は日米開戦後の確たる長期的展望がないままに、戦争に突入したのである。」(277頁)

 「短期決戦志向の戦略は……一面で攻撃重視、決戦重視の考え方とむすびついているが、他方で防禦、情報、諜報に対する関心の低さ、兵力補充、補給・兵站の軽視となって表われるのである。」(280頁)

 「日本軍の戦略策定は一定の原理や論理に基づくというよりは、多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずだった。これはおそらく科学的思考が、組織の思考のクセとして共有されるまでには至っていなかったことと関係があるだろう。たとえ科学的思考らしきものがあっても、それは「科学的」という名の『神話的思考』から脱しえていない(山本七平『一九九〇年の日本』)のである。」(283頁)

 「日本軍は、初めにグランド・デザインや原理があったというよりは、現実から出発し状況ごとにときには場当たり的に対応し、それらの結果を積み上げていく思考方法が得意だった。このような思考方法は、客観的事実の尊重とその行為の結果のフィードバックと一般化が頻繁に行なわれるかぎりにおいて、とりわけ不確実な状況下において、きわめて有効なはずだった。しかしながら、すでに指摘したような参謀本部作戦部における情報軽視や兵站軽視の傾向を見るにつけても、日本軍の平均的スタッフは科学的方法とは無縁の、独特の主観的なインクリメンタリズム(積み上げ方式)に基づく戦略策定をやってきたといわざるをえない。」(285頁)

 「他方、日本軍のエリートには、概念の創造とその操作化ができたものはほとんどいなかった。個々の戦闘における『戦機まさに熟せり』、『決死任務を遂行し、聖旨に添うべし』、」『天佑神助』、『神明の加護』、『能否を超越し国運を賭して断行すべし』などの抽象的かつ空文虚字の作文には、それらの言葉を具体的方法にまで詰めるという方法論がまったく見られない。」(287-288頁)

 「日本軍の戦略策定が状況変化に適応できなかったのは、組織の中に論理的な議論ができる制度と風土がなかったことに大きな原因がある。日本軍の最大の特徴は「言葉を奪ったことである」(山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』)という指摘があるように、戦略策定を誤った場合でも、その修正行動は作戦中止・撤退が決定的局面を迎えるまではできなかった。ノモンハン、ガダルカナル、インパールの作戦はその典型的な例だった。」(289頁)

 「以上あげたような日本軍の組織構造上の特性は、『集団主義』と呼ぶことができるであろう。ここでいう『集団主義』とは、個人の存在を認めず、集団への奉仕と没入とを最高の価値基準とするという意味ではない。個人と組織とを二者択一のものとして選ぶ視点ではなく、組織のメンバーとの共生を志向するために、人間と人間との間の関係(対人関係)それ自体が最も価値あるものとされるという『日本的集団主義』に立脚していると考えられるのである。そこで重視されるのは、組織目標と目標達成手段の合理的、体系的な形成・選択よりも、組織メンバー間の『間柄』に対する配慮である。ノモンハンにおける中央の統帥部と関東軍首脳との関係、ガダルカナル島撤退決定遅らせる結果になった陸軍と海軍の関係、インパールにおける河辺ビルマ方面軍司令官と牟田口第一五軍司令官との関係、これらはいずれも『間柄』を中心として組織の意思決定が行なわれていく過程を示している。日本軍の集団主義的原理は、このようにときとして、作戦展開・終結の意思決定を決定的に遅らせることによって重大な失敗をもたらすことがあった。」(315頁)

 「およそ日本軍には、失敗の蓄積・伝搬を組織的に行なうリーダーシップもシステムも欠如していたというべきである。ノモンハンでソ連軍に敗北を喫したときは、近代陸戦の性格について学習すべきチャンスだった。ここでは戦車や重砲が決定的な威力を発揮したが、陸軍は装備の近代化を進める代わりに、兵力量の増加に重点を置く方向で対処した。装備の不足を補うのに兵員を増加させ、その精神力の優位性を強調したのである。こうした精神主義は二つの点で日本軍の組織的な学習を妨げる結果になった。一つは、敵戦力の過小評価である。とくに相手の装備が優勢であることを認めても、精神力において相手は劣勢であるとの評価が下されるのがつねであった。敵にも同じような精神力があることを忘れていたといってもよい。精神主義のも一つの問題点は、自己の戦力を過大評価することである。『百発百中の砲一門、よく百発一中の砲百門を制す』(日本海開戦直後の東郷司令長官の訓示)といったたぐいの精神論は海軍でも例外ではなかった。……
 ガダルカナル島での正面からの一斉突撃という日露戦争以来の戦闘は、功を奏さなかったにもかかわらず、何度も繰り返し行なわれた。そればかりか、その後の戦場でも、この教条的戦法は墨守された。失敗した戦法、戦術、戦略を分析し、その改善策を探求し、それを組織の他の部門へ伝播していくということは驚くほど実行されなかった。これは物事を科学的、客観的に見るという基本姿勢が決定的に欠けていたことを意味する。
 ……大東亜戦争中一貫して日本軍は学習を怠った組織であった。」(325-327頁)

