般若経典のエッセンスを語る50――大乗における瞑想の深まり2

2023年10月31日 | 仏教・宗教

 この瞑想が深まっていくことを、指導の言葉として語ったのが、以下の個所で、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』「捧鉢品第二」の後半部である。訳しながら解説していこう。

 舎利弗仏に白して言さく、『菩薩・摩訶薩云何が般若波羅蜜を行ずべきか。』

 シャーリプトラがブッダに「菩薩大士はどのように般若の智慧を修行したらよろしいでしょうか」と質問をした、と。これはまさに根本的な質問である。すると、答えは以下のようだったという。

 仏舎利弗に告たまはく、『菩薩・摩訶薩般若波羅蜜を行ずる時、菩薩を見ず、菩薩の字を見ず、般若波羅蜜を見ず、亦我れ般若波羅蜜を行ずるを見ず、

 般若の実践をするときには、そもそも私・菩薩ということを考えない。また、そもそも菩薩という言葉を使わない。それから「私と分離した智慧というものがどこかにあって、それを私が求めるのだ」というのは、それ自体分離思考だから、そういう「私の外に般若波羅蜜がある」という見方をやめる。さらに、「私が般若波羅蜜の修行をしている」と思うと、それはもう「私の修行という動き」と「その対象としての般若波羅蜜」という分離思考になるから、「私が般若波羅蜜を修行する」という考え方をしない。といっても、それは般若波羅蜜を修行しないということではないのだ、と。

 こういう言い方はきわめてパラドキシカルでわかりにくいのだが、そもそも「般若波羅蜜」とは言葉にならないことを仮に言葉にしているので、言葉にとらわれて「私が/智慧を/得ようとする」と思ったら、もうそれは般若・智慧ではなく分別知・分離思考である。
 だから、ここでシンプルには「そもそも分離思考をやめることが般若波羅蜜を行じるということなのだ」と言おうとしていると理解すればいいわけである。

 何を以ての故に、菩薩も菩薩の字も性空なり、空中には色も無く受想行識も無し、

 それはなぜかというと、菩薩というのは実体として存在しているわけではなく、それからもちろん菩薩という言葉も実体ではない、と。

 この「空中」というのは「私たちが禅定を深くし、空体験をしているときには」という意味に理解しておけばいい。

 この言葉は実は『般若心経』とかなり重なっていて、『般若心経』の講義の際にここの内容をほとんど説明している。

 私たちが空の瞑想をしていると、そこには私の外側にある物質的な現象・色や、それを感受すること・受、イメージすること・想、それに対して注意や意志を向けること・行、それから思考作用をすること・識のいずれもがない、と。色受想行識というのはいわゆる五蘊で、色は物質的現象、あとの四つはいわば心理的現象である。

 この受想行識が色に対している、というのがまさに分離思考の基本的なパターンである。私が/何かを/感受する、と。例えば、「私が/湯飲みを/見る」。そうすると自分の中に残っている湯飲みという記憶のイメージと照らし合わせて、「ああ、あれは湯飲みだ」と認識する。そして喉が渇いていたら「取って飲みたい」とった意思が働く。さらにそういうことに関するいろいろな考えが巡る。これが受想行識であるが、それ自体が分離的な思考なので、それを超える空の体験の中では、そういう分離はない。
 しかし区別されたかたちでの物質もあるし、心もあるから、次のようにも語られる。

 色を離れて亦空無く、受想行識を離れて亦空無し。色は即ち是れ空、空は即ち是れ色、受想行識は即ち是れ空、空は即ち是れ識なり。

 空ということがどこかにあるのではなくて、色受想行識のいわば本性が空ということである。だから物質的な現象は即それは空、つまり実体ではないし、しかしながら実体でないということが物質的な現象を生み出しているし、それから心の働き・受想行識を同じく生み出している、と。
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般若経典のエッセンスを語る49――大乗における瞑想の深まり1

2023年10月30日 | 仏教・宗教
 *筆者の体調のため、なかなか連載を続けることができてきませんでしたが、ずっと待っていてくださる読者もいるようなので、推敲不十分ですがとりあえず読んでいただける程度の文でも、断続的に少しずつ掲載することにしました。
 なお、元の講義はDVDまたはyoutube で視聴していただけます。サングラハ教育・心理研究所のHPの案内をご覧ください。


