唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第五 三性分別門 (9) 第三に無覆無記の名を釈す。(4)

2015-11-04 21:59:54 | 初能変 第五 三性分別門
  「国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心有るの人を名づけて国宝となす。故に古人言わく、怪寸十枚是れ国宝に非ず、一隅を照らす此れ即ち国宝なり」(伝教大師最澄『山家学生式』より)

 異熟について質問をいただきました。『三十頌』で一番最初に出てきます「異熟」の言葉は、阿頼耶識の三相を説かれる中で、第八阿頼耶識の果相が異熟であると述べられています。因相は一切種子識です。因果の関係で、因が時を異にして熟す、即ち現行していることを表しています。三つの側面から説明されます。
 (1)変異而熟 ― 因が変異して果が熟す。(因が変化して果が生じるという場合。)
 (2)異時而熟 ― 因と時を異にして果が熟す。(因は過去世。果は現在世。過去の業因によって、現在の業果を得ていること。)
 (3)異類而熟 ― 因と善・悪・無記のありようを異にして果が熟す。(「因是善悪果是無記」因は善が悪であるけれども、その結果として生じてきた果(現在)は無記。
 第八阿頼耶識・異熟識の場合は、有漏で無覆無記の性質を持ったものである。
「因是善悪・果是無記」で、過去を背負って存在している自身は、異熟性であり、異熟の総報の果は無覆無記である。
 この理由ですが、(過去の業を背負うものが何故無記なのか?)私の意識の根柢で「いのち」を支えている阿頼耶識は無色透明であり、たとえ因が善であれ、悪であってもですね、果である自分自身の」と云われています。異熟は「無覆無記なり」、異熟無記の識、これが第八識の果相です。「今」「現在」「この瞬間」が分水嶺になりますね。
現行識は七転識ですが、第八識で受ける果報は捨受であり、無覆無記なんです。過去の業を引きずってはいますが、無記性として生きているということなんですね。生きることを以て、過去の業を清算しているのです。過去の業の結果として、今・現に、ここに存在していることは間違いのないところです。過去の結果としての自己が今の私の姿なんです。ここには善悪の価値判断は有りません。善悪を超えて過去の業を引いている、これが異熟ですね。阿頼耶識の三相の中で果相は異熟だと云われていました。三位からみると、異熟は善悪業果位になります。善悪の業果としての現在である。現在の縁によって動いているのではないと教えているんですね。本当は、苦楽のない世界を生かされているんでしょう。地獄・餓鬼・畜生・人・天という生存のありかたがありますが、あたかもこのような生存の在り方があるように思いますが、そうではないんです。私が地獄を生み、餓鬼を生み、畜生を生み出している。それは人としての悼(イタ)みだと思います。人としての自覚が、地獄の住人であるという自覚を生み出してくる、或は餓鬼である、畜生であるという自覚を生みだしてくるのでしょう。それは阿頼耶識に出会えた証拠なんですね。異熟の持っている意味だと思います。
 異熟を少し違う観点から見ますと、異熟因・異熟果は異熟と異熟生でも同じ意味を持ちますが、何故、苦楽の感情が生じてくるのかというところに、もう一つの異熟の説明が必要とされます。ここに真異熟と異熟生で説明されます。
 真異熟は異熟のことですが、詳しく言うと、阿頼耶識は真異熟です。真異熟の上に分別を立てて生じてくるのが異熟生。たとえば、貴賤・苦楽・賢愚・美醜などを異熟生と呼びます。苦楽等は阿頼耶識では起こりませんが、阿頼耶識の上に分別を立てていく第七末那識以上で生じてくるのです。
 私たちは、何時でも、阿頼耶識の上に分別を立てて我執だけの生活をしているんですね。異熟に触れないで、異熟生で生きている、そして過去を恨み、他を非難し、恨みながら、自分に怯えているんですね。自分の姿をよく観察すればわかるんですが、観察も我執においてしますから複雑ですね。鏡を持っていないということなんですが、我執が鏡の存在を覆い蔽っているんだと教えられています。
 
 無記について「記」とは、善か悪かはっきりしていることを指しています。「記とは謂く善と悪とぞ.記別す可きが故に説て名けて記と為す。」と。無記は記が無いということですが、原語は「記」はヴィアーカラナで、「無記」はアヴィアークリタ。「ア」は否定形ですから、はっきりしない、という意味になりますね。
 二つの意味があると、
 「愛・非愛の果を有し」。「記」とは、善は愛するべき楽果をもたらし、悪は愛することのできない苦果をもたらす。これははっきりしています。ですから「記とは謂く善と悪とぞ」と云われているわけです。
 「及び殊勝の自体なるを以て」、善・悪という法の自体は、無記の法と違って殊勝であり明確であるということなんです。
 これが「ア」ということで否定されているのが無記という言葉の持っている意味になります。
 
 「聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。 」

 この親鸞聖人の仰せが、見事に無記の解釈を表現されていると
思います。。此れに違することが記別或は授記(ジュキ)ということなのでしょう。
 
 次回からは、第六・心所例同門に入ります。

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