 「戦略・戦術が意図したものと、実際の結果との間にパフォーマンス・ギャップがなければ、その結果は既存の知識・技能や行動様式としての組織文化をますます強化していく。しかしながらパフォーマンス・ギャップがある場合には、それは戦略とその実行が環境変化への対応を誤ったかあるいは遅れたかを意味するので、新しい知識や行動様式が探索され、既存の知識や行動様式の変更ないし革新がもたらされるのである。既存の知識や行動様式を捨てることを、学習(learning)に対して、学習棄却(unlearning)という。このようなプロセスが組織学習なのである。軍事組織は、このようなサイクルを繰り返しながら、環境に適応していく。……
 このように考えてくると、組織の環境適応は、仮に組織の戦略・資源・組織の一部あるいは全部が環境適応であっても、それらを環境適応的に変革できる力があるかどうかがポイントであるということになる。つまり、一つの組織が、環境に継続的に適応していくためには、組織は環境の変化に合わせて自らの戦略や組織を主体的に変革することができなければならない。こうした能力を持つ組織を、『自己革新組織』という。日本軍という一つの巨大組織が失敗したのは、このような自己革新に失敗したからなのである。」(347-348頁)

 きわめて困ったことに、全文の「日本軍」のところを「日本政府」、「日本の省庁」、「日本の(多くの)企業」などなどに置き換えても、そのまま当てはまりそうです。

 特に現状の日本で致命的に危険なのは言うまでもなく、原発に関して、「集団主義的原理は、このようにときとして、作戦展開・終結の意思決定を決定的に遅らせることによって重大な失敗をもたらす」、「戦略策定を誤った場合でも、その修正行動は作戦中止・撤退が決定的局面を迎えるまではできな」いという事態になりつつあることです。

 幸いにして戦前と異なり、戦後の日本は代議制民主主義の国家なので、リーダーがダメな場合、国民の多数の意思があればリーダーを取り替えることができるのですから、国民が意思表示をすべきなのですが、肝心の善意の国民の多くも「……は功を奏さなかったにもかかわらず、何度も繰り返し行なわれた。そればかりか、その後の戦場でも、この教条的戦法は墨守された。失敗した戦法、戦術、戦略を分析し、その改善策を探求し、それを……伝播していくということは驚くほど実行されなかった」という状態にあるのではないかと思われます。

 心(心情と理性の両方)ある市民・国民のみなさん、原水爆禁止運動以来ずっと敗北・失敗しつづけてきた「戦法、戦術、戦略を分析し、その改善策を探求し」ていこうではありませんか。

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大型メディアへの意思表示

2012年07月04日 | 原発と放射能

 時代が大きく変動しつつある中、書かなければと思うことは多いのですが、あきれて物も言えないという気分と、発言の対労力効果を考えてしまって、発言を怠っていました。

 しかし、そろそろたとえムダでもちゃんと発言しなければならないと思いはじめました。 

 さて、いろいろな人に勧められ―納得して、7月1日から、新聞を東京新聞に変えました。

 40年以上、さまざまな疑問――たとえば内面の問題については理解がきわめて不十分、「緑の文明」などと言ったこともありながら、環境問題の掘り下げも不十分、したがって「緑の福祉国家・スウェーデン」の報道も不十分などなどなど――は感じつつも、それでも戦後進歩派のオピニオン・リーダー的存在という意味で朝日を取ってきたのですが、3・11以降の原発・放射能に関する報道に大きな疑問を感じ続けていたからです。

 6月末、東京新聞の試し読み期間が1週間あったので、比べて読んでみましたが、きわめて明らかに、東京のほうが朝日より伝えるべきことを伝えているという感じがしました。

 7月に入ってからも、例えば福島の4号機の危険の報道、デモや署名に対する野田首相のきわめて非民主主義的な態度、原子力基本法がいつの間にか自民党の意向を入れて改正されていた問題など、大事なポイントが伝えられています。

 NHKの報道に対しても、大きな疑問があるのですが、まだ受信料不払いにまでは踏み切っていません。「朝ドラ」も見ていますしね。

 しかし、検討中です。

 社会的責任を十分果たしていないと思われる大型メディアに対して、市民が不買運動あるいは選択変更というかたちで意思表示をすることは必要であり、一定の有効性はあると思います。

 けれども、結局は、政治それも国政を変える必要があります。そろそろ、「支持政党なし」の市民の中から「支持できる私たちの政党」が誕生してほしいものです。

 支持できる私たちの政党が政権交代する日までは、私たちの希望はなかなか実現しそうもありません。

 しかし、もちろんあきらめてしまったわけではないので、私にできる言論活動は、これからも続けていくつもりです。

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原発再稼動の判断はあまりにも愚か

2012年06月08日 | 原発と放射能

 つい先ほど、野田首相が記者会見をして、「国民生活を守るために大飯原発の再起動は必要だ」というあまりも愚かな判断を述べていました。

 あきれてものも言えないという気分ですが、あえて一人の国民として意思表明をしておきたいと思います。

 「国民」とは誰のことか? 「守る」とは何のことか? もしわかっていないのだとしたら、あまりにも愚かだし、わかっていて言葉を誤魔化しているのだとしたら、あまりにも国民を愚弄しています。

 議会制民主主義国家の国民である私たちは、できるだけ近未来、もう少しわけのわかった、総合的理性のある、そして何よりも「国民」とは誰かをわきまえて、国民の福祉のためにのみ権力を行使できる、よりよい指導者を選ばならない、と強く強く思っています。

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核技術の根本的な3つの危険と再稼動問題

2012年06月02日 | 原発と放射能

 先日、「持続可能な国づくりを考える会」で、高木仁三郎『原子力神話からの解放――日本を滅ぼす九つの呪縛』(講談社α文庫)の勉強会を行ないました。

 そのまとめの話をする準備のために読み直しながら、改めて「近代人はとんでもない技術を生み出してしまったのだな」と、腹の底にまでずんと響くような衝撃を感じました。

 前に読んだ時は全体をやや平板に単に知的に納得していただけなのが、今回は、特に根本的なポイントにスポットが当たった感じで、重い痛みが全身に拡がるような絶望感に近いものがあったのです(私はどんな状況になっても絶望はしないことに決めているので「絶望」ではありませんが)。