 『摩訶般若波羅蜜経』「広乗品第十九」に以下のような個所がある。

 復次に須菩提、菩薩・摩訶薩の摩訶衍(まかえん)とは、所謂三三昧(さんざんまい)なり。何等をか三となす、有覚有観(うかくうかん)三昧、無覚有観(むかくうかん)三昧、無覚無観(むかくむかん)三昧なり。云何が有覚有観三昧と名くるや。諸欲を離れ悪不善法を離れ、有覚有観、離生喜楽、初禅に入る。是を有覚有観三昧と名く。云何が無覚有観三昧と名くるや。初禅、二禅の中間、是を無覚有観三昧と名く。云何が無覚無観三昧と名くるや。二禅より乃至非有想非無想定、是を無覚無観三昧と名く。須菩提、是を菩薩・摩訶薩の摩訶衍と名く、不可得を以ての故に。

 三昧とは禅定である。「菩薩・摩訶薩の摩訶衍」、つまり大乗仏教の根幹にあるのは三種類の三昧、すなわち瞑想・禅定だ、と。

 三種類の最初は「有覚有観三昧」という。これは、自他の分離的な意識が「覚」、「観」は思考で、いわば瞑想的ではあるけれどもやはり思考ということである。だから、いちおう自我意識が残っており、それから理論的に考えるということも残っている、それでもある種禅定状態にある。

 それから「無覚有観三昧」は、自他の分離を離れながら、しかし例えば縁起や無常などをある種瞑想的に洞察する。

 そしてそういうことをすべて離れてしまって、自他分離の意識も、それから瞑想的ではあっても思考をするということもやめてしまうのが「無覚無観三昧」である。

 これが、それ以前から言うと、禅定の最初の段階・「初禅」という。とにかくまず四段階ある。それから、その四段階の上にさらに何段階も瞑想の深まりがあることになっている。すなわち、大乗以前の仏教もこういう瞑想を行なっていたのである。

 ところが最後のほうに、「二禅より乃至非有想非無想定、是を無覚無観三昧と名く」とある。「思うでもなく思わないでもない」という、言葉で表現しにくい深い瞑想の状態のことをあえて言葉にしたので、言葉で勉強しただけではわからない。

 私たちがやっと「ひとー、つー」と呼吸に集中できると、なかなか爽やかな気持ちが生まれてくるのだが、それは「離生喜楽、初禅に入る」ということである。そうした、俗世間の生活から離れてさわやかな喜びが心に生まれてくるという段階を、禅定の最初の段階・初禅という。

 しかし、二禅になると次第に爽やかかどうかなども関わりがないという境地になっていくことになっている。

 私は、古典的な瞑想の深まりの段階論に「初禅・二禅・三禅・四禅」、その上に「非想非非想」等々とあるのを、かつては「こんなに細かい分類をしてなんの意味があるのか」という感じに受け取っていたが、自分自身で禅定を続けていくうちに、「やはりこれにはちゃんとした禅定の深まりの根拠、体験的根拠があるのだ」と感じるようになり、そして、まだこの先があるのだろうと思うようなっている。

 ともかく、こうして瞑想がきわめて深いところまで達した時に大乗の瞑想の境地が出てきたのではないかと推測される。

 それを示しているのが、「菩薩・摩訶薩の摩訶衍とは」、つまり菩薩大士の大乗とはどういうものかというと、いちばん根本は三三昧だ、と。ところがこの三は違っていて、「空・無相・無作(くう・むそう・むさ)三昧」という。これはそれ以前の仏教には見当たらない瞑想の名前である。

 「空三昧」、これは「空三昧とは諸法の自相空なるに名く」と書いてある。私たちが個々のいろいろな実体的なものがあると思っている、それが「諸法」である。ところがそのいろいろなもの・すべてのもののほんとうの姿・自相について、例えば時間経過をずっと見ていくと、それは「無常」であるということが見えてくる。それから、その時間経過の中でよく考えてみると、他との関係でできたのだ・「縁起」ということが見えてくる。

 よく上げる例だが、ここに「湯飲み」がある。この湯飲みについて、私たちは「ここに湯飲みそのものとしてある」と思ってしまうが、よく考えると、製造者が土を持ってきて型に入れて焼いて……というふうにして出来上がり、使われ、そして用がなくなり行き所がなくなったら捨てられ、ゴミとして割られて処分されたりして、もう「湯飲み」ではなくなってしまう。

 そういうふうに、関係の中で出来、関係の中で壊れていく、つまり無常であるということを考えると、それ自体で存在でき、それ自体の変わらない本性を持っていて、そしていつまでも存在できるという、実体としての本性を持っていない。その実体ではない・「非実体」ということが空なのであるが、空三昧とはその空ということをとことん洞察をしていくという瞑想である。

