選手時代はブラジルの国宝的な存在、いまも「サッカーの王様」と尊敬されるペレは、貧しい少年時代を送った。いつも裸足で、捨てられた服を拾って着ていたそうだ。7歳で靴磨きをやり、靴下を丸めたボールを蹴って遊んだと、『ペレ自伝』(伊達淳訳)にある▼食べるものがないといった、生活につきまとう恐怖は、数ある恐怖の中でも最悪のものだと本人が語っている。だが近年は、経済成長や救済策で数千万の人が貧困層から抜け出したという。結構なことだが、それがデモの背景の一つらしい▼ブラジルを揺らすデモの参加者は中間層が多いと見られている。極貧からたたき上げた前大統領以来の政策で、貧しい人は手厚く保護された。片や中流は負担ばかりで恩恵は乏しい。不満のガスをためこんでいた▼「自分たちの税金を貧困層にばらまいている」といった声もあると聞く。サッカーが最高のガス抜きという国で、コンフェデレーションズ杯開催中のデモの激化に、政府の動揺は小さくなかろう
さてブラジルでは大規模なデモが続いているわけですが、中流層の不満もまたあるようです。多く伝えられるのはW杯などのイベント優先で社会インフラが後回しにされているとか、物価上昇(サッカーの観戦チケット料金が特に値上がりしているそうで!)が顕著だとかですけれど、デモ参加者の中には上記引用で伝えられているような動機でデモに参加している人もいるのでしょうか。中東諸国で相次いだデモや暴動あるいは革命もまた、貧困層よりも新興の中産階級が核であったように記憶しています。社会が大きく動くのは、「中」が立ち上がったときである――そう考えれば中産階級を狙い撃ちにして「上」と「下」への二極化を進めてきた近年の日本の改革は、「変わることを防ぐ」ためにはベストの選択であったのかも知れません。
近年のブラジルは、過去に経験した対外債務後の財政破たんとインフレの蹉跌を乗り越えて経済成長が続いている。植民地時代以来の遺構と考えられていた所得格差が縮小(図1)し、社会の安定化も進んでいる。その要因はこれまで取り組んだ構造改革が着実に成果をあげてきたことにある。
第1はマクロ経済健全性の確立である。すでに多くの国営企業は民営化された。財政収支はプライマリー・バランスを毎年の債務返済分まで黒字にするように数値目標が設定され、財政の健全性を「見える化」した。金融政策では年率4.5%を目途とするインフレ目標を導入し、物価安定のために2003年に一時年率26.5%まで引き上げられた政策金利は、直近では8.5%まで引き下げが進んだ。外貨準備は輸入の20カ月分を賄える3700億ドルに達している。
日本ではインフレ目標が2%という低すぎる水準に止め置かれているわけですが、ブラジルでは年率4.5%を目途として概ね成果を上げていることが伝えられています。そして格差の水準として一般に用いられるジニ係数はと言えば、着実に低下を続けている、と。冒頭の引用にもありますが、経済成長や救済策で数千万の人が貧困層から抜け出したわけです。しかるに我が国はと言えば、ブラジルとは全てが反対なのか経済的地位を著しく低下させ、そしてジニ係数を大きく上昇させてきました。経済成長を果たしたブラジルでは格差が縮小し、世界経済から取り残されるかのごとき低迷を続けた日本は格差を拡大させた、この現実に向き合わなければなりません。
経済的に豊かで格差の大きい国か、貧しくとも格差の小さい国か――そうした二択が小泉/竹中体制下では何度となく突きつけられたわけです。もちろん世界には日本よりも経済的に豊かでありながら格差の小さい国もあれば、日本よりもずっと貧しいにもかかわらず格差の大きい国もあります。本来ならば選択肢は4つ、「豊かで格差が小さい国」「豊かで格差が大きい国」「貧しく格差の小さい国」「貧しく格差の大きい国」と、この4つくらいから選ばれるべきですが、提示された選択肢は2つであり、実際に日本が進んでいった先は2つの選択肢のどちらでもない、「貧しく格差の大きい国」でした。馬鹿げた話です。