 今、半数以上の国民の思いに関わりなくきわめて望ましくない結論が強硬に出されそうな大飯原発の再稼動問題を含め、一般に耳にする原発議論では、そもそも2つの根本的な点が十分押さえられていないと思ってきました。

 第1は、放射線のエネルギーは生命の基礎であるDNAの分子結合のエネルギーの数十万倍から数百万倍もあって、したがって放射線が当たると分子結合は簡単に切られてしまう、つまりDNAが壊される、という点です。

 ですから、放射線は原理的に、どんなにわずかでも危険がまったくない、「○○ベクレル以下は安全です」とは言えないということです。

 にもかかわらず、ある程度までの線量では人間がばたばた倒れるわけではないのは、DNAにかなりの自己修復能力があるからであって、だからといってDNAにダメージを与えてもいいはずはありません。

 とりわけ、放射線の力は距離の2乗に反比例するので、外部被爆ももちろん危険ですが、体内という至近距離での被曝、つまり内部被曝が非常に危険です。

 DNAの自己修復能力を超えた被曝は、必ず生命に深刻な危険をもたらします。

 第2は、「自然界にも放射能はある」という話ですが、それは「自然核種」と「人工核種」を混同した議論だと思われます。

 生命の40億年という長い時間をかけて、生命は自然界にある種類の放射線には適応してきた、あるいは適応できた種が生き残ってきたようです。

 しかし、これまでであったことのない人工的に作られた放射能には適応能力がないのです(市川定夫氏の説で、非常に説得力があると思います)。

 この2つの点を押さえただけで、大量の放射性廃棄物を生み出し、そして何かあればそれを外部に放出してしまうような、生命にとってあまりにも危険な原子力技術は、軍事利用はもちろん「平和利用」もできない、すべきではなかった、と断定できるでしょう。

 今回、さらにより根本的ともいえる第3のポイントが心に突き刺さるように理解できました。

 それは、原子力技術以前の世界では、「私たちの日常世界は化学的な変化の世界であり、しかもそれは、生物の進化に至るまで同じであるということが、とくに最近、生物を物理や化学の目から見たときに明らかになってきました」(『原子力神話からの解放』31頁)

 そして、そういう日常世界の安定性は化学的変化つまり分子結合の安定性、さらにはその基礎である原子の安定性によって支えられていたのです。

 ところが、核・原子力の技術は、その原子の安定性を壊すことによって膨大なエネルギーを取り出すという、日常世界の安定性を根底から覆すようなものだったのです。

 つまり、核・原子力技術の登場は、それまでの原子の安定性に基づいたある限度のある化学反応のみだった自然界に、まったく異質なものを持ち込むということを意味したのです。

 それは、「核技術以後の世界は、もはやそれ以前の世界とはまったくと異質な世界になってしまった」と言っても全然大げさではないほどのことです。

 残念ながら時間は後戻りができませんが、核技術の開発はほんとうはやるべきことではなかったのではないでしょうか。

 そして、開発初期の科学技術を過信した空頼みとまるで違って、放射性廃棄物の無害化処理の技術は現在でもまったくといっていいほど開発が進んでいないままです。

 生命にとってまさに致命的に危険な放射性廃棄物が、たとえ今以上の放出は止められたとしても、無害化できないまま膨大に累積していく、というのが原発の根本問題です。

 こうした原子力=核技術の3つの根本的で重大な危険を認識すれば「原発再稼動」などありえない話だと思われます。

 この夏の電力の問題は短期の問題ですが、核技術の致命的な危険は人類の生存に関わる中長期の最優先課題であるはずだからです。

 形式的合法性に乗っかって再稼動を推進することには、人類史的正当性はまったくないどころか、あえて言えば人類に対する深刻な犯罪だとさえ言えるのではないか、という気がしています。

 以上は、もちろん岡野の個人的見解です。どうぞ、賛否どちらであれご意見をお寄せください。




原子力神話からの解放 -日本を滅ぼす九つの呪縛 (講談社プラスアルファ文庫)
クリエーター情報なし
講談社
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持続可能な国づくりを考える会・学習会案内

2012年05月13日 | 原発と放射能

  持続可能な国づくりを考える会 学習会

□ 読書会 「原子力神話からの解放(高木仁三郎著)」を読む


 言うまでもなく高木氏は、きわめて早い時期からの反原発の代表的学者です(残念ながら2000年に亡くなりました)。今回取り上げる『原子力神話からの解放』は、亡くなる直前の最後の著作で、原発に関する神話・ウソの九つのポイントをデータと理論を駆使して徹底的に明らかにしており、しかもわかりやすい文章で書かれた、脱原発を目指す市民の基本テキストといっていい名著です。
 その九つのポイントを把握することで、私たちは感情的・イメージ的な反原発・脱原発を含んで超え、政府機関、メディア、きわめて多様なネット情報などに惑わされることのない、「なぜどうしても原発はダメなのか」ということについての基本的理解をしっかりと確立できると思います。
 ご一緒に、理解を深め共有していきたいと思っています。


【日時】 2012年5月19日(土)  14:00~17:00

【会場】 サングラハ教育・心理研究所 ミーティングルーム
     藤沢市藤沢89-1 メイキビル201 (JR、小田急藤沢駅徒歩5分)
     http://www.smgrh.gr.jp/page016.html