 空を洞察するという場合、まだ「洞察する」「考える」ということが残っているが、さらに、「これは空なのだから、私たちが見ている姿というのは、実体的な姿ではないのだ」ということ、すなわち「無相」ということについて、次のように語られている。

 諸法の相を壊(え)し、憶せず、念ぜざるに名く、

 「この見えている形、これは本質的な実体の形ではないのだ」と言って否定してしまうだけでなく、形としてそのことを憶えておいたり、それに今気づいているということをもやめてしまって、すべての形を離れていくという瞑想をする。これが「無相三昧」である。

 それから、空ということを洞察し、そしてその洞察も離れて形を見るということをすべてやめてしまうという瞑想に深まると、今度はいろいろなものに対して「あれが欲しい」とか「これが欲しい」と何かを求める・願望するということがなくなる。ものを特定の相・すがたで見るから欲しくなるわけで、相が消えてしまうとそれに対する願望がまったくなくなってしまう。それが「無作」である。「無願」と訳されることもある。

 そのように大乗では、空・無相・無作というところに瞑想が深まっていくとされている。
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『サングラハ』第191号 目次

2023年10月29日 | 広報
 『サングラハ』第191号が出ています。目次は以下のとおりです。お問い合わせは研究所のお問合せフォームへ。


 目 次
■ 巻頭言……………………………………………………………………………… 2
■『正法眼蔵』「有時」巻講義(3) …………………………………岡野守也… 3
■「私がここにいるわけ」――高校生に語るコスモロジー(5) …高世仁…… 14
■ 仏弟子たちのことば(21) …………………………………………羽矢辰夫… 22
■グローバルな問題を解決するために人々が持つべき内面について
――いくつかの提案を四象限コスモロジーで評価する(6) ……増田満…… 24
■ 私のサングラハでの学び(1) ……………………………………毛利慧…… 34
■ サングラハと私(6) ………………………………………………三谷真介… 35
■ 講座・研究所案内…………………………………………………………………43
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11月からの講座案内:コスモス・セラピー+α

2023年10月14日 | 広報

 現代科学の世界観(コスモロジー)と心理学と仏教のエッセンスを統合したサングラハでしか学べない「コスモス・セラピー」(旧称、現在は「コスモロジーセラピー」)を、アドラー心理学やフランクルのロゴセラピー、さらに大乗仏教の深層心理学・唯識などとあわせてYoutubeで視聴で学んでいただけます。
 講座日に受講者がいっしょに学べるほか、YoutubeのURLをメールでお送りしますので、自分で好きな時間に視聴することもできます。
 全6回の講義を前期3回(11月、12月、来年1月)、後期3回(2月、3月、4月)の2期に分けてご提供します。
 (*なお講座の名称について、現在では「コスモロジー・セラピー」と呼んでいますが、当時のまま「コスモス・セラピー」にしていますので、ご了承ください。)

  【日曜講座】 コスモス・セラピー+α(前期)

 講師:研究所主幹 岡野守也
 テキスト:データ送信
 時間:13時半~17時
 受講料:前期3回分
 一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円、学生割引参加費=3千円

 講座日:11月26日、12月17日、2024年1月21日。講座日から1カ月程度Youtubeにて視聴可能

 講座内容:前期3回

 第1回 11月26日(日曜)=2014 年1 月19 日収録/3 時間42 分
資料:「生きる自信の心理学の要点」、「生きているだけでも大変な奇跡」

 第2回 12月17日(日曜)=2014 年2 月16 日収録/3 時間20 分
資料:「詩“最初の質問”」、「ニヒリズムの定義」、「現代科学のコスモロジー:ポイント
の整理表と小解説」

 第3回 2024年1月21日(日曜)=2014 年3 月23 日収録/3 時間00 分
資料:なし

 なお、後期は来年2月以降に予定しており、年が明けてからご案内しますが、内容は以下のとおりです。

 第4回 2014 年5 月25 日収録/3 時間34 分
 資料:「アドラー心理学:ヒューマニズムとその限界」、「宇宙歴XIII」

 第5回 2014 年6 月22 日収録/3 時間29 分
 資料:「ロゴセラピーからコスモス・セラピーへ」

 第6回 2014 年7 月27 日収録/3 時間27 分
 資料:「生きる自信の心理学の要点」

 講座へのご参加やご相談、お問い合わせは研究所の問合せフォームからどうぞ。


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