唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (32)九難義 (12) 唯識所因 (11)

2016-06-15 22:47:12 | 『成唯識論』に学ぶ
    

 「四智を成就せる菩薩は、」の四智について考えているところですが、今日は第三番目の「自ら無倒(ムトウ)になるべきとする智」について考えます。
 「謂く愚夫の智若し実境を得るものならば、、彼は自然に無顚倒に成りなんぬ。功用(クユウ)に由らずして解脱を得べし。」(『論』第七・二十左)
 (つまり、もし凡夫の智慧が、本当に対象世界を観察することができるものならば、凡夫はそのまま、対象世界を正しく見ていることになるであろう。それならば、修行に由らずして解脱を得ることになる。)
 迷妄と解脱は別々の物柄ではないんですね。解脱はどこまでいっても、迷いの世界には真実はないという頷きでしょう。「煩悩具足の凡夫」の自覚ですね。煩悩具足の凡夫の自覚が「念仏のみぞまことにておわします」と頭が下がっていくのでしょうね。
 このこと一つに出遇う為の方便であったと、出遇うてみれば、すべては有難いご縁であったと頷きを得ることができるのですね。諸仏如来が様々な姿をもって目覚めを待っておられるのでしょう。
 それは地球の裏側の出来事も、家の前を行きかわれる人々も、私と繋がっているという目覚めなんですね。
 凡夫の智慧とありますが、凡夫は凡夫として見出された存在なんです。厳密には凡夫の智慧はありません。あるとすれば、無自覚な顚倒の知恵でしょうね。この場合の知は痴ですね。
 「顚倒の善果よく梵行を壊す」と教えられていますが、私たちは、「物事を正しく理解し」、「自分は間違っていない」と思っています。だから他を切って捨てることが出来るのです。これはね、自分の立場は解脱そのものなんでしょうね。仮に解脱としましょう。そうすればこれが批判されるのです。「二乗地に堕するを菩薩の死と名づく」と。この二乗地は自他分別の思い込みの世界なんでしょう。
 凡夫はすべてが逆さまの世界を往来している存在の自覚です。逆さまとは、自尊損他という立場ですね。自分は主・他は従。主従の関係を独善をもって生きている存在であり、そこに何等疑いを差し挟まないのが凡夫ですね。無自覚は「実境を得ているもの」ということになります。つまりね、迷っておらんのです。他は迷っている、しかし、自分は迷っておらん。だからむやみに他を批判することが出来るのでしょうね。
 「四の煩悩と常に倶なり」という深い眼差しが、我見しかない人生を限りなく豊かに切り拓いていくのであろうと思います。
 本科段はこのことの反対を言っているのですね。問題は「功用(クユウ)に由らずして解脱を得べし」ということだと思います。真宗でいいますと、功用は聞法です。聞法に由らずして解脱を得る、このことの意味は、依り所は自分、つまり身見(我見)が正しく対象世界を見ることが出来るならば、そのまんま無顚倒であるということです。この無顚倒を私が生きているんです。我見を依り所にすると、こういう問題があるということを指摘しているのでしょうね。
 有為有漏の世界で、有漏を尽くしても解脱には至らない。
 無為の呼び声を聞いて、有為無漏の世界を浮き草のように漂溺しながら、流れに逆らわず横に四流を断ずることが出来得るのでしょう。
 無為、真如が凡夫に行き届いた相が信心ですね。信心が因となり、摂取不捨が縁となって、因縁和合して正定聚不退転の位に住することになるのでしょう。これは現生においてですね。
 種子生現行の種子が本有種子(信心)として現行し(転依が語られます)、本有種子が現行熏種子(摂取不捨)として、現行は即得往生となり、後念即生の身を生きることになるのでしょう。
 迷いの人生はこのような課題を与えられて、応答せよという催促の中に、意味があって迷っていることになるのでしょう。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (31)九難義 (11) 唯識所因 (10)

2016-06-13 21:40:53 | 『成唯識論』に学ぶ

 「良に知りぬ。徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁、和合すべしといえども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。」(「行文類」真聖p190)
 「真実浄信心は、内因なり。摂取不捨は、外縁なり。」(『愚禿鈔』真聖p430)
 「既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と爲し、父母の血を以て外縁と爲す。因縁和合するが故に此の身有り。斯の義を以ての故に、父母の恩重し。」(『観経四帖疏 序分義』聖全p490)