【参加費】 \500- (会場整理費 資料代)


<プログラム概要>

運営委員長の岡野守也氏による「原子力神話からの解放」の要約
参加者全員による、質問・意見と討議


【申込】 以下のフォームからお願いします。
    http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P5485478

※ 当日参加も受け付けますが、
     事前申し込みのご協力をお願いします。     

【定員】 30名

【お問い合わせ】 持続可能な国づくを考える会事務局
         jimukyoku@jizokukanou.jp


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妥当ではない判断:大飯原発再稼動

2012年04月14日 | 原発と放射能
 持続可能な国づくりを考える会のブログに書いた記事を転載します。


 運営委員長の岡野です。

 今朝、野田政権が大飯原発の再稼動を妥当と判断したというニュースを聞きました。

 きわめて非合理で妥当でない判断だ、と私は思いますので、運営委員長個人として一言ポイントだけでも発言しておきたいと思います(会員のみなさん、会員以外のみなさん、コメントをください)。

 まず、原発は、入り口で資源としてのウランは有限であり(核燃料のリサイクルはうまくいかない)、出口で処理の方法がまったく確立していない放射性廃棄物と熱排水を大量に出すという点で、エコロジカルに持続不可能な技術です。

 全地球的なエコロジカルな危機の切迫性を考えれば、一日も早く止めるべきです。

 そういう意味で、福島の事故以降、原発が停止しはじめており、5月にはすべてが停止するというのは、原発をすべて止めていくためのスタートとして非常にいい機会です。

 原発を止めることで得られる国民全体、特に次世代の生命の安全性の確保――放射性物質をこれ以上蓄積しない、放射能汚染のリスクをこれ以上増やさない――という長期のメリットと、今年の夏の電力を足らせるという短期のメリットを秤にかけたら(それも本当に不足するのかどうか疑わしい)、どちらが重いかは合理的に判断すれば明らかだと思われます。

 短期の利益のために長期の利益を無視するというのは、合理的でも妥当でもありません。

 ほんの数人で決めて、妥当でない判断を妥当だと言い募るような政治家は、民主主義=人民の人民による人民のための政治のリーダーとしてまったく不適格だと言わざるをえません(「民主党」という名前が悪い冗談に思えてきます)。

 ちゃんと理性を働かせて判断を変更するか、でなければ、人民・国民とりわけ次の世代の生命の安全性を最重要視する真に民主的なリーダーに交代してもらいたいと強く希望します。

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本の紹介:『原発と権力―戦後から辿る支配者の系譜』

2012年02月20日 | 原発と放射能
*「持続可能な国づくりの会」のブログと同時掲載です。


 去年の原発事故以降、泥縄式に原発・放射能関係の文献を相当多数読んできた中で、なぜ日本が原発を推進してきたのかについては、吉岡斉『原子力の社会史:その日本的展開』(朝日選書、1999年)でほぼ流れがつかめたと思っていました。

 しかし、3・11からちょうど1年目の学習会に向けて、念のためにと思い、まだ読んでいなかった、山岡淳一郎『原発と権力--戦後からたどる支配者の系譜』(ちくま新書、2011年9月刊)を読みました。

 読んでみると、『原子力の社会史』には十分書かれてなかった、「日本崩壊の黒幕!」(帯のコピー)の部分もみごとに暴かれていて、改めて事の深刻さに頭を抱える思いでした。

 著者はノンフィクション作家だとのことですが、戦後史の裏と表に関するしっかりとした資料の裏付けを持って書いていることが感じられ――個々の細部の事実については判断する力が筆者にはありませんが――全体の流れの把握に関しては信頼できると思いました。

 原発はここまで深く権力と結びついているのであり、したがってもし本当に原発を止めたいのなら、政治・権力の問題を避けて通ることができない、という当たり前のことを強く再認識させられる、本当に原発を止めたい人必読の文献であると思われました。


 以下は、カバーそでの広告文と「はじめに」の一部です(行空けは筆者)。


 原子力発電、それは戦後日本にとっては最高の電力システムだった。

 再軍備ともつながるその魅力に多くの政治家は飛びついた。

 いち早く原子力予算を成立させ、日本を原発大国にした中曽根康弘。

 CIAと結びつき、総理の座を狙うために原子力を利用した正力松太郎。

 ウランを外交戦略の要に据え、東奔西走した田中角栄。

 権力者は原子の力をわがものにし、こんにちの日本を形作った。

 戦後から連綿と続く忘れさられた歴史をいま解き明かす。(カバーそでの広告文)


 放射能に生活を破壊された福島県へ足を運ぶたびに、なぜ、制御不能の原子力発電を日本は「国策」として進めてきたのか、と幾度も自問した。避難所を訪ね、家を奪われた人びとの悲憤を受け止めるにつれて、疑問はますます大きくなった。……

「低コスト」「高い安全性」「温暖化防止」という理由づけの曖昧さは、多くの識者が指摘している。東日本大震災で安全神話は打ち砕かれ、危機管理の脆弱さだけがさらけ出された。『原子力村』の安全神話の人たちが警鐘を鳴らす人を背徳者のように敵視し、排除してきた結果である。原発推進の核心は、おためごかしの理屈のなかにはない。

「原発のための原発」が作られてきたのだ。自己目的化こそが核心であろう。その原動力は、政界、官界、財界の「鉄のトライアングル」に学会、メディアを加えた五角形の「ペンタゴン」体制、それ自身だった。組織は組織の存続と成長を自らの目的とする。そのために右肩上がりで一直線の「原子力利用五ヵ年計画」を立て続け、目標に向かって突き進んだ。国家による計画経済の図式である。合理性や経済性の追求は、ペンタゴンの装飾に使われたにすぎない。

