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フロイト『不気味なもの』(1919)とホフマン『砂男』(1817年):「不気味なもの」は、「馴染みのないもの」かつ「不安にさせるもの」だ!「抑圧されたもの」の回帰は「不安」を引き起こす!

2021-03-05 22:27:33 | 日記
《参考》「不気味なもの」(心理オフィスK代表、北川清一郎)2020/8/28, 2021/3/2

(1)「馴染みのもの」が「不気味なもの」になる!「不気味なもの」とは、「馴染みのないもの」かつ「不安にさせるもの」だ!
フロイトは「不気味なもの」は、「旧知のもの」・「昔から馴染みのもの」を前提すると言う。一定の条件下で「馴染みのもの」が「不気味なもの」になる。
《感想1》「不気味なもの」とは、第1に「馴染みのないもの」(奇妙なもの・変なもの・見慣れぬもの)だ。すなわち「不気味なもの」は、「旧知のもの」・「昔から馴染みのもの」を前提した上で、それらを基準として、それらから逸脱したものだ。だが「不気味なもの」とは第2に「不安にさせるもの」(恐怖させるもの)でもある。要するに「不気味なもの」とは、「馴染みのないもの」かつ「不安にさせるもの」だ。
(1)-2 「不気味の谷」現象!
ロボット工学者の森正弘は、1970年「不気味の谷」現象を発見した。ロボットの類似度が上がると、親和感(「馴染み」の程度)が増加する。しかし類似度がほとんど人間に近くなると、突然、親和感が失われ「不気味なもの」、「気味悪いもの」に変化する。完全な人間(類似度100%=本物の人間)になれば親和感は再び回復するはずだ。かくてこの親和感曲線の急激な落ち込みが「不気味の谷」現象だ。
《感想1-2》「馴染みのないもの」(無機的非人間的外形)が「馴染みのもの」(人間的外形)に変化していくと、親和感が増加する。だがあまりに「馴染みのもの」(人間的外形)に変化すると、突然、基準となる「馴染みのもの」が変化する。基準が「人間的外形」から「生命を持った人間」に変化する。「『人間的外形』を持ちかつ『生命を持つ』人間」という新たな基準からすると、「人間的外形」を持つのに「生命をもたない」のは、「馴染みのないもの」かつ「不安にさせるもの」、つまり「不気味なもの」だ。

(2)「新しいもの」・「馴染みのないもの」に何事かが付加されて「不気味なもの」となる!
ドイツ語の「unheimlich(不気味な)」は、「heimlich, heimisch(我が家の)、vertraut(馴染みの)」の反対語だ。あるものが「恐ろしい」・「不気味」と感じられるのは、馴染みがないものだからだが、それだけではない。「親しく知られたもの」つまり「馴染み」(英語ではfamiliar)でないものは、「新奇、奇妙、違和的、問題的」であるが、「不気味」でないことも多い。かくて「新しいもの」・「馴染みのないもの」に何事かが付加されて「不気味なもの」となる。
《感想2》「不気味なもの」とは、「馴染みのないもの」かつ「不安にさせるもの」だ。「馴染みのないもの」に、「不安にさせるもの」いう性質が付加されると、「不気味なもの」となる。

(3)「不気味なもの」(その1):「知的な(類型的な)不確実さ」の不安、「状況を定義できない」不安!
「不気味なもの」という感情には、「知的な(類型的な)不確実さ」の不安が含まれる。「状況を定義できない」・「状況を既知の類型に包摂できない」と、「不気味さ」を感じる。
《感想3》「馴染みのないもの」に、「不安にさせるもの」いう性質が付加されると、「不気味なもの」となる。そこで「不安にさせるもの」にはいかなる種類があるかを、以下、見ていく。「不安にさせるもの」①:「知的な(類型的な)不確実さ」による不安。かくて「状況を定義できない」不安。
(3)-2 「不気味なもの」(その1)の例示:(a) ゾンビ!(b) 蝋人形、精巧に作られた人形、自動人形!
「知的な(類型的な)不確実さ」としての「不気味なもの」(その1)の例示:(a)一見すると「生きている存在」が、本当に生命が吹き込まれているのか疑わしいケース。(Ex. ゾンビ!)(b)「生きていない事物」がもしかして生命を吹き込まれているのでないかと疑われるケース。(Ex. 蝋人形、精巧に作られた人形、自動人形!)
《感想3-2》これらは「不安にさせるもの」①の例示だ。(a)「生きている存在」という類型に一見、包摂できるのに、「実は生命がないのかもしれない」と不安になる。(b) 「生きていない事物」という類型に包摂されるはずなのに、「生きているのではないか」と不安になる。
(3)-3「不気味なもの」(その1)の (b)の補足:生きているかに見える人形!「生きていないもの」が、「生きているもの」と類似している!
あるものが「生きている」かどうかについて、「知的な(類型的な)不確実さ」が呼び覚まされるとき、「不気味なもの」という感情が生まれる。「生きていないもの」が、「生きているもの」と類似しているときに、この感情が生まれやすい。