 私という存在は、ご縁の世界に生かされているのですね。ご縁は、自分の都合に依ると云うわけにはいきません。「一切」・「唯」は並ぶことが無い、比較することのない現在の在り方を既定するものではありませんか。
 自分の都合を超えて、ご縁の世界を生きているわけですが、内因である自分が外縁を選ぼうとするわけです。これが我見(身見)と云われている本質になると思います。
 ご縁に遇うて、さまざまな心の模様がでてくるのですね。貪りの心、怒りの心、妬みの心等と通して、自己顕示欲が露呈されてくるのです。この自己顕示欲が愚痴の正体なのでしょう。
 ここで、三宝と三法印が智慧の光として我が身を照らし出してくるのだと思います。
 無我であり、無常のいのちを与えられて、仏・法・僧伽に帰依する中に、自己に背くものとして、ご縁の世界は己を照らし出してきます。ご縁の世界は、本来の自己に帰れという催促ではないでしょうか。
 
 大阪教区銀杏通信より
 選ばず 嫌わず 見捨てず ~ 竹中智秀 ~ 

 私たちはこの言葉とは反対に、自分の都合で縁あるものを選び取り、嫌って見捨ててしまう心を持って生きている。人間は本来、多くのご縁を持った存在であり、関係性の中で生きていくものである。無縁社会という言葉が現代を象徴しているが、そもそもは自ら縁を絶ち殻に閉じこもって、自分の力だけを頼りにして生きようとしているのではないか。
 しかし阿弥陀様は、そんな私たちの生き方に対しても、決して選んだり嫌ったり見捨てたりしない「摂取不捨」のお心で私たちに寄り添ってくださっている。その本願のはたらきに出遇い、自らの在り方を見つめ直す時、縁によって支え合い、生かされている我が身の姿が見えてくるのである。

 本当は、自分にとって都合の悪い者、或は事が、一番自分を知らしてくれるご縁なんですね。「ただ識のみあり」という、自分が作り出した世界を、自分が拒否している。そんな自分に出遇えるわけです。出遇えた私が、南無阿弥陀仏ですね。汝と呼ばれている己に出遇えるわけですからね。
 死ぬまで我執しかないんです。我執しかないんですが、我執で生きたら駄目なんです。我執に頭が下がる、それがご縁の世界でしょう。
 「よくぞ、頭が下がらない自分に気づかせてくださった」と都合の悪いことに対して掌が合わさるのではないでしょうかね。我執の矢が折れるんですね。ここが現生正定聚といわれる位ではないでしょうか。
 「現生正定聚 住不退転」と教えられますが、三毒の根本煩悩と倶にあるものでしょう。貪り、瞋り、妬み、嫉みの心をご縁として転じて行くことが出来る境界なんではないですか。
 そして、貪り、瞋り、妬み、嫉みの心は外からの影響ではないということです。我が心の影像です。染汚心の影が貪・瞋・痴として具体性をもつのですね。そして、具体性をもった貪・瞋・痴が真理の世界、つまり縁起の世界に目覚ましてくれるのですね。
 無慚無愧の我が身に出遇っていけるのですね。まさしく逆縁教興です。
 ほんまにね、順縁・順境ですと増上慢になります。天狗の鼻がへし折られて、初めて気づいていくことが出来る。天狗の鼻をへし折ったのが、はからずも、です。如来なんですね。自然法爾に働いているんですね。
 如来は遍智(遍く智慧が行き渡っている)だと教えられていました。それが自分の心に応じて姿を変えて現れてくるのでしょう。客観(相分)は如実(ありのまま)なんですが、そこに主観(見分)の色を付けて固定化してくるのですね。このような構造を知らしめられるのは、教法に出遇っているからなんです。如来の働きです。
 自己を超えて自己に働きかけている、阿頼耶識、深きいのちの躍動ですね。如来が阿頼耶識となって自己と倶に歩んでいる、そんな気がしてなりません。
 だいぶ横道にはずれました、軌道修正です。回り道も楽しいものです、おやすみなさい。
  

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (30)九難義 (10) 唯識所因 (9)

2016-06-12 00:03:40 | 『成唯識論』に学ぶ
   真宗と唯識について、曽我教学の意味するところ、鍵主先生の意欲的論考です。是非読んでいただきたいと思います。
 
