唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (75) 第七、三界分別門 (12)

2015-03-29 22:48:05 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 4月8日は灌仏会(降誕会・誕生会)
  「4月には灌仏会があります。灌仏会というと、耳慣れない言葉だなあと思われる方もおられるでしょうが、花まつりというと、なんだそのことかということになると思います。
 今から約2500年前の4月8日に北インドのルンビニーの花園でかわいい赤ちゃんが生まれました。その赤ちゃんがのちのお釈迦さまです。お釈迦さまの誕生のとき、様々な珍しいことが起こったそうです。花園の花は、かぐわしい香りを放ち、甘く心地よい雨が降り注いだそうです。
 そして、生まれてすぐに7歩歩んで、天と地を指差して、
 「天上天下唯我独尊」
 と言われました。このお話を元にして、毎年4月には、お釈迦さまのお誕生仏に甘茶をかけたり、白い像に花御堂をつけて町の中を行進したり、各地で花まつりの行事が行われます。
 しかし、そのような行事をしていても、不思議なことに浄土真宗のお寺の本堂にはお釈迦さまのお姿が見当たりません。皆様方のお仏壇にも見当たらないと思います。
 それでは、浄土真宗では仏教を説いて下さったお釈迦さまをないがしろにしているのかというと、そうではありません。お正信偈をいただきますと
 「如来世に興出したまう所以は、ただ弥陀の本願海を説かんとなり」 とうたわれております。
 この如来というのは、お釈迦さまのことです。お釈迦さまがこの世にお出まし下さったのは、阿弥陀如来さまの御本願を私に知らせようとして下さったからなのです。
 それは、私からすると、なんとしてでもあなたを救うという阿弥陀如来さまが、そのことを知らさんがために、お釈迦さまになられて、御本願を説いて下さったということなのです。ということは、お釈迦さまとは、阿弥陀如来さまがこの私にわかるように姿を表して下さった仏さまなのです。
 ですから、阿弥陀如来さまと別にお釈迦さまを拝むことはいらないのです。しかし、お釈迦さまがこの世にお出まし下さったから、今私は、お念仏に出遇うことが出来ました。お誕生ありがとうございますとお勤めするのが灌仏会です。
    聞法(1991(平成3)年7月13日発行)』(著者 : 義本 弘導)より」


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 「下地の煩悩は亦上地をも縁ず」という一段ですが、『瑜伽論』巻第六十二の所論から、『論』のいは「欲界繋の貪いい上地の生を求めて、上定を味(ミ)すと説けるが故に」
 『述記』によりますと、①に、勝定を味するに由る。 ②に、(上地の)生を求めるに由る。という二つの理由を挙げています。
 上定(ジョウジョウ)は勝定(ショウジョウ)と同じ意味になります。色界と無色界での汚れのない禅定のこと。等持(トウジ)・等至(トウシ)のこと。等は等しいということ、平等を表しますから、そこに至る、定の力に依って身心が等しく安和な状態に至ることを指します。また等持は、平等摂持と意訳され、三摩地という心一境性ですが、簡単に言えば「定」のことです。
 味は、「著」とも書かれていますから、執着すること、染著・貪著することを意味します。つまり、むさぼりのことですね。下地の煩悩が、上地の生を求めてむさぼることは、下地の貪が上地を認識する根拠になると云うのですね。
 『瑜伽論』には、五種の上地を愛味することが説かれていますが、列挙しますと、
 「五種の愛の上に縁ずることを説くは、謂ゆる」
 ① 「或は等至を証得して、出已って計して清浄にして、可欣(カゴン・望ましいこと)・可楽(カギョウ・望ましいこと)なり。可愛(カアイ・愛すべきこと・可意(カイ・如意のことなりと随念し愛味し)」(等至を証得し、そこから出終わって、清浄である、可欣だる、可楽である、可愛である、可意であると随念して愛味(執着・貪著)を起こす。)
 ② 「或は未だ証得せず、未来の愛味の増上力の故に追及欣楽(ツイグゴンギョウ)して愛味を生じ」(いまだ等至を証得していないが、未来の愛味の増上力によって追い求め欣楽(求めること)して愛味を生じる。)
 ③ 「或は已に証得し、未来の愛味の増上力の故に追及欣楽(ツイグゴンギョウ)して愛味を生じ」(すでに等至を証得して、未来の愛味の増上力によって追い求め欣楽(求めること)して愛味を生じる。) 
 ④ 「或は已に証得し、計して清浄なり、可欣なりと為し、乃至広説するは現に愛味を行ず。(等至を既に証得して、これに対して清浄である、可欣である、と考えて、愛味を現行させる。
 ⑤ 「若し、定より出て愛味を生ずべし。」(定より出て愛味を生じる。)
 法相唯識では、本科段の分科を、「欲界繋の貪は上地の生を求めて」と「欲界繋の貪は上地を味する」という二つの意味があるとし、広く「生を求める」惣縁と、「上地を味する」という、狭義の意味での別縁となるとし。、惣縁の貪と、別縁の貪があるという解釈をしています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (74) 第七、三界分別門 (11)

