「安」は軽安(きょうあん)と教えられています。かるくやすらかな心であるということです。この心は重く沈んだ心を対治するのですね。「身にも心にも安く覚へて、うれしき心なり。この心所は、常の時には起こらず、定に入る時起こるなり」(『法相二巻性』)「定」に入る時に起こるとありますから、日常の散心(心が一定でなく散らばっている状態)の時には起こらないということなのです。散心はどういう状態かといいますと、?心(こんじん)といわれ重く沈んだ心なのですね。明るく振る舞っていても実は重く沈んだ心を抱いているわけです。ここに「定」という心が大切になります。「?重(そじゅうーあらっぽい・きめがあらい)を遠離し身心を調暢(じょうちょう))して堪任(かんにん)するを性となす」といわれているのです。身心が軽やかに自由になる状態を軽安といわれるのですね。私たちは定心を保てといわれると簡単に逃げますが、定心の質をしっかりと見定めなければなりませんね。そのためには心をしっかりと一定に保つように努力しなけばなりません。親鸞聖人が「定心修しがたし」と慚愧されているのは自身の中に修しがたい質を見定められた他にないと思っています。自身の散乱する心との対話がひとえに弥陀の大悲を信知されたのではないでしょうか。定心を修することは難しいから弥陀に頼るということではありません。それは逃避にしかなりません。自分から逃げては仏道にならないのです。仏道は定心を維持することを要求します。それを捨ててしまったら仏道にはなりません。定心修しがたしということに於いて如何にしたら定心を修すことができるのかが問題になります。人間が本当に自分に立ち帰った時に起こってくる心理で、私たちは身心を調暢したいのです。身心を調え、伸び伸びとした境地を求めているのです。そのために、今おかれている状態に耐えていく。そして今の境遇に負けないで身心をして軽やかに安らいだ状態に転換していく。そのためには何をなすべきなのかが聞法の課題となるのではないでしょうか。こういうことが非常に大切なことではないかと思います。私たちの課題は如何にしたら「善」の心所を成り立たせるかが問われているのではないかと思います。
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