現代の科学技術は、真理の探究というナイーブな段階を終え、巨大な産業と結びついて自己増殖していく。科学技術も資本主義の枠内で生き長らえる。政・官・財・学・報のペンタゴンは、そこに同調して利権を膨らませたともいえるだろう。

 では、さらに問おう。誰が、巨大なペンタゴン体制のレールを敷き、自己増殖の種をまいたのか。原発建造が壁にぶち当たると、どうして技術的にも経済的にも見通しの立たない「核燃料サイクル」に組織の延命が託されたのか。なぜ、無理を承知でプルサーマルを進めようとするのか。いま、この瞬間もたまりつづける使用済み核燃料の処理について、どうして議論が止められてしまうのか……。と、キャベツの皮をむくようにひとつ、ひとつの疑問を剥がしていくと、最後には堅くてザラザラしたものにいきつく。

 それは権力という岩盤の欠片だ。権力は原子力を好むのである。
 原子力利用と核兵器開発は、連結双生児のようにつながっている。……発電のための「ウラン濃縮」や「使用済み核燃料の再処理」によるプルトニウム抽出は、核オプションに連なる。だから権力は原子力に長い手を伸ばそうとする。

 この冷厳な事実を踏まえておかなければ、日本の原子力発電が何処から来て、どのように自己増殖し、何処へ向かおうとしているのかは、見えてこない。

 原子力は権力によって動かされる。日本政府が原子力発電に着手したのは、冷戦が、東西両陣営が核武装に狂奔している最中だった。……(「はじめに」より、1行空けは筆者)


 「この冷厳な事実を踏まえておかなければ、日本の原子力発電が何処から来て、どのように自己増殖し、何処へ向かおうとしているのかは、見えてこない」だけでなく、どうしたら原発を止められるかも、見えてこないと思われます。

 ひとりひとりの市民の手には余る、あまりにも重い冷厳な事実ですが、ひとりではできないことでもみんな=市民多数の意思によって実現できるはずなのが「民主主義社会」であり、日本は少なくとも建前的・憲法的にはまぎれもなく「民主主義社会」であるはずです。

 民主主義社会の市民のひとりとして、みなさんと一緒にどうすればいいか考えつづけていきたいと思っています。

 どうぞ学習会にお出かけ下さい。




原発と権力: 戦後から辿る支配者の系譜 (ちくま新書)
山岡 淳一郎
筑摩書房



新版 原子力の社会史 その日本的展開 (朝日選書)
吉岡 斉
朝日新聞出版


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おすすめの本:『自分と子どもを放射能から守るには』

2011年10月23日 | 原発と放射能


 3月の原発事故の後、しばらく集中的に原発と放射能に関する本ばかり読んでいました。

 数十冊読むと、問題のポイントが見えてきて、確信のもてる判断ができるようになったと思いましたので、筆者を信頼してくださる知り合いやブログ読者にシェアするための記事をある程度書きましたが、代表的には故高木仁三郎氏や小出裕章氏などの筆者が信頼できると思う原子力発電の専門家がおられるので、そういう方々のことを紹介したら、後は素人の筆者がこれ以上書く必要はないだろうと思って、中断していました。

 しかし、「放射能は低線量でも被曝、特に内部被爆は非常に危険だと思う」(その理由については関連ブログ記事参照)という筆者の判断を聞いて、「では、どうしたらいいのでしょうか」という深刻な質問・相談を受けるようになり、筆者の知りえたかぎりで信用できると思われる情報や筆者自身の判断をさらにお伝えしたほうがいいかな、と思いかえすようになりました。

 まず、端的に言うと、可能なら海外へ、できなければ国内でもなるべく西へ移住したほうがいいと思っています(筆者の長女一家は頑張って茨城から四国へ引っ越しました)。

 しかし、引っ越しできる人はともかく、いろいろな事情や理由があって引っ越しできない、しない人間はどうすればいいのか、という大問題が残ります。

 筆者は、文化・言論も含め東京一極集中型になっている日本で、言論活動をしていくには残念ながら首都圏を離れると非常に不利になると考え、また50歳以上は放射線の影響を受けにくくなるという情報もあるので、この際あえて踏みとどまるという感じで、今のところ引っ越しをしないでいます(かなり真剣に検討したこともあるのですが)。

 そうしたなかで、内部被曝をできるだけ避けるにはまず食べ物に注意するしかないだろうと考え、妻がいろいろ苦心をしてくれています。

 具体的にはどういう注意をすればいいのかについて、非常にいいヒントになっているのが、ウラジミール・バベンコ『自分と子どもを放射能から守るには』(世界文化社)です。

 著者は、チェルノブイリ事故の後のベラルーシで放射能汚染の問題に取り組んできた民間の研究機関・ベルラド放射能安全研究所の副所長です。

 本のカバーの広告文に「本書は、放射能の降った自分たちの大地で、家族を守り、生きてゆくために、自分でどうすればいよいのかを伝えてくれます」とありますが、読んでまさにそのとおりの本だと感じました。

 どういう食べ物を選び、どう料理したらいいのか、それが多くの市民の知りたかったことですが、この本にはわかりやすく簡潔にその答えがあります。

 チェルノブイリ事故への対応から生まれたベラルーシ向けの本ですが、京大の原子炉実験所の助教で小出氏の同僚である今中哲二氏の日本の状況へのコメントも含まれていて、日本の現状に対しても基本的に当てはまり、とても参考になります。