(4)「不気味なもの」(その2):「隠されたままに留まるべきなのに現れてしまったもの」!
「heimlich」は二義的だ。「馴染みのもの」・「親しみあるもの」という意味と、「内密のもの」「隠されたもの」「秘密にされているもの」という意味がある。その否定の「unheimlich」(不気味なもの)は、かくて「隠されたままに留まるべきなのに現れてしまったもの」は「不気味」ということを意味する。
《感想4》「馴染みのないもの」に、「不安にさせるもの」いう性質が付加されると、「不気味なもの」となる。「不安にさせるもの」②:「隠されたままに留まるべきなのに現れてしまったもの」。Ex. 次項の「去勢不安」「去勢コンプレュクス」に由来する「不気味さ」はその例だ。

(5)「不気味なもの」(その3):父親による「去勢不安」に由来する不気味さ!
ホフマン『砂男』における「不気味さ」は、「砂男にえぐり取られた血まみれの眼球を、砂男の子供たちが嘴でつついて食べる」という男児ナタエルがもつ表象にある。この「不気味さ」は、精神分析的に見れば、「去勢不安」に由来する。この場合は、盲目になるかもしれないという不安だ。「砂男」は精神分析的には恐怖の対象としての「父親」だ。去勢は父親によってなされる。「砂男」にまつわる「不気味なもの」は子どもの「去勢コンプレックス」から来る不安だ。(男児が自慰を父親から譴責される。Cf. 女児がペニスがないのは去勢されたためだと思う。)
《感想5》「馴染みのないもの」に、「不安にさせるもの」いう性質が付加されると、「不気味なもの」となる。「不安にさせるもの」③:子どもの「去勢コンプレックス」から来る不安。(男児の父親による「去勢不安」、女児のペニスがないという「去勢不安」。)
(5)-2「不気味なもの」(その3-2):「去勢コンプレックス」から来る不安の他の例!
「切り取られた四肢、切り落とされた頭、勝手に踊りだす足」などを「不気味なもの」と感じるのは、精神分析的に見れば、「去勢コンプレックス」から来る不安に関わる。
《感想5-2》「不安にさせるもの」③-2:広義の「去勢コンプレックス」からくる不安。身体の完全性が失われることの不安!Ex. 「四肢」の切断、「頭」の切断、切断された「足」が踊り出す。