 僕は、阿頼耶識が種子生現行・現行熏種子という三法展転因果同時の教説は、従果向因の菩薩にとって衆生の在り方をそのまま無記性として受け止め、無記として転依を待つ存在ではないのかなと思っています。如来にとって、一類に相続されている因は善悪、果は無記と云われていることは、善悪を超えて、善を因とし、悪を因として、そこに翻る世界があることを教示しているのではないのかな、と。つまり、因である善悪の依り所は貪愛なんですね。善悪は対立概念ではなく、貪愛を体として具体的に表れてきた己自身に対する執着でしょうね。執着したことを批判することなく、執着が貴方の本質だと、私の本質を見抜いて、現行する時に善悪を縁(善悪を諸条件)として転依の世界を開示してある。そこが浄土なんでしょう。
 親鸞聖人は、往相回向を語られる時、「長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術」と表現されています。このことの持っている意味は、おそらく浄を欣い、穢を厭離せよというのは衆生からは出て来ない願いだと気づかれていたのではないでしょうか。
 衆生から出てくることは、穢土に執着しながら浄土を欲するという矛盾の中で生きている存在であり、無我に執着を起こし、無常に執着を起して、常一の存在だと錯誤した在り方。このような在り方が苦悩を招来し、惑・業・苦の流転を余儀なくし、生死に沈輪させてくる、すべては自分の心が作り出した世界であるにもかかわらず、問題は外からやってくると思って譲らない。この錯誤が己という人格を形成してくるんですね。己は己自身が作り上げた作品であるという阿頼耶識の問いかけは、非常に厳しいものがあります。
 問題は、「こうでなければならない」という妄想に執着を起こしている己自身なのでしょう。


 今日は、第二の智についてです。
 「二には、無を所縁とする識をする智。謂く過・未と夢境と像等との実有に非ざる境を縁ずるときに、識は現に可得なり。彼の境は既に無なり。余も爾るべし。」(『論』第七・二十左)
 二つ目に説かれる智は、無を所縁として識は起こってくるということを知る智慧です。
 過去はすでに去り、未来は未だ来たらず、夢の中の出来事や鏡に映った像等は虚像でり、実有ではないわけです。しかし、私たちは過去も未来も夢も像等も実有ではないけれども、それを対象として識を起してきます。識が対象として捉えているわけです。
 「過・未と夢境と像等」を捉える心が働いているのですね。それは実有でなくても、実有と同じような働きをします。例えば、夢の中でうなされたり、夢精ということも起こってくるわけです。過・未無体といってもですね、「あの時は」ということや、宝くじかな、当たってもいないのに妄想しますわ。すべては「実有に非ざる境」ですが、実有と同じような動きをして実有と錯覚するわけです。
 本来は無境です。無境ですが、心が境を作り出しているという問題なのです。
 空耳も、幻覚も本人にとっては実有なんですね。他人にとっては無です。当人にとっては実有であることになります。何故このようなことが起こってくるのかを問題にしているのが、この二番目の智になるわけです。境は無くても境を作り出す心が有る、と。すべては我が心の反映したものであると知り得る智慧が、唯識無境を証明しているわけですね。
 

