唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 了別境識について

2010-04-05 00:01:38 | 心の構造について

 頌に日く。(第八頌)「次のは第三の能変なり。差別(しゃべつ)なること六種有り。境を了するを性とも相とも為す。善と不善と倶非となり」(『論』)

 唯識では心の領域を三のグループにわけて考えられています。心も心・意・識といい、第一能変を「心」・第二能変を「意」・第三能変を「識」と心がどのように働いているのかに応じてその名を体としているのです。「変」(パリナーマ)は変化するという意味ですが、何が変化するのでしょうか。『論』には「変とは謂く識体転じて二分に似る」といわれています。私たちは外界は存在していると認識していますが、実はそうではなかったということなのです。自己の全存在をあげて心の王と呼ばれる阿頼耶識が変化(識転変)したのです。外界に何かが存在するということは、それを認識する働きがあるということです。若し其の働きが無ければ認識は成り立たず外界も存在しないことになります。外界(境)を認識する働きを能縁といい、認識される境は所縁といいます。これは縁起の法である「空・無我」をいいあらわしているのです。能・所が実体としてあるものではなく、縁起されたものとして空・無我であるというのです。もう少し言いますと、心に離れて外界は存在しないということです。どうでしょうか、外界は私の心とは無関係に存在していると思っていませんか。存在論的にはあるのでしょう。しかし私が何故迷妄しているのかは認識に由るわけです。認識が成り立つということは偏に私自身の心の中の問題なのです。外界が実体として存在するということになれば私を迷妄させる原因は外界に有るということになり、外界を変化させることに由り心の平安を取り戻そうとします。それが誤りだというのです。それにより無始よりこのかた迷妄してきたのであると唯識の行者は言い切ります。『法相二巻抄』に「先ず一切の諸法は、皆心に離れず。心外に有りと思はば迷乱なり。此の迷乱に依る故に、無始より以来、生死に輪廻する身となれり。」と良遍は云います。「一切の諸法は、心に離れず」とは唯、識が変化したものであるということ、識所変と言い表されます。このことをふまえて表層の識をみていきます。『唯識三十頌』第八頌から第十六頌までの九頌を以って彰わし、七段九義門を以って解説しています。

  1. 能変差別門(此第三能変差別有六種)-(1)体別門
  2. 自性行相門(了境為)ー(2)自性門 (3)行相門
  3. 三性分別門(善不善倶非)-(4)三性門
  4. 相応受倶門 列六位名(此心所遍行別境善煩悩随煩悩不定ー(5)相応門 受倶分別(皆三受相応)-(6)受倶門 重明六位(心所段)
  5. 所依門(依止根本識)-(7)所依門
  6. 倶不倶転門(五識随縁現或倶或不倶如濤波依水)-(8)倶転門
  7. 起滅分位門(意識常現起除生無想天及無心二定睡眠與悶絶)-(9)起滅門

 「差別なること六種有り」、識体から六種の差別が有ることを明らかにしています。前五識と第六識(眼・耳・鼻・舌・身・意の六識)で初能変の阿頼耶識と第二能変の末那識の作用の上に働く識です。「眼に依って色を了別するなり」といわれますように、それぞれの識が対象を明瞭に認識する働きです。そしてこの六識は根本識である阿頼耶識に依止して働いているということを忘れてはなりません。すべての、そしてあらゆる経験の上に表層の六識が働いているのです。『瑜伽論』第一に「倶有と相応して一一に転ずと。又彼の一切は各々に自の種子より生ずと」云われています。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