非国民通信

ノーモア・コイズミ

萎える邦題

2014-10-16 23:00:46 | 文芸欄

 自分は文学が専攻でして、ただまぁ文学の研究者というものは大学でも文学を教えるより語学を教える役割の方が期待されているところもあるのが悲しい実情と言いますか、語学が苦手な私は色々と限界を感じたりもしたものです。外国語での会話に比べれば読む方はずっとマシではあったのですけれど、それでもまぁ各種の翻訳には色々お世話になりました。そんなわけで諸々の海外作品の邦訳には古いものから新しいものまで少なからず接する機会があったのですが、訳された時代によって一種の流行もまたあったように思います。

 現代は、言うなれば「誤訳派」みたいなのが喧しいと言いますか、ちょっとでも原文に忠実でない訳があると誤訳だの何だのと突っかかっている人も見受けられるところで、あまり大胆な翻訳は見られなくなっている印象がないでもありません。まぁ先駆者の翻訳と、先人の訳を参考にしながら校正していくように訳を作っていった翻訳とでは精度に差も出てくるものなのでしょう。時には反対に、最初期の訳者が作り上げたイメージを覆そうと変な訳文をひねり出しているケースもありますが、そういう突き抜けている類は意外に非難されていない気もします。先駆者による工夫された訳と、そこから反動で出てきたようなひねくれた翻訳とでは、また別ではあるのですけれど。

 一方で「タイトル」に関しては、ひねりのない退屈な代物が主流になりましたね。この辺は文学に限らず、映画でも音楽でもゲームでも同様ですが、最大多数派は原題をカタカナ書きにしただけ、というパターン。これは実に、つまらないです。昔の翻訳者はただ単にタイトルを日本語に置き換えるだけではなく、なんとかして作品が纏っている空気のごときものを伝えようと、成功しているかどうかは別として色々と頭を使っていたように見受けられる一方で、現代の邦題は実につまらない、その日本版のタイトルを聞かされるだけで中身を見る前に萎えてしまうような類が目立ちます。

 『ライ麦畑でつかまえて』が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に変わってしまっては失笑ものですし、『ゴリオ爺さん』が『ペール・ゴリオ』になってしまうのも何だかマヌケにしか感じないのですけれど、それが時代の流れなのでしょう。過去の訳者が使った邦題をそのまま拝借するのも工夫の無い話かも知れませんが、単に「カタカナにしてみる」ってのは、それは翻訳ではないという気がしますね。冠詞を適当に省いているという点で、原文に忠実というものですらありませんし("You've Got Mail"が『ユー・ガット・メール』なんてのもありました、"And Yet It Moves"という、ちょっと面白いゲームもあるのですが、邦題は『アンド イエット イット ムービース』……)。

 『ああ無情』は『レ・ミゼラブル』になり、『華麗なるギャツビー』は『グレート・ギャツビー』に、『指輪物語』は『ロード・オブ・ザ・リング』になりました。『博士の異常な愛情』も、たぶんリメイクされたら邦題は『ドクター・ストレンジラブ』になるんでしょうね、きっと。そして『ジャングル大帝』は『ライオン・キング』、『殺せ、ロシア人だ』は『リメンバー・ノー・ロシアン』になってしまうわけです。やだやだ。

 まぁ『アナと雪の女王』は『フローズン』にされなくて良かったね、と思います。内容は知りませんが邦題は悪くないでしょう。ちなみに『アナ雪』と同様に随分と熱心に宣伝されていた映画としては『ファインディング・ニモ』なんかを思い出します。当時は館内に映画館も入っていた商業施設のテナントで働いていたものですから、『ファインディング・ニモ』を見に来た親子連れの姿もよく見かけたものです。どこの子も皆、「ファイティング・ニモ」と言っていました。原題をそのままカタカナ書きにするという王道の邦題ではありましたが、子供達には難しかったようです。

 ちなみに私が知る内で至高の邦題は『超 男 性』ですかね。原題は"Le Surmâle"で、この邦題が『超 男 性』です。訳者は誰かと見返したら、澁澤龍彦でした。元のタイトル自体が優れたものではあるとはいえ、流石です。この邦題でなければ手に取ることはなかったと思うところ、タイトルを作るのは簡単なことではありませんが、それだけにセンスが問われる部分でもあります。

 

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コメント (3)
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