 『述記』の釈は後日にします。

初能変、因果法喩門のテキストと現代語訳

2016-06-11 00:22:11 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 「阿頼耶識爲斷爲常。非斷非常以恒轉故。恒謂此識無始時來一類相續常無間斷。是界趣生施設本故。性堅持種令不失故。轉謂此識無始時來念念生滅前後變異。因滅果生非常一故。可爲轉識熏成種故。恒言遮斷轉表非常。猶如瀑流因果法爾。如瀑流水非斷非常相續長時有所漂溺。此識亦爾。從無始來生滅相續非常非斷。漂溺有情令不出離。又如瀑流雖風等撃起諸波浪而流不斷。此識亦爾。雖遇衆縁起眼識等而恒相續。又如瀑流漂水下上魚草等物隨流不捨此識亦爾。與内習氣外觸等法恒相隨轉。如是法喩意顯此識無始因果非斷常義。謂此識性無始時來刹那刹那果生因滅。果生故非斷。因滅故非常。非斷非常是縁起理。故説此識恒轉如流。」(『成唯識論』「巻第三・七左。大正31・12c)
 現代語訳
 「問い。 阿頼耶識は断滅することがあるのか、それとも常一不変のものなのか。
 答え。断でもなく、常でもない、その理由は、恒転する性質のものだからである。
 「恒」とは、つまり、この第八阿頼耶識は無始の時よりこのかた今日に至る迄、一類に(変化することなく)相続して、常に間断することがない。これは三界・五趣・四生と分かれる根本である。
 そしてまた、性質は堅密で種子を持して消失することがないからである。
 「転」とは、この第八阿頼耶識は無始の時より今に至る迄念々に生滅をする、相前後し、刹那生滅を繰返しているのである。因が滅すると果が生じ、果が滅すると因が生じて、常・一・主宰ではない。
 このような性質だから、七転識の熏習する種子を受熏し貯蔵しておくことができるのである。
 「恒」という言葉の持つ意味は、断絶をするという性質を遮るために云うのである。
 「転」という言葉の持つ意味は、常住不変のものではないという性質を表すのである。
 それは恰も、暴流のようなものである。つまり、因と果とが自然に織りなす世界であり、因は果、果は因となって暴流の水が非断非常に連続し相続しているように、阿頼耶識は、長時(いつまでも)に漂っている草木や流れの速さを知らない魚をも包み込んでいるように、無始の時より今に至る迄生滅し相続して、非常非断であって、有情を漂溺(漂ったり、沈んだりを繰返しながら)して解脱という出離に向かわしめないのである。
 又、暴流が風雨等にたたかれて様々な波浪を起しても、しかもながれが絶えることことがないように、この阿頼耶識もまた、同じような性質を備えているのである。
 様々なご縁に触れて、阿頼耶識を依り所をしながら七転識を起こすことが有っても、阿頼耶識は恒に相続するのである。
 又、漂溺の喩のように、水の上に草木を漂わせ、水の中に魚を泳がせていていても、流れそのものの性質は変わらないのと同じように、この阿頼耶識も同じように、内には習気を蓄え、外に対しては触等の五遍行に従って恒に転変していくのである。
 このように、法とその喩とは、意はこの阿頼耶識が無始より今に至る迄相続して、因と果とが、断滅するのでもなく、また常でもないということを顕しているんおである。
 つまり、この第八阿頼耶識は無始よりこのかた刹那刹那に生滅を繰り返し、果が生ずる時には、因は滅するということが説かれてきたのである。
 果が生じるという点から、阿頼耶識は断絶ではないのである。因が滅するという点から云えば、常住ではない。
 断絶でもなく、常住でもないというのは、真理は縁にに依って生起するのである。
 以上のような点から、阿頼耶識は、「恒に転ずること流れの如し」と云われるのである。
 このような道理を、「恒に転ずること流れの如し」というのである。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (29)九難義 (9) 唯識所因 (8)

2016-06-07 22:44:55 | 『成唯識論』に学ぶ
   昨日は菊池光高師の誕生日でありました。遅々伺いまして時を忘れて仏法談議に花が咲きました。その折『大地』19896年版をお借りしました。有る一言に、グサッと刺さりました。「生死甚難厭」という「この世をいやだということを本当にはいえないのだ。・・・本当にこの世がいやならば、生死を徹底的に厭うだろうけれど、厭やせん」。ほんまにね、この世も捨てたものではないとふんぞり返っています。仏法を聞いておると思っていますが、何を聞いているのかわかりませんね。「浄土がはっきりしなかったら、我々の生きておる穢土もはっきりせん。」と。厳しいお言葉です。
 これはね、阿頼耶識がはっきりしていないんですね。「無始時来界」生死に沈んでいるという自覚がありませんからね。本当は、自覚が阿頼耶識の無覆無記性なんだと思います。自覚においてのみ歩みが有るわけですからね。無自覚には歩みがありません。留まっている、留まっていると退化します。阿頼耶識は「恒転如暴流」、激しい流れのような刹那の動きをしているのですから、阿頼耶識がはっきりしますと、有為という生死流転の身がはっきりするわけですね。しかし、ここがはっきりしません。はっきりしておらんところにグサッときました。一切唯識がはっきりしておらんのですね。


