唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

法執について (4) 阿頼耶識の三相と三位

2013-09-15 00:17:21 | 心の構造について

 昨日の質疑応答の中で、阿頼耶識の三相と三位についての質問が出されました。

 第八阿頼耶識の三相と三位について、玄奘法師が『成唯識論』を編纂するにあたり第八識の三位によって三名を立てたといわれています。これは自己の問題を明らかにする為なのです。主体の問題ですね。

 略説では第八識を異熟といわれていますが、広説では三つに開いています。ここが大事ですね。自相・果相・因相で顕されています。働きの違いによって分類されているのですね。

 自相は阿頼耶識と呼ばれています。これも三つに開いて、能蔵・所蔵・執蔵といわれています。能蔵とは能く一切の種子を執持する、種子を納め維持するはたらきがあるということ。所蔵は前七識によって種子が薫習されるところということ。そして執蔵です。執蔵が大事ですね。第七末那識が能動的に第八識に働きかけ第八識に我の虚像を描くのです。執着されるわけです。これが迷いを生み出す根源になるのです。第八識は元を質せば縁に依って生じたもので無我なのですが、第七識に依って染汚されている限り阿頼耶識と呼ばれるのです。我執がどのように動いているのか、またどのように生まれてくるのかというエゴイズムの構造を明らかにしている、非常に厳密ですね。我愛に依って執着され蔵せられているわけです。その我愛が現行(現在している)している限り阿頼耶識と名づけられるといわれています。存在(主体)は縁に依って生じ、縁に依って滅するものですが、私たちはそのまま縁起を受け止めることは出来ません、自分に執着していますからね。本来性を喪失しているのです。そこに真実と虚妄の狭間において苦悩するわけです。真実は見えないですから、見える虚妄を解決しようともがくわけです。外に因を見出し、外を変えることに於いて自らを満たそうと思うわけですが、苦悩する因は自らの中にあることに気づかずにいますから苦悩を解決することは出来ません。これは惑・業・苦の循環で譬えられます。私は苦悩する人生は「法に目覚めよ」という催促だと思うのです。第八識の自相を阿頼耶識といわれることは第七識が能動的に第八識の見分に働きかけ、第八識が愛着処となって執着され、今の自分を形成しているということに於いて我愛執蔵現行位(があいしゅうぞうげんぎょうい)といわれるのです。

 私が「今現在」しているのは善悪業の結果なのですね。自覚としてです。自覚を外してしまいますと運命論になります。父母を縁として生まれ、そしていま現に生きているということは、過去を背負っている存在ということになります。これを第八識では果相といい、異熟果です。それを善悪業果位と位置づけています。異熟という目覚めがありますから、身と処(環境)の問題は解決されるわけです。阿頼耶という意味がなくなった位になります。我執が意味を持たなくなりますから、菩薩位になります。次に因相なのですが三世でいうところの現在が因ということになります。未来をはらんだ現在ということです。「あまねく諸々の衆生とともに安楽国に往生せん」という、一切衆生とともにというスタンスが取られます。これを相続執持位といいます。如来の位になります。信心の問題で言いますと、信心は私の上に起こった出来事なのですが私が起こしたものではありませんね。信心は相続執持位と思うのですがね。信心は三世にまたがるわけでしょう。無始無終ですね。私にとっては信心を覆っている雲霧があるということになるわけでしょう。我執によって覆われているのというところに、二十願が見出されてきたと思うのです。これを第八識で言うと阿頼耶識といい、我愛現行執蔵位といっていいと思うのです。

 阿頼耶識の三位についてまとめてみますと、

  1. 我愛執蔵現行位ー菩薩の七地以前と二乗の有学、及び一切の異生にして第七識我執の現行する間を指します。この我執の現行する位にとりきめて第八識を阿頼耶と名づけるのです。
  2. 善悪業果位ー菩薩の第十地までと二乗の無学果の聖者と一切の異生との善悪業の果報としての第八識の相続する間をいいます。この位にとりきめて第八識をビパーカ(毘播迦)といい、異熟と名づけられます。佛果に至ればこの識は善無漏となり業所感の無記でありませんからこの名を失います。
  3. 相続執持位ーこれは一切の異生及び佛果に至るまで第八識中に種子を執受任持して失わず相続する位をいいます。因位にあっては漏・無漏の種子を執持し、果位にあっては無漏の種子を執持す。この位にとりきめてアーダーナ(阿陀那)と名づけられ、執持と訳されます。

 阿頼耶を以って主として第八識を呼びこの識の自体とするのは、それが初位の名であると共に我愛執蔵の過ちを明らかにすることにあります。聖道仏教の目的はこの我執の断除にありますから阿頼耶と名づけるのです。「この識の自相は分位多なりと雖も、蔵と云うは初めにして過重し、是の故に偏に説けり」(『成唯識論』)、第八識は善または悪の業種子によりそって熟したものであり、我執の現行する位にとりきめて阿頼耶と名づけられるのです。第八識は唯所薫であって能薫ではないというところが大事ですね。阿頼耶識の三義に於ける執蔵ということは、末那識によって執着されることを(蔵する)という意味で分別をしないのが阿頼耶識であるということ。阿頼耶と云う意味はアーラヤ(経験のすべてを蓄える蔵)ということ。蔵するということを持って阿頼耶といい、阿頼耶は執着は起こさないということです、また執着と言う意味もないということになります。執着を起こすのは末那識ですね。「第七末那識というものがありまして、それによって意識全体がさまざまに汚されておるんだけれども、それに対して苦い顔をしないで、いつでもほがらかな心をもって、それを受け取っていく。これを阿頼耶識と言うんでしょう」(曽我量深師)「執を蓄えている」といっても、阿頼耶識そのものは末那識によって愛着処となり、我愛という種子を薫習しているわけですが、これは純粋意識であると思うのです。「是無覆無記」であり「恒転如暴流」といわれているわけです。因縁正起です。法ですね。法は融通無碍でしょう。とどまることがないわけです。瞬時瞬時が新たなのです。末那識は固定してとどまるのです。いうなれば法に違反しているわけです。違反するとトラブルをおこしますね。そして違反しないように努力しますでしょう。このトラブルが私にとっては苦悩を生んでくるのです。我愛によって執着され現行している我が身に共に流転してくださる、それが法蔵菩薩ですね。「私と共に」と言うことにはどのような意味が有るのでしょうか。末那識は微細に働くと言われていますね。知らず知らずのうちに汚していくと言うことです。これは自分と他人とをはっきり簡びわけ、自分の得を簡びとるということが私の感知されないように水面下で働いているというのです。私は、「我が身は現に」という二種深信においてしか末那識は浮かび上がってこないと思うのです。「無有出離之縁」の自覚に於いてですね。「もう助かる縁がない」ところに法蔵菩薩出現の意味が有るのではないかと思うのです。「二河喩」における三定死ですね。「汝一心に正念にして直ちに来たれ」という分水嶺に法蔵菩薩は立っておられるのではないでしょうか。私と共に安危を共同する主体ですね。


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