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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)(その3-6):「絶対知の立場」では「主語」たる「実体」(「サブスタンス」)が、我々の「主観」のように「主体」(「生けるもの」)だ!

2024-04-05 12:17:54 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-6 )
(10)-2-6 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続5):「主語」(「実体」)に「認識主観」が「述語」(「属性」)をつける「普通の認識」は「主観的」たるにすぎない! 
★「実体」Substanz とは、(哲学上では)「属性」を担っているもののことだ。(72頁)
☆「主体」Subjekt は、ラテン語の語源的には「実体」Substanzとほぼ同義で、文法的には「主語」Subjektのこととなる。(72-73頁)

★さて「普通の認識」は「AはBである」という「判断」の形をとる。(73頁)
・それは「A」を「実体」(「主語」)としておいて、それに「属性」(Cf. 述語)をつける。(73頁)
・「実体」あるいは「主語」は存在的・対象的とされ、それに「述語」がつけられる。その場合、「述語」をつけるのは「認識主観」であって、「主語」自身が自分自身を判定して「述語」をつけるわけでないから、「普通の認識」はたんに「主観的」たるにすぎない。(73頁)

(10)-2-6-2 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続5-2):「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、それを深めてゆく」! 
★「普通の認識」に対して、「真の絶対知の立場」においては、「主語」は「不動の実体」というものではない。(73頁)
☆「絶対知」における「主語」は「存在的・客体的なもの」(Ex. アリストテレス哲学では「馬」・「牛」・「机」などを「サブスタンス」or「主語」としてあげる)ではない。(73頁)
☆「絶対知の立場」においては「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、その反省を自分自身で深めてゆく」ものである。(73頁)
☆そういうところに初めて「真の哲学的認識」が出てくるとヘーゲルは述べる。(73頁)

★ヘーゲルでは、文法上の「サブジェクト」(Cf. 「主語」)に当るものが、我々人間と同じような「サブジェクト」(Cf. 「主体」・「主観」)だ。「サブジェクト」は、「自分は何々である」という判断を、自分自身で行う。(73頁)

《参考》「悟性の反省」の「媒介」を通ずることによって、「実体」は「主体」となる。じつは「実体」を「主体」に転換させることこそが『精神現象学』の目的だ。(69頁)

★これを批評的に言うと、いわゆる「観念論」Idealismus がヘーゲルにある。(73頁)
☆しかし、そういう「観念論」がどこからきたかというと、「キリスト教」からだというほかない。(73頁)

《参考1》「観念論」:① 物質または自然に対して、精神または意識のほうをより根源的な原理として考える立場。プラトンのイデア説をはじめ、近世ではバークリーの「主観的観念論」、カントの「批判的・超越論的観念論」、フィヒテの「倫理的・主観的観念論」、シェリングの「美的観念論」、ヘーゲルの「絶対的観念論」などがある。Cf.「唯心論」。② 現実ばなれした、頭の中だけでつくり出された考え。「理想論」。

《参考2》「観念論」:理論的にせよ実践的にせよ、「観念あるいは観念的なもの」を「実在的」あるいは「物質的」なものに優先するとみなす立場を「観念論」といい、「実在論」あるいは「唯物論」に対立する用語として使われる。(坂部 恵)

《参考2-2》「観念論者」idealistの語を最初に用いたのは17世紀末のライプニッツ(1646-1716)だ。「唯物論者」エピクロスに対してプラトンが「観念論者」と呼ばれた。「物質」を実在とするエピクロスに対し、「イデアないし形相」を真の実在とし事物の本質規定とみなすプラトン!
☆1-2しかし中世このかた「プラトン主義」の立場は、「唯名論」との対比において「実在論」とよばれたり、あるいは「形相論」とよばれた。(Cf. 「観念」を「意識内容ないし表象」とみなす中世末期の「唯名論」!)
☆1-3「観念論」の用語は、「近世哲学」以降は、人間の心の内の「観念」と区別された「外界」あるいは「物質的世界」の実在を認めるかどうかを基準に使われるようになる。

《参考2-3》「主観的観念論」(バークリー1685-1753):「存在するとは知覚されること」と言い、「外界ないし物質的世界」の実在を否定し、それらを心の内の「観念」に還元したバークリーの立場が、18世紀にはしばしば「観念論」を代表するものとされた。

《参考2-4》「超越論的・批判的観念論」(カント1724-1804):カントは「外界ないし物質的世界」(「自然」)を、「空間・時間、純粋悟性概念(カテゴリー)」など「人間の認識主観のア・プリオリ(先天的)な認識の諸形式」に従って構成され、その限りで客観的妥当性をもつ「現象」とみなした。カントの立場は「超越論的観念論」とよばれる。カントは「数学的自然科学の普遍性」を救いつつ、その認識の有効性の範囲を「批判的」に限定した。カントは「現象」の背後に「物自体」を想定し、あるいは「超越論的観念論は経験的実在論にほかならない」とし、「バークリーの主観的観念論」と「一線を画した。

《参考2-5》「倫理的観念論」(フィヒテ1762-1814)、「美的観念論」(シェリング1775-1854)、「絶対的観念論」(ヘーゲル1770-1831):「ドイツ観念論」!
☆フィヒテは、カントの「物自体」の考えを批判し、むしろカントの唱道した「実践的・自律的主体としての人間」を、宇宙の展開の根本原理としての「自我」にまで高めた。フィヒテの立場は、「主体の自発性、自律、自由」を重んずるゆえに「倫理的観念論」とよばれる。
☆シェリングは、「カントの有限主義」を捨て、「美的創造や美的直観」に自然世界の展開の究極をみた。シェリングの立場は、「美的観念論」とよばれる。
☆ヘーゲルは、「自然的、歴史的を含めた世界の展開」を「観念」あるいは「絶対的精神」の「弁証法的自己展開」とみなし「絶対的観念論」とよばれる。
☆フィヒテ、シェリング、ヘーゲル3人の哲学者によって展開された「ドイツ観念論」では、「観念」のもつプラトン以来の「原型ないし規範」の意味がいずれも強く出されており、「観念論」(Idealism)はしばしば(日本では)「理想主義」の訳語をあてられた。
Cf. 「Idealism」は、日本では訳語が一定せず、存在論においては「唯心論」、認識論においては「観念論」、倫理学説においては「理想主義」としばしば訳された。

《参考2-6》近世以降の「観念論」は、実証科学の展開と結び付いた「唯物論」と対抗関係に置かれた。19世紀の「実証主義的・科学主義的唯物論」、マルクス主義の「弁証法的唯物論」などが「観念論」を批判した。
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