 「無始時来界」、流転の歴史の積み重ねが阿頼耶識の中に熏習しているわけです。熏習されている種子が現行を生み、現行が私の世界を構築しているんでしょう。人人唯識なんです。現行熏種子ですから、過去の積み重ねは変えることは出来ません、異熟ですからね。異熟には真異熟と、もう一つ、異熟因果、現行がものの見方、考え方を変化させるという大きな意味を持っていることです。一処四見の喩は、自分の心の現われたものであることを教えています。私たちは何処まで行っても有為の在り方なんですが、有為でありながら有漏の在り方しかできないのか、有為の中で無漏に触れていくことが出来るのかですね。
 それは、有為無漏がはっきりしないと、有為有漏もはっきりせんということなんですね。
 何で迷っているのか、はっきりせんということでしょうし、まあ、居酒屋で飲んだくれている間は仏法わからんということでしょうね。
 「一つは相違識の相をする智」をおわっておきます。

 次は第二です。「二には無を所縁とする識をする智」について述べられます。
 明後日は八尾市本町聞成坊様で唯識の講義です。土曜日は姫路船場別院本徳寺で真宗カウンセリングの講義があります。講師は梶原敬一師です。今回は「真宗と唯識」という視点からカウンセリングについて教えをこいます。また日曜日は旭区千林の正厳寺様で唯識の講義です。皆さまお誘いあわせの上ご聴聞ください。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (28)九難義 (8) 唯識所因 (7)

2016-06-05 10:32:34 | 『成唯識論』に学ぶ
   浄土宗洗心寺様掲示板より

 唯識所因難・六教証の中の『阿毘達磨経』に説かれる四智について。
 (一) 相違識相智
 「一つは相違識の相をする智」について述べられます。
 「(無性摂論第四)に云く、更に相い違返す、故に相違と名く。相違するは即ち境なり。各別あるが故に。」(『述記』第七末・十一右)
相違は、私とあなたの意見が相違するという、相反する見方・見解になりますね。思い出すのですが、高校時代に担任とぶつかって、こちらの主張を云い張っていたんですが、担任は、見解の相違ということで幕を引いてしまいました。その時はそれでよかったんですが、今になって思うことは、お互いの見解の依り所はどこにあったのかな、ということなんです。
 ある事柄について、先生の見方と、私の見方が異なっていた。同じ環境にあって、認識する心が違ったわけです。浄土真宗と聞いて、大乗の至極と受け止める人もおいででしょうが、念仏無間として念仏は謗法であると破折されるかたもおいででしょう。八万四千の法門を対象として捉えたら、百人百色で、それぞれの識が対象を色づけしていくわけですね。私たちは、このことに対して無知なんです。
 浄土真宗の教えに触れていてもです。浄土真宗を対象化して、私と真宗という構図ですと、外道と何等変わりはないわけです。そうではなく、私は私の見方、聞き方でしか対象を捉えることしかできないんですという、自分自身の認識の有りようの頷きが智慧に転じていくんだと教えているのが、「相違識の相をする智」ではないかなと思います。相手を認める智慧ですね。
 直接的に解釈しますと、相違識は、何が相違するのかと云いますと、違った心が違った相を浮かべる智になります。相は相分ですから対象(境)です。「相違するは即ち境なり」そして「相違者の識を相違識という」んだと慈恩大師は教えておられます。
 根と境に依って識が生ずるというのは大・小乗共許の教えですが、「相とは境の体相、相状なり。l境に依って識の生ずる故に、識を生ずる因という。」と『唯識義章』(三本・三右)は『述記』『の釈を補足されています。
 『述記』には、「この識を生ずる因を説いて名けて相と為す。菩薩の智は、この相がただ内心のみなり、故に一切法もまた唯心の変なりと了知す。」と簡潔です。
 そして具体的な喩が出されます。
 「鬼等は膿河、魚等は宅路、天は宝の厳池、人は清冷の水、空無辺処は唯空なり。一の実物が互相に違返するに非ざるべし。・・・各変ずること不同なり。・・・一境は四心なるべしと云う。いま境という、定めて一に非ざるが故に、一処と云うべし。天人等の解が成ずること瑠璃・水等に差えるを以て、唯有識と証知するなり。」(『述記』第七末・十一左)
 一処四見の喩になりますが、
 此処に水(水という実体はありませんが、人から見れば水とします。)があります。私たちは飲料水(清涼水)と思っていますが、五趣の在り方によって、主体の相違によって見方が違ってきます。先ず餓鬼が出されています。餓鬼にとっては、どろどろとした膿の河に見えるのですね。魚にとっては住居空間と見えるわけです。人にとっては清らかな水、命を養う源泉になっているわけです。天人がみると瑠璃のような宝石でちりばめられた空間に見えるわけでしょう。
 対象は一つですが、それぞれの立場によって見方が変わってくることを喩をもって教えているのですね。すべては、見る側の知覚によって、その対象が変わっていくと云う極端な例を引きて、ただ心のみの世界を生きているんだと教えているように思います。
 つづく