2015-03-28 10:53:57 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 夕陽に映し出された、桜ノ宮大川、遊歩道の桜並木、三分咲きというところです。
 
 第三の子門(第七・三界分別門の第三) 上下相縁門
 「下地の煩悩は亦上地をも縁ず。」(『論』第六・二十左) 下地の煩悩はまた上地をも縁ずるのである。先ず総論が示されます。今までは、上下相起門が説かれていましたが、本科段より上下相縁門が説かれます。上下が相い縁じることが有るのかどうかが問われてきます。つまり、下地の煩悩が上地を縁じることが有るのか、無いのか。又逆に上地の煩悩が下地を縁じることが有るのか、無いのかが問われてきます。そして、総論として本科段が述べられます。欲界の煩悩は、色界を対象として認識すると云われています。
 個別には、
 「瑜伽論等に、欲界繋(ヨッカイケ)の貪いい上地の生を求めて上定(ジョウジョウ)を昧(マイ)すと説けるが故に。」(『論』第六・二十左) 
 『瑜伽論』巻第六十二等に「欲界繋の貪は上地の生を求めて上地を味わう」(取意)と説かれているからである。
 『瑜伽論』巻第六十二(大正・30・645c)からの所論は取意になります。『述記』にも全文は記されていませんが、『樞要』(大正43・643c)には「六十二初文。説五種愛縁上者。謂或證得等至出已。計爲清淨・可欣・可樂・可愛・可意隨念愛味 或未證得。或已證得。未來愛味増上力故。進求欣樂而生愛味 或已證得計爲清淨・可欣。乃至廣説現行愛味。若從定出可生愛味。若正在定無有愛味。愛味者謂於是中遍生貪著。後文説二種。謂未得定者有染汚。謂希上生深生愛著。不染汚愛縁上定者。謂方求離欲生。廣如六十二説 。」と全文が記されています。
 『瑜伽論』本文には「謂く或は(1)等至を証得して出で已って計して清浄なり欣ぶべく楽しむべく愛すべく可意なりと為し随念し愛味し、或は(2)未だ証得せず、或は已に証得し、未来の愛味の増上力の故に追及欣楽(ツイグゴンギョウ)して愛味を生じ、或は(3)已に証得して計して清浄なり欣ぶべく楽しむべしと為し、(4)乃至広く説かば愛味を現行す。(5)若しくは定より出でて愛味を生ずべく、若しくは正に定に在りて愛味なることなし。愛味と言うは、謂く是の中に於て遍く貪著(トンジャク)を生ずるなり。」と説かれています。
  『述記』(第六本・五十一右)には「貪の上を縁ずるは、一に、勝定(ショウジョウ・すぐれた禅定)を著(或は、昧)するに由る。二に、(上地の)生を求るに由る。此れは見・修に通ず。六十二巻に五種の愛の上を縁ずることを説けり。
 今日は、諸論の記述を紹介するに留めて、内容については後日述べたいと思います。明日は、坊主BARstaff日誌です。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (71) 第七、三界分別門 (8)

