唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第五 三性分別門 (1)

2015-10-23 22:34:59 | 初能変 第五 三性分別門
 

 「下、第五の段は即ち是れ第八に何れの性とか倶なりと云う門なり。」(『述記』)
 第五 三性分別門
 「法に四種有り。謂く、善と不善と有覆無記と無覆無記となり。阿頼耶識をば何の法にか摂むるや。」(『論』第三・五右)
 此れは、最初の問いになります。「法に四種有り」から述べられますが、法の四種とは、善と不善と有覆無記と無覆無記になりますが、五位の心所の中で、その識が禅の心所と相応すれば善ですし、煩悩・随煩悩と相応すれば悪または有覆無記です。善と悪と有覆無記の三心所いずれとも相応しなければ無覆無記になります。
 三性分別とは、今の言葉ですと、価値判断です。善と悪。それに無記、善でもなければ、悪でもない、それに有覆と無覆とがある、これで四種です。
 太田久紀師は講義の中で、
 「法というのは難かしい単語でして、この一切のもの、黒板も法です。チョークも法、私共も法、こういうこの世のもの、ものというのは物質だけではないんです。ものを考えるというときのものです。つまり頭の中にいろいろ整理されて入っているもの全部が法です。もう一つは心理、永遠の真理、これらが一体のところが仏教の大事なところです。ものがってどこかに仏様の世界があって、これは全く別世界のものだ、というんじゃなくて、ここに存在している私達の生命そのものが実は真理に支えられているわけでありまして、真理は遠くにあるのではなく、私共のこの現実に生きている生命の中に、この現実の社会の中に真実というものがある。・・・ものという現実的な存在と、永遠の真理がこの一字の中に含まれている。しかし真理と現実は違う。違うという面でいえば、天地のcj被害がある。有限なものと、永遠のものですから、根本的にちがうのです。それをはっきりと分けるのが唯識。・・・これが法の第三の意味であります。法を聞く、聞法をするというときにはこの意味です。教えをとうして法にふれていくわけです。・・・存在するものと、真理と、お釈迦様の教え、その姿が法相・・・」
 と教えてくださいます。
 「法に四種有り」とは、存在するもの、それは真理と一体のもの、それを明らかにしていくのです。善・悪・無記。善という価値判断。悪という価値判断、それと、無記という価値判断があるということですね。
 種子生現行、微妙ですね。色即是空・空即是色が働いているのですが、間髪を入れずに善か悪の色付けをして現行してくる。ここを明らかにしているのが唯識なんですね。因は善か悪、果は無記。無記なる私が、善という方向を持ち、悪という方向を持つわけです。
 厳しいことをいいますが、より良い生き方をするにはどうしたらいいのか。悲しみに寄り添って、悲しみを乗り越えていくにはどうしたらいいのか、等々。これらはこの問いが生み出されてくる背景を知らないと究極のエゴイズムになりますね。「私が困る」ということなんです。いろいろ理由付けをしますが、私が困るんです。何故なんでしょう。思い通りないならんと困るという我執が働いている。両刃の言い方ですので、誤解を生じるかもしれませんが、私の生存の根底は無記であるということなんです。その無記に目覚めた時(念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき)に摂取不捨の利益にあずかるわけですね。現生正定聚につき定まるわけです。往生は現生か死後かとう論争がありますが、僕は、究極のエゴに頭が下がった時、往生が定まるのではないでしょうかね。頭の下がらん状態で、往生論はナンセンスだと思いますが、いかがでしょうか。
 今日もラインで遊んでいましたが、「煩悩のかたまりですね」「これでいいのだ」。これでは駄目だということを通して、これでは駄目だに頭が下がった時に「これでいいのだ」といえるのでしょうね。
 「阿頼耶識をば何の法にか摂むるや」(阿頼耶識はどれだ、という問いです。明日考究します。

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