唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

中随煩悩(遍不善の煩悩)-無慚・無愧 その3

2010-02-11 23:14:27 | 心の構造について

 『論』に「不善心の時には、随って何れの境を縁ずるも皆、善を軽拒(きょうこ)し、及び悪を崇重(しゅうじゅう)する義有り。故に此のニ法は倶に悪心に遍ぜり。・・・自と法とを自と名づけ、世間を他と名づく。或いは即ち此の中に善を拒し悪を崇せりと云う。己に於いて益し損するを自・他と名づくるが故に。・・・」

 無慚・無愧は遍不善の煩悩といわれ、私たちの行為は善か悪かそれともそのいずれでもない無記です。その価値観の中で悪心が働くときは此のニ法ですね、無慚・無愧があるというのです。悪心に遍ぜりと、悪のこころに遍く行き渡って、善を拒み悪を崇めるのです。「人間とは何か」と問われるとき、人間は善に向かって歩みを進める存在であるという事が言えるのではないかと思います。そうしますと善を拒むという行為は人間としての道をはずしていると言えるのではないでしょうか。また自と他に於いて恥じる事がないということは人として生きる事を放棄しているのではないでしょうか。やはり大事なことは慚愧心をもつということです。

 「二つの白法あり、よく衆生を救(たす)く。一つには慙(ざん)、二つには愧(き)なり。「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は人に羞ず。「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧」は名づけて「人」とせず。名づけて「畜生」とす。(『涅槃経』真聖P257~258)

 六道という境涯がいわれますが、六道輪廻という迷いの境涯ですね。この迷いの境涯からの救済が慙愧といわれるのです。無慙愧はどこまでも迷いの淵に沈むことになるのですね。親鸞聖人が「無慚・無愧のこの身にて」と言われる背景は如来回向の信心をいただかなかったなら人として生きる事ができないという心の深層に光を差し込まれたのです。

 「無慚無愧のこの身にて・まことのこころはなけれども・弥陀の回向の御名なれば・功徳は十方にみちたまう」

 「小慈小悲もなき身にて・有情利益はおもうまじ・如来の願船いまさずは・苦界をいかでかわたるべき」

 自己中心的なあり方が如何に迷いを生み出し、「わたしはどこからきて・なにをして・どこにいくにか」という生きる事の方向性が定かではなく、自己の殻に閉じこもり孤独と云う闇に沈んでいかざるを得ないこの身に慙愧されるのです。そして私の生み出されてきた背景を知りえる事がなかったならば無慚・無愧のまま虚しく過ぎ去っていかざるをえないといわれるのです。

 「蛇蝎姧詐(じゃかつかんさ)のこころにて・自力修善はかなうまじ・如来の回向をたのまでは・無慚無愧にてはてぞせん」(真聖P509)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