(6)「不気味なもの」(その4):(ア)ドッペルゲンガーとしての「不滅の魂」!
鏡像や影像、守護霊、死の不安と関係するドッペルゲンガー(自分とそっくりの姿をした分身)(Cf. 自己像幻視)も「不気味なもの」だ。「肉体を持ち死が不可避な人間」の最初のドッペルゲンガーは「自我の消滅に対する保障」、「死の力を断固否認すること」としての「不滅の魂」だ。「不滅の魂」はドッペルゲンガーであり、死が不可避な人間にとって「不気味なもの」だ。
《感想6》「馴染みのないもの」に、「不安にさせるもの」いう性質が付加されると、「不気味なもの」となる。「不安にさせるもの」④:ドッペルゲンガーとしての「不滅の魂」。そもそもドッペルゲンガーは、「人間」の根本的定義に矛盾する。「人間は身体が1つしかなく同時に1か所にしかいられない」ということは、「人間」の根本的定義のひとつだ。ドッペルゲンガーはこの定義に反し、かくて「不安」を引き起こす。さらに「人間の身体は消滅し、身体とともに人間の心も消滅する」ということも「人間」の根本的定義のひとつだ。身体の消滅とともに消滅するはずの心が消滅しない場合、この「不滅の魂」も一種のドッペルゲンガーだ。「不滅の魂」は「馴染みのないもの」かつ「不安にさせるもの」であり、「不気味なもの」だ。
(6)-2 「不気味なもの」(その4-2):(イ)ドッペルゲンガーとしての「超自我」!
自我の発達とともに自我のうちに別の審級が形成され、自我のその他の部分と対立する。これが「超自我」だ。それは自己観察、自己批判、心的検閲を行う「良心」として現れる。これは、克服された「古いナルシシズム」を含む。「超自我」もドッペルゲンガーであり「不気味なもの」だ。Cf. 「観察妄想」という病理的事例では、この審級が孤立し、自我から分裂する。
《感想6-2》「不安にさせるもの」④-2:ドッペルゲンガーとしての「超自我」。もう一人の自分としての「超自我」。人間は身体的に一人(一個)だという「人間」の根本的定義に反するドッペルゲンガー。「超自我」はドッペルゲンガーとして「不安にさせるもの」だ。
(6)-3 「不気味なもの」(その4-3):(ウ)ドッペルゲンガーとしての「実現されなかった運命(自分)」!
実現されなかった運命形成(「自分」)の可能性(「外的な不都合のせいで実現されなかった欲求」、「あらゆる抑圧された意志」を含む)もドッペルゲンガーとして現れる。つまり「実現されなかった運命(自分)」もドッペルゲンガーであり「不気味なもの」だ。
《感想6-3》「不安にさせるもの」④-3:ドッペルゲンガーとしての「実現されなかった運命(自分)」。「実現されなかった」もう一人の自分が、ここにいる自分を嘲り・軽蔑し・非難する。それが私を「不安」にする。それは「不気味」だ。
(6)-4 「不気味なもの」(その4, 4-2, 4-3):ドッペルゲンガー((ア)「不滅の魂」、(イ)「超自我」、(ウ)「実現されなかった運命(自分)」)が、心的な原始時代における「親しいもの」から、「疎遠」となり「不気味なもの」となった!
ドッペルゲンガー((ア)「不滅の魂」、(イ)「超自我」、(ウ)「実現されなかった運命(自分)」)は心的な原始時代に形成された像であり、それが生まれた当時は、極めて「親しいもの」だったが、やがて自我の外部に投影され「疎遠」となり「不気味なもの」となった。信仰が失われ、神々が悪魔になった様に、ドッペルゲンガーが恐ろしいイメージ(「不気味なもの」)になった。
(6)-4-2 「自我が外界やその他の自我と明確に区別されていなかった時代」への「退行」としてドッペルゲンガー((ア)(イ)(ウ))が「不気味なもの」となる!
「自我感情の発達史の中の個々の段階」への逆戻り、すまわち「自我が外界やその他の自我と明確に区別されていなかった時代」への「退行」として、「ドッペルゲンガー」((ア)(イ)(ウ))が「不気味なもの」となる。

(7)「不気味なもの」(その5):「反復」と不気味なもの !
「意図しない反復」、例えば「繰り返される同じ番号(Ex. 番号札、部屋番号、番地)という事態」に「不気味なもの」を感じるが、それは「反復強迫」のあらわれであり、魔力的な性格を帯びる。(※「反復強迫」とは、被分析者が精神分析の過程で、幼児期のある対象関係を想起するかわりに、行動でそれを分析者に向ける衝動現象。 例えば、分析者に対し反抗的で攻撃的な態度をとり続ける人は、気づかないうちに幼児期の内的な体験(Ex. 両親との葛藤体験)を再現しているという場合。)
《感想7》「馴染みのないもの」に、「不安にさせるもの」いう性質が付加されると、「不気味なもの」となる。「不安にさせるもの」⑤:「意図しない反復」、例えば「繰り返される同じ番号」!事実的には(科学的or日常現実的)には「意図しない反復」(同じ出来事の繰り返し)は偶然にすぎない。だがそれを「魔力的」(魔術的or超現実的)に解釈すれば、その「意図しない反復」は、「不安にさせるもの」であり、「不気味なもの」となる。