2015-03-24 21:41:29 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
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 後半のところです。上地に在る者が下地の煩悩を起す場合と、起さない場合があることが説明されます。
 「第四定の中有の中に生じたる者が、解脱を謗するに由って地獄に生じたるが故に。身、上地に在って将に下地に生ぜんとする時には、下の潤生倶生(ニンショウクショウ)の愛を起こすが故に。」(『論』第六・二十左) 本科段は二つに分かれます。
 (1) 分別起について、「第四定(色界第四禅)の中有の中に生じたる者が、解脱を謗するに由って地獄に生じたるが故に。」
 (2) 倶生起について、「身、上地に在って将に下地に生ぜんとする時には、下の潤生倶生(ジュンショウクショウ)の愛を起こすが故に。」
 『述記』の所論に從って意訳をしますと、
 (1)上地に在る者が、下地の分別起の煩悩を起すことがわかるのは、(『阿毘達磨集論』巻第六によると)第四定の中有の中に生まれた者が、解脱を謗ることによって地獄に生まれるからである。
 (2)上地に在る者が、下地の倶生起の煩悩を起すことがわかるのは、身は上地に在りながら、まさに下地に生れる時に、下地の潤生(生存を潤すこと)の倶生起の愛を起こすからである。
 ここの解釈はよくわかりません。『述記』の所論を留めておきます。
 「述して曰く。対法の第六に、第四定を得たる増上慢の比丘、是れ第四果と謂えるものが、既に(色界の)中有を受け已って、即ち色界の(中有の)身に下(欲界)の邪見を起こして、便ち釈種(世尊)に涅槃有ること無しと謗せり。今の時(色界の中有)において後有(本有)起こるを以ての故に。此には邪見と及び倶なる無明と有り。或は、瞋も有りと許す。涅槃を瞋するが故に。既に地獄に生ずることは、邪見の力に由ってなり。色界の邪見には非ず。下の苦を招かざるが故に。欲界の身に於いて、この邪見を起こすには非ず。彼(『対法論』)に。(色界の)中有に生ずる時に起こると言えるが故に。色界の中有を欲界の本有にして、如何ぞ之を見るや。定通力に非ず。(死と生と命終とは)散心に住せるが故に。(中有の位に)上の邪見を起こすに由って縁と為すとして、欲界の後報の業が熟して那落迦に生ずるに非ず。別の文証なし。・・・」

 先ず、中有についてですが、真宗では言いませんね。でも、初七日から四十九日までの七週間は中陰として勤められています。この間が中有です。中有から生有として、異生として誕生するという、一種の輪廻観でしょうね。真宗では即得往生、現生に於いて、「即得往生住不退転」に定まるならば、死後、浄土が中有として現生してくるのでしょうか。いずれにしても、現生の在り方が問題ですが。まあ、亡くなられてから満中陰までの期間を中有というわけですから、満中陰までは中陰棚を設けて、そこで供養をすると云う形式が取られているようです。死有・中有・生有・本有という生存の在り方の中で、死有と生有の中間に中有という存在が有り、三界の中の欲界と色界の有情にのみあるとされています。
 『述記』は『対法論』巻第六を引用していますが、もとは『大毘婆沙論』巻第六十九(大正27・359b)の記述です。
 先ず、(1)分別起であることがわかるのは、「色界の(中有の)身に下(欲界)の邪見を起こして」という一段です。邪見は五利使のなかで、分別起に分類されるからです。五つの悪見すべては分別起ですが、我見と辺見は倶生起にも通じています。前にも見ましたので詳しくは述べませんが、『論』に「是の如き総と別との十の煩悩の中に、六は倶生と及び分別起とに通ず。任運にも思察するにも倶に生ずることを得るが故に。疑と後の三見(邪見・見取見・戒禁取見)とは唯分別起のみなり。要ず悪友と或は邪教の力と自ら審らかに思察するとに由って方に生ずることを得るが故に。」と結論が出されていました。

 『述記』の記述ですが、逸話をもって謗法の問題を示しているのではないでしょうか。「欲界の邪見を起こして」というところにですね、「諸の煩悩の生ずるは必ず痴に由るが故に」という、邪見の背景にですね。、痴の存在がありますね。それともう一つの煩悩は、欲界にしか存在しない「瞋」の存在です。瞋は分別・倶生起に通じていますが、邪見と倶に働く瞋は分別起のものであるわけです。ここには、「邪見と及び倶なる無明と有り。或は、瞋も有り」と云われています。
 色界第四禅を得た増上慢の比丘が、そのままであるなら第四禅中有から第四禅天へ転生するであったにも拘らず、色界にありながら、欲界の邪見を起したんですね。解脱に慢心を懐いたのです。解脱をしたのなら中有は現れない筈である、と。中有が現れたのは解脱はないものであるという欲界の邪見(四諦の理發無の見)を以て、解脱や涅槃はないものであると謗ったわけです。釈尊も涅槃を得ていないんだ、と。このような増上慢によってこの比丘は、本来なら色界第四禅天へ転生すはずが、謗滅時を起因として欲界の中有が現前し、この比丘は無間地獄に転生したんです。
 此れは私たちの生活にもいえることだと思いますが、仏法を聞いておっても、現実の生活が裕福になる訳でもないし、金持ちになるわけでもない、聞いても、聞かんかっても何ら変わることが無いではないか。これが邪見なんですね。邪見が慢心を生んできますから、親鸞聖人は、これらの人を悪衆生とされました。というおり、衆生の本質を見抜かれたのですね。邪見をもって蠢いているのが我等である、と。「何ら変わることが無い」という見解ですね。ここが、「謗滅時」なんです。世間に埋没すると云う転落が待っているのですね。それを地獄と表されているのでしょう。
 明日は倶生起の煩悩についての所論をうかがいます。
 

