「四智を成就せる菩薩は、」の四智について考えているところですが、今日は第三番目の「自ら無倒(ムトウ)になるべきとする智」について考えます。
「謂く愚夫の智若し実境を得るものならば、、彼は自然に無顚倒に成りなんぬ。功用(クユウ)に由らずして解脱を得べし。」(『論』第七・二十左)
(つまり、もし凡夫の智慧が、本当に対象世界を観察することができるものならば、凡夫はそのまま、対象世界を正しく見ていることになるであろう。それならば、修行に由らずして解脱を得ることになる。)
迷妄と解脱は別々の物柄ではないんですね。解脱はどこまでいっても、迷いの世界には真実はないという頷きでしょう。「煩悩具足の凡夫」の自覚ですね。煩悩具足の凡夫の自覚が「念仏のみぞまことにておわします」と頭が下がっていくのでしょうね。
このこと一つに出遇う為の方便であったと、出遇うてみれば、すべては有難いご縁であったと頷きを得ることができるのですね。諸仏如来が様々な姿をもって目覚めを待っておられるのでしょう。
それは地球の裏側の出来事も、家の前を行きかわれる人々も、私と繋がっているという目覚めなんですね。
凡夫の智慧とありますが、凡夫は凡夫として見出された存在なんです。厳密には凡夫の智慧はありません。あるとすれば、無自覚な顚倒の知恵でしょうね。この場合の知は痴ですね。
「顚倒の善果よく梵行を壊す」と教えられていますが、私たちは、「物事を正しく理解し」、「自分は間違っていない」と思っています。だから他を切って捨てることが出来るのです。これはね、自分の立場は解脱そのものなんでしょうね。仮に解脱としましょう。そうすればこれが批判されるのです。「二乗地に堕するを菩薩の死と名づく」と。この二乗地は自他分別の思い込みの世界なんでしょう。
凡夫はすべてが逆さまの世界を往来している存在の自覚です。逆さまとは、自尊損他という立場ですね。自分は主・他は従。主従の関係を独善をもって生きている存在であり、そこに何等疑いを差し挟まないのが凡夫ですね。無自覚は「実境を得ているもの」ということになります。つまりね、迷っておらんのです。他は迷っている、しかし、自分は迷っておらん。だからむやみに他を批判することが出来るのでしょうね。
「四の煩悩と常に倶なり」という深い眼差しが、我見しかない人生を限りなく豊かに切り拓いていくのであろうと思います。
本科段はこのことの反対を言っているのですね。問題は「功用(クユウ)に由らずして解脱を得べし」ということだと思います。真宗でいいますと、功用は聞法です。聞法に由らずして解脱を得る、このことの意味は、依り所は自分、つまり身見(我見)が正しく対象世界を見ることが出来るならば、そのまんま無顚倒であるということです。この無顚倒を私が生きているんです。我見を依り所にすると、こういう問題があるということを指摘しているのでしょうね。
有為有漏の世界で、有漏を尽くしても解脱には至らない。
無為の呼び声を聞いて、有為無漏の世界を浮き草のように漂溺しながら、流れに逆らわず横に四流を断ずることが出来得るのでしょう。
無為、真如が凡夫に行き届いた相が信心ですね。信心が因となり、摂取不捨が縁となって、因縁和合して正定聚不退転の位に住することになるのでしょう。これは現生においてですね。
種子生現行の種子が本有種子(信心)として現行し(転依が語られます)、本有種子が現行熏種子(摂取不捨)として、現行は即得往生となり、後念即生の身を生きることになるのでしょう。
迷いの人生はこのような課題を与えられて、応答せよという催促の中に、意味があって迷っていることになるのでしょう。