般若経典のエッセンスを語る33―忍辱が完成し慈悲が具わるように

2020年11月04日 | 仏教・宗教

 第三願は、六波羅蜜の第三「忍辱」に関わって、「忍辱成就慈悲具足の願(にんにくじょうじゅじひぐそくのがん)」で、忍辱が完成し慈悲が具わることの願」ということである。

 第一願から一貫して「この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。『私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって彼らをもろもろの悪業から離れさせてやれるだろうか』と。こう考えた後で、次のような願をなして言う。『私は渾身の努力をし身命を顧みず〇〇波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し……』」という言葉が繰り返される。

 願という意味ではこの繰り返しは必須なのだが、頁数の関係で以下は省略して紹介する(省略個所は……で表記)。

 

 ……菩薩大士が忍辱波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が互に怒り憤りののしり侮辱しあい、刀や棒や瓦や石や拳やハンマーなどで互に傷つけあい、殺しあうに到ってもひたすらやめようともしないのを見たならば……我が仏国土の中にはこうした煩悩・悪業まみれの有情がおらず、一切の有情がお互いを見るのが父のよう、母のよう、兄のよう、弟のよう、姉のよう、妹のよう、男のよう、女のよう、友のよう、親のようであって、慈しみの心を向けあいお互いに利益を与えあうようにしよう」と。……

 

 人間は、歴史が始まって以来、あるいは文字(史)に記録(歴)されているという意味での歴史以前から、個人間でも集団間でも争いを続けているようだ。それがふつうの・ほとんどの人間つまり凡夫の姿である。

 そうした人間同士の争いに対して仏教は、ある意味で自然な、やむを得ない人間の闘争本能だというふうには捉えていない。

 人間が争うことは悪しき行為・悪業であり、それは、自分と他者がそれぞれ分離・独立した存在だと見なす分別知・無明・煩悩が源であり、そこから自分と物質的・精神的財産や利害が一致している者同士を「自分たち」・仲間・味方と見なし、一致しない者たちは「自分たち」ではない敵、いわば「あいつら」と見なすことが原因だ、と仏教は捉えている。

 それに対して菩薩は、すべては一如・一体であり、したがってすべての人も一如・一体であり、対立して傷つけ合うのは宇宙の理に反したこと・悪業であることに気づかせるために、まず自分が他者から傷つけられてもやりかえさないで受容すること・忍辱を身命を顧みることなく実践して見せることで、人々を教え、精神的に成熟させて、人々すべてが一つの家族のように慈しみ合う美しい国を創り上げていきたい、というのである。

 「やられたらやり返す」ことが常識の世界からすると、まるで夢のような美しい話だが、菩薩はいわばそうした美しい夢を見、見るだけでなく現実化しようと渾身の努力をするのだという。

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般若経典のエッセンスを語る32

2020年11月02日 | 仏教・宗教

 第二願は「浄戒成就諸善善報具足の願(じょうかいじょうむしょぜんぜんぽうぐそくのがん)」で、六波羅蜜の第二の「持戒」(玄奘訳では「浄戒」)について「有情に戒律を教え実行させ、その結果として有情たちが諸々の善を行ない、その善の報いを得られるようにしよう」という願である。

 仏教の戒律のもっとも基本的なものに「五戒」と「十戒」または「十善戒」がある。

 「五戒」は、「不殺生(ふせっしょう)」・殺さない、「不偸盗(ふちゅうとう)」・盗まない、「不邪淫(ふじゃいん)」・不適切なセックスをしない、「不妄語(ふもうご)」・ウソをつかない、「不飲酒(ふおんじゅ)」・お酒を飲まない、ということ五つの戒めである。

 「十戒」または「十善戒」は、五戒の四つまでは共通で、不飲酒が省かれて、「不両舌(ふりょうぜつ)」・二枚舌を使わない、「不悪口(ふあっく)」・人の悪口をいわない、「不綺語(ふきご)」、飾った言葉を使わない、「不貪欲(ふとんよく)」・欲張らない、「不瞋恚(ふしんい)」・腹を立てたり恨んだりしない、「不邪見(ふじゃけん)」・因果・縁起の理法を否定するような考えをもたない、という六つが加えられている。