(8)「不気味なもの」(その6):「不幸な予感」の的中 !「思考の万能」という原理にもとづく「アニミズム的な心の活動」の「痕跡」!
腹を立てた老人に対して「卒中にでもなればいい」と不満をこぼしたところ、2週間後本当に老人が卒中の発作に襲われたとき、その患者にとってこれは「不気味な」体験だ。これは「思考の万能」という幼児期のアニミズム的原理に関係する。
《感想8》「馴染みのないもの」に、「不安にさせるもの」いう性質が付加されると、「不気味なもの」となる。「不安にさせるもの」⑥:「思考の万能」という原理にもとづく「アニミズム的な心の活動」の「痕跡」!アニミズムは「超事実的な力」の導入だ。「思考の万能」とは超事実的な力の導入によって、出来事を説明することである。すでに成人となれば、人は事実的(or科学的or日常現実的)にのみ出来事を説明する。アニミズム的に「超事実的な力」の可能性を発見した時、それは事実的(or科学的or日常現実的)な世界を壊し、人を「不安」にさせ、その出来事を「不気味なもの」と思わせる。
(8)-2 アニミズムの特徴
アニミズムの特徴:(a)世界を「霊魂」で満たし、(b)「自らの心の過程」をナルシス的に過大評価し、(c)「思考の万能」を信じ、(d)これに基づいて「呪術の技術」を利用し、(e)このような「魔法の力」(「思考の万能」)を「等級づけ」人間や事物に割り当て、(f)「無制限のナルシシズム」が《「現実」からの見誤りようのない抗議》から身を守るため、様々な「観念」を創り出す。
(8)-3「不気味なもの」(その6-2):「個人の発達過程」における「原始人のアニミズム」に対応する段階の様々な「痕跡」の現われ!
われわれは皆、「個人の発達過程」で、「原始人のアニミズム」に対応する段階を経る。この段階が私たちの中に様々な「痕跡」を残しており、時にふれ現れる。今日「不気味」と感じるものは、「アニミズム的な心の活動」の痕跡にかかわる。
(8)-4「不気味なもの」(その6-3):「呪術的なトリック」につきまとう不気味さ!
「呪術的なトリック」につきまとう「不気味さ」は、そこに「幼児的な心性」を含み、「心的現実」を過剰に強調し、アニミズム的な「思考の万能」に繋がる。それは「超事実的な力」を思い起こさせ、「事実的(or科学的or日常現実的)な世界」を壊し、「不安にさせるもの」となり、その「呪術的なトリック」を「不気味なもの」と思わせる。

(9)「不気味なもの」(その7):「抑圧されたもの(隠されているべき『疎遠なもの』)の回帰(外に現れたもの)」として「不安」を引き起こすのが「不気味なもの」だ!
精神分析では、全ての「情動」は、抑圧によって「不安」に代わる。「抑圧されたものの回帰(外に現れたもの)」として「不安」を引き起こすものが「不気味なもの」である。言い換えれば、「不気味なもの」とは、心の生活には古くから「馴染みのもの」であり、それが抑圧プロセスにより「疎遠なもの」になっていたが、「隠されているべきその『疎遠なもの』が外に現れたもの」である。
《感想9》「馴染みのないもの」に、「不安にさせるもの」いう性質が付加されると、「不気味なもの」となる。「不安にさせるもの」⑦:「抑圧されたもの」が外に現れ(回帰し)、「不安」を引き起こし、かくて「不気味なもの」となる。つまり「慣れ親しんだもの」が「抑圧」され、後に回帰して、「不気味なもの」となる。
(9)-2 「不気味なもの」(その7-2):「女性性器」の不気味さ!
精神分析の臨床上の経験において、神経症の男性が、「女性性器」の不気味さを語ることが多い。「女性性器」は、「自分がかつてそこにいたことのある場所」だ。 夢の中で「ここは知っている所だ、かつてここで暮らしていた」と感じる場所や風景は、「女性性器」や「母胎(子宮)」だ。つまり「不気味さ」(unheimlich)はかつて「慣れ親しんだもの」(heimlich)の「抑圧」(前綴のun)である。「不気味なもの」とは、「慣れ親しんだもの」が「抑圧」された後に回帰してきたものだ。

