RC-NET(レイプクライシス・ネットワーク) BLOG.

RC-NET STAFFによる、日常の些細な出来事から、お知らせまでいろいろなぶろぐ。

地域支援

2010-10-19 02:31:16 | スタッフ雑感
わかっている人は、わかっている。

それは、レイプクライシスを自分が代表としてやりだして、もしかした一番の実感として感じたことかもしれない。

今までずっと隠そうとしてきたこと、一人ぼっちだと思っていたこと、そうした人に、どう声をかけたらいいか、わからなかったこと、
それに対して、
あれ、
こんな人もいるんだ、
あれ、
こんな思いをもってる人がいるんだ、
と、
あらゆる出会いに、私はすごく力をもらいながら、この一年を過ごしてきた。

組織というものの中では見えてこなかったこと、
自分から発信し始めてから、それでこそ見えてきたものが、本当にたくさんある。

この一年は、私にとって、すごく大切な一年だった。

RCSNKを再開させる、と決めたとき、覚悟を決めた。
私は、これで生きていけるようにするんだ、と。
私だけじゃない。
学歴だとかキャリアだとかは、正直どうでもいい。
ただ、そこに思いを向けて、それについて、人生という学びの中で、必死に学び、真剣に考え、自分としての目指すものが見えた瞬間から、
市民活動というのは始まるのだと思う。
そこに賭ける人がいるのであれば、私は、この道で食っていくことが出来る人を創出していきたい。
世界を作っているのは、偉いさんの鶴の一声ではない。一般市民の、切実な、生の声だ。


私は、生涯を通じて、プロになりたくない。
一素人でいい。一市民でいい。
同じ土台に立って、 一緒に生きていきたい。
必死に足掻いていたい。一生懸命生きていたい。馬鹿だといわれても、生き辛くても、
自分の心に正直に生きていたい。

だからこそ、自分の思いで、自分の色で、どこまでいけるだろう、とチャレンジし続けたい。


と、いうのは、RCSNKを再開させてから、一年が経った(と、さっき気づいた)今、私の心にある思い。
その思いを持続できるだけの、素敵な出会いや、出来事がたくさんあった、そんな一年だった。

ありがとうございました。本当に。


と、そんな日ですが、
今日は梅田であった「HIV陽性者をめぐる地域支援の連続性」というシンポジウムに行ってきました。
私に、こうした世界で生きていくためのきっかけをくれた、ぷれいす東京から、生島さんが参加されるということで、生島さんの隠れファン(ダンディズム。ほんとに、“隠れ”ファン。面と向かっては、話せません。爆)な私は仕事をサボって行ってきたのですが(笑)
今回のHIV/AIDSの地域支援に関する研究、調査報告を生島さんたちがした後に、
関西でのHIV陽性者へのサポートを地域社会においてされている方々のお話がありました。
一番に思ったのは、
“分かってる人”、理解ある人は、いっぱいいてる。でも、それを“地域に戻って”実践出来る人は少ない。ということ。
でも、“いる”という事実。
いくら研究が進もうが、いくらコミュニティーが大きくなろうが、それが地域に還元されなければ、どうにもならない。
HIV/AIDSに対する差別や偏見はいまだに多い。
同じ職場にHIV+の人がいたら、HIV+、AIDS発症後の人のホームヘルプに入る要請があったら、
拒絶反応を起こす人は、やっぱり多い。
いくら“分かってる人”がいようとも、実際の地域に戻ったとき、それを実践できている人なんて、地域なんて、ほんの一握りなんだ。

ということは、
まだまだ、これからだ、ってことだ。
それでも、まだまだなんだ、ということだ。


性暴力でも同じだと思う。
実際目の前に当事者がいたら、社会は差別をする。偏見の目を向ける。
生き辛い。
被害者保護がどれほどに訴えられようとも、
リアルなものだと、感じてもらえない。
一部にどれほど思いを向けてくれる人がいようとも、
実際、生活は楽にはならないし、世間的な目もきつい。大きな声を出せない人は、社会という渦の中に、飲み込まれてしまうんじゃないか。

世界中には、ありとあらゆる“問題”がある。
私だって、その全てを理解しているわけでもなければ、知っているわけでもない。
当事者にとってはとてつもなく大きな問題である一方で、「自分には関係のないこと」と思ってしまったら最後、
一生涯、触れずともすむことだ。

私は、研究者でもなく、その道のプロでもなく、
地域社会の一市民として、これから社会に対して何が発信できるだろう。

まだまだ、わからない。
存在として、こんなちっぽけな一人の人間に出来ることは、きっと限られている。
だからこそ、そのちっぽけな声を、これから一人でも多くの人に、伝えていくのだ。


問題を大きく捉えて広く全体に伝えていくこと、
目の前にある問題に対して、この社会という資源を最大限、有意義に生かして一人の人に伝え、行動していくこと、
その二つの、
マリアージュ♪を、
私はこれから、味わっていきたい。

そうした存在に、なれたらいいなと思う。



「人生をフルコースで深く味わうための
幾つものスパイスが誰もに用意されていて
時には苦かったり
渋く思うこともあるだろう
そして最後のデザートを笑って食べる
君の側に僕は居たい」


ミスチルが心に沁みるZ!!