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (27)九難義 (7) 唯識所因 (6)

2016-06-03 22:56:01 | 『成唯識論』に学ぶ
   浄土宗洗心寺様掲示板より

 番目が『大乗阿毘達磨経』が教証として、『無垢称経』のまとめとして引用されてきます。随分長い文章になります。
 「又説かく、四智を成就せる菩薩は、能く随って唯識無境に悟入す。」(『論』第七・二十左)
 (四智を成就する菩薩は、十地が深くなって「ただ識のみあって境は無し」という、唯識無境に悟入していくのである。)
 「述して曰く。文に三有り。初は総じて挙げる、次に別して顕す。後はこれを結す。此は初なり。若し四智を成じて能く唯識に入る。現に十地に在り。「随悟入」とは、即ち是れ地前なり。或は、経の義に随って十地に入る。四智を説く処を四智経と名く。然るに是れは阿毘達磨経なり。摂論には、但だ世尊の言と言って経の処をば出さず。」(『述記』第七末・十左)
 「「又説成就四智菩薩」とは修因に依って以て唯識を明せり。」(『樞要』巻下・十二左)
 四智とは?
 (1) 相違識相智(相違識の相をする智)
      相違者の識所変(相分)の境相を観ずるの智。例えば「一水四見」という教説です。
 (2) 無所縁識智(無を所縁とする識をする智)
      無を所縁として、これによって生ずる所の識を観ずるの智。過去・未来・夢境・鏡の中に写った虚像を所縁として生ずる所の        心の問題。
 (3) 自応無倒智(自ら無倒になるべきとする智)
      凡夫の知恵が、心外に実有(実際に存在する)の境(対象)を見えることができるなら、凡夫はそのまま、ものを正しく見ていると      いうことになり、何の修行もすることなく解脱を得るということになる。
 (4) 随三智転智(三の智に随って転ずるの智)
      三の智(随自在者智・随観察者智・随無分別智転智)に随って境相が転ぜられると観ずるの智。
      つまり、三の智に随って境相が転ぜられるから唯識無境と観ずることができるという智慧になります。逆に云うと、三の智を証得      しなかったならば転依はないということになります。
 次回より詳細を尋ねたいと思います。
 六番目の教証は『厚厳経』になります。
 「心と意と識との所縁は皆自性を離るるに非ず、故に我は一切唯識のみ有って余無しと説く。」
 以上が六教証になります。そして四つの理証が挙げられます。四比量証ですね。

 余談になりますが、能をこよなく愛する友人から「話は変わるんですが、一日に京都薪能に行ってきたのですが、舞台中に笛方の人が倒れ、そのまま帰らぬ人になられました。・・・」という話をいただきました。この友人は命を懸けた舞台を目の当たりにされたのです。大変ショックだったと思います。楽しいはずの舞台が、息もできない緊張感の中で「いろはにおえとちりぬるをわかよたれぞつねならん」、まさしく「明日に紅顔あって夕べには白骨と為れる身」を演じられたのですからね。このようなご縁に遭遇されたのには様々な条件が重なって、「貴方は貴方のいのちをどのように完全燃焼されておられるのですか。」と。死を通しての命の尊厳性を身を持って教えられたのでありましょう。舞台で死したら本望だといわれますが、一期一会の舞台で完全燃焼されたのでしょう。有難いご縁をいただかれたと思います。

 私にとって、「死」はいつでも他人事です。死ぬとは思っておりません。でも本当は「私の死」なんですね。「死して悔いの無い生き方をしているのか」、甚だ疑問です。言えることは、投げやりな生き方はしていると思います。これでよかったという生き方はしていません、私はですよ。
 私は、私の人生の舞台で、「分別に死する」ことが出来るのか。若し分別しかないとすれば、分別は何を意味するのか、大きな課題が与えられているように思います。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (26)九難義 (6) 唯識所因 (5)