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (70) 第七、三界分別門 (7)

2015-03-23 23:42:54 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 岐阜県本巣郡根尾村の薄墨桜。作家宇野千代氏がこよなく愛されました。数年前に訪れましたが、その美しさと、見事さに圧倒されたことを思い出しています。 
 
  三界分別門は、三界繋属門と上下相起門と上下相縁門の三部門より構成されています。2014年10月11日からの続きになります。遡って復習してください。
  
  三界繋属門 ― 総論・「瞋は唯欲のみに在り、余は三界に通ず。」
  上下相起門 ― 上は、上地のことで、色界第一静慮以上の土を指します。下は、欲界のことで、これを第一地として、三界を欲界・色界(四静慮)・無色界(四静慮)をもって、三界九地の教説を立てています。
   前半は、欲界にいる者が、色界に在る煩悩を起こすことがあるのか、どうかを問い、
   後半は、色界に存在する者が、欲界の煩悩を起こすことがあるのか、どうかを問う。
 今日からは、後半の問いについて考えてみたいと思います。
 色界に存在する者が、欲界の煩悩を起こすことがあるのか、どうかを問う科段になります。ここも、前半と後半の二部門によって構成されています。
 前半は、色界に存在する者は、欲界の分別起の煩悩も、倶生起の煩悩も起こすことを説明し、後半では、色界に存在する者が、欲界の煩悩を起こす場合と、起こさない場合があることを説明します。
 「上地に生在(ショウザイ)しては、下地の諸惑をば、分別にもあれ倶生にもあれ皆現起す容し。」(『論』第六・二十左)
 本科段は、前半の部分と逆の問いになります。
 色界は定の世界ですが、定の世界に入っていても、欲界の諸惑である分別起の煩悩と倶生起の煩悩のすべてを起こす可能性がある、と説かれています。ここは、一応は上地は色界を指すわけですが、広く言えば、無色界第四静慮である非想非非想処をも含めて、迷いの世界であることを教えています。退転するのですね。不退転ではないということです。菩薩は三界を超えた存在なのですね。迷いの世界は、三界九地で表されますが、菩薩行は十地として、初地が不退の位、不退転地なのです。また初歓喜地ともいわれています。

 余談になりますが、歓喜地についての私論です。
 「大乗仏教では、菩薩初地を、初歓喜地として十地の階位が説かれていますが、親鸞聖人は歓喜地をどのように抑えられているのでしょうか。「本師龍樹菩薩は、大乗無上の法をとき、歓喜地を証してぞ、ひとえに念仏すすめける」。また、「大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん」と龍樹菩薩を讃嘆されていますが、左訓には、「歓喜地は正定聚の位なり。身によろこぶを歓といふ、こころによろこぶを喜といふ。得べきものを得てんずとおもひてよろこぶを歓喜といふ」と了解を述べられています。菩薩十地の階位は初歓喜地を不退転地と押さえられていますが、龍樹菩薩は、七地沈空の難を課題として不退転地を問題にされたと、親鸞聖人は受け止められたのではないでしょうか。聖道仏教では菩薩の階位として修道が求められているのですが、信心の課題として、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」。摂取不捨の左訓に「ひとたびとりて永く捨てぬなり」「摂はものの逃ぐるを追はへとるなり」と注釈を施しておいでになります。大乗正定の聚に住せん、とは「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相の心行を獲れば、すなわち大乗正定の聚に住せん。正定聚に住すれば、必ず滅度に至る。必ず滅度に至れば、すなわちこれ常楽なり、常楽はすなわちこれ大涅槃なり」、親鸞聖人は竪超の菩提心に対して、横超の大菩提心として、「信心ひとつにさだめたり」と、雑行を捨てて、本願に帰されたのでしょう。『十住毘婆紗論』、入初地品・地相品・易行品(真聖p161~167 行巻)に於て、「菩薩初地に入ることを得れば名づけて「歓喜」とすると」と説かれている「歓喜地」を、如来回向の功徳として、現生正定聚住不退転と、菩薩八地已上の等覚の弥勒に等し、と押さえられたのです。他力釈には「阿弥陀と名づけたてまつると。これを他力と曰う」。「即時入必定」・「入正定之数」として歓喜地を抑えられたのですね。
 見道を修して、我執・法執を断じ無分別智を得た人を菩薩として、最初に入った位を見道初極喜地といい、十地の最初に入聖した人を、菩薩、或は聖と、それ以前は凡夫、唯識五位の段階では見道通達位を聖者といい、それ以前の加行位の人を賢者といわれています。大乗仏教では歓喜地は初であります。初地が歓喜地の別名です。詳しくは、見道初極喜地です。
 但、親鸞聖人は歓喜地を等正覚として如来廻向を明らかにされました。
 唯識では、「清浄な信を上首として心に歓喜が生じ、心が歓喜するが故に、漸次、諸の悪不善法品の麁重を息除す」と言われています。その初地得果の位は、心に歓喜が生ずる位である為に初である歓喜が生起する地として初歓喜地といわれているのでしょう。初歓喜地において分別起の煩悩は断じられるといわれていますが、なお倶生起の煩悩を断ずる必要がある為に修道が要求されます。修道において倶生起の煩悩すべて断じ尽くされて十地・法雲地が獲得されるとされています。」