(10)「不気味なもの」(その8):心の生活の原始的な層での「不安」が、外に出てきたとき、「不気味さ」の感情が発生する!(不気味なものと死者!癇癪や狂気にまつわる不気味さ!)
「死んだ人間の霊魂が見える」ことは、今や公式的には信じない。「死者に対する感情的な姿勢」は、本来両価的なものだったが、心の生活の高次の層で(宗教により)「敬虔さ」という一義的な姿勢に弱められてしまった。だが「死者への不安」は私達のうちにまだ強く存在していて、きっかけさえあれば、外に出てこようとする。この時、「死者」が「不気味なもの」となる。癇癪や狂気にまつわる「不気味さ」も同様だ。心の生活の原始的な層での「癇癪への不安」・「狂気への不安」が、外に出てきたとき、癇癪や狂気について「不気味さ」の感情が発生する。
《感想10》「馴染みのないもの」に、「不安にさせるもの」いう性質が付加されると、「不気味なもの」となる。「不安にさせるもの」⑧:心の生活の原始的な層での「不安」が、外に出てきたとき、「不気味さ」の感情が発生する。Ex. 「死んだ人間の霊魂が見える」!

(11)「不気味なもの」(その9):「仮死状態のまま埋葬される」という表象!
不気味さの極致だ。しかし、この恐ろしい空想は、「母胎の中でくらしていた頃」についての空想であり、本来は全く恐ろしいものではなく、快感を伴う空想であった。
《感想11》「馴染みのないもの」に、「不安にさせるもの」いう性質が付加されると、「不気味なもの」となる。「不安にさせるもの」⑨:「仮死状態のまま埋葬される」という表象!

(12)「不気味なもの」(その10):「空想」と「現実」の境界線の消失!
(ア)「空想」と「現実」との間の境界線がぼやけてしまう場合、そのような事態は「不気味なもの」となる。(イ)「空想上の事に過ぎない」とみなされていた出来事が「現実に出現」してきた場合も、そのような事態は「不気味なもの」となる。
《感想12》「馴染みのないもの」に、「不安にさせるもの」いう性質が付加されると、「不気味なもの」となる。「不安にさせるもの」⑩:「空想」と「現実」の境界線の消失!

(13)「不気味なもの」(その11):「象徴」と「象徴されているもの」の関係の問題!
ある「象徴」が「象徴されているもの」の働きと意味を完全に引き受け代行するような場合、そのような「象徴」は「不気味なもの」となる。こうした事態が心の生活において生じるのは、幼児的な心性(神経症患者の精神生活を支配している心性)を含むとも言える。つまりそれは、「物的現実」に比べて「心的現実」を過剰に強調する「思考の万能」の心性である。(Cf. 「不気味なもの」(その6)の「思考の万能」・「アニミズム」参照。)
《感想13》「馴染みのないもの」に、「不安にさせるもの」いう性質が付加されると、「不気味なもの」となる。「不安にさせるもの」⑪:「象徴」が「象徴されているもの」の働きと意味を完全に引き受け代行する!

(14)体験される「不気味なもの」の二種類:「心的現実性」と「物的現実性」!
(a)ある「印象」により「抑圧された幼児期コンプレックス」がよみがえった時、その「印象」は「不気味なもの」となる。この場合、問題となるのは「心的現実性」のみである。(b)(もはや正しくないものとして)克服された「原始的なアニミズム的な確信」に関し、ある出来事によりその「正しさ」が改めて確証されたようにみえた時、その出来事は「不気味なもの」となる。この場合は(a)と異なり、「心的現実性」のみでなく、「現実吟味」つまり「物的現実性」が問題となる。なおこの二種類(a)(b)の不気味さの経験が、つねに明確に区別できるものではない。(なお「原始的なアニミズム的確信」(b)は、もっとも奥深いところでは「幼児期コンプレックス」(a)と結びついている。)

(15)空想、創作の「不気味なもの」!
「人生(現実の世界)には存在しない不気味な効果」をあげる多くの可能性が、空想・創作の中に存在する。
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