ところが表面上は小泉/竹中体制に批判的な人でも、上記の二択を完全に受け入れている人が多いのではないでしょうか。経済的に豊かで格差の大きい国か、貧しくとも格差の小さい国か――この偽りの二択を信じている人は、むしろ小泉に批判的な「つもり」でいる人にこそ多いようにすら思います。彼らの頭の中では小泉政権下で前者が目指されたことになっているのか、対抗言論として暗に後者を押している類が目立ちますけれど、しかるに現実の日本は諸外国の経済成長に大きく後れを取るばかりで経済成長にはむしろ背を向けてきた、改革という目的のために経済を犠牲にしてきたのが実際のところです。
とりあえず私は(日本流の)構造改革の精神からの「遠さ」こそ、その政党なり政治家なりの現実に対処しうる姿勢の尺度だと考えています。「豊かで格差が大きい国」か「貧しく格差の小さい国」の二択という小泉ワールドの設定と現実を混同しない程度の良識は最低限、求められるものです。経済成長を重視する政党/政治家にネガティヴであったり、あるいは嫌いな政党/政治家に経済優先とのレッテルを貼ったり(少なくとも小泉は改革優先であって断じて経済優先ではありませんでしたが)、とかく経済成長に否定的な人、経済成長が格差を拡大させるかのごとき幻想を抱き続ける妄想家は今なお少なくないわけですけれど、そんなものに付き合っていられるほど日本社会は余裕もないでしょうし。
喩えるなら経済成長は基礎体力のようなものです。先日は女性の活用が経済成長に繋がるのではなく、経済成長で人手が足りなくなって性別で選んでもいられなくなる、それが結果的に女性の登用機会を増やすのではとも書きましたが、そうでなくとも景気が良くなって簡単に職を得られれば社会保障を必要とする人も減るわけです。概ね経済成長は万能薬と言えます。もちろん経済成長では救われない個別の症例があって、それは別の処方箋が求められるところですけれど、元から体力があれば医療に頼る必要性も減る、特定の症例向けの薬を用意することもさることながら、日頃の体力を付けておくこともまた欠かせません。経済成長なくしては社会保障も担うものが重くなるばかりですから。経済成長に貪欲ではない政党には、やはり任せられないなと思うのです。
管理人さんがこちらで指摘しておられる「若くなくなったら終わりだ」という価値観も、それに拍車を掛けているのかもしれません。
ただ、若者重視の価値観は今に始まった事ではありませんけどね。
5月頃だったか、朝の情報番組でホリとかいう、うだつの上がらないモノマネ芸人が、『うちの奥さんが35歳にもなって大学に通い出したんスよ(笑)。ドラマ(「35歳の高校生」)と同じで、オバさんが今さら大学に通ってるんスよ。おかしくないっスか?(笑)』など嘲笑していて憤ったのですが、このバカの言っている事も強ち間違いではないと思います。
公明党や共産党などの若者支援に尽力している“つもり”の政党が「若者ガー、若者ガー」と喧しいですが、自称・福祉を重視している政党ほど“若者ではない”層の人たちを社会の一員と見なしてくれないものです。
ホリの言う、30過ぎて学校に通い出したようないい歳のオジさん/オバさんでも考慮してくれる社会になれば、「豊かで格差が小さい国」に少しは近づけるのではないでしょうか。
なにせ30過ぎても「○○女子」「○○男子」を称する社会ですから。それを過ぎたら爺婆の世界に一直線、若作りに努めなきゃいけないのでしょう。「若者のため」と称すれば何でも正しいかのごとく扱われるご時世ですけれど、チヤホヤされるのは若い内だけという風潮を改めて、若くなくなった先に希望が持てるようにすべきと思うのですけれど、その辺は保守を称する政党も左派と見なされる政党も、どちらも無頓着なんですよね……