2016-06-02 22:52:49 | 『成唯識論』に学ぶ
 

 「法は有ならずまた無ならず。因縁を以ての故に諸法生ず。」(『維摩経』)
 「因縁より生ずるの法は自性無し。自性無きが故に即ちこれ畢竟空なり。この畢竟空は本より空なり。仏のなし給うにも非ず。また余人のなせるにもあらず。」(『大智度論』)
 「一切の衆生妄心あるを以て、念々分別すれども皆相応せざるが故に、説いて空となすのみ。もし妄心を離れなば実に空ず可きもの無し。」(『大乗起信論』)

 『維摩経』に見える文殊菩薩と維摩居士の問答
 空とは何か?について両聖の対話がありますが、その前に維摩居士の病気見舞いにお釈迦様が文殊菩薩をおつかわしになられたエピソードが語られます。
 
  OTANI教員エッセイ。きょうのことば2005年12月より転載引用
 「「衆生病めば則ち菩薩も病み、衆生の病い愈ゆれば菩薩もまた愈ゆ」
『維摩経(ゆいまきょう)』「文殊師利問疾品(もんじゅしりもんしつほん)」(『大正大蔵経』第14巻 P.544)
 ここに挙げたのは『維摩経』の「問疾品」(病気見舞いの章)の文です。『維摩経』の主人公維摩は、古代インドの商業都市ヴァイシャーリーで活躍した大富豪で、大乗仏教の理想的人間像である「菩薩」のモデルとして描かれています。
 『維摩経』は意外にも「病気」という題材をとおして大乗仏教の根本課題を明らかにしています。維摩はあるとき、大乗の教えを広める実によい方法を考えつきました。それは、彼自身が病気になるというものでした。つまり、維摩は、病気見舞いにくるであろう多くの人々と「病気」について語り合い、それを通して彼らを大乗の教えに導こうと考えたのです。上に挙げた文は、見舞いに訪れた文殊とのあいだでかわされた言葉です。維摩の病気はいつまで続くのか、いつになったら治るのかと文殊が質問します。それにたいして、維摩は衆生が病気になるから、菩薩(私)も病気になります。衆生の病気が治るときに、はじめて菩薩の病気も治るのです。と答えました。衆生の病気が続くかぎり菩薩の病気も限りなく続くのだ、というのです。
 ここにいう「衆生の病気」とは、愚かさや執(とら)われから生じる衆生の迷い・苦しみのことです。一方「菩薩の病気」とは、その衆生をどうにかして苦しみから救い出そうと願い、思い煩い、心をくだき、懸命に奮闘する菩薩のありかたをいいます。『維摩経』では、そのような菩薩と衆生の関係を、親と子の関係になぞらえて説明しています。すなわち、最愛の子どもが病気になったら、親も心痛のあまり病気になってしまうが、その子が回復すれば、親の病気も治る。衆生にたいする菩薩の愛情の深さは、子どもにたいする親の愛情の深さにも等しい、と説かれます。
 親と子は互いに異なった存在ではありながらも、不可分な関係にあります。同じように、菩薩にとってあらゆる衆生は、同じいのちでつながる存在であり、衆生の痛みがそのまま菩薩の痛みでもある、というのです。維摩の言葉には、他者の痛みに深く共感し「共に生きる」世界の方向性が端的に示されています。」

 これに引き続いて「空」についての対話が開かれています。
 原文は以下の通りです。
 「文殊師利言。居士。此室何以空無侍者。維摩詰言。諸佛國土亦復皆空。又問。以何爲空。答曰。以空空。又問。空何用空。答曰。以無分別空故空。又問。空可分別耶。答曰。分別亦空。又 問。空當於何求。答曰。當於六十二見中求。又問。六十二見當於何求。答曰。當於諸佛解脱中求。又問。諸佛解脱當於何求。答曰。當於一切衆生心行中求。」(『維摩詰所説經 』 鳩摩羅什譯より