 本論に戻りますが、上地に存在する者が、下地の諸惑を起こす可能性があることを、どうして言えるのか?という問題に答えてきます。ここが又二つに分けられて説明されます。初は分別起・後は倶生起についてです。また明日にします。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (69) 第七、三界分別門 (6)

2014-10-11 01:01:23 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門

 本科段は「下地の分別の惑を伏する能わずと雖も、根本定を得し已って、上地の分別起のものを起こすことを得。」を説明する科段になります。

 何故このような分析をするのか、疑問に思うわけですが、私が、私が、といって住んでいる世界は粗雑なんですよ、と教えているように思うんです。

 倶生起の粗い煩悩は、細なる煩悩を覆っているんですね。我を立てることに於いて現れてくる煩悩です。貪にしても、瞋にしても、痴にしても、或は慢と二見(薩迦耶見・辺執見)ですね、これは迷事の惑といわれているものです。これはですね、迷事の惑を破った、或は超えた、ここでは伏することが出来たと言われていますが、六行観に於いてですね。「世尊、我、宿何の罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また何の因縁ましましてか、提婆達多と共に眷属たる。」(『観経』・厭苦縁)と。欲界は麁であり、苦であり、障碍すべきものであると観じてこれを厭うわけです。そして厭苦と欣浄が一つになるわけですね。「この濁悪処は地獄・餓鬼・畜生盈満して、不善の聚多し。願わくば我、未来に悪声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かいて、五体を地に投げて、求哀し懺悔す。唯、願わくば仏日、我に清浄の業処を観ぜしむることを教えたまえ」と。」(欣浄縁)この時にですね、厭と欣の力に由って欲界の粗い煩悩を伏することができるのであるというわけですね。これは能観の智とよばれています。対象を観ずる智慧です。濁悪処という器世間を観じ、清浄業処という器界を、対象として観じているわけです。求めてはいるけれども、未だ自己の問題になっていないのですね、これを外門転と言い表しています。

 しかし、この外門転が仮といいますか、大事な役割をもっているのです。「こうありたい」と求める心が展開して、厭苦を阻害し、欣浄を阻害する問題が浮上してくるのです。

 ここが本科段の要点になります。

 「彼の定を得已んぬる時に、彼の地の分別・倶生の諸の惑をば皆現前す容し。」(『論』第六・二十左)

 下地(欲界)にいる者が、彼(上地・色界)の定(根本定)を得おわる時に、彼(上地)の地(上地)の分別起と倶生起の諸々の煩悩(九煩悩・瞋は上地には存在しない)はすべて現前するのである。

 いうなれば私が抱いている根本の問題、楽を阻害している要因は、欲界をこえるところから出てくるわけですね。少し戻りますと、

 「下地に生在して未だ下の染を離れざる時には、上地の煩悩を現在前せず。」

 欲界に沈んで、いわば煩悩にまみれている時は、本当の問題はでてこない。我中心の生活からはですね。

 しかし、「我」が問題となって、初めて我を覆っているものが現在前してくると教えています。それが根本煩悩といわれている瞋を除いた九つの煩悩になるわけです。

 まぁ、ここにもまだ深い問題が隠されているわけですが、今は問題にはされていません。根本煩悩は第六意識相応の煩悩なのですが、この第六意識の所依の問題です。

 求道は、欲界は厭離すべき世界であるというところから始まってくるのでしょう。欲界は悪業を發しないこともあるが、悪業を發する世界でもある、それ以外なにもないという、甘い期待を払拭するようなものなのでしょう。

