唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  三性門 その(22) 三性について、三性の同異

2012-09-26 23:13:20 | 心の構造について


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図解は、深浦正文著 『唯識学研究』下巻p316より転載しました。

 「この異性倶起の場合、能引の意識は境の強烈なるに偏注することによってその性が定まる。すなわち、今の図にていえば、初め眼識同時の意識は不善性であったが、次に耳識の境強く来って耳識を惹起せば、同時の意識はそれに偏注して善性となり、また更に鼻識の境強く来って鼻識を惹起せば、同時の意識はそれに偏注して無記となるがようである。これ五識の善・染となる初起は必ず意識に引導されるが、等流相続までも意識に引導されるのでないから、その場合意識は、強烈なる対境によって惹起された別の識の性を決定して、それに随うのである。
 かく五識は相続して五心を具し、以て倶生するから、三性並存することを得る。よって『瑜伽』巻六十三に、
 
若遇聲縁従定起者、與定相応意識倶転、余耳識生、
というている。」(『唯識学研究』p316より)

 「若遇聲縁従定起者、與定相応意識倶転、余耳識生、」は、証拠を引く段に詳細が述べられます。(「若し声の縁に遇うて定より起こるは、定相応の意識と倶転して余の耳識生ず、)

 『了義燈』には

問五識三性許得容倶者。且善眼識至等流已。不善耳識所縁。縁至起率爾心。爾時意識亦同聞聲。爲是率爾。爲等流心。若等流心當與眼識同是善性。率爾無記。未轉依位前三無記。不可二性一心並起。若是無記。眼識爾時如何成善。無善意識爲能引故 答且通初難。五心義説。善等流意與耳同縁。雖是善性。亦名率爾。以其聲境創墮心故。不可説是等流之心。前未聞聲故。不得唯率爾。亦與眼識仍同縁故。故因通二。然是善性。言前三心未轉依位 唯無記者。或據全未轉依。不得自在別別五心。多分而説。若已分得轉依之者。得自在者。五心倶者。可通三性。不爾如何論云非取聲時即便出定。領受聲已若有希望後時方出。此言希望即尋求心。不得説言欲希望時即便出定。論云若有希望後方出定故。亦不得言定前加行立期願云。若聞異聲即便出定尋求境事故言希望。非於定中作尋求。何者希望聲時。爲在定内。爲已出定。若在定内。希望之心即是尋求。尋求之心與欲倶故。若此希望非尋求者。是何心攝。若云希望即已出定。與論文違。論云若有希望後時方出故」(『了義燈』第五本・二十右。大正43・750a)

 (「問う。「五識は三性に倶にある容きことを得と許す」は、(総じて難ず)且く、善の眼識は等流に至り已ぬるとき、不善の耳識か所縁の縁、至を以て、卒爾心を起す。爾の時の意識亦同じく声をも聞く、是れ卒爾と為んや。等流心と為んや。(別して難ず)若し等流心と云わば、當に眼識と同じく是れ善性なるべし。卒爾と云わば無記なるべし。未転依の位には前の三は無記と云うを以て、(結して難ず)二の性一心に並べて起こるべからず。若し是れ無記ならば眼等爾の時に如何ぞ善と成らん。善の意識として能引くと成ること無きが故に。」

 こういう問いを立てています。そして次に、

 「答。且く初難を通せば、五心に於て義を以て説くならば、善の等流の意が耳と同縁するも是れ善性なりと雖も、亦、卒爾と名づく。其の声の境に創めて堕する心なるを以ての故なり。是れ等流の心とは説く可からず。前に未だ声を聞かざるが故に。唯の卒爾のみをば得ず。亦眼識と仍ほ同じく縁ずるが故に。故に、二(卒爾と等流)に、通ず可し。然るに是れ(第六識)善性なり。前三の心は未転依の位には唯無記なりと言うは、或は全に未だ転依せず、自在を得ざると、別別の五心とに拠って、多分を以て説けり。」 (すみません、今日はここまでにしておきます。)

 


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