 原発についてまず一冊だけなら小出裕章『原発のウソ』(扶桑社新書)、もう一冊といわれたら、高木仁三郎『原子力神話からの解放――日本を滅ぼす九つの呪縛』(講談社α文庫)とご推薦してきましたが、放射能への日常的・具体的対策について一冊だけ、といわれたら、ためらわずこの本をお勧めしたいと思います。




自分と子どもを放射能から守るには(日本語版特別編集)
ウラジーミル・バベンコ,ベラルーシ・ベルラド放射能安全研究所
世界文化社



原発のウソ (扶桑社新書)
小出 裕章
扶桑社



原子力神話からの解放 -日本を滅ぼす九つの呪縛 (講談社プラスアルファ文庫)
高木 仁三郎
講談社



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新刊紹介:『チェルノブイリの今 フクシマへの教訓』

2011年10月03日 | 原発と放射能

 サングラハ教育・心理研究所、持続可能な国づくり会の会員でジャーナリストの高世仁氏のチェルノブイリ取材が一部がユーチューブで公開されていましたが、今回、60分のDVDが出版されました。

 あまり見たくないが見なければならない現実だと思います。ぜひ、ご覧ください。







DVD BOOK チェルノブイリの今 ~フクシマへの教訓 (旬報社DVD BOOK)
クリエーター情報なし
旬報社


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新刊紹介:小出裕章『原発の真実』

2011年09月23日 | 原発と放射能

 頭に「知りたくないけれど、知っておかなければならない」というサブタイトルのついた『原発の真実』を、読みたくないけれど、読みました。

 3月以降、原発と放射能に関する本をかなりの数集中的に読んできました。

 その結果、もうまったく疑問の余地がないところまで、原発の危険性・持続不可能性がわかったという気がしていました。

 知ってみると、「地震列島に54基の原発」というのは他のどんなメリット(例えば経済的な利益)も引換えにできないくらい致命的に危険なことです。

 「脱原発依存」とか「卒原発」などというゆるいことを言っていないで、できるだけ早く「脱原発」する必要があると思います。

 しかし、日本国民全体の雰囲気を見ていると、政府とメディアの報道の範囲で考えていて、いまだに首相から始まって「原子力の平和利用」「原発とうまく共存すること」が可能であるかのような錯覚を持ち続けている人も多数いるようです(特に政治的、経済的リーダーのみなさん)。

 そういう方たちは、私の読んだような本は読んでいないのでしょうか。読んでも、理解できない・理解しないのでしょうか。半ば無意識的に読みたくないので読まないのでしょうか。

 反対派の専門家がいくら本を書いても、そういう方たちのところには知識・認識が届かないのだとすれば、素人の私がブログで少々発言しても届かないのは、当たり前といえば当たり前のことかもしれません。

 自分が納得するためにはもう充分に読んだ。私がいくら読んでも、書いても、知ってほしい方々には届かない。

 それならば、これ以上私が時間とお金を使って読んでも、知っても、あまり有効性がないかな、原発関係の本を読みあさる必要はないかな、と思っていました。

 それでも状況は気になるので、小出氏などの発言はある程度追いかけていました。

 そういうなかで、もちろん小出氏の新著の刊行のことも知っていましたが、買って読むのをためらっていました。

 しかしやっぱり気になるので、あまり読みたくもないけど読まなければならないかなと、アマゾンで注文し昨日1日大学への往復電車の中で一気に読みました。

 知識としては一応知っていることがほとんどでしたが、改めて心に甚(いた)く・痛く響くことがいくつもありました。

 特に以下に引用したところ、「3月11日を境に私たちの世界自体が全く変わってしまった」という言葉がきつく心に刺さりました。

 もうかなりの程度悪い方向に変わってしまった世界と日本をこれ以上悪くしないで、なんとか次の世代に残していきたい、そのために今後もできることをやっていこう、と改めて当たり前のような決心を堅くしています。


Q:佐賀県にある松の葉からセシウムが検出された、というニュースに驚きました。福島からおよそ1100キロも離れた場所で、なぜ検出されたのでしょうか。 6月14日

A:研究者である私から見れば、当たり前のことです。1100キロなど大した距離ではありません。米国にも福島第一原子力発電所の放射能が届いていますし、ヨーロッパにも届いています。
 今回の事故の放射性物質は、残念ながらもう全地球を汚染しているというほどに広がってしまっています。
 そういうなかで私たちが生きざるを得ない、生きのびていかなくてはならないというところまで、追い込まれてしまっているのです。3月11日を境に私たちの世界自体が全く変わってしまった、ということみなさんによくよく知ってもらわなければならないのです。
 福島県はもちろん、もはや日本は同じ日本ではなく、地球は同じ地球ではありません。
 1986年にチェルノブイリで事故が起きたときも、8200キロ離れた日本にも、もちろん放射能は飛んできました。そのときも、全地球に放射能汚染が広がっています。



知りたくないけれど、知っておかねばならない 原発の真実
小出 裕章
幻冬舎


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民主党-野田政権は原発を再稼動する

2011年09月22日 | 原発と放射能

 下記のニュース(ウォール・ストリート・ジャーナル日本版)によれば、野田首相は、前日に3万人規模の反原発デモがあったにもかかわらず、来年夏までに原発を再稼動すると国際的な場で発言しています。

 「地震列島に54基の原発」という現実の意味を理解した上での発言とは思えません。

 これはつまり、民主党―野田内閣に国政を任せているかぎり、原発は再稼動する、つまり早期の脱原発はできない、ということです。

 こういう状況の中で、一日も早く原発を止めたい私たちには、何ができるのでしょう? どうすればいいのでしょう?

