辺執見の種類について
辺執見について考えているわけですが、辺は偏ったということですね、それに執着をしている思いです。元は我見、我見の於に立てられた見解ということになりましょうね。
しかし、我見から離れられるのでしょうか、僕は無理ですね。我見しかありません、どう考えて見てもですね、やることなすことすべてですが、この辺執見は迷理の惑といわれていますので、まあ生涯、迷理の惑と付き合っていくのでしょうね。
大乗仏教はすごいことを言っているのです。私が私を立てるために依っているのは、「顚倒して推度する染の慧」である、と。所依が違うだろう、ということですね。
でもね、でもねが付くんです。言い訳ですが、初めて知れたんです。染汚の慧を頼りに生きてきたんだ、と。だからですね、いつでも、虚しさがつきまとうんです。清沢先生は、「天命に安んじて人事を尽くす」と云われました。「人事を尽くして天命をまつ」ではないんですね。「人事を尽くす」ということは、我執を依り所にする、我見です。我見を頼りにして、ということですから、天命に安んずることはできません、いつでも不安と、不足と、瞋りとの中に身をおいて絶望の淵を彷徨っているのではないでしょうかね。それさえもみえてこないという暗さです。「三途の黒闇」と表現されていることなのでしょう。それが「開かれる」というところに仏法の凄さが有ると思います。
また脱線してしまいましたが、辺執見の種類について考えます。
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「此の見の差別をいわば、諸の見趣の中に、前際(ゼンザイ)を執ずる四の遍常論(ヘンジョウロン)と一分常論(イチブンジョウロン)と、及び後際(ゴサイ)を計する有想の十六と、無想と倶非とに各々八論有ると、七断論との等き有り、分別起に摂む。」(『論』第六・十四左)
六十二種の誤った見解の内、遍(常)見論の四、一分常見論の四、有想論の十六と無想論の八と非有想非無想論の八、ここまでが常見。そして断見の、断見論の七の四十七が辺執見の種類になります。これらはすべて分別起に摂められるものである、ということです。
この四十七見を前際と後際に分けています。分けていますが、「執ずる」或は「計する」と云われていますように、計度(ケタク)執着された分別という意味になります。前際とは過去のことに執着する、後際とは未来のことに執着することをいい、現在は中際と言い表しています。
前際 - 前際に執着することに於いて、遍常論の四と、一分常論の四が起こる。
後際 - 後際に執着することに於いて、有想の十六論と無想の八論と倶非の八論と七断論が起こる。
尚、四十七論については『述記』、『演秘』、『了義燈』に詳細が述べられていますが、ここでは省略します。後日少し煩雑ではありますが読んでみたいと思います。
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