      仏智を疑惑するゆえに
       胎生のものは智慧もなし
       胎宮にかわらずうまるるを
       牢獄にいるとたとえたり
           (『正像末和讃』)
     仏智疑惑和讃二十三首は「仏智不思議の弥陀の御
     ちかいをうたがうつみとがをしらせんとあらわせるな
     り。」

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (68) 第七、三界分別門 (5)

2014-10-08 23:15:02 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門

 「論。彼但迷事至正障定故 述曰。何以世間道伏修不伏見。修道所伏之惑。一但迷事生。二依外門轉。簡見道貪等唯縁内見等生故。三此所伏煩惱體散亂故。四麁動正障於定。定是事觀。事障障故 有義此身見等既不能伏。後越入聖得第三果。如第七識欲界繋者。亦不能斷。要至金剛方能頓斷。唯障無學故。不同見惑正障見道。及見理故。此違第七卷滅定中文。不許聖者伏下生上。有種子故 今解亦斷。不可説以先不伏故即言不斷。見惑不伏。入見斷 故。但有漏道既是事觀。不伏理惑。入現觀時理實亦斷。雖無正文任意取捨 於中復有二説。一云見道起二無間。一斷見惑。起解脱道已復起無間。斷前所伏修道之惑等已方起相見道。二云由加行時先已伏故。一無間道與分別倶斷。此爲正義。」(『述記』第六末・四十七右。大正43・453a~b)

 (「述して曰く。何ぞ世間道を以て修を伏し、見を伏せざるや。修道の所伏の惑は
 一に、ただ事に迷って生ず。
 二に、外門に依って転ず。見道の貪等がただ内の見等を縁じて生ずるを簡ぶ故に。
 三に、この所伏の煩悩は、体が散乱成る故に。
 四に、
麁動にして正しく定を障う。定はこれ事観なり。事を障うる障なる故に。

 有義は、此(第六倶生)の身見(迷理)等は、すでに(六行の事観)伏すること能わず。(全離欲の人は、凡位に六行観を以て欲界倶生の事惑の九品を伏し已って)後に、(初二果を)超えて聖に入り(第十六心のとき)第三果を得るときは、第七識の欲界繋のものの如く、また断ずること能わず。要ず金剛に至って方によく頓断す。ただ無学を障うるが故に、見惑の正しく見道と及び見の理を障うるに同じからざるが故に。これは第七巻の滅定の中の文に、(不還の)聖者が下を伏して上に生ずるを許さずというに違す。種子あるが故に。

 今は解す。亦(見道の位に見惑と同じく)(倶生の身見を)断ず。説いて先(凡位の六行観)に(身見を)伏せざるを以ての故に。即ち断ぜずと言うべからず。見惑は伏せずとも見に入るとき断ずる故に。但し有漏道はすでにこれ事観なり。理惑を伏せず。現観に入るとき理実にはまた断ず。正文なしと雖も意に任せて取捨せよ。

 中においてまた二説あり。
 一に云く、見道に二の無間を起こす。一に見惑を断じ解脱道を起こし已り、また(第二の)無間を起こす、前の所伏の修道の惑等を断じ已り、まさに相見道を起こす。
 二に云く、加行のとき先に既に伏せるに由るが故に、一の無間道を以て分別と倶に(倶生を)断ず。これを正義と為す。」)

 『述記』の釈文を記載しました。

 「但し有漏道はすでにこれ事観なり。理惑を伏せず。」と言う一文に尽きると思いますが、分別起の貪等の煩悩は、体相が粗く激しい(体相麁猛)のものであるが、粗いために見道において断ずることが出来る煩悩である。(見所断)分別起の惑は迷理の惑であり、有漏道をもっては伏することは出来ない。ただ倶生起の煩悩は迷事の惑である為に、倶生起の粗い煩悩は有漏道をもって伏することができるのである、と。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (67) 第七、三界分別門 (4)

2014-10-07 22:48:01 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門

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 お知らせ。 来たる10月12日(日) 大阪市旭区千林(地下鉄千林大宮下車徒歩2分)の正厳寺様で「心の構造」と題して、午後3時より開講されます。有縁の方々お誘いあわせの上御聴聞くだされば有り難いことです。

 また、10月15日(水)は八尾市本町(近鉄八尾駅下車徒歩10分)の聞成坊様で『成唯識論』の基礎講座を午後3時より開講されます。

 今回は種子の六義と所熏・能熏の四義について考究させていただきます。

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 有漏道をもっては、分別起の惑と細なる倶生起の惑は伏することはできないが、倶生起の粗い惑は伏滅することができると説かれていました。