 みなさんは、どうお考えですか。私の考えは、何度も書いているとおりですが。


 【東京】野田佳彦首相は20日、ウォール・ストリート・ジャーナル/ダウ・ジョーンズ経済通信とのインタビューで、現在停止中の原子力発電所を来年夏までに再稼動していく考えを示した。国民の間では反原発の機運が高まっているが、原発を再稼動しないことや、すぐに原発を廃止することは 「あり得ない」と述べた。
 首相は原発政策について、「例えばゼロにするとすれば、他の代替エネルギーの開発が相当進んでいなければいけない。そこまで行けるかどうかも含め、いま予断をもって言える段階ではない」と答えた。
 3月の福島第1原発事故以来、かつては広く原発を支持していた国民の間で反原発の声が高まっている。こうした現状を踏まえ、脱原発をどこまで、また、どれだけ早く進めるかが野田新政権にとって最も困難で意見の分かれる問題となっている。
 インタビュー前日には、警察推計で約3万人の国民が集まって反原発集会が行われた。これは原発事故以来最大級の集会で、政治問題に対するデモとしても長年例のなかった規模だ。
 原発事故以降、定期点検のため停止中の原発の再稼働が国内各地で拒否されている。現在稼働している原子炉は国内にある全54基中、10基程度に過ぎない。政府が原発再開に向けて地元自治体を説得できなければ来年には全国すべての原子炉の稼働が停止し、事実上の脱原発となる。
 野田首相は、「再稼動できるものは再稼動していかないと、 まさに電力不足になった場合には、日本経済の足を引っ張るということになる」と述べた。
 しかし反原発派は、今年夏のピーク時にも、いくつかの原発停止にもかかわらず大きな電力不足がなかったことを指摘し、停止中の原発を再稼動しなくても来年の夏も乗り切ることができるのではないかとみている。これに対し、野田首相は、「そういういうことはあり得ない」として、原発なしには来年の夏は電力不足に陥るとの見方を示した。
 少なくとも当面は原発を維持するという野田首相の姿勢は、菅直人前首相とは対照的だ。前首相はかつて原発を強く推進していたが、福島第1原発事故後は反原発に方向転換した。前首相は、原発事故対応を誤ったとみなされたことも一因となり、約1年で首相の座を去った。

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どうすれば原発を止められるか

2011年09月19日 | 原発と放射能

 一昨日、「いのちを見つめる」展のオープニングの講演をしてきました。

 講演に共感してくださった方も多く、後の懇親会では話が弾み、久しぶりに帰りが午前さまになりました。

 弾んだ話には、講演のテーマの「宇宙の中のいのちの意味」についての質疑応答だけでなく、どうすれば原発を止められるかという話題も含まれていました。

 懇親会に残った方のほとんどが原発反対で、デモに行ったり、署名をしたり、政治家に手紙を書いたり、会える政治家には行って話しをしたり、などなど、いろいろな方法を考え、非常に積極的に行動している方もいました。

 そこで、あえて、今までの市民運動では日本の政治は基本的に変わらなかった・今回も変わらないだろう――原発も止まらなかった・止まらないだろう――という指摘をし、市民運動をしている方たちが決定的に見落としていることがあるという話をしました。

 「なぜ、ドイツやイタリアやスイスは脱原発の決定ができた(スウェーデンはとっくに決まっている)のだと思いますか?」と問い、いろいろな意見が出るのをしばらく待ってから、「そういうこともあるでしょうが、結局のところ、それは主権政党-政府が決定したからできたんです」と指摘しました。

 議会制民主主義の国では、主権政党-政府が決めれば、原則的にはどんなことでも決めてしまえるのです。

 逆に言えば、主権政党-政府が決めないかぎり、何も決まりません。どんなに市民運動が盛り上がっても。

 だから、原発を止めたかったら、止める意志がある政党を主権政党-政府にするしかない、そういう政党がなかったら作るしかないのではないでしょうか? と。

 日本は、幸いにして議会制民主主義の国で、結社の自由つまり自分で自分が支持できる思想をもった政党を作ることができるのです。

 その政党が主権政党になって、国民を代表して権限・権力を行使すれば、原発はまちがいなく止めることができます。

 民主主義国家における政府は、選挙によって国民の委託を受け、国民のために権力を行使するものです。

 それは、民主主義の常識のはずなのですが、日本の市民の常識になっていないのではないでしょうか?

 そもそも政府は権力を行使するものであって、権力=悪=政府=政治という情緒的同一視は民主主義とはそぐわないものなのですが、日本の良心的市民にはどこかそういう感覚が強くあるようです。

 〔あくまでもグラデーションですが〕正しい権力と悪しき権力があるのであって、権力そのものは善でも悪でもないのです。

 そして、権力を行使する政府を形成する政党(を形成する議員)を選ぶのは国民なのです。

 だから、もう一度言いますが、もし原発を止めたかったら、止めるという決定をすることのできる権限・権力を行使する意志のある政党を主権政党にするしかない。そういう政党がなかったら、作るしかない。

 現在の民主党には、成り行きで原発を減らす・減っていくという意志ともいいにくいあいまいな方向性しか見えません。

 自民党、公明党も脱原発の意思表示はしていません。

 共産党と社民党が意思表示をしていますが、残念ながら、この二つの政党共に日本の経済、外交、安全保障を任せられるとは思えません。

 その他の政党についても、日本の未来を託すことのできるような理念とビジョンがあるとは思えません。

 だから、脱原発を含め日本の未来を託すことのできるような、自分が支持できる政党を作るほかないのではないでしょうか?