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アヒルの子

2010-10-17 23:49:19 | 事務局より
アヒルの子という映画を十三の第七藝術劇場まで、みにいってきました。

5歳のころにヤマギシの幼稚部に預けられた事をきっかけにして生まれた孤独感「いい子」にならなきゃという思い、子どもの頃にあった兄からの性暴力をきっかけにした「自分は汚れた」という思いや恐怖感、存在価値を見出せない生き辛さ。死にたい、という欲望。

スピークアウトの権化みたいな作品だな、と思った。

監督であり、このドキュメントの主演である小野さやかさんの、泣きっぷりはすごいもんがある。
過呼吸起こす勢いで泣き、苦しんで、相手を睨み付ける勢いで直視する様子は、
一見したら“イタイやつ”みたいな感じすらある。でも、そうなんだ、わかるよ、その気持ち。

すっごいこみあげるわけではなかったけど、自然と涙が流れてくる様な作品だった。

この作品が、彼女によって撮られている監督作品だということにすごく価値がある気がする。
彼女なりの“見せ方”が、真摯に見えた。
誰かの目を通したんじゃなくて、当事者が当事者として、そして“映画を撮る人間として”客観的に自らや家族、他者を捕らえ、どう見せたいのかを考察したものであったということが、すごくいいな、と思う。

内田春菊さんがコメントしている、
「死ぬ代わりに撮ったのだということがよくわかります」
と言う言葉が、そうなんだな、と、合点いった。
よかったな、と思う。彼女にとって、死ぬ代わりにもなりうる、“映画を撮る”という手段があったことに。

上映後、小野さんにパンフにサインもらいながら少しお話させてもらって、
感想を聞かれたから「こういう話を、こうやって、外に話してくれる人が増えてきたってことが、すごい嬉しい」みたいなことを言ったんだけど、
ただ、私はスピークアウトすることが必ずしもいいことだ、とは思ってない。
悪いことではもちろん無いけど、それによってあるリスクだって考えるし、それを受けての周囲の反応やその体験の取り扱いだったりが間違えば、意図せぬ方向に物事が進むこともある。みんなとシェアすることが万人にとっての救いにはならない。
でもやっぱり、安心もする。よかった、ここにも仲間がいるんだって。そして、そのスピークアウトだったりが、まず本人にとって意味のあるものであるなら、やっぱり素敵なことだと思う。
この映画を撮り、それを公開するまでの5年だったかに、どんな葛藤があったのかはわからない。どんな素敵なことがあったのかも、私にはわからない。
でも、よかったよね、これが出来て、と思った。

しっかし、最近沸点の低い私は、あの兄に、劇的にムカついた。
なんだよその他人事。
なんだよその偉そうなもの言い。

全てが思い通りにはいかないのが世の常だし、
ドラマみたいなハッピーエンドなんてそうそう無くて、
どっかで、ここで終わりにしよう、みたいな事を考えたり、終わりになんかならないんだけど、次に行こうって思えたり。
その、一歩が、この映画だったのかなと思った。

小野監督が、次に撮るのはどんな映画だろう。
楽しみだな、と思った。

二週間だったかな、ナナゲイで上映しているので、いける人はぜひ行ってみてね。



見終わってからトモとねぎ焼きのやまもとに行って、口、超やけどしました。
ねぎ焼きをこよなく愛する私としては、しょっぱなから出鼻をくじかれる。しかも車なのでノンアルコールだったため、なんか不完全燃焼。
また行こうと思う。やけど治ったら。
いやしかし、ねぎ焼きはやはりウマイです。
ナナゲイの後は、ねぎ焼きできまりですZ!!

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恐怖感というもの

2010-10-17 16:50:40 | スタッフ雑感
最近沸点が低すぎる、と友達に笑われた岡田です。

面目ない。

思うに、これまでの人生ではかなり、我慢していたんです。
ほら、あれですかね、
正しいことを正しいっていうのが恥ずかしいお年頃、みたいな感じだったんです。というと、私を知っている友人たちは、「んなことねぇだろ」と言うかもしれませんが、
私の内部事情としては、そうだったんですっ。(と、架空のことにすでに怒り気味。爆)


嫌なことを、嫌だって言えない。

居たくないのに、帰るって言えない。

痛いのに、痛いって言えない。

泣きたいのに、泣くことを拒んでしまう。

逃げたいのに、逃げられない。

怖いから。


先日、「命綱もなしに50mくらいんとこに登っても、俺には“落ちるかもしれない”という想定はないから怖くない。その、想定をなくすべき」と言うようなことをおっしゃった方に、
あぁそうだな、それはすごい分かるな、と思いながらも、