 では何故倶生起の粗い煩悩を伏することができるのかですが、本科段はこの問いに答えています。

 「彼は但事に迷せり、外門(ゲモン)に依って転ず、散乱なり、麤動(ソドウ)にして、正(マサ)しく定を障(サ)うるが故に。」(『論』第六・二十右)

 倶生起の粗雑な煩悩は、ただ事に迷って、外門に依って転じ、散乱である。心が定まらず動揺して、まさしく定を障碍するものだから、有漏道を以て伏することができるのである。

 その理由

  1.  但事に迷せり(迷事の惑)、
  2.  外門に依って転ず、
  3.  散乱なり、
  4.  麤動にして、正しく定を障うるが故に。

 但し、迷理の惑である分別起の煩悩は六行観では伏することはできない。

 二番目の外門は、外に向かう門で、対象を有として、対象に迷って働くものだから伏することが出来ると説明しています。外門に依って転ずるもの(外門転)である、言い換えれば、外道から内道へは、仏法に触れると、迷いは外境に問題があるわけではなく、外境を作り上げている自身が問題であると気づいてくるわけでしょう。しかし、ここからが出発点ですね。「雑行を棄てて本願に帰す」るところから仏法の課題が新たに起こってきます。そこは迷理の惑という「見道の貪等は唯内の見等を縁じて生ずる」ことを簡ぶわけです。

 そして、体は散乱状態にあり、行相は麤である為に、有漏道(六行観)で伏することができるのであると説かれています。

 本科段は『述記』と『演秘』の釈を伺うことに由ってより一層はっきりしてくると思われますので、後日、尋ねてみたいと思います。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (66) 第七、三界分別門 (3)

2014-10-06 23:34:07 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門

 上の煩悩とありますが、色界・無色界は「定に伏せらるる」といわれていますように、上二界の煩悩は分別起・倶生起を問わず無記であるということですね。

 欲界は、欲望の世界、五欲が満ち溢れている世界ですが、そういう世界が有るわけではありませんね。心の影像、相分、自らが、自らの心の状態を外に投げ出したものなのでしょう。

 欲界のものは、分別起は不善である。倶生起のものには、悪業を發するものと、發しないものがある。ここですね、悪業を發するものは不善として働く。しかし、欲界に在っても、悪業を發しないものは有覆無記として働く、上の未至定とは一面上地に触れているが欲界の煩悩を離れていないから、上地の煩悩は生じないというわけです。

 しかし、次科段では、下地にいる者が倶生起の粗い煩悩を伏して上地の根本定を証得しうることができるのであるのかを説いています。

 「諸の有漏道は分別起の惑と及び細なる倶生とをば伏すること能わずと雖も、而も能く倶生の麤き惑を伏除(ブクジョ)して漸次(ゼンジ)に上(ジョウ)の根本定を証得(ショウトク)す。」(『論』第六・二十右)

 諸々の有漏道(「此は修を伏することを顕す」六行智=六行観)は、分別起の惑と及び細かい倶生起の惑は伏することはできないとはいえ、よく倶生起の麤なる惑を伏除して漸次に上の根本定を証得するのである。

 

  • 六行智(ロクギョウチ) - 六行観ともいう。「下地は麁(そ)・苦(く)・障(しょう)、上地は静(じょう)・妙(みょう)・離(り)の六行観を以て生ずるなり。」という六つの認識のありかた。下地・上地の有漏法を観察して、漸次に八地・七十二品の修惑を断じて智慧を得ていく修行法をいう。

 

 即ち、下地を麁(そ)・苦(く)・障(しょう)であると観じてこれを厭離し、上地を静(じょう)・妙(みょう)・離(り)であると観じてこれを欣求し、厭離と欣求の力に由って下地の煩悩を伏していくものであると云えるのでしょう。また、六行智による修行の道は、煩悩が有る修行の道であると云われ、有漏道といわれ、分別起の惑と、及び細かい倶生の惑とを伏することはできないが、麤い倶生の惑を伏除することができる段階とされます。これはただ事観であるので、迷理の惑を伏することはできず、迷理の惑は無漏道によって伏されると云われます。

 

 麤とは「身・辺見と及び此と相応するを除くなり」と。分別起の煩悩と細かい倶生起の身見(薩迦耶見)と辺執見とこれらと相応する煩悩は伏除することはできないと云っているのです。いえば、倶生起の麤い煩悩は漸次に(次第次第に階段を上るように)伏除することができ、次第次第に上地の根本定を証得することができるということを説いています。