 政党を作るのは大変? いいえ、政党は基本的には任意団体なので、たった二人でも合意して「○○党」と名乗ったら、それは政党なのです。

 政党助成金を受けられる政党になるには、国会議員が数名加わっている必要があるのだそうですが。

 初めはごく少人数だった政党がやがて主権政党になる、ということは、起こりえないことではないのです。

 そういうわけで、私の属している「持続可能な国づくりの会」では、「理念とビジョン」の試案を作り、「こういう理念とビジョンを実行する政党が必要だとは思いませんか」という呼びかけをしています。

 会のHPやブログを見て、よかったら「清きご一票を」……と呼びかけてきました。

 みなさん熱心に話を聞いてくださり、「ブログを見てみます」と言っていました。

 ともかく、市民運動をしている人に向って、あえて「従来の市民運動では限界がある」と言って、反発されず、関心をもって最後まで話を聞いてもらえた集まりは、初めてでした。

 これが日本の市民の意識が変わりはじめている兆しだといいのだが、と期待しているところです。


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放射能汚染・遺伝子治療・生命倫理

2011年07月21日 | 原発と放射能

 昨年秋、ご縁があって、筋ジストロフィーの患者さんと家族の方の会の大会で講演をさせていただきました。

 その時、専門家の方の講演もあって、原因である遺伝子の欠陥がきわめて具体的にわかり、もう少しで従来治療不可能と思われてきた筋ジストロフィーの「遺伝子治療」が可能になるだろうという話を聞くことができました。

 この話は、患者さんと家族の方に大きな希望をもたらしたにちがいありません。傍聴させていただいていた私も、驚きと喜びを感じずにはいられませんでした。

 「遺伝子操作」という技術は、使われ方によっては恐るべきことをもたらしかねないと思われ、正直なところこれまで私は否定的でした。

 しかし、今や、放射能汚染による遺伝子のダメージが深刻に心配される状況の中では、少なくともこの件に関しては「遺伝子治療」の進歩を期待するほかないだろう、そしてそれは可能だろう、と考えるに到りました。

 いわば「神の領域」に関わるような「遺伝子操作」に潜む深刻な生命倫理の問題は、これまで以上に慎重に徹底的に検討されるべきだと思いますし、これまでの例えば「臓器移植-脳死」の公認のプロセスを考えるときわめて深い危惧の念も感じますが、当面、素人の一人の意見が変わろうが変わるまいが、科学技術-医療技術の一つとしての「遺伝子治療」は進められるでしょう。

 そうだとしたら、コスモスの理に沿った生命倫理の確立としっかり並行しながら、放射能による遺伝子のダメージを治療する技術が、できるだけ早く、間に合う間に確立されることを願うほかありません。

 この点についても、「絶望するのはまだ早い。困難だが、希望の未来はある」と考えていいのではないでしょうか(専門家の方のコメントをいただけると幸いです)。

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汚染水浄化技術の一歩前進

2011年07月11日 | 原発と放射能

 吉岡斉『原子力の社会史――その日本的展開』(朝日選書、1999年、品切れ中)によれば、「……放射性廃棄物処分施設(高レベル、中低レベル)についても、一九七〇年代半ばすぎに検討が開始されたばかりであった。次々と発電用軽水炉が運転を始め、現実に大量の廃棄物を生み出すようになってから、廃棄物の後始末について検討されるようになったのである。ようやく一九七六年一〇月八日、原子力委員会は「放射性廃棄物対策について」という基本方針をまとめた。そこでは、高レベル放射性廃棄物について、二〇〇〇頃までに見通しを得ることを目標に、調査研究と技術開発を進めるという方針が示された。」(186頁)とのことです。

 しかし、2010年を過ぎても、見通しは得られていないようです。

 「放射性廃棄物」の「処分」についてさえこんな状態ですから、「放射能汚染の除去」の技術開発がもっと遅れているだろうということは簡単に推測できます(今後もう少し調べてみますが)。

 しかし、それでも良心的な科学者・技術者による努力は少しずつ進んでいるようで、少し希望が見えます。

 一昨日の朝日朝刊によれば、京都大学によって、原発の汚染水の浄化について、現在使われているフランス・アレバ社のものより、時間も経費も浄化後にも残ってしまう放射性廃棄物の量も少ない優れた技術が開発されたとのことです。





 メンツや既得権益で無視されることなく、ちゃんと評価され、ちゃんと使われることを願わずにはいられません。

 それにつけても、今からでも、大急ぎで、放射性廃棄物の処理技術、汚染の除去技術、特に体内汚染の除去技術、放射線による障害の治療技術、特に遺伝子レベルでの治療技術などの調査研究と技術開発が進められる必要がありますし、人材と費用を投入すれば必ず進むでしょう。

 私たちは、科学技術以前の世界に戻ることはできません(できるものなら戻りたいような気もしますが)。

 だとしたら、科学技術によってもたらされたマイナスを解決・解消するには、それを超える真に人間全体のいのちの持続可能性に向けた科学技術を進歩させるほかありませんし、それは可能なはずです。

 政治不信によって政治の汚染が浄化されないのとおなじく、科学・技術不信によって科学・技術による環境汚染が浄化されることはない、と思われます。

 次世代の子どもたちへ――「科学ぎらいにならないで、新しい科学で古い科学を超えていこう! きみたちなら、できる!」

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