「でも、50mから命綱もなしに何度も何度も落ちていたり落とされていたりしたら、やっぱり怖いんだよ。
それでも“私は落ちないんだ”って思い込んで進むためには、めちゃくちゃ覚悟がいるんだよ」
と言うようなことを言った。

そうなんだ、
確かに怖い。だけど、その恐怖感は、もしかしたらただの“心配”に終わるのかもしれない。
だからこそ、前に進みたい。
でもそこにある恐怖心は、決して気のせいなんかではなく、気の弱さなんかではなく、確実にある、私自身の、そしてあなた自身の気持ち。

でもそこに留まりたくないなら、
やっぱり覚悟しなきゃならないときもある。

ただ一つ確かなのは、
そんな焦らないでいいし、ゆっくりでもいい、間違ってもいいし、グダグダでもいい、そして、
絶対に、諦めなければいいだけなんだと思う。

その日はいつか、来るって信じること。

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小心者の喧嘩っ早さ。反省。

2010-10-14 02:08:03 | 未分類
基本的に、私は批判的なメッセージだったりバッシング関係は、見て見ぬふりを決め込むことにしています。

なぜなら、

私が小心者だからです。

だって、怖いから。
怖いし、辛いから。

やるからにはいろいろな意見に耳を傾けなければ、というご意見もあるだろうなとは思うのですが、
私は、誰かがお前はおかしいって私に対して思っているなら、じゃあ自分で違うことをやればいいじゃない、と思うんです。自分の思いを相手の思いにするために、争っても仕方ないじゃない、と。
いろんな意見があっていいと思う。
でも、自分にとってそれが本当に信じてることなんだったら、自分が自分の思いで自分の場所で、それを発信すればいいって思うんですよね。
そして自分の仲間を増やしていけばいい。
その中で、分かり合えた人と手をつなぎながら、社会的世論をどう動かしていけるか、自分で見つけていくしかない。そのために動いてる。

もし、自分の思いをシェアしたいなら、批判とかじゃなくて、馬鹿にするんじゃなくて、ちゃんとお話できる場所を持てるだけの関係性っていうのが必要なんじゃないかなと思う。そのためには、ちゃんとお互いを知り合うっていうことが、一番大事なんだろうなって。
私は、人の話を聞かないって言ってるんじゃなくて、
怖いから、怒らないでって言ってるに過ぎないんです。
小心者だから。

だって、物事にはあらゆるバックグラウンドが有り得て、
大して知り合ってもいない人と、自分のパーソナリティーだったりを分かり合えるとは思わない。
ちゃんと向き合っていないことに対して、
知識もスキルも持たずに、全体像について語れるとは思わない。



が、そんな、小心者なはずの私が、
個人的にやってるmixiでふと全体公開で性暴力について話をしてしまったがために、
よく知りもしない人と議論することになってしまったのです。通常無視を決め込むのに、なんだかカチンときてしまって、
思いっきりガッツリ話し込んでしまったのです・・・。

そういうのは、結局お互い言いたいこと言うだけで、分かり合えないものです。
相手だって、私をわかろうとしているわけじゃなく、自分の意思を伝えたいだけなのだから。

で、その時に私が書いたこと、後から読むと“うわぁ、私、怒ってるなぁ”と、反省してしまいました。
言ってることは別に、間違ってはいないんですよ。
間違ってはいないけど、怒ってるんです。
私が怒ってるから、本当に伝えたいことが伝わらないんです。

そんな場所で、知りもしない人と議論なんかするべきじゃないんです。
勝手に言ってろ、と思っておけばいい。そしてそれを、ちゃんとした形で社会に対してアウトプットしていけばいい。

でも、こういうのって巻き込まれてしまいがちです。
最近は落ち着いてきましたが、元来、喧嘩っ早い性質も持ち合わせているもので・・・。
しかもその後に、落ち込むという・・・笑。


結局思ったのは、
意味の無い話は意味が無い。
そして、嫌だと思ったことはやらなくてもいい。
怖いと思うものには、近づかなくていい。
どうしても怒り等が抑えられなくて、そうした場に近づいてしまったり、
わざわざ踏み込んで行ってしまったとしても、
そこで無残にも悲しい思いを感じたとしても、

自分を責めないで。あなたは悪くない。
と、私は私を慰めるのでした。
小心者の自己愛、ここに極まる。

ううん、でも、本当に。
怒りだけでは本当の思いは通じないし、
怒りをもって誰かを説得しようとしても、結局は何も変わらないよ。

私たちは、私たちがまず暴力を手放すことを学びながら、あきらめないで、
ずっと信じた道を、歩んでいくしかないんだって、思いました。

一人、また一人、仲間は集まっていくから。

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