唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 (8) 根本煩悩の体と業について (6) 慢の心所 (1)

2014-03-22 22:58:35 | 心の構造について

 (概説)
 慢と云う煩悩は慢心のことで、他人に対して自分をおごりたかぶる心のことです。「己を恃(たの)んで他に於いて高擧(こうこ)するを以って性と為し。」といわれています。自分を頼りにして他人に対して高擧する、高慢です。思い上がってうぬぼれているわけです。この心ですね。常に慢心を抱いて他に接しているのです。善しにつけ、悪しきにつけですね。前者は増上慢ですし、後者は卑下慢です。へりくだった慢心ですね。「他の多勝に於いて己れ少劣と謂う」此れは世間に於いて自分と他者を比較することがよくあることですね。自分が明らかに劣っているとわかっていても認めません。自分もまんざら捨てたものではない、というわけです。子供と話をしていてもよく判るのですが、なかなか相手を認めません。「あいつは勉強できるかもしれないが、スポーツは俺の方がはるかに優れている」「あいつは数学が得意だけれど、俺は英語では負けない」とかですね、すべてに於いて自分が劣っているとわかっていても慢心が働いているのですね。また「我が身を下して(卑下して)高慢の人(思い上がって人をあなどること)を見ては不見の思いをなす」ともいわれています。このように見ていきますと、慢と云う心は自他差別の心だということがわかりますね。どこまでいっても自分優位であるということは動かせないのです。それが「能く不慢を障えて苦を生ずるを以って業と為す」と。自他差別の心が苦を生んでくるのですね。慢と云う煩悩は姿かたちを持ちませんから不気味ですね。見えないから本当に厄介な煩悩です。「邪見憍慢悪衆生」、邪な(わかっているつもりの)見解をもち、自らおもいあがって、他を見下して侮っている存在を悪衆生といっていますね。この悪衆生は「信楽受持すること、はなはだもって難し。難中の難、これに過ぎたるはなし」とといわれ、慢と云う煩悩はいかに厄介な煩悩かがよく伺えるのです。そしてこの慢には七慢あるいは九慢という分類、非常にきめこまやかな分類がなされています。
 慢・過慢・慢過慢・卑慢・我慢(自らたのんで他に対して思い上がっていることー世間でいう辛抱とは違います)・増上慢(未だ取得していないけれど、既に取得していると嘘をつくことです。私もですね、このように唯識を読ませていただいているわけですが、いろんな書物を参考にしながら、わかったように書き込みをしています。本当の所は何もわかっていないのです。嘘をついています。これが増上慢ですし、また卑下慢でもあるわけです。やっかいなのは増上慢・卑下慢です、といったとたんに慢心が働くと云うのですね。ですから何も判っていないと云うことなのでしょうね。書くと云うことは、わかったつもりで書いていますかね。慢心です。)・邪慢(邪な慢心ですね。「己れ無きに己れ有と謂う」といわれ、増上慢と似通っていますが、自分には無いのに有ると謂う慢心です)

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 慢の心所について

 「云何なるをか慢と為る。己を恃(タノ)んで他の於(ウエ)に高挙(コウコ)するを以て性と為し、能く不慢を障え苦を生ずるを以て業と為す。」(『論』第六・十三右)

 どのようなものが慢の心所なのか。
 即ち、慢とは、己を恃んで、他に対して高挙(自己と他人とを比較して己の方が勝れていると誇る)ことを以て性とし、よく不慢を障碍し、苦を生じることを以て業と為す心所である。

「論。云何爲慢至生苦爲業 述曰。能障不慢。不慢者何。如善中説。」(『述記』第六末・四左。大正43・444b)

 (「述して曰く。能く不慢を障う。不慢とは何ぞ。善の中に説けるが如し。」)

 慢は不慢を障える心所であることを述べ、不慢とはどういう心所なのかと云う問いを立てています。十一の善の心所の中には説かれてはいませんが、十一の善の心所以外の善の心所であるのです。    (つづく)

 
 


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