 概説
 文殊菩薩 「居士、この部屋は何故空っぽで、誰も侍者がいないのですか?」
 維摩居士 「諸仏国土もまたすべて空です。」
 文殊菩薩 「何を以てすべてが空といえるのですか?」
 維摩居士 「空を以て空なのです。」
 文殊菩薩 「空は空だと言われるが、空はどうして空なのでしょうか?」
 維摩居士 「無分別空を以ての故に空なのです。」
 文殊菩薩 「空は分別できますか?」
 維摩居士 「分別することも、また空なのです。」
 文殊菩薩 「空は何によって求めることができるのでしょうか?」
 維摩居士 「六十二見という外道の見解の中に求めることができます。」
 文殊菩薩 「六十二見は何によって求めることができるのでしょうか?」
 維摩居士 「諸仏の解脱の中に求めることができるのです。」
 文殊菩薩 「諸仏の解脱は何によって求めることができるのでしょうか?」
 維摩居士 「一切衆生の心の行(動き)の中に求めるべきなのです。」

 「諸法は皆心に離れず」を見事に言いつくしています。すべては因縁生、縁起において在るということなのですが、縁起を固定化してしまう所に沈空の難が語られるのでしょう。固定化は妄想なのですが、妄想もまた縁起生であると教えているのです。限りなく、現実の妄想を縁(題材)として縁起の世界に目覚めよと教えているのではないでしょうか。
 先日FBに投稿しました妄想は、どこまでも自分が流転していると思い込んでいる妄想に気づきを得ない自分が居るということをはっきりさせたかったのです。流転の構造も縁起なんですね。所執の我によって引き起こされてくるところの惑・業・苦の連鎖という縁起なのでしょう。維摩居士は、ここにしか解脱の道はないと指摘されているのです。自分が迷っているのではなく、無我の道理に迷っているのですね。所執の我が御縁となって道をもとめる、それ以外に仏道はないといえるのでは、と思います。
 迷いや苦しみが大切な御縁なんですね。忌み嫌うものではないのです。迷いや苦しみを支えている大地が無量寿の世界、アーラヤ識の大パノラマであって、迷いや苦しみに寄り添いながら菩提を求めよという催促、信号を送り続けているのが同体の大悲である法蔵菩薩の願心であると思はざるを得ません。
 衆生の欲心か、菩薩の願心か、『維摩経』問疾品の問いかけには深い眼差しがあるように感じます。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (25)九難義 (5) 唯識所因 (4)

2016-06-01 23:34:14 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 唯識所因は、唯識の道理を成立するには如何なる教理によるのかという質問になります。それに答えて六教証・四比量証を挙げています。
 六教証の内で『華厳経』の「三界唯心」の意と、『解深密経』の「所縁は唯識の所現なり」の文を挙げてきました。
 第三番目の教証は『楞伽経』の「諸法は皆心を離れず」。すべては心を離れては存在しないことを証明しているわけです。
 第四番目の教証は『維摩経』の「有情は心に随って垢なり浄なり」。「心浄なるが故に、衆生は浄なり、心垢なるが故に、衆生は垢なりといえり。・・・色等に随って垢と浄ありと言わず。故にこれ唯心なり。」という意です。
 すべては自分のオリジナル化して対象をとらえているのですね。情報化社会と云われて、日常溢れんばかりの情報が飛び交っていますが、情報を無作為に受け取っていますでしょうか。否ですね。自分の中で整理をし判断して、私の意見として把握しているのではないでしょうか。
 「あなたはあなたの都合と言う判断で、見たり、聞いたりしているのではないですか」と仏から問われている、或は問題を投げかけられているのではないでしょうか。
 『述記』には「今の『無垢称経』第二なり。旧の維摩(巻第三)に云く、」として、『無垢称経』の一句を挙げています。有情の心に随って垢は汚れですね、煩悩のことです。「煩悩は自性として染汚なるが故に名けて垢と為す。」また「漏」ともいいますが、心によって垢・浄は定まるというのがこの一句になります。
 「色等に随って垢と浄ありと言わず」。色は総てのもの、諸法です。諸法は無我であり・色は即ち是れ空なり、なんですね。外に清らかなものとか、汚いものとは存在しないと教えているわけです。ここもですね、自分の都合によって清らかになったり、汚いものになったりしているのではないですか、と問われているのです。
 垢・浄は外界に存在するのではなく、我が心の内景であると一刀両断の元に、外界実在論を否定されます。
 『樞要』(巻下・十二左。慈恩大師撰)には「有情は心に随って垢浄なりとは、内の異熟に依って唯識を明すなり」と結ばれています。すべては種子生現行であることを明らかにしているのですね。
 第五番目の教証は『阿毘達磨経』ですが、これは次回にします。  (つづく)