 

     (つづく)

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (65) 第七、三界分別門 (2)

2014-10-05 23:09:02 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門

 その二、上下相起門

 「下地(ゲチ)に生在(ショウザイ)して未だ下(ゲ)の染(ゼン)を離れざるときには、上地(ジョウチ)の煩悩を現在前せず、要ず彼の地(ジ)の根本定(コンポンジョウ)を得たる者のみ彼の地の煩悩をば現前す容きが故に。」(『論』第六・二十右)

 下地とは欲界のことですが、生きとし生ける者(有情)が欲界に在って、未だ欲界の染(欲望・執着)を離れない時には、上地(色界)の煩悩を現在前することは無い。
 かならず、その地の根本定を得た者のみ。その地の煩悩を現在前させるからである。

    下地 → 上地へ
           (未至定) = 上地の煩悩は現れない。

 下地から上地へと歩を進める中で、下地の煩悩を離れていない時は、上地の未至定に入っているけれども、その地の根本定を得ているのではないので、上地の煩悩は現れないのである。即ち、下地の煩悩を離れて初めて上地の煩悩が現れるのである、と説明されています。

 ここもですね、どう読みこなしていくか問題になるところですね。欲界では十の煩悩はすべて整っているといわれていますが、特に瞋ですね。この煩悩は欲界のみに存在するといわれています。このことから察するに、欲界に在っては、瞋を除いて九の煩悩の分別起は不善であるが、倶生起は有覆無記であるという、そして上地に在っては分別起・倶生起を問わず、有覆無記が上地の煩悩ということになりますね。

 

 そうしますと、問題は瞋という煩悩から離れることは出来るのかということです。「いかり、はらだち、臨終の一念にいたるまでたえず、きえず」という自己の問題は、私たちは欲界から出ることは出来ないという自覚になるのではと思うのですが。欲界にのみ存在する瞋はただ不善であることは、救われる手がかりがないということになります。まあ甘い夢を見るなということでしょうね。しっかりと脚下を見よということになるのでしょう。聞法はこれしかないんだという目覚めだと思うんです。もったいない人生を生かさせていただいているんだな、という驚きと感謝の念が、瞋を縁として聞法に向かわせる道が開かれてくるということになるんではないでしょうかね。

 

 救われるべき縁の喪失が、すくわれる縁となるという大悲心だといただいています。

 

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 「救われるべき縁の喪失」という意味は、己への執われからの解放ということを言いたかったんです。逆に言うと、執われからは救われる縁は無いということなんです。救われる縁はないんやという目覚めが己を解放してくれます。本当は大海原を生きているんだけれど、己への執われから小さな小さな秘密基地の中に己を閉じこめているんですね。そこに目が開けば、過去のすべてが縁となるということですね、捨て去るべき縁は無いという、すべてはこの時の為の御縁であったという頷きやと思います。  それと自分で動いているように思うんですが、錯覚やね。その証拠に自分の思い通りになってないからね「自分の人生、こんなはずではなかった」と思うでしょう。自分自身が動いているように思っているだけです。自分自分という執われから解放されることが楽という救いなんです。それが人生の最大目的なんで、生きるというか、うごめいていることはさほど大切ではないということですね。そしたら、命はもう縁に託したらよかんべえ、と思います。

 

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (64) 第七、三界分別門

2014-10-02 21:57:27 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門

 第七、三界分別門に入ります。

 問い

 「此の十の煩悩は何の界にか繋(ケ)するや?」(『論』第六・二十右)

 本科段は、三界の視点から十の煩悩を分析し説明されます。

 三界

 欲界を一地とし、
 色界を四静慮に分け、          } 九地(一切地)
 無色界を四無色界静慮に分ける。
 (空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処)

 この十の煩悩は三界の中のどの地に存在するのか?

 構成は、三界繋属門と上下相起門と上下相縁門の三部門になります。

 総論としては、瞋はただ不善であるからただ欲界にのみ存在し、他の九の煩悩は三界に通じて存在することを明らかにしています。

 「瞋は唯欲のみに在り、余は三界に通ず。」(『論』第六・二十右)

 三界分別門の中心課題は次の上下相起門と上下相縁門になります。

 先ず子段第二は上下相起門です。上は上地(色界)、下は下地(欲界)。下地に居る者が上地の煩悩を起こすか否かについて論究されます。

 今日はここまでにしておきます。