 かつて日本では、ほとんどの庶民が「他のことは出来なくても、せめてこの十のことは守りなさい。そうするといいところに生まれ変われるよ」とお坊さんから教わっていた。

 「因果応報ということがあって、いいことをすれば、この世でも幸せになる可能性があるし、なれなかったとしても来世ではきっと幸せになれるよ」と、善因善果・悪因悪果(「善因楽果・悪因苦果」ともいう)ということを教わる。

 いわば積極的な善が布施であり、抑制的な善が持戒であり、こうした布施や持戒の教えは、聖徳太子の時代から江戸時代に至るまでに、日本人の親切さ、やさしさ、穏やかさ、まじめさ、正直さ、誠実さといったすぐれた国民性を育んできたのだ、と筆者は考えている。

 ところが、第二願の最初には十善戒のちょうど逆さまのことが書いてある。

 

 また次に、スブーティよ、菩薩大士が持戒波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が煩悩が盛んで、さらに殺し合い、与えられていないものを盗り、邪なセックスをし、ウソをつき、荒々しい言葉を使い、裏表のあることを言い、汚い言葉を使い、さまざまな貪り・怒り・まちがった考えを起こし、それが因縁となって寿命が短く病が多く、顔色は衰えきって元気がなく、生活の糧が乏しく、下賎な家に生まれ、からだ・かたち・ふるまいが汚く臭く、いろいろなことを言っても人に信用されず、言葉が乱暴なために友達が離れてしまい、およそ言うことすべてが下品で、ケチ、欲張り、嫉妬、まちがったものの見方があまりにひどく、正しい教えを非難し、賢人・聖者を攻撃するのを見たならば、スブーティよ、この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって彼らをもろもろの悪業とその報いから離れさせてやれるだろうか」と。こう考えた後で、次のような願をなして言う。「私は渾身の努力をし身命を顧みず持戒波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し、我が仏国土の中にはこうした悪業をなすこととその報いを受けるようなもろもろの有情がおらず、すべての有情が十善戒を行ない、長寿などのすばらしい果報を受けられるようにしよう」と。(後略)

 

 十善戒とはかけ離れた行動によって社会が乱れ、その結果、お互いがお互いを不幸にするような状態に人々がなっているのを見た時、菩薩は「これでは今生でも来世でも彼らは幸せになれない。そうではなく幸せになれるように、まずは十善戒から教えよう」と、まず自分から手本を示して人々を教え導き、穏やかで安心して暮らすことができ、その結果のどかな気持ちで長生きもできる国を一緒に創り上げていくために、身命を顧みず渾身の努力をしていくのである。

 この十善戒は、一見シンプルで当たり前のようだが、もしその国に住む人すべてが実際にをちゃんと守れたら、それはまちがいなくいい国になるはずである。

 私たちの国日本は、残念ながら、まだ総体としてこの単純明快な戒律を守れる国民になっていないのではないか。

 むしろ、エゴイズムが氾濫しモラルの崩壊が深刻化しているのではないか、と筆者には思えてならない。

 しかし江戸・二百七十年の日本は、貧しさなどさまざまな問題を抱えていたにもかかわらず、とても平和で仲良く人々が暮らす国だったようである。

 それが残っているのが、大きな災害があった時、特に地方で語られる「絆」ではないだろうか。それは、江戸時代までの日本の精神性の基礎であった神仏儒習合のうち、特に仏教文化の十善戒などが日本人の心に滲み込むことで出来たものだと思われる。

 そうした精神的遺産が今は何とか残っているが、多くの日本人が原点としての仏教を忘れているから、このままだと薄れ消えていってしまい、日本の精神性の荒廃がますます進行していくのでははないか、と筆者は危惧している。

 そうならないために、ぜひ、大乗仏教―般若経典のエッセンスを思い出してほしいと思う。

 もどると、人々みなが基本的な当たり前の戒律・倫理を守ることで平和に幸せに暮らせる仏の国のような国にしたい。それが菩薩の誓願なのである。

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